第95話 カリレヤ会戦3-敗走
「鼓手! 太鼓を叩け!」
ダリウスは、まず大太鼓の鼓手に命じた。
「は、はい! 拍子は?!」
「伝達ではない! ただひたすら太鼓を大きく連打せよっ!」
ダリウスの指示に、大太鼓の鼓手は戦場全体に届けとばかりに渾身の力を込めて大太鼓を連打する。どどどどどっ! と大気を震わせるような大太鼓の音が戦場に轟いた。
それに、いったい何事かと振り返ったホルメア国の将兵らは、まず目を疑った。本陣が襲撃されたのに、早くも逃走しようとしていた兵士たちまでもが足を止め、何度も目をしばたたかせて自分の目に見えているものが見間違いでも幻でもないのを確認する。
そして、それが現実のものだと理解した瞬間、彼らは歓喜の声を上げた。
「「うおおおおおおーっ!!」」
顔を紅潮させて咽喉よ裂けよとばかりに声を張り上げる兵士たちが見つめるのは、ホルメア国本陣を示す王国旗の隣に翻る黒地に金の獅子の旗。
それはホルメア国最高の将軍と呼ばれたダリウス将軍の旗である。
そして、その旗はロマニア国側にも衝撃をもたらした。
「今さら出てきおったかっ!」
ドルデア王は警戒もあらわに言う。
「全将兵に伝令。これからの敵は、先程までとは違うとな」
ダライオス大将軍は全軍に伝令兵を走らせる。
「おお! ダリウス閣下がついに」
そして、ピアータは興奮をあらわにする。
そうして戦場中の注目を集める旗が立つ戦車の上で、まずダリウスはぐるりと戦場を睥睨した。
「プレナス伯爵へ後退せよと伝えよ。ピルグリッド男爵とシャーマル男爵へ伝令。後退するプレナス伯爵の部隊に釣られて出て来た敵を左右から挟み込め」
ダリウスは、矢継ぎ早に指示を出し始めた。
そのとたん、ロマニア軍の多くの将校らが驚愕する。
それまでのホルメア国軍は勢いがあったとはいっても、がむしゃらな攻めであった。ところがダリウスが指揮し始めたとたん、その動きが変わったのだ。
敵を崩せたかと思いきや、横から新手の敵が現れて妨害される。押せたと思えば、左右から挟み込まれる。そして、こちらがたまらず退けば、それに合わせたように前に出てくる。そのくせこちらが誘い込もうとしても、決して乗ってこない。
この状況を打破せんと、再びダライオスは自分の親衛隊を率いてホルメア国軍へ攻め込んだ。またもや猛威を振るうダライオスを前に、ホルメア国軍はほとんど抵抗することなく退いていく。
しかし、敵を後退に追いやっておきながらダライオスは、はるか遠くにいるダリウスへ吠える。
「相変わらず、嫌らしい手だな、ダリウスよ!」
敵を蹴散らしているかのように見えるダライオスだったが、実際にはホルメア国の兵たちは守りに徹し、こちらが攻めればそれだけ退いてしまい、討ち取れた兵は少なかった。
その光景を遠くから見つめるダリウスは、ひとりごちる。
「ダライオスは類い希なる矛の矛先よ。これを盾で受け止めんとするのは愚の骨頂。綿のごとく矛先を柔らかに受け止め、そうしておいて柄をへし折るのが上策」
ダリウスの言葉を待っていたかのように、ホルメア国軍に深く突き刺さったダライオスの部隊の後続を断つべく、左右からホルメア国の兵が押し寄せた。これで後続を断てば、ダライオスはホルメア国軍の中で孤立する。そうなればいかに戦神とはいえ、無事ではすまない。
このダリウスの指揮に、周囲の将校からも感嘆の声が上がる。
これがホルメア最高の将軍と呼ばれたダリウスの戦いだった。
ダライオスが前線に立って味方を鼓舞する武勇の大将軍であるとすれば、ダリウスは後方からの的確な指示で味方を動かす指揮の大将軍である。
戦場にいながらにして戦場全体を俯瞰するかのような視点を持ち、戦いの流れを見極めるのは無論のこと、自ら兵を動かしてその流れを作り出す力を持つ。
そして、それを可能とするのは、ダリウスの高い指揮力と、これまで積み重ねた経験と実績、そして何よりもホルメア国の兵たちの篤い信頼があればこそだ。
しかし、そのダリウスが顔をしかめた。
へし折るはずのダライオスが率いる後続の部隊が折れない。
青い鎧の親衛隊を引き連れて、斧槍を振り回してホルメア兵を蹴散らすダライオスが叫んだ。
「貴様ご自慢の『黒壁』に大穴を空けるために用意した我が『蒼騎隊』。『黒壁』相手ならばいざしらず、そこいらの兵でへし折れると思うなよ、ダリウス!」
ダライオスの親衛隊「蒼騎隊」は、ホルメア国の「黒壁」を手本とし、ロマニア国軍の中から選びに選び抜いた精鋭を自らの手で徹底的に絞り上げたロマニア国の最精鋭部隊である。
だが、その求められる役割は「黒壁」とは違う。
ダリウスの「黒壁」がぶつかった相手を粉砕する最強の盾とするならば、「蒼騎隊」はダライオスを矛先とした最強の矛である。矛先となったダライオスが敵戦列に空けた穴を堅持し、さらに拡張していく矛の柄となるために鍛え上げられたのが「蒼騎隊」だ。
そして、「蒼騎隊」はダライオスの期待に応えるべく、左右から押し寄せてくるホルメア兵の圧力を撥ね除け、さらにそれを押し返していく。
その光景に、ダリウスは自分の唇を噛んだ。
今は自分が指揮を執り始めたのに、ホルメア国の兵は勇気づけられ、奮戦している。それによって敵へ一気に流れかけた戦いの趨勢を何とか取り戻したが、やはりロマニア国との兵数の差は否めない。
兵士たちの奮戦も、劇薬によって無理やりなけなしの体力を振り絞っているようなものである。何かをきっかけに崩れれば、今度こそ本当に立ち上がれなくなってしまうだろう。
そして、ダライオスの無謀とも呼べるあの突撃は、そのきっかけを作らんとしているのだ。
一刻も早く、ダライオスを倒すか、せめて止めなければならない。
だが――。
ダリウスは、ぎゅっと拳を握る。
「兜持ちがおらん……」
その呟きをそばに控えていた伝令兵が耳で拾う。
「兜でしたならば、私がお持ちいたしましょうか?」
そう尋ねる伝令兵にダリウスは素っ気なく答える。
「戯れ言だ。気にするな」
ダリウスはつい洩らしてしまった自分の弱音に自嘲の笑みを浮かべたが、すぐにそれを振り払うかのように鋭く息を吐いてから再び戦場を凝視する。
あえて引き込んだとはいえ、ダライオスはこちらの戦列中央を突破せんという勢いだ。罠を力技で食い破ろうとするあのダライオスの進撃を食い止められる部隊は、もはやこのホルメアにはいないだろう。
もっと早い段階で自分が全軍の指揮を執っていれば、と思わないこともない。しかし、それを承知した上で参戦したのではないかと、自分の未練がましさに苦笑する。
ダリウスは自分が乗る戦車に立てられた旗を見上げた。
初陣の時より使い続けてきた旗は、近くで見れば黒地の部分はずいぶんと色あせ、獅子の横顔を描く金糸はいたるところでほつれが見られる。
この旗を打ち立てて以来、いったいどれほど多くの兵たちがこの旗の下でその命を燃やしたことだろうか。
一瞬、これまで戦い抜いた数々の戦場の光景がダリウスの胸を去来する。それに胸を突かれたように、ダリウスは左手で自分の胸を押さえながら、右手で旗の柄をがっしりと握った。
そして、自分の直率の兵たちに向けて声を張り上げる。
「おまえたちには死んでもらう!」
一様に目を見開く兵たちを前に、ダリウスは言葉を続ける。
「わしはロマニアの将兵を殺しすぎた。必ずやロマニア軍は、この旗を打ち倒さんと殺到するであろう。ならば、おまえたちはこの旗を死守し、時を稼ぐのだ! だが、強制はせぬ! 逃げたい者は逃げよ! 逃げたとて咎めはせぬ。咎めようにも、そのときにはわしはおらんのでな!」
冗談めかしてダリウスが言うと、兵はそろって底抜けに明るい笑い声を上げた。
しかし、誰ひとりとしてその場から逃げようという者はいない。
それにダリウスは、小さく笑う。
あらゆる運にも神々にも見放されたと思っていた自分だが、どうやら兵にだけは恵まれていたようだ。
それからダリウスは驚いた顔で自分を見つめる将校たちを見据えると、こう言った。
「国王親衛隊は、陛下を守って王都へ帰還せよ! そして、全軍に撤退の合図を送れ!」
◆◇◆◇◆
ホルメア王国旗を掲げる本陣が後方へ動き始めるのと同時に、戦場に響き渡った大太鼓の音に、ホルメア国の兵たちの口からいっせいに嘆息が洩れた。
その大太鼓の拍子は、撤退の合図である。
それを耳にしたとたん、ホルメア国の兵たちからはそれまで何とかみなぎらせていた戦意が急速にしぼんでしまった。
「撤退だ! 撤退しろ!」
ホルメア国軍のいたるところから、部隊を指揮する将校らが悲鳴にも似た声を上げる。それとともに兵の戦列が一気に崩れ始めた。
「崩れおった!」
それをロマニア国軍本陣から見ていたドルデア王は、歓喜の声を上げる。
「ホルメアが崩れたぞ! すべての兵力を投入し、撤退するホルメア国めを叩くのだ!」
ドルデア王の命により、予備兵力を含めたロマニア国全軍に総攻撃を命じる大太鼓の拍子が叩かれ始めた。その大太鼓の音が届くとともに、ロマニア国全軍は歓喜と興奮の雄叫びを上げて敗走を始めたホルメア国軍に襲いかかる。
それは、戦場の片隅で再突撃の頃合いを見計らっていたピアータと百華隊のところからも見えた。
「これで勝敗は決したか……」
そうピアータが洩らしたように、それまで何とか必死に奮戦していたホルメア国軍が崩れたところへ加えられたこの総攻撃は、死刑台に投げ出された咎人の首に振り下ろされる斧のように、ホルメア国軍の命運を断つ一撃となったのである。
もはや戦場は、狂騒の場と化していた。
剣や槍を投げ捨てて逃げようとするホルメア兵。そして、それを戦列を崩してまで追撃しようとするロマニア兵。
敵味方が入り乱れ、いったいどこに誰がいるかもわからぬ状態であった。
しかし、そうした狂騒の場のただ中にあってなお、ホルメア国軍の殿軍となろうとしているのか、唯一その場から動かない部隊があった。その部隊の中央に突き立つ黒地に金獅子の旗を眺めながら、ピアータは呟く。
「あの方でも、この兵力差は覆せぬか」
拍子抜けしたような顔をするピアータだったが、しかしそれは早計であった。
ダリウスの旗を見つめるピアータに、デメトリアの声がかけられる。
「ピアータ様! ララからの急報です!」
「何だと?!」
急いで馬首を返したピアータは、デメトリアのところへ馬を寄せる。
ピアータが行くと、デメトリアの前では愛らしい顔の少女が空をジッと見上げていた。
頭の先からすっぽりと大きな布で覆い隠したその少女は、いったいどのようにして座っているのか、まるで膝を抱えて腰を浮かした体育座りのような格好で、騎士が操る馬の後ろに乗っていた。
「ララは、何と言っている?!」
ピアータの問いに答えるように、その少女はポツポツといくつかの言葉を洩らした。
それにピアータとデメトリアは、一瞬顔を見合わせる。
「殿下、これは……!」
デメトリアの言葉に、ピアータはうなずく。
「ああ。さすがは、あの方だ。――我に続け、百華隊!」
そう叫びながらピアータは馬を走らせた。
前回予告ではサブタイトルは「賭け」だったけど、「敗走」に変更した。
言わなければバレないだろう・・・




