第39話 ミルツァの戦い17-駿馬を取り逃がす
城館の中は異様な緊張に包まれていた。
ほんの目と鼻の先にいるのは、ロマニア国軍の五百もの部隊。いずれの兵もこちらを殺そうと手に手に武器を持ち、殺気立っていた。
それに対してこちらは二十名にも満たない弱兵ばかり。しかも、敵を防ぎ止めるはずの門は開放され、なぜか太鼓だけが大きく打ち鳴らされている。
この状況に、エルドア国の兵士は誰もが顔を歪めて死の恐怖に怯えていた。
まだ兵士になって日の浅い、少年のような新兵などは恐怖のあまり錯乱し、暴れ出しそうになったところを周囲の仲間に押さえ込まれるような始末である。
そして、蒼馬もまたガチガチと歯を打ち鳴らしながら、必死に恐怖と戦っていた。まるで心臓が頭蓋骨の中にあるかのように、鼓動の音がうるさい。血管を流れる血液まで、轟々と音を立てているようだ。
大丈夫だと言うように、震える自分の手を握り締めるシェムルだったが、よく見れば彼女の全身の毛も逆立ち、緊張しているのが見て取れた。
「王様。ロマニアの野郎たちが、動き出しました」
それまでくぐり抜けた場数が違うのか、この状況下でも冷静に物陰からロマニア国軍の様子を窺っていた老兵が、ロマニア国軍の動きを蒼馬へ報せに来た。
蒼馬も見つからないように、こっそりと物陰から覗く。すると、いよいよ痺れを切らしたのか、城館を遠巻きにするロマニア国軍の中に動きが見え始めていた。
このままでは攻め込まれてしまう!
そう思った蒼馬は、近くに伏せてあった旗を引っ掴んで立ち上がった。
「どこに行くんだ、ソーマ?!」
押し殺した声で尋ねるシェムルに、蒼馬は気弱げな笑みを浮かべて答える。
「私が門の上に立つ。私が姿を見せれば、もう少し時間が稼げるはずだ。うまくすればびっくりして退却してくれるかも知れない」
ロマニア国の将たちは現状を分析し、何らかの決断をしたところだろう。そこへ新たに自分の存在を明らかにすれば、せっかくの分析もご破算になるはずだ。さすがにそれだけで退却するとは思えなかったが、少なくとも相手は再び状況を整理して分析しなおすことになる。そうなれば、もう少しだけだが時間を稼げるだろう。
しかし、確実にそうなる保証はどこにもない。
エルドア国の王である自分が姿を現せば、敵将の功名心を煽り、かえって攻め込む切っ掛けにもなりかねなかった。だが、このままではいずれにしろ敵が攻めてくることにかわりはない。
蒼馬は恐怖に震える身体を叱咤し、門の上へとつながる石段を一歩一歩と上っていく。普段ならば、あっという間に上りきれるはずの石段がやけに長い。そして、その石段を上がる足もまた、まるで鉄球のついた鎖でもつけられたような重さである。
それでもついには石段を上りきり、蒼馬は門の上に立った。
すると、左手からロマニア国軍のどよめきが聞こえてきた。
ここでわずかでも怯えを見せれば、それこそ逆効果だ。蒼馬はなけなしの勇気を振り絞ると、身体を左へと向けてロマニア国軍と真正面から相対する。
その瞬間、蒼馬の全身を無数のロマニア兵の視線が叩いた。
物理的な衝撃すら感じさせるような無数の視線を正面から浴びた蒼馬は、思わず後じさりそうになる。
しかし、そのとき蒼馬は自分の後ろに人の気配を感じた。
こんなとき自分の後ろに立つのは、いつも彼女に決まっている。
そう思った蒼馬は何とか前からの圧力に堪えて踏み止まると、正面を向いたまま声をかける。
「シェムルか」
確認ではなく、ただ事実を淡々と述べるような蒼馬の声に、シェムルは「ああ」と返す。
「私がいなければ、遠目ではおまえとわからないではないか」
まったくだ、と蒼馬は思った。
そして、蒼馬は持ってきたエルドア国の旗を門の上に突き刺すようにして立てる。すると、ちょうどそこへ吹き抜けてきた風を受けて、旗は勢いよくはためき始めた。
ロマニア国の軍勢など、恐れるものか!
そう自分に強く言い聞かせて立つ蒼馬の後ろで、シェムルもまた胸を張る。
シェムルをしても、現状のロマニア国軍から感じる視線の圧力はすさまじいものであった。
全身の毛が逆立つばかりか、その毛の下にはじっとりとした嫌な汗が流れるのを感じる。
それでも自らの臍下の君が、こうして勇気を振り絞って立っているのだ。それを支えられずして、何がゾアンの戦士か!
そう自分を奮い立たせ、シェムルは胸を張った。
しかし、しばらくすると、シェムルは自分の前に立つ蒼馬の頭がふらりふらりと揺れ始めたのに気づく。
「お、おい。大丈夫か、ソーマ?」
顔をロマニア国軍へと向けたまま、シェムルは蒼馬に声をかけた。
すると、蒼馬はそれこそ今にも死にそうな声を返してくる。
「ダメ。もう本気でダメ……」
ギョッと目を剥くシェムルに向けて、蒼馬は言う。
「緊張しすぎて頭がぐらぐらする。今にも腰が抜けそう」
「ちょ、ちょっと待て、ソーマ!」
シェムルは慌てた。
先程までの格好良かった臍下の君は、どこに行った?!
焦るシェムルの前で、蒼馬の身体の揺れはさらに大きくなっていく。
「ダメ。もう倒れる。これ、本当に倒れる。このまま倒れても良いかな?」
「馬鹿っ! 良いわけないだろ!」
緊張のあまり死人のように顔を蒼白にした蒼馬の手から、シェムルは旗を引ったくった。
「おまえは座っていろ! 倒れられるよりか多少はマシだ!」
◆◇◆◇◆
罠があるのを承知の上で城館へ全軍で突入しようとしていたロマニア国軍の将校たちは、城館の門の上に現れたふたりの姿に驚いた。
「あのエルドアの旗を持つ、黒髪の男は……!」
「常にひとりのゾアンを付き従えているとの噂どおり! あれが破壊の御子に違いない!」
将校たちの会話を盗み聞いていた兵たちの間からも、どよめきが上がった。
そのどよめきを背に、将校たちは歯がみをする。
ミルツァにいるはずの破壊の御子が、なぜそこにいる?!
ピアータから聞かされていた策では、自分らは破壊の御子が逃げてくるよりも先に城館を制圧し、エルドア国軍の逃げ場所を奪うはずだったのだ。それだというのに、いまだミルツァにいるはずの破壊の御子が、ああしてこの場にいるということは、やはり策が見破られていたのではないのかという疑心暗鬼が生じてくる。
やはり罠があるのか? そこに自分らがいつまで経っても攻めてこないのに痺れを切らして、破壊の御子はああして自らの姿を晒して誘っているのではないのか? いや、それすらもこちらの疑心暗鬼を招く策ではないのか?
将校たちの思考は、堂々巡りにはまってしまった。
しかし、血の気が多かった将校が、ついに我慢できなくなる。
「おのれ、俺たちをおちょくりおって! こうなれば罠があっても、それを踏み砕き、奴の首を挙げてくれる!」
そう言うなり、兵たちに号令を発して城館に突撃しようとした。
しかし、その直前である。
ロマニア国軍の兵たちが凝視する中で、門の上に立っていた破壊の御子が手にした旗を後ろに控えていたゾアンに手渡した。
それに将校は咽喉元まで出かかった号令を慌てて飲み込んだ。そして、次いで号令の代わりに驚愕の声を上げる。
「な、何だとっ?!」
何と、破壊の御子がその場に座ったのである。
自ら姿を現したのみならず、座り込んだのだ。
これに将校たちは驚愕した。
逃げる必要はない。
そう言わんばかりの破壊の御子の行動である。
ロマニア国など恐れるものではない。逃げる必要など、どこにある。さあ、かかってこい。ひとり残らず全滅させてやる。
そんな破壊の御子の声が幻聴となって聞こえてくるようだった。
将校のひとりが震える声で言う。
「こ、これが破壊の御子か……!」
何という豪胆さ。如何なる策があろうとも、自分らを圧倒する数の敵を前にして誰がああして悠然と座っていられるだろうか?
自分らにそれができるかと問われれば、否である。とうていそのようなまねは、できるものではない。
「これが、あのダリウスめを打ち倒し、ダライオス大将軍閣下からも恐れられた男か……!」
将校たちのみならず、その場に居合わせたロマニア国軍のすべての兵たちは戦慄とともに恐怖を覚えた。
城館の中と同様に――いや、それ以上の異様な緊張がロマニア国軍を包み込んだ。
どれほど、この膠着状態が続いたときであろうか。
ついに痺れを切らした将校のひとりが提案する。
「このままでは埒が明かん。――まず、俺が少数の兵とともに突っ込む。おまえはここで罠なり伏兵なりがいないか状況を見定めて対処してくれ」
それは自らの死すら覚悟の上での言葉だった。
ならば、それを止めるのは無粋である。
僚友もまた、重くうなずきを返す。
「わかった。――だが、無理はするなよ」
「俺も死にたいわけではない。何かあれば、すぐに助けてくれると嬉しい」
冗談めかして答えた将校は、まず高額の報酬を約束して決死隊をその場で募った。すでに兵たちの間にも破壊の御子への恐怖が蔓延しており、なかなか決死隊に名乗りが上がらない。それでも高額の報酬に釣られて、五十名ばかりが集まった。
「よし! ――では、行ってくるぞ」
「おう。おまえの武運を祈る!」
僚友と短く言葉を交わした将校は、いよいよ決死隊とともに城館へ攻め込もうとした。
突撃の号令とともに、その手が振り下ろされる。
まさに、そのときであった。
いきなり横手から怒号と悲鳴が湧き上がる。
「いったい何事だっ?!」
驚きの声とともに事態の報告を求める将校へ、兵のひとりが声を上げる。
「敵でございます! 敵の奇襲を受けております!」
そう言って兵士が指差す方を見やれば、近くの山の斜面の木々が激しく揺れ動き、そこから怒号のような叫びと激しく武器を打ち合わせるような音が聞こえてきていた。
「やはり破壊の御子の罠だったのか!」
そう判断した将校の決断は早かった。自分も馬首を返しながら声を張り上げる。
「罠だ! 破壊の御子の罠だぞ! このままでは全滅する! 速やかに退け! 退くのだっ!」
それに突撃をしようとしていた将校もまた合わせる。
「退け、退けっ! 破壊の御子の罠だ! 全軍、退却だ!」
そして、ロマニア国軍の兵たちも口々に叫びながら退却し始めた。
「破壊の御子の罠だ!」
「逃げろ! 全滅させられるぞっ!」
「破壊の御子の罠だぁ―!!」
ロマニア国軍の兵たちは兜を放り投げ、槍を投げ捨てて逃げていった。
そうしてひとり残らずロマニア国軍の兵が逃げ去ると、あれほど激しく揺れていた山の木々は静まり、怒号や武器を打ち合わせる音もしだいに消えていった。
それからさらにしばらくして、山を下りて姿を現したのは、わずか数十人ばかりのエルドア国の兵たちである。
「何とかうまくいったようだな」
そう胸を撫で下ろしたのは、セティウスであった。
一部の兵たちとともに一足早く山を越えてきたセティウスだったが、ちょうどそこは今まさにロマニア国軍が城館へ攻め寄せようとしているところであった。ロマニア国軍は城館に気を取られて、こちらには気づいていない。しかし、手許にいるのは、わずか数十人の兵だけ。そこでセティウスは、かつてマーベン銅山からドワーフたちを連れ出したとき、追撃してきたホルメア国軍を追い払った蒼馬の策を真似て、あたかも大軍が山から押し寄せてきたかのように木々を揺らし、声を張り上げ、武器を打ち鳴らして見せたのだ。
それは見事に成功し、こうして戦うことなくロマニア国軍を追い払うことに成功したのである。
「セティウス閣下。追撃いたしますか?」
部下の言葉に、セティウスは首を横に振るう。
「やめておこう。ここで欲を掻いてもろくなことにはなりそうもない」
逃げたとはいえ、敵はこちらよりも数が多い。調子に乗って追撃しても、こちらが撃退されてしまうのが落ちである。
「それよりも、これから逃げてくる味方のために食い物や飲み物の準備をしておこう。命からがら逃げた後の食い物ほど、胃袋と心に染みるものはないからな」
そう言うとセティウスは兵たちを引き連れて、城館へと向かっていったのである。
そうして城館に向かってやってくるエルドア国の兵とセティウスの姿を認めた蒼馬は、そのままその場でひっくり返るようにして後ろに倒れた。
「……助かった?」
いまだ半信半疑といった蒼馬の声に、シェムルはうなずいて返す。
「ああ。――そのようだ」
さしものシェムルも持っていた旗にすがりつきながら、ずるずるとその場に座り込んでしまった。
◆◇◆◇◆
ララとルルに先導され、山を下りてミルツァに布陣するロマニア国軍の本陣にピアータが帰還したのは、間もなく日が沈むという夕刻であった。
そのときには、すでにロマニア国軍の本陣は祝賀の雰囲気に包まれていた。
何しろ、先の戦いでは敵国の王都にまで攻め上がっておきながら、そこに横やりを入れてきた破壊の御子によって大敗。さらには多くの将軍諸侯が武具を奪われた上で、自国の王子を徒歩で街から退去させられるという屈辱まで味わわされていたのだ。
そこにきて、この大勝利である。
さらにパルティスは勝利に貢献した兵たちをねぎらうために酒を振る舞ったため、ロマニア国軍は一兵卒に至るまで、誰もがこの大勝利を心より喜び、祝っていた。
そこへ戻ってきたピアータもまた渡された酒杯を片手に、破壊の御子打倒という悲願の達成で心を歓喜に震わせていたのである。
しかし、それも長くは続かなかった。
「何? ゾアンたちを殲滅できなかったと?」
残していた百狼隊を預けていた蒼狼兵の隊長であるアンガスからの報告に、ピアータは眉根を寄せた。
「御意にございます、姫殿下」
そう前置いてから、アンガスは戦いの成り行きを説明した。
全滅させられると思っていたゾアンが、こちらの横陣を正面から一点突破し、悠々と南の街道へと逃げていったのを聞かされたピアータは驚いた。
「前方への退却だと?! なんだ、それは! そんなこと聞いたこともないぞ」
ピアータの目論見では、少なくともここで破壊の御子の主力を担うゾアンを全滅させられるはずだった。戦場跡を見やれば、戦死した多くのゾアンたちの骸が数え切れないほど転がっている。しかし、それでも全滅というにはほど遠い。ピアータの目算では、半数近くは戦場から脱しているだろう。
「二千近くのゾアンが生き残ったのか……!」
ピアータは苦いものを吐き捨てるように洩らした。
逃げたのは、たかが二千ばかりである。しかも、その多くが負傷し、手痛い敗北の衝撃で当面は使い物にはならないだろう。普通ならば気に留めるほどでもない数だ。
だが、それが絶対の死地とも思われたミルツァを脱するほどの精鋭であり、そんな精鋭たちがあの破壊の御子の手許に戻ると考えだけでもゾッとする。
ピアータは、そこで嫌な考えを振り払うように小さく頭を振った。
「城館は、すでに別働隊によって制圧されているはず。城館さえ落とせば、逃げたゾアンたちも再集結する場を失い、時とともに瓦解するだけだ」
そう自分に言い聞かせ、無理矢理に笑顔を作って顔を上げたピアータだった。
ところが、その目がギョッと見開かれる。
ピアータは、本陣の中にここにいるはずのない人間の姿を見つけたのだ。
ピアータは慌てて小走りになって駆けると、噛みつかんばかりの勢いで問い詰める。
「貴官ら。城館を攻めに行ったのではないのか?!」
それは、エルドア国の城館を攻めるはずの将校ふたりであった。
せっかく、あの用心深い破壊の御子を罠の袋の中に入れられたのだ。攻め落とした城館を占拠し、敗退して散り散りとなったエルドア国軍を再集結させないようにするのは、その罠の袋を閉じるという大事な最後の一手である。
それを任されていたはずなのに、どうしてこの場にいるのだと問い詰めるピアータに、ふたりの将校は顔を見合わせてから答えた。
「破壊の御子が城館で罠を張って待ち構えていたのです」
それにピアータは愕然としてしまう。
ミルツァでのロマニア国軍への奇襲は、破壊の御子にとっては窮余の一策。他に手はなく、苦し紛れに何とかひねり出した策だ。とうてい、城館を守る策を講じておくような余裕などあるはずがなかった。それは、あれだけ用心深い破壊の御子がまんまとこちらの策にはまったのでも明らかである。
それを罠があったなどと、断じてあり得ない!
そう怒鳴りつけようとしたピアータだったが、それよりも前に将校たちが言う。
「ピアータ殿下のご忠告がなければ、あわや破壊の御子の罠にかかるところでした」
口々にピアータのおかげで窮地を脱せたと礼を言う将校ふたりに、ピアータは返す言葉を失ってしまった。
称賛と感謝を捧げているというのに、目を見開いたまま固まってしまったピアータに、ふたりの将校は戸惑いを浮かべた顔を互いに見合わせる。
状況を察したデメトリアが「姫殿下はお疲れです」といって、ふたりの将校を遠ざけた。だが、その後もピアータは茫然自失といった態でたたずみ続ける。
しばらくして、ようやく我に返ったピアータはその手にしていた酒杯を地面に叩きつけた。そして、顔をうつむかせたまま、堪えきれない激情に肩を激しく震わせる。
そして、同じく震わせた唇の間から声をピアータは押し洩らした。
「そのたてがみにまで手が届いた駿馬を取り逃がすとは……!」
現代セルデアス大陸において、せっかくの好機を失ってしまった、大きな成果を得られずに失敗したという意味で使われる「駿馬を取り逃がす」という格言は、このときのピアータの呟きに由来するという。
かくしてロマニア戦役と呼ばれる大戦において最初の激戦「ミルツァの戦い」は幕を閉じたのである。




