閑話 解き放たれた悪魔-3
閑話は3部構成の予定でしたが文量が予想よりも多くなったので4部構成に変えさせてもらいました。
投じられた赤子の頭ほどもある石が実験室の板窓を粉砕し、盛大な破砕音を響かせた。
その石を投じたばかりのジャハーンギルが、鼻息も荒くさらに石を投げようとするのを蒼馬は慌てて止める。
「ジャハーンギルさん、ちょっと待って! 窓を破るだけで良いですから!」
ご機嫌で左右に振られていたジャハーンギルの尻尾がうなだれたように垂れるのに、蒼馬は慌てて言葉を付け足す。
「空気を通したいので反対側の窓もお願いします。――でも、窓を破るだけですよ! それに決して小屋には近づかないでくださいね! 特に風下はダメですよ!」
ノシノシと足音を立てて化学実験室の反対側へと移動するジャハーンギルを見送っていた蒼馬に、騒ぎを聞きつけてやってきたガラムが声をかける。
「これは、いったい何の騒ぎなのだ?」
蒼馬は厳しい目を化学実験室に注いだまま言う。
「しばらくの間は、誰もあそこへ近寄らせないで下さい。念のため、明日まであのままにします」
それからガラムとともに騒ぎを聞きつけてやってきたピピへと振り返る。
「ピピさん、ちょっとお願いがあります」
小首をかしげて「なんでしょうか?」と尋ねるピピに、蒼馬は言う。
「小鳥を一羽、生きたまま捕まえてきておいてもらえますか?」
◆◇◆◇◆
翌日、ピピが捕まえてきた小鳥を入れた鳥籠を手にした蒼馬は、化学実験室の入り口から室内を覗き込んだ。
そして、小さく鼻を鳴らして臭いを嗅ぐ。すると、かすかに臭いが残っている気がした。しかし、手にした鳥籠の中の小鳥は、変わらずさえずっている。
「もう大丈夫かな……?」
恐る恐る蒼馬は室内へと足を踏み入れた。その蒼馬の足の下でジャリッと音を立てるのは、ジャハーンギルの投石によって床に散乱したガラス器具の破片である。
「なんじゃ、これは……」
蒼馬に続いて化学実験室に足を踏み入れたソロンは、実験台の上に転がっていた器具を見て驚きの声を上げた。
蒼馬の知識を元にドワーフの職人たちが作った鉗子などの金属器具がすべて錆びていたのだ。昨日まで新品同然だったというのに、たった一晩で何ヶ月も放置したような状態となっていたのである。
そればかりではない。窓の外を見れば、近くに茂っていた植物の葉が白く枯れていた。
「いったい、何が起きたんじゃ……?」
ソロンの愕然とした声を背に、蒼馬は実験台の上に無事に残っていた簡易の炉と、そこに置かれたガラスの瓶を注視する。瓶の中では黒ずんだ液の上にあるわずかな空間が、黄緑色に染まっていた。
その瓶の口の上で手を扇にして自分の顔へ向けて風を送ると、強い異臭が鼻を突く。
「この臭い。覚えがある」
瓶から漂うこの異臭は、現代日本において強力な漂白作用のある洗剤や学校の実験室にあった次亜塩素酸ナトリウムで嗅いだ覚えがある臭気に酷似していた。
「たぶん、塩素ガスが発生したんだと思う」
その蒼馬の予想は的中していた。
ドワーフたちがガラスの脱色に用いていた黒い粉の秘薬の正体とは、天然の二酸化マンガンである。
そもそもガラスが緑色を帯びる原因は、素材である砂に含まれている微量の鉄のせいだ。この鉄による緑色を打ち消すために、古代ローマから現代に至るまで用いられていたのが、この二酸化マンガンなのである。
そして、この二酸化マンガンは一七七四年スウェーデンの化学者シェーレが塩素の発見に用いられたことでも知られている。
奇しくもソロンの行為は、そのシェーレが行った二酸化マンガンと濃塩酸を用いた塩素の生成方法と同じものだったのだ。
「その、『えーそ』とやらのせいで、わしの大事な実験器具がこのような有様になったのか……」
塩素のせいで腐食してしまった鉗子を手にしたソロンは、愕然とした面持ちのまま蒼馬に言う。
「わしは、どうすりゃええんじゃろう……?」
ソロンの言葉の意味がわからず、蒼馬は眉間にシワを寄せて「どうすればって?」とおうむ返しに尋ねた。すると、ソロンはクリスマスのプレゼントをねだる子供のように上目遣いなって蒼馬に言う。
「ほれ。この有様では実験ができんじゃろ。早く元に戻して欲しいなぁ~と。――な?」
蒼馬はソロンから視線を外すと、ゆっくりと室内を見渡した。
投石によって打ち砕かれた窓板。
床に散乱するガラス器具の破片。
塩素ガスによって腐食してしまった器具等。
蒼馬はソロンへ振り返ると、にっこりと微笑んで見せた。
「ソロンさん。がんばってくださいね」
ソロンは目をしばたたかせる。
「いや。わしは早く元に戻して欲しいなぁ~と――」
「ソロンさん。がんばってくださいね」
ソロンの言葉の尻を食いつぶすかのように、先程と同じ言葉を口にする蒼馬。
「……小僧。まさか、怒ってる……?」
恐る恐る尋ねるソロンに、蒼馬は「あははは」と笑って見せた。
「ただでさえ、こっちは忙しいというのに、そこへ問題ばかり起こす人に怒っていないわけないでしょ?」
蒼馬の笑顔を前に、ソロンの額にたらりと汗がひとつ流れた。
◆◇◆◇◆
「とほほほ……」
そう洩らしながら、ソロンは手にしたヘラで壁の漆喰を剥がしていた。
実験室の壁は、つい最近塗ったばかりの真新しい漆喰である。しかし、それも今や塩素臭を放ち、いくら拭いても拭いても臭いが取れなかった。そのため、改めて塗り直す必要があり、こうしてソロンはヘラを使って壁から漆喰を剥がしていたのだ。
「ほら、お義父さま。私も手伝いますから、早く終わらせてしまいましょ」
ぼやくソロンに声をかけたのは、箒を片手に床に散乱したガラス片を掃き集めていたミシェナである。義父のソロンが困っていると知り、わざわざ手伝いにきていたのだ。
ソロンも養女のミシェナが財務長官として多忙なのは知っている。それを押してまで手伝いに来てくれているとなれば、いくらへそ曲がりのソロンとて頑張らなければならない。
「わかっとるわい! がんばりゃええんじゃろ!」
やけになったソロンは乱暴な手つきで漆喰を剥がしていった。
塗り立てだった漆喰はまだ柔らかい。そのため、それを剥がすヘラにべったりと張りついてしまう。その漆喰を取り除くために水を入れたバケツでヘラを洗っていると、ソロンは強い塩素臭を感じた。
「はて、なんじゃろ……?」
ソロンは鼻をヒクヒクと鳴らしながら臭いの元をたどる。
すると、たどり着いたのは目の前のバケツである。先程から漆喰を剥がすヘラをすすぐのに使っていたバケツの水が、やけに強い塩素臭を放っていたのだ。
しかし、このバケツの水は外の井戸から汲んできたものである。それがこのように臭うはずがない。となると、この臭いの原因は洗い落としている漆喰となる。
ソロンはヘラについた漆喰をしげしげと見つめた。
これは、ただ臭いがついてしまっただけではないのか?
ソロンの中に、ムクムクと好奇心が湧き上がってくる。
そうなった錬金術をたしなむ者の悪い癖だ。
漆喰の一部をつまむと、それをぺろりと舐めてしまった。
「……!!!!」
ソロンの口から声にならない悲鳴が飛び出した。
◆◇◆◇◆
「……今度はいったい何なんですか?」
ミシェナからソロンが死にかけていると言われ、慌てて化学実験室に舞い戻った蒼馬は唖然とした面持ちで呟いた。
せっかくソロンをやり込め、日頃のストレスを多少なりとも発散できて気分良く政務を片付けていたところである。これでまた下らないことだったら、もう容赦はしないぞという決意でやってきた蒼馬だが、実験室の外の風通しの良い場所でソロンがぐったりと仰向けに横たわる姿に、そんな決意などどこかへ吹き飛んでしまった。
何しろソロンの顔色ときたら蒼白を通り越して土気色である。その呼吸も、まさに息も絶え絶えという有様だった。
ミシェナが言うには先程まで激しく嘔吐を繰り返し、鎮静効果があると言われる香草を嗅がせて、ようやく落ち着いてきたところだという。
このソロンの有様には、「縛り上げて平原に放置して生きたまま狼の餌にしてやる!」と縄を引っ掴んでついてきたシェムルですら、驚きに目をパチクリとさせていた。
蒼馬の問いかけに、ソロンは喘ぎながら答える。
「わしにもわからん。漆喰を舐めたとたん、あの塩素とかいう臭いが口いっぱいに広がってな……」
自分の言葉にそのときの記憶が甦ったのか、ソロンは思わずえずいてしまう。その背中を優しくさするミシェナを横目に、蒼馬は壁から削り取られた漆喰の山を見やった。
近づいて鼻を寄せれば、確かに塩素のような臭いがする。
さらに、その隣におかれたバケツからは、それよりも強い塩素臭がする水と、その底に残る白い粉の塊が見えた。
それは蒼馬の脳裏に懐かしい光景を思い浮かばせる。
「夏のプール……」
それは現代日本で自宅の近くにあった市営の施設や学校の授業で使っていたプールの光景であった。水に入れておけば徐々に溶けて消毒効果があるという、あの白くて丸い錠剤。あれが少し溶けて崩れた姿を思い起こさせるものだった。
ソロンの背中をさすりながらミシェナが言う。
「ソーマ様。その奥の壺からも、ひどい臭いがしますよ」
ミシェナの言葉に蒼馬はその壺に飛びついた。
確かに、言われたとおり強い塩素臭がする。しかも、壺の中の液体をガラスの容器に少量すくって陽に透かしてみると、わずかに黄色を帯びていた。
「この壺の液って、何ですか?」
液体を凝視しながら蒼馬が尋ねると、ソロンが弱り切った声で答える。
「ああ。そいつは苛性ソーダの溶液を入れとった壺じゃよ」
ソロンの言葉に、蒼馬の脳裏で火花が散った。
部屋に充満していた塩素ガス。そして、壺に入っていた苛性ソーダの溶液――すなわち水酸化ナトリウム水溶液。
このふたつを合体させたような名前の化学薬品を蒼馬はひとつ知っていた。
「まさか、これって――」
蒼馬は茫然自失としたまま口にする。
「これって次亜塩素酸ナトリウム……?」
それから勢いよく振り返って、漆喰の山を見る。
「で、あれは本当にプールの消毒薬?」
蒼馬の推測は的中していた。
黄色い液体の正体は水酸化ナトリウムと塩素が反応して生成する次亜塩素酸ナトリウムであり、漆喰は主成分である消石灰が塩素を吸収してできる次亜塩素酸カルシウム――通称さらし粉と呼ばれるプールの消毒によく用いられるものだったのだ。
まさか、そのようなものがこの異世界であるセルデアス大陸でお目にかかれるとは思っても見なかった蒼馬は、しばし茫然としてしまう。
「ソーマ様。なんですか、そのゼアエンなんとかっていうのは?」
そんな蒼馬に声をかけたのはミシェナである。
「次亜塩素酸ナトリウムね」
蒼馬はミシェナの聞き間違えを訂正してから言う。
「殺菌とか消毒とか、あと漂白に使える薬品かな」
「漂白……ですか?」
このとき、ミシェナの蒼馬の言葉への食いつき方は普段のおっとりとした彼女にはめずらしいものであった。ソロンが「義娘よぉ。末期の酒を飲ませてくれぇ~」と哀れに懇願するのを無視し、蒼馬の言葉に食い入るように耳を傾けていたのである。
だが、次亜塩素酸ナトリウムと次亜塩素酸カルシウムが生成していた驚きに気を取られていた蒼馬は、それに気づかず茫然としたまま口を動かす。
「うん。間違って色がついちゃった布なんかを浸しておけば、きれいに真っ白になるんだよ」
蒼馬の言葉に、ミシェナは難しい顔で何かを考えていた。
それから何かを決意したように顔になると蒼馬へ言う。
「ソーマ様。それを少しいただいてもよろしいでしょうか?」
ソロンがさらし粉を口にする描写は想像によるものです。
実際は違うよ~という知識をお持ちの方がいれば教えてください。
二酸化マンガンは舐められても、さすがにさらし粉や次亜塩素酸ナトリウムを直接舐める勇気はなかった。何となく自分に負けたような気がするorz




