第40話 奮起
何とかロマニア国軍を城館から追い返した蒼馬は、大太鼓を打ち鳴らし続けさせ、また夕刻近くになればありったけの篝火を焚かせたのである。
それは城館の場所を遠くからでもわかるようにし、ひとりでも多くの兵たちが無事にたどり着けるようにするためのものだった。
その甲斐あって、城館には続々とミルツァより敗走してきたエルドア国の兵たちが戻ってきたのである。
そうして生還できた兵たちの姿は、いずれもひどいものだった。
ほとんど交戦することなく撤退した人間種の兵でさえ、休まずに山を突っ切って来たため全身が土や泥でまみれ、見るからに疲労困憊という有様である。
これが部隊を崩壊させられたドワーフともなれば、さらにひどい状態であった。無傷である者などほとんどいない。中には命にかかわるような深い傷を負った者も多く、そうした者の中には、せっかく城館にまでたどり着けたというのに、ここで命を落としてしまう者も少なくなかった。
今もまた、ひとりのドワーフが手当の甲斐なく静かに息を引き取ってしまう。
「陛下。今は後悔するより、少しでも多くの者を救うために動くことです」
自らの失策による敗戦でドワーフが命を落とす光景に胸を痛めていた蒼馬に、そう声をかけたのはセティウスであった。
「これでロマニア国との戦いが終わったわけではないでしょう。すぐに態勢を立て直して次の戦いに備えねばなりません。そして、それができるのは陛下だけではございませんか?」
いつものしかめっ面は、どこへやら。穏やかな笑みを浮かべながらセティウスは、まだ年若い人間の兵に炊き出しのスープとワインを手渡しながら言った。
ところが、スープとワインを受け取った兵が「ありがとうございます、閣下!」と感激に目を潤ませるのに、なぜかセティウスは頬を引きつらせる。
気にするなと言って立ち上がったセティウスは、またいつものしかめっ面であった。
セティウスから諭された蒼馬だったが、すぐには気持ちを切り替えられない。
これまでの戦いでも多くの犠牲は出ていた。だが、それは勝利のために必要な犠牲と蒼馬も割り切って来られたものである。
ところが、今回は完全に自分の失策によるものだ。出さなくても良い犠牲を自分の失策によって出してしまった。それが蒼馬の心を責め苛んでいたのである。
こんなときに決まって蒼馬を支えてくれるはずのシェムルも、今は傍にいない。
蒼馬は大太鼓の音の合間に叩かれる、もうひとつの太鼓の音に引かれるようにして顔を上げた。
蒼馬の視線の先には、星空を背にして城館の屋根に立ち、太鼓を叩くシェムルの姿があった。
兄のガラムと、彼に率いられていた多くのゾアンの戦士たちがいまだ戻ってきていない。そうしたいまだ戻らぬ同胞たちのために、シェムルはゾアンの太鼓を叩いているのだ。
それが必要なことであることは、蒼馬も理解している。また、シェムルが決して自分を責めているわけではないこともわかっていた。
しかし、それでも今のこの距離が、今回の大敗によってシェムルから置かれた彼女と自分との距離に思えてならなかった。
顔を苦渋に歪め、蒼馬は胸を押さえる。
そんな蒼馬の耳に、小さな騒ぎが聞こえてきた。
また新たにミルツァより逃げてきた兵が城館にたどり着いたのだろう。
そう思った蒼馬は生還した兵を労うために、騒ぎがする方へと向かっていった。
そして、蒼馬は目を見開いた。
騒ぎの原因は、生還したエルフ――山道で敵の追撃を食い止めるために踏み止まったエラディアたち黒エルフ弓箭兵たちだったのだ。
その姿はドワーフと比べてもひどい有様だった。普段の艶めかしい女官姿を知っているだけに、蒼馬にはその痛々しさがことさら際立って見える。
そんな彼女たちの先頭に立って歩いていたエラディアは蒼馬に気づくと、その場に片膝を突いて頭を垂れた。
「ソーマ様。御身の許へただいま帰還いたしました」
そう帰還を告げるエラディアもまた負傷していた。
その美しい顔は血泥で汚れ、髪には固まった血が赤黒くこびりついていた。力なく垂らされた左腕は骨折しているらしく、添え木らしい木が当てられている。それを縛る布の隙間からは、真珠のような白く艶めかしかった肌が鬱血で赤黒く染まっているのが見て取れた。
そんな有様でなおエラディアは柔らかく微笑みを浮かべると、自分の後ろで同じように礼を取る黒エルフ弓箭兵たちへ振り返る。
「務めを果たした姉妹たちを山に捨て置くのは忍びなく、こうして連れて参りました。そのため、このように遅くなってしまいましたことをお詫びいたします」
エラディアの言葉に後ろの黒エルフ弓箭兵を見やれば、彼女たちはいずれも伐り出したばかりの枝葉で作った簡易のソリのようなものを曳いていた。そして、そこにはすでに息絶えたエルフが静かに横たえられている。
黒エルフ弓箭兵のエルフは、平時には蒼馬の宮廷で女官をしている者たちだ。息絶えたエルフたちは、蒼馬にとっても良く顔を見知った者たちである。
そんな者たちが物言わぬ骸となって戻ってきたのに、蒼馬は胸を掻きむしられるような苦しみに顔を歪めた。
「なぜ、そこまで……」
罪悪感によって押し出された蒼馬の呟きに、エラディアは微笑みで答える。
「ソーマ様。これが多くの姉妹たちの悲願なのでございます」
エラディアは、つと立ち上がると息絶えた同胞の傍らに膝を突く。そして、冷たくなった同胞の頬を汚す血泥をその指先で拭い取る。
「私たちの多くは、ソーマ様によって悪夢より救い上げられました。しかし、その過去は消せません。多くの姉妹たちは、今なおも苦しみもだえているのでございます」
助けられたからと言って、それですべてが終わったわけではない。解放されたからといって、それで何もかも解決したわけではない。
何らかの拍子に思い出す過去の情景に嗚咽を洩らし、夜ごとに訪れる過去の悪夢に悲鳴を上げて飛び起きる者も少なくないのだ。
遺体の頬に張りつくほつれた髪をその手で整えながらエラディアは言う。
「そんな姉妹たちにとっては、自らをお救いくださったソーマ様のために、そして今なお苦しむ姉妹――過去の自分を救うために命を費やすことは、喜びであり、また悲願なのでございます」
エラディアは「ご覧下さいませ」と血泥を拭われ、髪を整えられた同胞の遺体の顔を示した。
「満願成就を果たせた、この娘たちの嬉しそうな顔を」
蒼馬は驚いた。
エラディアが言うとおり、いずれのエルフもその死に顔にうっすらと微笑みを浮かべていたのである。
「これも、すべては私たちの勝手な願いでございます。ソーマ様がお気に病まれるものではございません」
そう語るエラディアに同調する声が上がる。
「そういうことよ」
それは、ドヴァーリンであった。ドヴァーリンは蒼馬が持っていた温めたワインを奪い取って一気に呷る。たが、すぐに「なんじゃい、この水のようなワインは」と顔をしかめた。それから空になったコップを投げ捨てから言う。
「エールを惜しんで、うえすきーは造れんわ。戦うのも、それによって死ぬのもわしらは納得ずくでやっとるんじゃ」
ウイスキーを造るには大量のエールを蒸留しなくてはならない。転じて、犠牲を恐れては大事をなすことはできないという後世でも使われる格言となる言葉であった。
「それを勝手に全部背負い込まれては、わしらの立つ瀬がないわい」
ドヴァーリンが盛大にぼやいていると、そこへやってきたのはシェムルであった。
シェムルはその場のおかしな雰囲気に気づくと、「どうかしたのか?」と尋ねる。それに蒼馬が慌てて皆に口止めしようとするが、それよりも早くドヴァーリンが蒼馬を顎で示して「いつもの悪い癖よ」と言ってしまう。
それだけで大方のことを察したシェムルは盛大にため息をついた。
「何だ。また、か。いつまでもうじうじと、おまえはまったく成長していないな。だいたい、おまえは――」
説教が始まりそうな雰囲気を察した蒼馬は、慌ててシェムルへ話題を振る。
「シェムル。もう太鼓は叩かなくて良いの?」
「ん? ああ。――もう、叩く必要はなくなったぞ」
そう言うとシェムルは自分がやってきた方を目で示す。
すると、ちょうど喧噪を引き連れてガラムとズーグのふたりが生き残ったゾアンの戦士たちとともに城館へ到着したところだった。
「おう、陛下!」
蒼馬に気づいたズーグが、ひょいっと手を上げる。
「いやぁ。やられた、やられた。危うく俺も喜びの野に行くところだったぞ」
ズーグの口調は軽いが、そのボロボロになった胴鎧を見れば、どれほどの死線をくぐり抜けて来たかぐらいはわかる。蒼馬はとっさの返事に窮してしまった。それに気づいたズーグは、ひとつだけの目を笑みに細める。
「陛下も、これほどコテンパンにやられたのは初めてではないか? ついに陛下も、初めてを奪われてしまったというわけだな!」
そう言うとズーグは、ゲラゲラと笑い始めた。すると、その後頭部をガラムが軽く小突く。
「仮にも陛下なのだぞ。下世話な物言いはよせ」
堅苦しいことを言うガラムに、ズーグは鼻にシワを寄せる。
「ケッ。それは俺のかわいい姪の初めてを奪った余裕か?」
「何を言っているのですか、叔父上!」
ガラムの脇に控えていたシシュルが、たまらず声を上げた。全身の毛を逆立てて慌てふためく姿は、人間で言うのならば羞恥で顔を真っ赤にするのと同じだろう。
怒ったシシュルから「母上と叔母上に言いつけますよ!」と脅され、本気で焦りを浮かべて謝罪するズーグの姿に、周囲の人たちの間から笑い声が洩れた。
しばし、その光景を見ていた蒼馬は開いた両手の平をおもむろに持ち上げる。
そして、自分の顔をバシンッと叩いた。
その大きな音に驚いた皆が注目する中で、叩いた両頬を赤くした蒼馬が顔を上げる。
「シェムル。――余力のある者を集めて、周囲の偵察に出して」
「ああ。わかった。我が臍下の君よ」
続いて蒼馬はピピを呼ぶ。
「ピピ! 疲れているだろうが、ハーピュアンたちも偵察に出してくれ。ただし、必ず四人一組となって行動するように。ロマニア国のハーピュアンにはくれぐれも注意してくれ」
すでに蒼馬にはふたりのハーピュアンがロマニア国に加担していることを告げていたピピだったが、改めて蒼馬の口からそれを言われ、小さく身体を震わせた。
それに気づいた蒼馬が言う。
「ここで明言しておく。私はハーピュアンがロマニア国に協力していたからといって、それをもってハーピュアンすべてを罪に問うつもりはない。たとえ、その者に罪があったとしても、その罪はその者自身が負うべきものである。一部の者たちの言動をもって、その種族すべてに償いを求めることは愚かな行いだと私は考える」
そこで蒼馬は口調を冗談めかしたものに変える。
「何しろ私たちはロマニア国の人間と戦っているんだ。そうしなければ、私はセティウスたち人間の首を刎ねなくっちゃいけなくなってしまう」
これにセティウスがしかめっ面で応じる。
「それは是非ともご遠慮したい事態ですね」
「そういうことだ」
蒼馬は笑って答えると、表情を真剣なものに変えて高らかに宣言する。
「みんな! 今回は負けたが、戦いはこれからだ! しかし、今は休め! この城館では押し寄せてくる敵を防ぎきれない。明朝、日の出とともにここを捨てて、ガッツェンの街まで退去する! それまでに体力を養っておくんだ!」
それに種族を問わず、エルドア国の者たちはいっせいに「おう!」と唱和した。
◆◇◆◇◆
「破壊の御子が逃げ延びたと?」
ミルツァを見下ろせる小高い山の中腹に張られた天幕の中で、バルジボア国王セサルは驚きに声を上げた。
時は、すでに夜を迎えていた。
早朝から繰り広げられたエルドア国とロマニア国の戦いを観戦していたセサル王は、敵陣突破からの退却という思わぬ見世物に大いに満足した後、一心不乱になって一枚の絵を描き上げたばかりである。
その完成したばかりの絵を鑑賞しながら、優雅に夕食を摂っていたところに届いた予想外の報せに、セサル王はしばし言葉を失ってしまった。
セサル王は、すでにロマニア国軍に潜り込ませてある密偵たちからの報告によって、おおよそピアータの策の全貌を掴んでいたのである。そして、その策はセサル王をしても、ミルツァに誘い込まれた時点で破壊の御子の死は決したも同然と思わせるものだった。
そのため、ゾアンの将による前方への退却という予想外の事態はあったにしろ、破壊の御子は討ち取られるものと信じて疑っていなかったのである。
「いったい、どういうことだ? すぐさまロマニア国軍に潜り込ませてある『根』の者たちと連絡を取り、何が起きたか確認させよ」
セサル王の命を受けて、すぐさま「根」の密偵たちは動き出した。
戦勝に浮かれる本陣へ酒や食材を持ち込む商人に紛れて、ロマニア国軍の中に潜り込ませていた仲間と連絡を取り合った密偵たちは次々とセサル王の許へ戦いの詳細を持ち込んだのである。
そのおかげでセサル王は翌日の朝には、おおよその成り行きを把握したのであった。
「これは余が、ロマニアの雌狼の力を過信しすぎたのか、それとも破壊の御子の悪運の強さを見くびっていたのか……」
まんじりともせず夜を明かしたセサル王は、天幕の中でそう洩らした。
話を聞けば聞くほど、驚かざるを得なかった。セサル王ですら予想し得なかった事態や偶然がいくつも重なり、その上にさらに幸運を積み上げて破壊の御子は生きのびたとしか思えない。まったく同じ状況と条件を整えたとしても、同じようなことが起きるかと問われれば、あり得ないと答えるしかないものだった。
「ロマニアの雌狼をもってすれば奴を倒せると思った、余の失策やも知れんな……」
そうひとりごちるとセサル王は、侍女に扮した女間者のデリラを呼ぶ。
「急ぎ本国に、密かに兵をエルドア国へと潜り込ませるように伝えよ」
「兵を動かすのでしょうか?」
驚いたデリラがおうむ返しに尋ねると、セサル王は黙って命を遂行せよと言わんばかりに睨みつける。それにデリラは小さく背筋を振るわせると、「御意のままに」と言い残して天幕を出て行った。
デリラが去った天幕の中で、しばしたたずんでいたセサル王だったが、やにわに冷め切った料理の皿の横に置かれたナイフを手に取った。そして、そのナイフを昨夜完成したばかりの絵が描かれた画布にいきなり突き立てる。
その画布に描かれていたのは、馬に乗った金髪の女騎士と、それに今まさに討ち取られる黒髪の青年の姿であった。
「破壊の御子め。余の読みを超えるとは……!」
そう言うとセサル王は真一文字に画布を引き裂いたのである。




