第82話 将棋
「おい、何だあれは?」
街壁の上から、反乱奴隷軍の陣がある方を見張っていた兵士が、そう声を上げた。その声につられて、そばにいた同僚がそちらを眺めると、街に向かって歩いてくる小さな集団を見つけた。
その数はおよそ五、六人。たったそれだけでは街を攻撃しに来たとは思えない。しかし、いずれにしろ敵が何らかの行動を起こしたのだ。すぐに、そのことは街の守備兵の隊長と、街に逃げ込んだ元討伐軍の兵を取りまとめているアドミウス連隊長のところへ伝えられた。
押っ取り刀で守備兵の隊長とアドミウスが防壁の上にやってきたときには、すでにその集団は顔がわかるほど近くまできていた。
やってきたのはロバに乗る白い髭の老人と、荷物を担いだ四人の男たちである。
「そこの者、止まれ! 止まらねば、矢を射るぞ!」
街の守備兵の隊長は、そう警告した。弓につがえられた矢を向けられた先頭の老人――ソロンは、杖をぶんぶんと振って言い返す。
「使者じゃ、使者じゃ! 矢を向ける暇があるなら、歓待の用意をせんかい!」
その厚かましい物言いに、兵たちが唖然としている間に、ソロンは街門までたどり着いた。しかし、門が開いていないとわかると、ソロンはその杖で門をガンガンと叩き始める。
「こりゃ! 老人を待たせるとは、今時の若い奴らはなっとらん! 老人をうやまえ! 早く開けろ! か弱い老人を待たせて、ぽっくりと逝ったらどうするつもりじゃ!」
もう言いたい放題である。ぽっくりと逝くどころか、まだ十年ぐらいは寿命がきそうもなさそうだ。
だが、使者というからには待たせておく訳にはいかない。積まれた土嚢などを退かし、わずかに人ひとりが通れるぐらいの隙間を空けてソロンたちを迎え入れた。
老人とはいえ、つい先日多くの戦友たちを殺した敵からの使者である。
砦の中でソロンたちを出迎えたホルメア国の兵士は、何かことあらば手にした武器で殴り殺さんばかりの形相であった。
しかし、そんな殺気立った兵士たちが居並ぶ中をソロンは微塵の恐れも見せずに「お出迎え、ご苦労」と飄々とした態度で通る。
「では、ご領主殿のところへ案内してもらおうかい」
多少はしおらしくしていれば可愛げがあるものをこうまで開き直られると、怒りを通り越してもはや呆れ返るしかない。
街壁から離れられない守備兵の隊長に代わり、アドミウスが領主のところまで案内することになった。
仏頂面で「ついてこい」というアドミウスに、ソロンは自分の後をついて来た従者を杖で指し示す。
「領主殿のところへ行くのは、わしと荷物持ちのこやつだけ。残りの三人は、先日わしらに投降した兵のうち、ここに家族がおる者たちじゃ」
それに、周囲にいた兵士たちは気まずい顔になる。実際にアレクシウスの命で矢を射かけた者などは、露骨に顔をそらした。
「その者たちには、他の捕虜となった者たちのものを含めて安否を知らせる手紙を持たせてあるでな。それぞれの家族へ渡してやってくれ」
それでは、とうてい断れるものではない。
しかし、アドミウスは近くにいた兵を捕まえて耳打ちする。
「あいつらを隔離しておけ。決して街の住人らと接触させるな。それと、手紙はすべて内容を確認せよ。少しでも殿下や我らに批判的な文言があれば――」
そこでアドミウスは一拍の間を置いてから、断固とした口調で言った。
「――かまわん。焼き捨てさせろ」
◆◇◆◇◆
ルオマの街の領主は、ミュトス・ボロンという壮年の男である。
ボロン伯爵家は代々ルオマの街の領主を務めてきた由緒ある家だ。この公街道の要所であり、ホルメア国西部の要ともなるルオマの街を任されるだけあって、国王からの信任も篤い。
また、現当主のミュトスは若き日には、先王の右腕と讃えられた大宰相ポンピウスに直接に師事し、歴代でもまれに見る名領主として名高かった。
また、気骨の士とも知られている。
ボルニスの街が蒼馬に落とされたと聞くや否や、すぐさま街の守備兵を増員し、ガラフ砦や渡し場の駐屯地へ支援をするなど、街の守りを固めた。それに知人から「ダリウス将軍の懸念を肯定するような動きは、国王の不興を買いますぞ」と忠告されたが、「私に取って街の安寧こそ大事である」と撥ね退けたとされている。
そんな気に入らなければ国王に対しても臆せずものを言うミュトスである。このような無礼な老人を会わせたら交渉どころではないだろうな、と思いつつアドミウスはソロンを謁見の間まで案内した。
すると、すでに走らせた先触れ者の報せによって、ミュトスは謁見の間に用意した卓についてソロンを待っていた。
「ミュトス殿。使者がまいりました」
さて、どうなることかと思いつつソロンを紹介したアドミウスだったが、その目がギョッと見開かれる。
「ミュトス・ボロン伯爵閣下であらせられますな。某は、ボルニスの街の領主ソーマ・キサキ様より使者の役目を仰せつかったソロンと申す者にございます」
先程までの道化じみた老人はどこへいったのか、そこにいたのはどこの賢者かと思わずにはいられない気品に満ちた老人だった。その言葉遣い、そして拝礼の仕草はひとつひとつが堂に入っている。
これには、反乱奴隷軍を野卑な連中の集まりだと思っていたミュトスも面食らう。
さらにソロンが、つらつらと時候の挨拶を述べるに至っては、これは決して野蛮と馬鹿にできる相手ではないぞ、と考えを改めずにはいられなかった。
長い時候の挨拶を終えたソロンが、いよいよ本題に触れる。
「さて。この度、こうして拝謁いたしましたのは、他でもございません。ミュトス殿に、降伏を勧めに参りました」
そうソロンが切り出したとたん、アドミウスが吠える。
「ふざけるな! 我らが反乱奴隷ごときに屈するものかっ!」
しかし、これは不敬である。
たとえ「黒壁」の連隊長とはいえ、アドミウスはたかが武官にすぎない。それが伯爵位を持つ領主であるミュトスと、曲がりなりにも敵軍の使者との話し合いの場に、何の断りもなく発言するなど許されない行為である。
だが、アドミウスもそれは承知していた。
アドミウスの発言は、ソロンに対してこちらは戦う気でいるのだぞと威嚇するのと同時に、領主であるミュトスに対しても簡単に屈するなど許されないと釘を刺すものである。
しかし、それに対してソロンは笑って応じた。
「ひょっひょっひょっ。威勢だけはよろしいようですな」
「このジジイがっ! 首を斬り落とされたいか?!」
アドミウスは腰に吊した剣の柄に手をかけて恫喝する。
しかし、ソロンはさらに笑う。
「虚仮威しなど、おやめなされ。先日までならばいざ知らず、今やソーマ様の使者であるわしは斬れますまい」
ソロンの言葉に、アドミウスはうっと詰まった。
先日までは反乱奴隷の使者ごときが自分らと対等に口を利こうものなら斬り殺してやれた。
ところが、その反乱奴隷に大敗し、今やこちらが劣勢であるのは火を見るより明らかである。このルオマの街も、いつ攻め落とされたとしても不思議ではない。
使者を斬り殺すとは、それ以降はいかなる対話も拒絶するということだ。
それでは、いざ街が攻め落とされようとしたときにも、降伏すらできなくなってしまう。それで待っているのは、兵士ばかりか街の住民すべての虐殺である。
とうてい領主の前では、ソロンを斬り殺すことなどできはしない。
案の定、ミュトスは片手を上げてアドミウスを制した。
「連隊長殿。そのご老人が言うとおりだ。領民の安全のために、この老人を斬ることは私が許さない。それに、貴君の立場を慮り、この場に居合わせるのを認めたが、発言まで許した覚えはないぞ」
アドミウスは「失礼いたしました」とミュトスへ頭を下げた。それを見届けてから、ミュトスは厳しい目をソロンへ向ける。
「しかし、私はホルメア国王よりルオマの統治を任されている。反乱奴隷に降ることはできん」
ミュトスは、そう断言した。
降伏を勧める反乱奴隷の使者と、それをきっぱりと拒絶した領主。
さあ、ここからが交渉の始まりだとアドミウスは内心で思った。
この交渉の場で互いに気にかけているのは、時間である。
予期せぬ籠城戦の様相を呈してきた現状では、分厚く高い街壁を持つルオマの街といえど万全とは言えない。特に敗残兵数千を迎え入れているため、街に蓄えられた糧食がいつまで保つかわからなかった。
また、自軍を上回る討伐軍を蹴散らした反乱奴隷たちの意気は高い。その勢いのまま彼らが本気で攻め寄せれば、さすがに難攻不落のルオマの街とて危うかった。
それなのに、いまだにしかけてこないのは、反乱奴隷たちも無駄な兵の損耗を嫌っているからだろう。
しかし、反乱奴隷たちとて、いつまでも損耗を嫌っているばかりいられない。時が経てば経つほどルオマの街の守りは固められ、また王都からの救援の軍が来ないとも限らないのだ。
王都からの救援が来る前に、ルオマの街を落としてホルメア国西部を掌握したい反乱奴隷たち。
それとは逆に王都からの救援や何らかの指示が来るまで時間を稼ぎたい街の領主ミュトス。
刃を用いぬ戦いがこれから始まるのかと、アドミウスが固唾を呑んで見守る中で、ソロンが口を開いた。
「まあ、そうでしょうな。ミュトス殿のお立場を考えれば、それも無理はない。――しかし」
ソロンの目が鋭く輝いた。
「――わしとてソーマ様より交渉の全権を任されておる身。何の成果もなく、すぐに帰るわけにはまいりません」
その場の空気に、ピリピリとした緊張感が走る。
しかし、いきなりソロンはいかめしい顔を崩して、ニカッと笑った。
「というわけで、時間つぶしに将棋でも一局指しませぬか?」
しばし、ミュトスとアドミウスのふたりは、呆気に取られた。
まず自分の耳を疑い、次いで目の前の老人の正気を疑う。
「失礼だが、将棋と申されたか?」
ミュトスが半信半疑で尋ねると、ソロンは「もちろん」とうなずいて見せた。
「ミュトス殿は将棋がお好きと聞いておる。そこで、是非とも一局をと思いましてな」
そう言うとソロンは連れてきた従者に命じて将棋の用意をさせる。
それに、ミュトスは激しく困惑していた。
てっきり互いの条件や要求をぶつけ合う交渉になるかと思いきや、いきなり将棋の対局である。時間稼ぎをしたいこちらとしては損はなく、断るいわれはない。
しかし、時間が惜しいはずの反乱奴隷から、まさかこのような提案をされるとは思ってもみなかったのだ。
だが、ソロンが持ってきた将棋の盤と駒を見るなり、その困惑も吹き飛んでしまう。
「ほう。これは見事な……!」
ソロンが持ってきた将棋の盤と駒は、これまでミュトスも見たことがない名品であった。
盤は大陸の中央から入ったという銘木から、エルフの木工職人が削り出したものだ。ずっしりとした重厚感のある木で、その木目も鮮やかである。また、顔を近づければほんのりとかぐわしい独特な木の香りがした。
しかも、素材の木が良いだけではない。盤の側面に施された精緻な細工は、まさに息を呑むばかりである。さらにそこにドワーフ謹製の金銀の飾り金具が彩りを添えていた。
また、駒も見事である。
駒は、白と黒のガラス製だ。たかが、ガラスと思うなかれ。いまだガラスが宝石の代用品とされている時代である。このときのミュトスの驚きは、「この駒はダイヤモンド製です」と聞かされた現代日本人の驚きに匹敵するだろう。
ミュトスは感嘆せずにはいられなかった。
噂では奴隷と野蛮なゾアンたちの集まりと聞いていたが、とんでもない話である。これだけのものはホルメア国ばかりか、西域のどこの国の宝物庫にもないだろう。
ミュトスが治めるルオマの街は距離が近いこともあり、ボルニスの街の急激な発展の噂は聞き知っていた。だが、このようなものを見せつけられては、その噂すら過小評価であったと思わざるを得ない。
しばし将棋の盤と駒に魅入ってしまうミュトスの前で、ソロンは平然と駒を並べていく。あたかも、こんなものたいしたものではないとでも言わんばかりの態度である。
「では、わしから。まずは一手」
ソロンは駒のひとつをずいっと前に進めた。




