第29話 ミルツァの戦い8-退却(前)
ジャハーンギルが上げた激しい咆吼に鼓膜を叩かれた蒼馬は、ゆっくりと意識を取り戻した。
「ソーマッ! 大丈夫か?!」
まず、視界に入ったのは目尻に涙を浮かべるシェムルの顔である。
「僕は、いったい……?」
いまだ意識が混濁する蒼馬は自分の呼称が昔に戻っていたが、今それを指摘する余裕はシェムルにはなかった。
「覚えていないのか? おまえは敵の剣を頭に受けて倒れたのだぞ!」
シェムルの言葉に蒼馬は記憶を取り戻す。
「敵は?! 今はどうなっているの?!」
蒼馬は慌てて飛び起きようとした。ところが、力が入らずに腰砕けになり両手を突いてしまう。シェムルに肩を借りてようやく立ち上がった蒼馬は顔を上げ、我が目を疑った。
馬蹄に蹂躙された陣地。血を流して倒れ伏す兵たち。地に落ち、踏みにじられ、血泥にまみれたエルドアの旗。
先程まで威容すら誇っていた本陣が、見るも無惨な姿へと変貌していたのだ。
唖然とする蒼馬の耳に、金属と肉が相撃つ物凄まじい音が届く。
そちらへ振り向けば、さらに我が目を疑う光景が目に飛び込んでくる。
ジャハーンギルが敵重騎兵の突撃を受けて地面を転がっていたのだ。
これはいったい何の冗談だ、と蒼馬は思った。
あのジャハーンギルである。自分が知る誰よりも傲岸で不遜で自由で強い。あのジャハーンギルがあのように戦場で転がされるなどいったい誰が想像しろと言うのだ。
勢いをつけて飛び起きたものの膝が砕け、その場に片膝をつくジャハーンギルの姿に、蒼馬は思わず声を上げる。
「ジャハーンギルッ!!」
その声が届いたのか、ジャハーンギルはやにわに立ち上がるとこちらに向けて両腕を開いて声を上げる。
「我は強い! 我、最強! 我、ばんぷふとー!」
それからジャハーンギルは、ひょいっと鉄球を投げて敵重騎兵を倒した。
その光景に、蒼馬はホッと胸を撫で下ろした。
いつものジャハーンギルである。あのジャハーンギルならば、もはや心配はいらない。むしろ彼に挑もうとする敵の方を心配した方が良いぐらいだ。
そう思っていると、あちらこちらから喇叭の音が鳴り響いてきた。それとともに本陣を蹂躙していた騎兵たちがいっせいに退却を始める。
「追撃はいらない! 急いで本陣を立て直して!」
慌てふためく兵に大声を張り上げて指示した蒼馬だったが、それがいけなかったのか意識が一瞬だけ遠退き、ぐらりと身体が傾く。それを慌てて支えてくれたシェムルの肩を借り、蒼馬は何とか倒れずに踏み止まった。
激痛を訴える額に手を当てて蒼馬は必死に考える。
今は何とか敵の騎馬隊は退けられた。
しかし、安心はできない。事態は今なおも最悪を更新し続けているのだ。
前方のロマニア国軍の本陣からは、先程から狂ったように大太鼓が叩かれる音が聞こえてきていた。おそらくそれは全軍突撃の号令に違いない。こちらは本陣が強襲され混乱した状態である。そこへこちらを圧倒的に上回る数の敵兵が押し寄せてくれば、それを受けきれるはずもない。力押しという単純だが、それだけにこの状況でもっとも効果的な攻撃である。
何とか対抗手段を考えないといけない。
しかし、そこで気になるのは先程の騎馬隊である。
敵の総大将である自分がいる本陣に、ここまで斬り込んできたのだ。あのまま玉砕覚悟で踏み止まって戦えば、あるいは自分を討ち取れたかも知れない。功名目当ての猪武者ならば、まずそうするだろう。
しかし、あの騎馬隊の将は、こちらが立ち直り始めたと見るや否や、目の前の功名を挙げる好機をあっさりと投げ捨て撤退を始めた。
おそらくは、こちらの反抗を封じるためだ。
こちらが総攻撃に対して何らかの手段を講じれば、それに応じて再び本陣に再突撃したり、前方のゾアンたちを攻撃したりとロマニア国軍本隊の総攻撃を支援する腹づもりなのだろう。また、そうした敵部隊がいるというだけで、こちらの打てる手も限られてしまう。
目の前にぶら下がった自らの功名よりも、ロマニア国軍本隊の力でもって確実にこちらの軍の息の根を止めにかかってきている。
嫌になるくらい冷静な敵だ。
蒼馬は頬を伝わって口に入ってきた自分の血とともに、そんな苦い思いを吐き捨てた。
しかし、嘆いてばかりはいられない。それでも何とか対抗手段を考えないといけなかった。
蒼馬は必死に頭を働かせる。
だが、いまだピアータから受けた斬撃の衝撃が抜けきらない。くらくらとする頭を何とか動かそうとするが、衝撃ばかりか焦りも加わり、なかなか思考がまとまらなかった。まるで額から流れる血とともに、思考までも流れ出ていくようだ。
「何とかしないと。何とかしないと……」
焦る気持ちが我知らずに言葉となって口から洩れた。流血する額の傷口を布で縛って止血をしていたシェムルが言う。
「落ち着け、ソーマ!」
虚ろな目で見返す蒼馬に、シェムルは強く告げる。
「今の戦いにこだわるな! 大事なのは明日につなげることだ!」
それは、かつてシェムルが父親から教えられた言葉だった。
いまだホルメア国によってゾアンが存亡の危機に瀕していた頃、平原奪還のために砦を攻めていたときだ。いくら挑発しても決して砦から出てこず、逆にこちらが近づこうものならば矢の雨を降らしてくるホルメア国の兵によってシェムルたち〈牙の氏族〉のゾアンたちは多大な犠牲を出してしまった。
その中で父親であり族長のガルグズが撤退の命令を出したとき、シェムルは「ここで引き下がっては犠牲となった戦士に申し訳が立たない。ともに血を流すべきだ」と異を唱えたのである。
それに対するガルグズの答えは次のようなものであった。
「我ら戦士は、死ぬために戦っているのではない! 氏族を、同胞たちを、家族を、子供を明日へつなげるために戦っているのだ!」
その真っ直ぐすぎる気質から戦略や戦術は疎いシェムルだが、現状ぐらいはわかる。
これは、あのときと同じ状況なのだ。
いくら足掻いても砦の壁は乗り越えられず、砦の兵も出てこない。自分たちが思う戦いができず、ただいたずらに犠牲を増すだけの戦況。
あのときと同じ空気が、この戦場には漂っている。
そして、もはやどう足掻いてもどうにもならないことは蒼馬にもわかっていた。
こちらは危険な夜の山越えを決行したばかりの疲弊した兵。目の前には満を持して待ち構えていた、こちらの数倍もの敵。そして、開戦早々に左翼のドワーフ重装歩兵を粉砕され、こうして本陣まで好きなように蹂躙されたのだ。
ここからは、どうやったって挽回するのは不可能である。
もはや自分らの敗北は、決定したのだ。
では、そこからどうやって明日につなげる?
蒼馬は思いついた答えを口にする。
「少しでも多くの兵を生きのびさせる」
だが、即座に蒼馬はその考えを否定した。
それよりも、もっと大事なことがある。それよりも、もっと確実にしなければならないことがある。
それは――。
「私が死なないことだ……!」
蒼馬はくしゃりと顔を歪めた。
自分は王なのだ。そして、王とは国の象徴である。その王たる自分が討ち取られれば、国そのものが負けとなってしまう。
ましてや姿も形も風俗も異なる複数の種族で構成される多種族国家であるエルドアが、まがりなりにもまとまっているのは、すべての種族の自由と平等を保証する自分が王に立っているからに他ならない。ここでその自分が倒れてしまえば、如何に多くの兵を生きのびさせても無駄になってしまう。
今、ここで自分がやるべきことは、まずは自分が生き残ること。今すぐ自分だけでも、ここから逃げることなのだ。自分さえ生きていれば、たとえここで皆が命を落としたとしても、今頃兵を集めているマルクロニスやアドミウスやグルカカたちと力を合わせて再起を図ることも不可能ではないだろう。
だが、その選択肢は蒼馬にとって受け入れがたいものだった。
蒼馬の顔に苦渋が浮かんだ。
そんな蒼馬の両頬をシェムルが左右から両手で挟むように押さえつける。そして、蒼馬の目の奥底を覗き込むように、その鼻先に顔を近づけた。
「背を向けるな、ソーマ」
十年近く、常に傍で蒼馬を見守り続けていたシェムルにはわかった。
今、蒼馬は恥じているのだ。
自らの失策によって皆を窮地に陥れてしまった。それなのに、そんな自分だけが生き残るため、みんなを見捨てて逃げなくてはいけない。そんな自分を恥じているのだ。
シェムルはそんな蒼馬を叱咤する。
「恥に背を向けるな、ソーマ! 恥とは、乗り越えるものだ!」
シェムルの言葉に、蒼馬はぎゅっと口を引き結んだ。自分を見つめるシェムルの眼差しに耐えかねて、蒼馬は目を伏せて下唇を噛み締める。それからしばらくしてから、蒼馬はボソッと声を洩らした。
「退却する……」
蒼馬は決断した。
「速やかに、ここから退却する!」
蒼馬の決断を受け、シェムルは動き出した。蒼馬の愛馬を持ってこさせるのと同時に、蒼馬を警護する部隊の編成を命じる。しかし、それを蒼馬が押し止めた。
「私は今すぐ逃げる。護衛がそろうのを待っていられない。ついてくるのはシェムルだけでも構わない!」
それにシェムルが渋る。
「しかし、それでは万が一のときに……」
「今は時間の方が惜しい!」
反駁するシェムルに、蒼馬はぴしゃりと返した。それから近くにいたモラードとシャハタに声をかける。
「モラードは旗を持って逃げて。旗竿は捨てて良い。だけど、旗だけは奪われないで」
黒旗は、蒼馬自身の象徴である。それを奪われるのは、時として首を挙げられるのに等しい。絶対に奪われてはならないものだ。
「シャハタは、モラードの警護を頼む。旗は私そのものだ。旗を守ってくれ」
それにシャハタは顔を苦しそうに歪めた。
本来ならば護衛であるシャハタは、シェムルとともに逃げる蒼馬自身を警護しなければならない立場である。だが、今は警護の厳重さよりも逃げ足の速さが優先されるときだ。馬に乗って逃げる蒼馬を警護するには、四つ足となって駆けられないシャハタではかえって足手まといである。しかし、それを指摘すれば護衛のシャハタの面子は丸つぶれとなってしまう。そこで蒼馬はシャハタの面子を慮って、あえて旗を自分自身と等しいと前置きした上で、旗を守るように命じたのだ。
それがわかるからこそシャハタは異を唱えず承諾した。
それを見届けてから蒼馬は黒エルフ弓箭兵の装いをしたエルフの女官が持ってきた愛馬に跨がるとピピを呼ぶ。慌てて駆け寄ってきたピピへ蒼馬は馬上から命じる。
「上空から私たちを支援してくれ。それと、定期的に私の生存をみんなへ伝えるんだ」
そこで蒼馬は声を抑える。
「もし私が敵に討ち取られても、生きていると言い続けて。頼んだよ」
蒼馬の言葉にピピはその小さな目を丸くして驚いたが、不承不承ながらもうなずいてくれた。
それから蒼馬はゾアンの太鼓の鼓手を呼び寄せる。
「太鼓で伝達してくれ。私は逃げる、と。だから、みんなは――」
そこで蒼馬は言いよどんだ。
私が逃げ切るまで時間を稼げ。
それが、ここでの正しい命令だ。
しかし、それを蒼馬はとっさには口に出せなかった。
「皆には最善を尽くせ、と伝えてくれ」
そんな蒼馬に代わって言葉を続けたのは、シェムルであった。
驚いた顔で自分を見やる蒼馬に、シェムルは得意げに言う。
「皆を信じろ。あいつらならば、これぐらいの危機は難なく乗り越えられるだろう」
それは何の根拠もない言葉である。むしろ自分の心情を慮ったシェムルの気遣いであろう。
しかし、それではいけないと、蒼馬は思った。
これから皆には犠牲を強いるというのに、その原因を作った自分だけが先に逃げるのである。その自らの罪と責任を曖昧にしないためにも、ここは自分がしっかりと命じるべきだ。
そう思って口を開こうとした蒼馬の目をシェムルはひたりと見据える。
「悲劇に酔うな、ソーマ。皆を信じろ。おまえは明日につながる道を示せばいいのだ」
蒼馬はシェムルの気迫に息を呑む。
それからしばし唇を固く引き結んで悩んでから、蒼馬はどう太鼓を叩けば良いのか困惑しているゾアンの戦士へ告げる。
「皆に伝えてくれ。各自の判断に任せる。各自が最良と思える行動を取れ、と。――それと、後ひとつ命令を加える」
蒼馬は一拍の間を置いてから、力強く言った。
「絶対に生還しろ、と。それだけは堅く命じる!」
そう言い伝えると、蒼馬はシェムルへ「行くよ」と言い残して馬を走らせた。その後を追いかけようとしたシェムルだったが、ふとその足を止める。
「《猛き牙》宛に私から私信を叩いてくれ」
蒼馬からの命令を伝える拍子を叩こうとしていたゾアンの戦士に、シェムルは声をかけた。
「お婆様がおやつを持ってきた。――それで《猛き牙》にはわかるはずだ」




