第30話 ミルツァの戦い9-退却(後)
本陣を強襲され、王は速やかに撤退した。
その報せはゾアンの太鼓の拍子となってエルドア国全軍へと伝えられた。
無線機などの通信装置がない時代である。多彩な拍子によって多くの事柄を遠く離れたところにいる相手へと伝達できるゾアンの太鼓は、これまでの蒼馬の大躍進を陰で支える大きな武器であったのは間違いない。
しかし、そんなゾアンの太鼓による伝達方法にも欠点はある。
例えば強い風だ。太鼓の音を介して伝達するため、強い風はその到達距離に影響してしまう。また、風の音そのものに太鼓の音が打ち消されてしまう恐れもある。それは周囲の騒音もまた同様だ。さらに複数の太鼓が同時に叩かれると拍子が混在してしまい、叩かれた意図を読み取るのが困難になってしまうなどの欠点がある。
そして、伝達内容を秘匿できないと言うのも、大きな欠点だろう。
ゾアンの太鼓によって伝えられた蒼馬の退却は、それを聞いたすべてのゾアンの戦士たちと、連絡要員としてゾアンの戦士を傍に置いていた各部隊の将たちに一瞬で知れ渡ってしまったのだ。
これにエルドア国全軍は激しく動揺した。
何しろこれから多勢の敵を迎え撃とうとしていたときである。そこにきて、自分たちを率いていた王が早くも逃げてしまったのだ。これに動揺するなという方が、どだい無理な話である。
特に最前線で迫り来るロマニア国軍と相対していたゾアンの戦士たちの動揺は大きかった。誰もが即座に太鼓の音を理解したがために、動揺もいっせいに起き、さらにそれがより大きな動揺を誘ったのだ。
早くもゾアンの戦士たちは浮き足立ち、気の早い者は山刀をおさめて四つ足となって駆ける準備を始める始末であった。
このままでは戦う前に軍が崩れ去ってしまう。
誰もが思った、そのときである。
「報恩の時は、このときぞ!」
そう声を張り上げたのは、ガラムであった。
周囲の戦士たちが注目しているのを意識しながら、ガラムは隣に立つ副官――今や愛する妻となったシシュルへ「俺の言葉を太鼓で伝えよ」と命じる。
シシュルが小さくうなずいたのを見届けてから、再びガラムは「報恩の時は、このときぞ!」と言ってから続ける。
「我らは知っているはずだ。ソーマ陛下は、巷で言われているような勇者ではないということを! 多くの者が噂するような、恐ろしい魔術師などではないということを!」
シシュルが叩く太鼓の音となって全軍へ伝えられるガラムの言葉に、四つ足となって逃げようとしていたゾアンの戦士たちが地に着けようとしていた手を止める。前線へ背を向けていた戦士たちが、太鼓の音を聞こうと振り返った。
さらにそうした戦士たちへガラムは言葉を続ける。
「むしろ、陛下は弱い方だ。人が傷つくのが嫌だと言い、人が争うのは見たくないと言う。皆も、それは聞いているだろう。そして、陛下は情けない方だ。《気高き牙》におやつを盗られてはいじけ、怒られては肩を落とす。皆も、そんな姿を良く目にしているだろう」
ガラムは一拍の間を置いてから断言する。
「だが、そのような陛下に、我らは助けられてきたのだ!」
その言葉をシシュルが力強い太鼓の音として伝えていく。
「弱く情けない陛下は、ときに不安に駆られながら、ときには恐怖に押しつぶされながらも、我らを助けてくれた! 我らに勝利をもたらしてくれた!」
ガラムは屈辱にわずかに歯がみして言う。
「だが、その間に我らがしたことといえば、何だ?! ただ陛下に言われるがままに戦うのみであった! ただすがりついてきただけではないか!」
それはガラムの偽らざる想いであった。
平原最強の勇者とおだてられ、大将軍と祭り上げられていても、自分はただ強い戦士に過ぎない。とうてい自分には、一軍を率いて敵国と戦う策もなければ展望すら持ち合わせてはいない。
すべて蒼馬の言うとおりにするしかなかった。そうすることしかできなかった。
そんな忸怩たる想いをガラムは抱き続けてきたのだ。
「陛下は、これまで我らに多くの勝利をもたらしてくれた。しかし、陛下は万能ではない! 神ならざる人である以上は、常勝ではあり得ない! 不敗であり続けられはしないのだ! いつかは勝ち得ない。いつかは負けるときがくる! そして、それがたまたま今日だったのだ!」
忸怩たる想いを抱き続けてきたガラムは、今こそ笑みを浮かべた。
「ならば、今こそが報恩の時である!」
ガラムは山刀を握る右の拳を顔の前に持ってくると、力を込めて握り締める。
「これまで陛下より与え続けられてきた恩をわずかなりとも返す、またとない好機である! ならば俺は踏み止まる! 俺は戦う! わずかなりとも恩に報いるために!」
ガラムの言葉の熱に押され、シシュルの叩く太鼓の音にも熱がこもる。
「戦士たちよ! 誇り高きゾアンの戦士たちよ! この《猛き牙》が問おう! 大将軍でもなく、大族長でもなく、ただひとりの戦士として、この《猛き牙》が皆に問おう!」
シシュルの太鼓の音を介して自分の言葉を聞くすべてのゾアンの戦士に、ガラムは問いを叩きつける。
「戦士たちよ! おまえたちは、この報恩の好機を如何にする?!」
一瞬、すべてのゾアンの戦士たちに沈黙が舞い降りた。
しかし、次の瞬間にはそれを吹き飛ばすような大音声が湧き上がる。
すべてのゾアンの戦士たちが抜き放った山刀を高く振り上げ、咽喉を反らして遠吠えのような声を上げていた。あちらこちらからゾアンの太鼓が「奮起せよ」や「奮い立て」という意味の拍子をこれでもかと力を込めて叩かれる。
それにガラムも応じて吠えた。
「さあ、敵が来るぞ! 敵の数は我らの数倍! 相手に不足することはなし!」
ゾアンの戦士たちが、それに応じてさらに哮る。
「今こそ我らが報恩の時! さあ、戦士らよ、牙を剥けっ!」
ガラムの声に、ゾアンの戦士たちが怒号のような声で応えた。
危ういところであった。
戦士たちの声を聞きながら、ガラムは内心ではホッと胸を撫で下ろしていた。
後少しでも遅ければ、ほんのわずかでも言葉を間違えれば、戦士たちは踏み止まってはくれなかっただろう。
「シェムルの奴め。相変わらず面倒ごとを俺に押しつける」
ガラムはボソッとこぼした。
思い浮かぶのは、蒼馬の退却の報せとともに叩かれたシェムルの私信である。
『お婆様がおやつを持ってきた』
今は亡きお婆様――氏族の巫女だった老女は、父のガルグズが族長だったこともあり、ガラムたちが暮らす天幕を度々訪れていた。ガラムとシェムルが幼かった頃は、必ずお婆様は食べ物をお土産として持ってきてくれたものである。閉塞感の多い山での生活の中で、幼いふたりにとってそれは大きな楽しみであったのだ。
そのため、外で遊んでいてもお婆様が自分たちの天幕を訪れたと知ると、慌てて帰るのが常であった。
『あたし、先に帰る! 後はお兄ちゃんが片付けておいて!』
シェムルなどは、そう言うと遊び道具をほっぽらかして、ひとりで先に天幕へ駆け戻ったものである。
だが、遊び道具をほっぽらかしたままでは後で父親から大目玉を食らってしまう。そこでガラムは、いつも渋々ながら後片付けをしなくてはならなかったのだ。それだというのにシェムルときたら、おやつが自分の好物ともなると独り占めした挙げ句、「お兄ちゃんが来ないので、いらないと思った」とけろりとした顔で言ったものである。
懐かしい光景を思い浮かべ、ガラムは苦笑した。
シェムルが自分へ伝えたかった意図は、自分たちは先に退却するのでロマニア国軍を食い止めてくれということだろう。
兵を犠牲にしても王を守らなくてはいけない。
それを理屈として理解していても、命じられた戦士たちからすればとうてい良い気がするはずがなく、当然それは士気にも関わる。
それを案じてのシェムルの言い回しであった。
ゾアンの太鼓による伝達は誰にでも聞かれてしまうため、こうして相手にしかわからない言い回しを使うことがあるが、確かに「お婆様がおやつを持ってきた」など自分たち兄妹にしかわからない言い回しである。
そこまで考えてからガラムは笑みを引っ込めると、鋭い目つきで前を見やった。
すると、そこでは雄叫びを上げながら怒濤のように押し寄せてくるロマニア国の大軍の姿が見える。
「だが、遊び道具の後片付けというには、これはいささか俺の手には余りそうだぞ」
しかし、ここで背を向けるわけにはいかなかった。最低でも蒼馬とシェムルが逃げ切るまで時を稼がねばならない。
そう覚悟を決めたガラムは自分の隣に立つシシュルへ目を向けた。視線に気づいて「何か?」と目で問い返す妻に、ガラムはぶっきらぼうに告げる。
「俺より先に死ぬなよ」
それにシシュルは即答する。
「それは聞けません」
ガラムは深い嘆息を洩らした。
妹といい妻といい、なぜ俺の周りにはこう頑固な女ばかりが集まるのだろうか。
内心で、そうぼやいているとそこへ最前線にいたはずのズーグがひょっこりと姿を現した。
「大将軍が板についてきたな」
ズーグがニヤニヤと人を食ったような笑みを浮かべて言うのに、ガラムはムスッと顔をしかめる。
「世辞はいい。何とか崩れるのを防いだだけにすぎん。事態は最悪だ」
ガラムが吐き捨てるように言うと、ズーグもにやけ顔を引っ込めて真剣な面持ちで言う。
「ここで踏み止まって戦ってもジリ貧だ。我らも退却すべきだ」
ガラムは後ろを振り返った。
後方ではセティウスが率いる人間種の兵たちが退却する姿が見える。
「それができるのならば苦労はせん。いったい、どこに退却しろと言うのだ?」
セティウスが思ったよりうまく統率を取っているようで、大きな混乱は起きてはいないようだ。しかし、それでも狭い山道へ千人からの兵が殺到しているのである。どうしても人が密集してしまい、押しくらまんじゅうのような状態となっていた。あそこへ自分たちまで殺到すれば、それこそ収拾が着かなくなるだろう。
蒼馬とシェムルが逃げるまでの時を稼ぐ以前に、自分たちには逃げる道がないのだ。
そう言うガラムに、ズーグはニヤリと笑って見せる。
「あるだろう。あちらに広い退却路がな」
ズーグが指し示した方を見やったガラムは、あっと驚いた。
「おまえ、まさか……?!」
「うまくいけば時間を稼げ、しかも俺たちも逃げられる。良いことずくめだ」
ズーグは事も無げに言うが、それは決してたやすいものではない。
「だが! ――」
「自分で抜いた山刀を収めるのもまた自分よ。――ここは俺に任せてもらおう」
自分の取った言動に責任を持てという意味のゾアンの格言を口にしたズーグは、おどけた仕草で肩をひょいとすくめる。
「それに、先程からシシュルが俺を睨んでいる。この前までは可愛い姪だったのが、男を知ったとたん、これだ。まったく、だから気の強い女は好かんのだ。これでは、おまえに無茶をさせれば後で何を言われるかわかったものではない」
そうぼやくズーグの後ろから、ぞろぞろと〈爪の氏族〉の戦士たちがやってきた。おそらくはすでにズーグに呼び集められた面々なのであろう。他の氏族であるガラムですらその名を一度は聞いたことがある、いずれもふてぶてしい面構えの屈強な戦士たちばかりであった。
そんな猛者たちを引き連れたズーグは、牙を剥いて笑う。
「時間がないので文句は聞かんぞ。まあ、大将軍殿には俺のケツでも追いかけてもらおう」
幼い頃、ガラムは度々おやつをシェムルに奪われています。
そのことはガラムもかなり根に持っていて、燎原の章の第26話で言い争いになっているのも、このことです。
現在、シェムルのおやつ強奪の矛先を向けられている蒼馬には、ひそかに親近感を抱いています。
ちなみに、おやつ強奪はシェムルの恩寵に抵触しないのかと思われるかもしれませんが、獣の神に言わせれば「動物は食うか食われるか。おやつもまたしかり!」ということなのでOKだそうです。




