第97話 カリレヤ会戦5-最期の光景
横倒しになった戦車の下で、ダリウスは目を覚ました。
胸の上には横転した戦車の手すりが乗っかり、胸甲が砕けている。目を横に転じれば、そこには戦車を曳いていた馬たちが何本もの投槍を受けて息絶えていた。
どうやら戦車が横転した際に気を失っていたようだ。
自分の置かれた状況を理解したダリウスは、まず腕立て伏せの要領で自身に乗っかる戦車を押しのけ、わずかにできた隙間から身体を引き抜いた。そして、今にも力が抜けて砕けそうになる自分の膝を叱咤し、何とか立ち上がる。
すると、咽喉を迫り上がるような咳が出た。
しばらくダリウスは、口に手を当てて咳き込んだ。
ようやく咳が止まったダリウスは、口に当てた手のひらに鮮やかな血が散っているのに気づく。
これは肺腑を傷つけたな。
この時代、内臓を傷つけてしまえば治療法などない。もはやこれまでかと、ダリウスは覚悟する。
それは自分の命だけではない。
ホルメア国の命運もまた、これで決しただろう。
せめて、ワリナ王女とポンピウスに熟慮の上で決断するだけの時を稼いでやりたかった。だが、それもままならなかったか、とダリウスは自嘲を浮かべる。
ぐらりと身体がよろめいた。
もはや立っているだけでも苦しい。しかし、それでもダリウスは横転した戦車に背中を預けて、何とか立ち続けた。
そうして肩を上下に動かして荒い息をつくダリウスが思うのは、なぜ自分の最後の突撃が阻止されたかである。
壊走するホルメア国軍と、それを追おうと殺到するロマニア国軍。
その混乱した戦場の中で、旗を捨てて突撃した自分をどうやって見定めたのか?
たまたま真正面にいたのならばともかく、側面からではこの混乱する戦場で敵味方の兵たちが遮蔽物となり、旗を捨てた部隊の動きなど見えるはずがない。
それなのにあの騎馬隊は、まるで最初から最後まで自分の動きを見極めていたかのような最高の機に襲いかかってきたのだ。
そんな疑問を頭に浮かべていたダリウスは、しだいに呼吸までも辛くなり、空気を求めて水面に口を出す魚のように、空を見上げて口を開きかけ――そして目を見張った。
「なるほど、そういうことか……」
これは見破られるわけだ、とダリウスは思う。
「あやつの同類が、ロマニア国にもおったのか」
自分らができなかったことを、自分らが思いもしなかったことを平然とやってのける者たちの登場。それは次の世代の台頭であり、新たな時代の到来を感じさせるものだった。
過ぎ去ろうとする古き時代の象徴たる自分が、新しき時代の波に打ち砕かれるのは必定。
わしは負けるべくして負けたのだ。
ダリウスは、ほろ苦く笑う。
そこで、ダリウスは奇妙なことに気づいた。
今なお、いたるところから剣戟を打ち合わせる激しい音が聞こえ、怒声や断末魔の悲鳴が飛び交っている。それなのに自分の周囲だけはなぜか静かだった。
自分の首を挙げる絶好の機である。雑兵ばかりか将校までもが血眼になり、群れをなして襲いかかってきてもおかしくはない。それだというのに、いまだに一兵たりとも襲いかかってこないのだ。
どういうわけかと周囲を見回したダリウスは、初めて気づいた。
あの狼に白百合の旗を掲げた騎馬隊が、あたかも首を狙う暴徒と化したロマニア兵からダリウスを守るかのように円陣を作っていたのだ。
その中から騎兵のひとりが前に出ると、ダリウスに誰何の声をかける。
「貴殿をダリウス閣下とお見受けするが、如何に?!」
気を失っている間に、いくらでもこの首を掻き切れたただろうに、どうやらこの相手は自分が自力で立ち上がるまで待っていてくれたらしい。
義と誇りを知る相手に恥ずかしい姿は見せられまい、とダリウスはなけなしの力を振り絞り、もたれかかっていた戦車より離れて立った。
「左様! わしがダリウスよ!」
そう答えながら、ダリウスは剣を抜いた。
もはや逃げられまい。
それならば最期の最期まであがき、戦い抜いて、ひとりでも多く道連れにしてくれん、とダリウスは覚悟を決めていた。
ところが、騎兵たちは襲いかかってこようとはしない。代わりに囲んでいた騎馬の一角が割れ、そこから一騎だけがダリウスの前へと進み出た。
その騎士が兜を取ると、ぶわっと波打つ黄金の髪が広がる。
ダリウスは驚いた。
「女子、か……?」
戸惑うダリウスの呟きに、馬上から凜とした声の名乗りが上げられる。
「私は、ピアータ! ピアータ・デア・ロマニアニス!」
ピアータの噂は、ダリウスも聞き及んでいた。
「ロマニアのじゃじゃ馬姫か……」
大国の姫にはあるまじき振る舞いで、父王ドルデアですら手を焼くお転婆娘。しかも、何を血迷ったのか最近では将軍のまねごとをしているという。
まさか、そのような小娘に後れを取るとは、わしも衰えたものよ、とダリウスは自嘲の笑みを浮かべる。
「ロマニアの姫よ! 初陣の手柄に、この老いぼれの首を所望するか?」
ダリウスは小娘ごときに、この首はやれんぞという矜持をもって叫ぶ。
「さにあらず!」
しかし、それに対するピアータの答えはダリウスが予想すらし得なかったものだった。
「閣下より餞別を拝領いたしたく参りました!」
「餞別……とな?」
いったい何を言い出すのかと困惑するダリウスは、おうむ返しに尋ねることしか出来なかった。
そんなダリウスの前でピアータは馬から降りると、何と泥も厭わずにいきなりその場で片膝をついたばかりか、ダリウスへ向けて頭を垂れたのである。
驚きに目を見張るダリウスの前で、ピアータはとうとうと語り始めた。
「このピアータ。幼年の頃より、多くの兵法書や軍略書を学んでまいりました。その中でもっとも感銘を受け、また多くを学ばせていただいたのは他でもありません。閣下が記された『ダリウスの指南書』なのです」
そして、ピアータは顔を上げる。
「こうしてご尊顔を拝するは初めてなれど、このピアータは間違いなく、閣下の弟子にございます!」
ダリウスを見上げるピアータの顔は、直視するのがまぶしいほど憧憬と歓喜で輝いていた。
「そして、弟子が巣立とうとするとき、師はその弟子に餞別を下すのが世の習い。弟子から求めるのは厚かましいとは重々承知なれど、こうしてまかり越したしだいであります」
「……何を餞別として求める?」
思いもしなかった展開に、ダリウスは半ば呆然としながら尋ねた。
それにピアータは輝くような笑みを浮かべていた顔を一変させると、鋭い刃物のような険しい顔つきになる。
「破壊の御子の倒し方!」
ギョッと目を見開くダリウスに、ピアータは鬼気迫る口調で言った。
「あやつは異常です! 異常すぎます! このまま放置すれば、あやつは必ずや我がロマニア国にすら災いをもたらしましょう! 何としてでも、あやつを打ち倒さねばなりません! 倒さねばならない奴なのです!」
当初はピアータも、ボルニスの街近郊でのダリウスの敗北を偶然と思っていた。しかし、一連の戦いの経緯を知り、またその後の驚異的とも言うべき街の発展を知るに至って、ピアータもまた破壊の御子の異常さに気づいたのである。
このままではロマニア国すらも滅ぼされてしまう、と。
そんな切実なピアータの言葉に、ダリウスの胸に熱いものがこみ上げてくる。
ボルニスの地で敗れて以来、必死に破壊の御子の危険性を訴え続けてきた。
ところが、ホルメア国の誰もが耳を貸してはくれなかった。そればかりか「晩節を汚しますぞ」としたり顔で忠告する者もいた。元大将軍も、ついに血迷われたかと嘲笑を浮かべる者までいた。
愛する祖国ホルメアを守らんとする決意と覚悟の上とはいえ、それは耐えがたい苦痛と恥辱の日々であった。
しかし、まさかこの期に及んで自分の理解者が現れるとは――しかもそれが仇敵ロマニア国の姫だったとは、さすがのダリウスも想像すらし得なかったことである。
破壊の御子の恐ろしさにいち早く気づき、それを他者に理解されずとも祖国のために奴を討たんと決意する。
確かに、わしの弟子よ。
ダリウスは自分のうちから突き上げてくる想いに胸を打たれた。
もはや、あきらめていた。
しかし、自分の意志を継ごうとする弟子の出現に、ダリウスはあきらめていた最後の我が儘を受け継がせてみたくなった。
「ピアータ姫殿下。そなたの噂は聞き及んでおる。また、その軍を見れば、そなたはまさに時代の先駆者であろう。されど――」
ダリウスは、カッと目を見開く。
「――破壊の御子を恐れよ。あやつこそ、時代の破壊者。我らが一歩前に進む間に、奴は何歩も跳躍し、我らが馬で駆ければ奴は翼で空を飛ぶ。そのような奴を打ち倒さんとするのは、至難の業ですぞ!」
もちろん承知していると言うかのように、ピアータは大きくうなずいて見せた。
「その破壊の御子を打ち倒す可能性があるとすれば、ただひとつ!」
ぐっと身を乗り出すピアータに、ダリウスは言葉を叩きつける。
「破壊の御子を学ばれよ! 奴が何をしたか? 奴は何を産むのか? そして、そのすべてを我が物となさいませ。さすれば時代の先駆者たる姫殿下ならば、ほんの一刻でも奴の一歩前に出る機会がございましょうぞ!」
「御教授、感謝いたします!」
深く頭を下げるピアータをダリウスは優しい目で見下ろした。
「我が領地のピレーという村のブラウタスという者を訪ね、『屋敷の厄介者からの預かりもの』を受け取りに来たと伝えよ。姫殿下が破壊の御子を討つための一助になろう」
「承知いたしました!」
そう言うとピアータは、ダリウスを貴賓として迎えるように命じた。それを受けてデメトリアと数人の騎士がダリウスの身柄を預かるために馬を下りたが、その彼らの前でダリウスは自らの咽喉に剣の刃を当てる。
「わしの最後の弟子に、もうひとつ餞別を渡して進ぜよう。――破壊の御子を討つには、ロマニアの軍内での確固たる地位と発言権がなくてはならぬ。女子の身であるならば、なおさら大きな手柄が必要であろう。ならば、この老いぼれの首が役に立とう」
ピアータはわずかに躊躇する。だが、止めはしなかった。止めれば、それは師の覚悟と思いやりに泥を塗る行為だからだ。だからこそピアータは、ただ深く頭を下げると「感謝いたします」とだけ言った。
そんな最後の愛弟子に、ダリウスは朗らかに笑ってみせる。
そして、ダリウスは剣を握る手に力を込めた。
鋭い痛み。そして、目の前に噴水のように噴き上がる自らの血。
薄れゆく意識の中で、ダリウスは噴き上がる血の向こうに軍団の姿を見た。
「ダリウス将軍。御命令を!」
懐かしい声が耳朶を打つ。その声に振り返れば、そこにいたのは伝令兵の恰好をした純朴そうな顔の青年マリウスである。
「閣下! 皆が待っております。どうかお言葉を!」
続いて声を上げたのは黒い鎧に身を包んだヒュアキスだ。
そればかりではない。眼下に居並ぶ軍団の中には、「黒壁」のガイウス連隊長やボルニス決戦で戦死したカドモスやジュディウスら、さらには平民上がりの中隊長ボーグスの姿まで見える。
ダリウスは鼻の奥にツンッとした刺激が起こり、目頭が熱くなった。それをぐっとこらえてダリウスは軍団に向けて声を張り上げる。
「良いかっ! これより我らが迎え撃たんとするのは、我が生涯最強の宿敵ぞ! その宿敵に恥じぬ軍勢、陣容を整えよ!」
右腕を高々と挙げるダリウスに向けて、軍団はいっせいに歓呼の声を上げた。
この幻が、ダリウスが見た最期の光景である。
◆◇◆◇◆
「何と穏やかな顔をしていらっしゃる……」
大地に横たわるダリウスの遺体の脇に膝を突き、ピアータはそう言った。
ピアータの言うとおり、まるで眠っているかのように穏やかな顔のままダリウスは息絶えていたのである。
いつまでも飽くことなくダリウスの死に顔を見つめるピアータに、デメトリアは儀礼用の清められた小剣を差し出した。
それを受け取ったピアータは、その刃をダリウスの咽喉に押し当てると、覆い被さるようにして体重をかけて、ダリウスの首を切り落とした。
そして、その首をピアータは高々と掲げる。
「このピアータ・デア・ロマニアニスが、ロマニアの怨敵ダリウスを討ち取ったり!」
それを見守っていた百華隊の勇士たちから歓声が沸き起こる。
それに続いて、戦場のはるか先でも同様の歓声が沸き上がった。
しばらくすると、それはダライオスがワリウス王の首を取ったことへの歓声だとわかる。
「さすが、大将軍閣下。大手柄だな」
敵王の首級を挙げる功績へ賛辞を述べるピアータに、デメトリアが言う。
「お言葉を返すようですが、姫殿下がおっしゃられても嫌みにしかなりません」
「どういうことだ?」
不思議そうな顔で尋ねるピアータに、しかつめらしい顔をしたデメトリアが答える。
「愚王と最高の将軍。おふたりが挙げたこのふたつ首級のどちらを重いと見るかは、姫殿下が一番ご承知でございませんか?」
「違いない」
ピアータとデメトリアのふたりは、しばし笑い合った。
かくしてロマニア国とホルメア国の一大決戦「カリレヤ会戦」は、ロマニア国の圧勝で幕を閉じたのである。
◆◇◆◇◆
ダリウス・ブルトゥス。
古代セルデアス大陸西域にあったホルメア国の末期に活躍した将軍である。
わずかに残された当時の文献には、「ホルメア国最高の将軍」や「ホルメアの守護神」と讃えられており、優れた将軍であったことを窺わせる。
しかし、後世においては「倒せたはずの破壊の御子を倒せなかった無能者」や「政治をおろそかにして失脚した愚者」などと痛烈に批判する者が多い。
確かに歴史をひもとけば、いまだ兵を起こしたばかりで陣容も整え切れていなかった破壊の御子ソーマ・キサキを打ち倒せる好機に恵まれながらも、それを討ち洩らしたばかりか、これが起因となってホルメア国内の政争によって失脚するという失態を演じている。
そのため、ダリウスを批判する意見があるのも当然である。
だが、それは未来という高みから、過去となったその時代を俯瞰できるからこそ言えることだ。
その時代を生きるダリウスが知り得る情報はあまりに少なく、そして考えるのを許された時間もまた短い。
その中でダリウスは、予想できない未来に向かい、大きな不安を抱えながらも己の信念と覚悟をもってその都度都度に決断を下さなければならなかったのである。
確かに、その結果は彼が望む最良のものではなかっただろう。
だが、その彼の鮮烈な生き様は、当時の多くの者たちに影響を与えたのは間違いない。
その後に古代セルデアス大陸西域の戦乱の中心ともなるふたりは、ダリウスについてこう語っている。
「生涯忘れ得ぬ強敵」――破壊の御子ソーマ・キサキ。
「我が永遠の師」――騎姫ピアータ・デア・ロマニアニス。
ふたりが仰ぎ見たホルメア国の巨星は、ついに堕ちた。
大陸の西域は、新たに台頭してきたこのふたりの英雄によって紡がれていくのである。




