第33話 ミルツァの戦い12-奮戦(前)
ガラムとズーグの奮戦によって大半の敵主力に矛先を変えさせたとはいえ、山へと退却するエルドア国軍にもまた少なくない敵が迫っていた。
背後より敵が間近へと迫ってくる中での退却だ。厳しい軍法が敷かれる近代の軍隊ですら兵の統率を取るのも困難な状況である。
ところが、エルドア国の人間種の兵は大きな混乱もなく撤退を行っていたのだ。
その理由は、彼らを指揮するセティウスにあった。
「落ち着け! 焦って前を押しのけようとすれば、かえって足が止まるぞ!」
兵たちの混乱を鎮めながら退却を指示するセティウスの声は、この切迫した状況下にありながら、どこか明るく弾んでいたのである。
そして、それは顔にも表れていた。
いつもなら何をそんなに気に食わないのか、セティウスは苦虫を噛みつぶしているようなしかめっ面をしている。人間種の兵の間では、「しかめっ面のセティウス」と陰口まで叩かれているほどだ。
ところが、この時のセティウスは何かすっきりしたような顔で笑みすら浮かべていたのである。
自分らを率いる将が、敗走という窮地にあって朗らかな笑顔でいるのだ。兵たちにとって、これほど心強いものはない。戦況を良く理解できていない末端の兵たちにして見れば、退却と言ってもさほど深刻な状況ではないのではと思わせるに十分なものであった。
そのため、大きな混乱もなくエルドア国の人間種の兵は退却していたのである。
「よぉし! 訓練を思い出せ! 急がず、慌てず、だが速やかに行動しろ!」
言葉のとおり、まるで訓練のように切迫したものを声から感じさせないセティウスであったが、実のところこれは演技や虚勢ではなかった。
セティウスは、このとき心の底から安堵していたのである。
もともとセティウスは、ソルビアント平原の開拓農民の三男坊であった。それが口減らしのような形でホルメア国軍に入らざるを得なかっただけである。そのため、兵として武功を挙げて立身出世を夢見ていたわけではない。それに、自分よりもはるかに実績も経歴もある上司のマルクロニスでさえ、平民の出というだけで中隊長補佐止まりである。小隊長になれただけでも御の字。後は死なない程度に頑張って、小金を貯めて退役後は街で小さな飲み屋か食い物屋でもやれれば良い。
その程度の人生だと思っていた。
ところが、今はどうだ。
ホルメア国を滅ぼした新興国家エルドアの人間種の兵を指揮する人将となったマルクロニスの副将である。ホルメア国では、下から数えた方が早かった地位や階級も、今では逆に自分より上を数えた方が早い。
そして、それにともない自分の周辺も大きく変わっていた。
それまで名前を呼び捨てか、せいぜい小隊長と呼ばれていたのに、多くの者たちから「セティウス閣下」と呼ばれるようになっていた。
寝起きするのも大部屋の雑魚寝から、一人用の立派な寝台である。どこに行こうにも、ひとりでは行けない。常に、見るからに屈強な兵士たちが護衛としてついて回る。そして、練兵場でも行こうものならば、数千もの人間種の兵が自分を最敬礼で出迎えるのだ。
しかも、開拓農民の三男坊から人将マルクロニスの副将にまで成り上がった自分は、どうやら憧憬の対象であるらしい。
まだ年若い兵たちなどは、それこそ憧れの英雄へ向けるようなキラキラとした目で自分を見つめてくる。
これはいったい何の夢だ、とセティウスは思う。
拝領した王都ホルメニアの立派な屋敷の寝室で目を覚ます度に、「何だ、まだ夢が終わっていないじゃないか」とぼやくのが、もはやセティウスの日課にすらなっていた。
ソルビアント平原でゾアンか野盗に襲撃され、倒れ伏した泥の中で死ぬ間際に見ている夢にしても、こう現実味がなくては、夢として割り切って楽しむことすらできない。
そんなおかしなわだかまりを抱えているせいで、いつしかセティウスの顔にしかめっ面が張りついてしまっていたのだ。
そんなところにきて、この危機である。
セティウスは、ホッとしていた。
やはり、そううまい話があるわけがない。
そう思ったとたん、セティウスは胸にわだかまっていたモヤモヤとしたものが一気に吹き飛んだ気がしたのである。
それに、敗走するのには慣れていた。逃げるのは得意と言っても良い。
ソルビアント平原でゾアンに襲撃されては、よく小隊の部下ともども泥の中を這いずって必死に逃げたものである。鼻も耳も獣並みに利き、四つ足で走れば馬のような速さで走れるゾアンから逃げるのは、本当に大変だった。それに比べれば、狭く勾配のある山道とはいえただ走って逃げるだけならば楽なものだ。
「いいか! 隣の仲間を助けてやれ! 見捨てたら、後で気が咎めるぞ! それよりも助けてやれば、後で自分も助けてもらえる。気持ち良くみんなで助かるんだ。ひとりでも多く生き残るぞ!」
セティウスは兵たちにそう声をかけると、手拍子を打ち始めた。
「ほら! いち、に! いち、に! 足並みを揃えて逃げるぞ! いち、に! いち、に!」
セティウスの手拍子に合わせ、エルドア国の人間種の兵は足並みを揃えて山へと退却していった。
◆◇◆◇◆
エルドア国の人間種の兵たちが大きな混乱もなく退却し続けられたのはセティウスだけの力ではなかった。いくらセティウスが笑顔でいても、実際にロマニア国軍の追撃を受ければ、瞬く間に兵たちに混乱と動揺が伝わり、統率を失っていたことだろう。
それがなかったのは、ひとえに追撃してくるロマニア国軍を食い止めている者がいたからである。
「何だ、あの化け物はっ?!」
そう洩らすロマニア国軍の隊長の前には、すでに百を越えるロマニア兵の死体が散乱していた。いずれも圧倒的な力によって粉砕され、引き千切られ、押しつぶされ、もはや原型を留めていない無残な死体の山である。
この、戦場というより何らかの災害の跡とも思える光景を作り上げたのは、歓喜と興奮の雄叫びを上げるジャハーンギル・ヘサーム・ジャルージと、それに率いられたディノサウリアンの部隊であった。
ジャハーンギルたちは狭い山道の入り口に陣取り、追撃してくるロマニア国軍を食い止めていたのである。
「くそっ! 弓兵! 矢だ! 矢を放てっ!」
隊長の命令とともに、弓兵たちがいっせいに矢を放った。
それにジャハーンギルは足許に転がっていた死体を鷲掴みにすると、羽虫でも振り払うように死体を振り回して降りそそぐ矢を打ち払ってしまう。
自身の代わりに矢を受けてハリネズミのようになった死体を放り捨てると、次の矢を弓につがえようとワタワタとしている弓兵に向かってジャハーンギルは突っ込もうとした。
「親父っ! 下がれ、下がれって! ばんぷふとーだぞ、ばんぷふとー!」
それを押しとどめたのは、後ろにいた三男のパールシャーである。蒼馬が居もしなかったガウ族の狩人に備えさせて急遽用意した大盾の後ろに隠れて矢を避けながら、パールシャーは突出する父親を呼び戻していた。
ジャハーンギルが「橋がない」と物足りなげに言葉をこぼすのに、息子たちは「橋じゃなくても、ばんぷふとーだから戻ってくれ!」と声を上げる。それにジャハーンギルは、いかにも渋々と言った様子だが後ろに退いた。
敵が退いたのだ。攻め立てる絶好の機だというのに、ロマニア国軍の兵士たちはいずれも尻込みしてしまい、その場から動かない。
そんな部下に、隊長は発破をかける。
「おまえたち! 何を怯えている! 敵は少数なのだ! 一気に攻めれば、いくらディノサウリアンとて討ち取れるであろう!」
しかし、そうは言ったものの隊長自身も、「あれは無理だろう」と内心では思っていた。とうてい、あれを打ち倒す光景が思い浮かばない。むしろ、立ち向かうのが馬鹿らしく思えるほどだ。
「ええいっ! 不甲斐ない! 貴様らは、それでもロマニア兵かっ?!」
そう言ってやってきたのは、ピアータの百狼隊に所属する蒼騎兵たちだった。
味方が敵の殿軍に苦戦しているのを聞き、百狼隊の中で馬の疲労が少ない蒼騎兵たちが「ならば我々が」とやってきていたのである。
「如何にディノサウリアンとて恐れるに足らず! いつもどおり組を作って挑めっ!」
その声を受け、蒼騎兵たちは素早く組を作っていく。
それは蒼騎隊だった頃、ダライオス大将軍との訓練中に生まれた戦法である。まず三人一組となり、ひとりが守りに徹して盾となり、ひとりが攻撃に専念し、残った最後のひとりが状況に応じて守りと攻撃を支援する。
これが強大な敵と相対したときの蒼騎兵の必勝の戦法であった。
蒼騎兵の中でも勇猛と名高い騎士が勇ましい声を上げ、仲間ふたりとともにジャハーンギルへ挑む。
「百狼隊に蒼狼兵ありということを見せつけてくれん!」
それを言い終わる前に、左手より轟っと風がうなる音がした。
一番左側に立っていた盾役の騎士が「え?」と思ったときには、手にしていた盾にそれが直撃する。
それはジャハーンギルの鉄球であった。真っ直ぐ投げるのではなく、鎖を持って振り回された鉄球はジャハーンギルの怪力と遠心力と相まって、物凄まじい威力をもって盾ごと騎士の胴体を粉砕する。
しかし、それだけに留まらない。鉄球は続いて二人目の胴体をへし折った。さすがに鎧を着た人間ふたりを粉砕した鉄球は勢いも衰えてしまう。三人目は胸甲の上から強く胸を打たれただけですんだ。
だが、それでも鉄球の威力はすさまじく、胸を強打された騎士は息を詰まらせて後ろへよろめいてしまう。あわや倒れるところを何とか踏み止まった騎士だが、その目の前に、ぬっと巨大な影が立ちはだかった。
ジャハーンギルである。
振り回した鉄球を叩きつけるのと同時に一気に間合いを詰めていたジャハーンギルに、その蒼狼兵はポンッと蹴り上げられた。
実際の音は、それこそドラム缶を金属バットで殴りつけるような音である。しかし、蹴られた蒼狼兵の身体が宙高く舞う光景は、あたかも鞠でも蹴り上げたかのようであった。
しばらくして音を立てて地面に落ちた蒼狼兵は、首や手足があらぬ方に曲がったままピクリとも動かない。もはや絶命しているのは明らかだった。
それを見届けたジャハーンギルは、地に落ちていた鉄球を拾い上げる。それから、くるっと背中を向けると「親父、親父っ! ばんぷふとーだぞ、ばんぷふとー! 戻れって!」と叫ぶ息子たちのところへのそのそと戻っていった。
尻尾をゆっくりと左右に振る隙だらけの背中を見せて悠々と戻っていくジャハーンギルの姿に、蒼狼兵のひとりが憤慨する。
「不甲斐ない! それでも、ピアータ姫殿下の蒼狼兵か?! 俺が、奴を討ち取ってくれる!」
そう言うなり槍を手に取ってジャハーンギルへ向かって駆け出した。
あのディノサウリアンの一撃の前では、盾も鎧も無意味。鉄兜も視界を狭めて不利を招くだけ。
そう判断した蒼狼兵は兜を脱ぎ捨てる。
「やあやあ、我こそは――」
名乗りを上げて勇ましく戦いを挑もうとした蒼狼兵だったが、そこへ何かが轟っと空気を引き裂いて飛んできた。
生卵を殻ごと地面に叩きつけたような音がした。
ロマニア国軍の兵たちは、あんぐりと口を開けて呆けてしまう。
蒼狼兵の頭部が消し飛んでいた。
蒼狼兵の隊長であるアンガスもまた茫然とする。
いや、愕然と言っても良い。
彼の前で骸を晒している蒼狼兵たちは、その武勇と勇猛さにおいてはいずれも自慢の部下たちだった。一騎当千とまでは言わないが、それでも並の兵士なら五人や十人を相手取って戦えるぐらいの猛者たちである。
それだというのに、その部下たちがまるで子供扱いだ。
ディノサウリアンとは、すべてあのような化け物ぞろいなのか。
しかし、先程自分が数人がかりでディノサウリアンを倒したばかりである。そいつも強いことは強かった。だが、さすがにあれほどではない。あれに比べれば、可愛いものである。
アンガスがこれまで知る最強は、ダライオス大将軍だった。だが、そのダライオス大将軍といえど、あれに勝てるかと問われれば言葉に窮する。まさに怪物だった。
「何だ、あの怪物は? ダライオス閣下でも、もう少し可愛げがあったぞ」
その声が聞こえたのか、投じた鉄球をズリズリと鎖をたぐって引き寄せていたジャハーンギルが、小さく首をかしげて見せた。
それがまるで「何で来ないの?」とせっかく遊びに誘った友達が来てくれないのを不思議がる子供の仕草のように見えたアンガスは思わず叫ぶ。
「そんな可愛げは求めておらんっ!」
怒声を張り上げるアンガスの後ろでは、ロマニア国軍の兵士たちが申し合わせたようにいっせいに後じさった。
ジャハーンギルはしばらくその場に留まっていたが、もはや敵が誰ひとりやってこないのに、息子たちとともに悠々と後方の山へと下がっていったのである。




