第31話 ミルツァの戦い10-突破
「敵が赤毛のゾアンを先頭に突撃してきますっ!」
ロマニア国軍の左翼の最前列を任されたトゥリウス男爵は配下の騎士の声に驚いた。
満を持して待ち構えていた自分らに対し、敵は山を背負い、その数は三分の一程である。とうていまともにぶつかり合えるものではない。恐怖に駆られて背中を見せて後退するか、せいぜいその場に踏み止まって守りを固めるしかないと思っていた。
ところが、騎竜の上から前を見れば、確かにゾアンどもは赤毛の巨漢を先頭に四つ足となってこちらへ向けて突進して来ているのだ。
トゥリウス男爵は慌てて声を上げる。
「盾を構え、槍を揃えよ!」
壊走する敵の首を挙げて褒賞を得ようと、隊列を乱して我先へと走っていた兵士も、トゥリウス男爵の号令にたたらを踏んで立ち止まる。そして、突撃してくるゾアンに対して盾を押し並べ、槍を構えて迎撃の態勢を作った。
しかし、この時代の兵の多くは徴用された農民や臨時雇いの傭兵たちである。最低限の軍事教練は施してはいるが、やはり不測の事態に際しては、どうしても動きが悪い。
せっかく並べた盾の壁も整然とはいかずに隙間だらけである。突き出された槍の穂先もそろわない。
そこへ赤毛の巨漢が率いるゾアンの戦士たちが突っ込んできた。
血飛沫と怒号が飛び交い、断末魔の叫びがほとばしる。
盾も整然とは並べきっておらず、槍の穂先もそろわないとはいえ、まがりなりにも重装歩兵の密集陣形だ。そこへ突っ込んだゾアンの戦士たちの被害は大きかった。多くの戦士たちが盾の壁を突き破れずに盾と後からきた味方との間に押しつぶされ、突き出された槍に貫かれて命を落としてしまう。
その中にあって、その勇猛さを遺憾なく発揮したのはゾアンの戦士らを引き連れた赤毛の巨漢――ズーグである。
ズーグはその巨体からは想像もできない機敏さと柔軟さを示し、突き出された槍の間をかいくぐってロマニア兵に肉薄すると、肉切り包丁を思わせる分厚い山刀を横殴りに振るう。
その一撃を受けた盾は、木片と補強用の金属片を散らしながら半ばまで切断されたように粉砕された。その盾を持っていた兵士も、衝撃を受けきれずにたまらず後ろへよろめき、それを支えようとした後ろの兵士にもたれかかる。さらにズーグはそこへ強烈な前蹴りを喰らわして、ふたりをまとめて転倒させた。
左右のロマニア兵は倒れた仲間の穴を埋めようとし、また後列の兵はズーグを仕留めようと槍を突き出してきた。
ズーグは前蹴りを繰り出したばかりである。突き出された槍すべてをかわし切れるものではない。かわせなかった鋭い槍の穂先が、肩と脇腹と胸へと突き立ち、鎧を貫通して肉体に突き刺さる。しかし、寸前で身をひねっていたことに加え、徴用されたばかりのロマニア兵の腰の引けた刺突だったことあり、いずれも致命傷にはほど遠い。
ズーグは気合いとともに山刀を一閃させると、大量生産の粗末な槍の柄をまとめて叩き折る。
それから盾の壁を作ろうと横に動いた兵の頭部を盾越しに鷲掴みにすると、引き倒すように顔面を地面へと叩きつけた。その一撃だけでもはやピクリとも動かなくなった兵士の後頭部を追い打ちとばかりに右足で踏み潰したズーグは、音を立てて息を吸い込んだ。そして、それを咆吼に変えて吐き出す。
「我はゾアン十二支族がひとつ〈爪の氏族〉が族長にして、エルドアの獣将、《怒れる爪》クラガ・ビガナ・ズーグ! 死にたい奴からかかってこい!」
その咆吼に、ズーグの周囲からロマニア国の兵士が音を立てて退いた。
それにズーグは、ニヤリと獰猛な笑みを浮かべると、ロマニア国の兵に山刀を突きつけて戦士らに命令する。
「突っ込め! ぶち殺せ!」
ズーグがこじ開けた盾の壁の穴に、ゾアンの戦士たちが怒号を挙げて突入していった。
◆◇◆◇◆
「報告いたします! ゾアンたちが突撃してまいりました!」
伝令兵の一声に、本陣のパルティス周辺にいた将軍諸侯はまず驚いた。
いかに馬並みの速さで疾走できるゾアンといえど、その装備は軽装歩兵程度でしかない。そんなゾアンが装備の整った重装歩兵に対して側面や後背からというのならばともかく、真正面から突撃するなど勇猛ではなく無謀というものだ。
ましてやこちらの兵数は、敵の三倍近い。
守りに徹するのならばともかく、これで向こうから攻撃してくるなど自ら死期を早めるような行為である。
所詮は獣どもの最期の悪あがき。
将軍諸侯らは、冷笑を浮かべた。
その中で唯一パルティスのみが、わずかに眉をひそめる。
「強い猛気である」
パルティスの目は、乱戦が繰り広げられている左翼から陽炎のように立ち上る猛気を見て取っていた。
「これは、よほどの猛将がいるに違いない」
パルティスが賛嘆の声を洩らすと、それを耳にした諸侯たちは困惑の色を浮かべた。自分らも左翼へ目を転じれば、そこでは乱戦によって巻き上がる土煙が見えるだけである。パルティスは戦いの最中に、時折このような意味不明なことをいう癖があった。この時も諸侯たちは巻き上がる土煙を猛気と言っているのだろうと考える。
「あそこにいるのは、トゥリウス男爵ですな。若いながらも武勇に優れ、最前列へ自ら名乗りを上げる勇猛な者。おそらくは、彼でございましょう」
諸侯のひとりが追従の笑みを浮かべて言うのに、パルティスは「はて?」と首を傾げる。
「トゥリウスは、かような猛気を感じさせる者ではなかったぞ」
それからパルティスは伝令兵を呼び寄せる。
「敵は我が軍の左翼を一点突破せんとしている。突撃してきた敵の側面を突くように中央の部隊へ伝達せよ」
今や西域に脅威とともに知られるゾアンの突撃と言えども、密集陣形を組んだ重装歩兵を正面から突破するのは容易ではない。当然、その足も止まり、最大の武器である速さを殺される。そこへ側面から攻撃されれば、それは致命打となるだろう。
自分が下した命令を復唱してから伝令兵が馬で駆けていってしばらくすると、中央の部隊がその矛先を左翼に突撃しているゾアンの側面へ矛先を向け始めた。
しかし、パルティスの愁眉は開かれない。
「敵の猛気に比して、我が軍の動きが鈍いぞ」
パルティスは伝令兵を呼び寄せる。
「後詰めの兵たちをすぐに動かせるように準備させよ」
パルティスは不測の事態や本陣を守るために近くに置いてある後詰めの部隊にいつでも出られるように指示を出した。それから自分の周囲にも声をかける。
「諸卿らも敵に備えられよ」
このパルティスの指示に将軍諸侯らは命に服するとしながらも、内心では「殿下も用心がすぎる」と苦笑を浮かべた。
◆◇◆◇◆
「ゾアンどもめ! 左翼の陣を一点突破し、パルティス殿下のお命を狙うつもりかっ!」
ロマニア国軍の中央を任されていたオクタヴィス将軍はパルティスからの伝令を受けると、すぐさま兵を左翼に突撃するゾアンへと向けた。
もっとも激戦が予想される中央に配置されたオクタヴィス将軍の兵は、国軍の兵からなる重装歩兵である。その戦闘力においては、ロマニア国軍の中でも屈指の精鋭部隊であった。
これを迎え撃ったのは、最後尾に立ったガラムと彼が率いる〈牙の氏族〉の戦士たちである。
ガラムたちは突き出される槍をかいくぐって敵兵へ肉薄すると、その山刀で次々と命を刈り取っていく。
しかし、とにかく敵の数が多すぎる。何人か討ち取っても、次にはその倍以上の人数が押し寄せてくるのだ。とうてい押し返せるものではない。
それでも何とか拮抗状態に持ち込めているのは、ロマニア兵の多くがすでに戦に勝ったものと思っているからだった。
ここで無理をして命を落としては損だ。危険を冒さず、こぼれ落ちてくる手柄を拾い集めて、わずかばかりの勝利の恩賞に預かろう。
そんな消極的な思惑が見え透いたへっぴり腰で槍を突き出してくるのだった。そのため、こちらが少しでも強気に前へ出ようとすれば下がってしまう。そして、こちらが後ろに下がれば、我先へと前に出てチクチクと槍を突いてくる。しかし、またこちらが前に出れば、すぐさま下がってしまう。これの繰り返しである。
そのおかげでガラムたちは圧倒的な兵力の差に加え、後退しながらの防戦と言う悪条件でも、何とか敵を食い止められていた。
だが、山刀しか武器のないゾアンである。長い槍を持って間合いを保ってやられ続けると、なかなか厳しい。真綿で首を絞められるように、ジワジワと体力を削られ、ついには討ち取られてしまう戦士たちが続出した。
今もまたガラムと肩を並べて戦っていた戦士のひとりが、突き出された槍を避け損ねて足に受けてしまい、転倒する。すると、ロマニア国兵は手柄を挙げようと目の色を変えて倒れた戦士に向かって槍を突き出し、そのゾアンの戦士を針刺しのようにしてしまう。
すでに絶命しているのは明らかだというのに、目を血走らせて槍を突き立てるロマニア兵たちの間に、ガラムは怒りの形相のまま突っ込む。そして、その両手にした二本の山刀を閃かせると、同胞の命を奪ったロマニア兵たちを瞬く間に斬り倒した。
ガラムがひとり突出してきたのに、手柄を挙げる好機と見たロマニア兵たちが殺到する。
自分へ向けて槍を突き出してくるロマニア兵たちを見据えたガラムは大きく息を吸い込むと、それを轟っと咆吼として解き放った。
それだけで調子に乗って突っ込もうとしていた兵たちは慌てふためき後ろに下がろうとする。しかし、逆に前へ出ようとする後ろの仲間に突き飛ばされて転倒するなど醜態を晒した。
そこへシシュルとゾアンの戦士たちが突っ込み、乱戦へと持ち込んだ。
山刀の閃きごとに血飛沫が飛び交い、槍のひと突きごとに絶叫が上がった。
しばらくしてその乱戦を制したのは、ガラムたちである。同胞たちの背中を守ろうというゾアンの戦士に比べ、保身を図りながら恩賞のおこぼれに預かろうと言うロマニア兵では気概が違えば闘争心も違う。ロマニア兵は多勢でありながら危ないと思った途端、潮が引くように後退してしまう。
そこへ追撃を加えようとした同胞をガラムは制止する。
「無理押しするな! 守りに努めよ!」
今は敵を突破しようと奮戦しているズーグたちの背中を守るのが自分らの役目である。決して武勇を誇ることではない。それに局所的な優勢に調子づいて前へ出ても、後ろが続かなければ敵の中で孤立してしまう。それでは袋叩きに遭ってしまうだけだ。
足を止めての防戦という慣れない戦いだが、今は耐えるしかない。
だが、それを徹底できたとしても、それも長くは続かないだろう。
すでにガラムもまた浅手ながらも複数の傷を身体に刻んでいる。そこからにじみ出る血で自身の黒毛を重く濡らしながら、ガラムはボソッとこぼす。
「頼むぞ、ズーグ。こちらも、そう長くは保たんぞ」
◆◇◆◇◆
ズーグは、ただひたすら山刀を振り続けていた。
もはや何人の敵を斬り倒したかわからない。もはや何度敵の刃を身に受けたかもわからない。
すでに考えている余裕などなかった。とにかく反射的に、目についた敵を片っ端から倒し続ける。
そのうち山刀の刃が潰れ、一撃では敵兵を殺せなくなってしまう。それならば敵が死ぬまで叩きつければ良いとばかりにズーグは敵の鎧の上からだろうと兜の上からだろうとお構いなく、山刀を何度も叩きつける。棍棒のように振るわれる山刀を受けて頭蓋を叩き割られ、胸骨を粉砕されて倒れるロマニア兵を踏み越えて、ズーグはひたすら前へ前へと進む。
いつしかズーグは色と音が消え失せた世界にいた。
黒と白の濃淡のみで描かれた世界の中で、ズーグはひたすら山刀を振り回す。先程まで鼓膜を破らんとするかのような怒号も悲鳴も絶叫も消え失せていた。自分が上げているであろう叫び声すら聞こえない。
時間までもがゆっくりと流れる中で、思考だけが驚くほど冷静になる。
泣きながら絶叫を上げて槍を突き出すロマニア兵に、そんなに怖いなら戦に出てくるなよと思いつつ、その顔を殴り飛ばす。隣で胸を槍で突かれて仰け反る戦士に、おまえへくれてやると言っていた酒瓶ひとつ分の借りはおまえの息子と酌み交わすことにしようと無言の別れを告げる。自分の肩に槍を突き立てたロマニア兵には、痛いじゃないかと脳天を山刀で叩き割った。
邪魔になったロマニア兵の死体を蹴倒そうと前蹴りを放ったが、思いのほか抵抗がなく、ズーグの身体は勢い余って前のめりに倒れそうになる。蹴りに出した足で大地を踏み締め、あわやのところで態勢を立て直す。そして、前のめりになった上半身を引き起こしたズーグは顔を上げて驚いた。
目の前には、ぱっと平地が広がっていたのだ。
あれほどいたロマニア兵たちの姿はない。
それにズーグは「しまった!」と思った。
勇敢なゾアンの戦士は、死後に獣の神が御座す喜びの野に召され、そこでうまい肉と酒を振る舞われ、自由に野を駆けられるという。
どうやら自分は勢い余って、その喜びの野に来てしまったようだ。
これに、ズーグは困ってしまった。
戦士としては、間違いなく本望だった。思う存分力も振るえたし姿形も異なる戦友らと酒も酌み交わせた。そればかりか、族長でしかなかったときの自分では考えられもしなかった平原の外へも出られたし、そこでいろんなものを目にし、様々な体験もできた。
胸を張って、良き人生であったと言えるだろう。
だが、後悔がないと言えば嘘になる。
まず思いつくのは、ガラムのことだ。あのガラムのすかした顔を敗北の屈辱で歪めさせてやれなかったのは残念だ。今に自分の娘とあいつの息子を結ばせて、生まれてきた孫を徹底的にかわいがり、「ガラム爺様よりズーグ爺様の方が好き」と言わせてやろうと思っていたのだが、それを達成できなかったのは悔しい。
だが、その前に自分の可愛い娘をやるのだ。もしガラムの息子が軟弱な奴では困る。そのときは俺自身が徹底的にしごいてやらねばならない。娘を泣かせるような奴に、大事な娘をくれてやるわけにはいかないのだ。
泣かせると言えば、俺が死ねば妻は泣くだろう。一生涯守ると言い、おまえを背負ってみせると誓っていたのだが、それも反故になってしまった。しかし、それも戦士の宿命という奴だ。悪く思うな。いや、俺が悪い。すまん。おまえが喜びの野に来たら平謝りするから、どうか許してくれ。だが、できればおまえが喜びの野に来るのはずっと後でかまわない。俺は寂しいが、まあ我慢する。あとは――。
「やったぞ、族長っ!!」
とりとめのないことを考えていたズーグの背中をその声が叩いた。
その途端、ズーグの世界に再び色と音と時間が戻る。
喜びの野と思っていたのは汚らしい草が生えた、ただの平地に、後ろからは今なおも怒号と絶叫と剣戟の音が嵐のように吹き荒れていた。
「ロマニアの野郎どもを突破してやったぞ!」
ひとつだけの目をパチクリとさせていたズーグは、再び背中にかけられた声に、自分が死に損なったのに気づいた。
次の瞬間、ズーグは全身を使って雄叫びを上げた。




