第55話 絵狂い
このバルジボアの若き国王がロマニアの征西軍に姿を現したのは、先日ラビアン河の渡し場で大敗した直後のことである。
「大変遅くなって申し訳ない、ドルデア王」
ドルデア王がいる本陣の天幕を訪れたセサル王は、そうぬけぬけと言い放った。
今回の征西にあたりドルデア王は、セサル王にも征西に加わってともにホルメア国を討つべしとの書状を送りつけていた。
しかし、バルジボア国は、ホルメア国とロマニア国に挟まれた小国である。両国の顔色をうかがい、どちらの敵にも味方にもならないことで生き延びてきた国だ。そのような国が書状ひとつで征西に加わるとは端から思っていない。しょせんは、ホルメア平定後に、参軍の呼びかけに応じなかったのを攻め入る口実にしようという考えから出されたものである。
それだけにセサル王がやってきたのに、誰もが驚きを隠せなかった。
それに、ドルデア王は歴史に残る大敗を喫したばかりである。参軍の遅れを叱責されるだけならばまだしも、その八つ当たりで下手をすれば敗戦の責任を押しつけられ、殺されかねない状況なのだ。
実際に、握手を求めて差し出されたセサル王の手を一瞥しただけで、その手を取ろうとはしない。この非礼ともいうべき態度が、ドルデア王の胸中を端的に物語っている。
もっとも、手を取らないのは、それだけが理由ではない。
セサル王は自国民からも「絵狂い」と呼ばれるほど絵画好きで、特に自ら絵を描くのを好むことで知られていた。その腕前は、高名な画家たちがそろって尻込みしてしまいバルジボアの王宮に宮廷画家の成り手がいなくなってしまったと噂されるほどである。
しかし、それと同時に、ある悪癖でも知られていた。それは、その手は常に絵具で汚れ、そのせいでセサル王の自室は天井を除けば彼の指の痕がつけられていない場所はないというものだ。
その噂どおり、今もセサル王の手は様々な絵具でまだらに染まっており、それを握ろうものならばこちらの手まで絵具まみれになってしまうのは明らかである。
セサル王も自覚があるようで、「おっと、これは失礼」と言うと付き人から特製の皮手袋を受け取り、それを手につけた。それからセサル王は、ドルデア王に微笑みかける。
「しかし、さすがはドルデア王。よくぞ耐えられました」
先日の大敗を当てこすられたと思った将校らの間から殺意がにじむ。ドルデア王も平静を装ってはいたが、その口許がピクッと引きつりかけていた。
だが、そんなロマニアの態度に気づいていないのか、セサル王は余裕の笑みを浮かべたまま、指をひとつ鳴らす。すると、従者のひとりがドルデア王の前に進み出て、恭しい態度で一枚の書状を差し出した。
それをドルデア王の侍従が手に取ろうとするのをセサル王は制止する。
「それはドルデア王ご自身の目でご覧になられた方がよろしいでしょう」
王自身に書状を読めとは礼を欠いた発言だが、相手も小国とはいえ同じ王である。こちらの判断をうかがう侍従に「よい」と告げるとドルデア王は、自ら書状を開いて目を通す。
すると、ドルデア王が平静を装いながらも激しく動揺するのに、その場に居合わせたダライオスだけが気づいた。
「いかがですかな? ドルデア王とふたりだけで詳細を詰めたいと思いますが」
ドルデア王が書状を読み終えたのを確認したセサル王がそう言った。いくら仮にも一国の王とはいえ、たかが小国の君主風情が大国ロマニアの国王とふたりっきりで対談したいと言い出したのだ。征西の遅参に加えて、これまでの無礼の数々にも我慢していたロマニア将校らの数人が思わず剣の柄に手をかける。
ところが、ドルデア王は軽く手を挙げて、そうした将校らを制した。
「余は、セサル王とふたりで話し合う。皆は、席を外せ。――侍従もだ」
将校のみならず常に王のそばに控えていなければならない侍従まで遠ざけるとは異例である。さすがに諸将や侍従らは承服しかねた。
「王命である」
ところがドルデア王は、こう強く宣言すると渋る諸将や侍従たちを追い出してセサル王と何らかの密談を行ったのである。
その密談において両者の間で何が話されたかはいまだに明らかになっていない。
しかし、その直後から大敗して以来ずっとドルデア王の顔に浮かんでいた苛立ちは影をひそめ、征西軍を起こしたばかりの頃のような闊達さが戻ったのである。
そして、それとともにドルデア王は、セサル王を「我が友」と公然と呼ぶようになり、下にも置かぬ厚遇をもって接するようになった。そればかりかセサル王もまたロマニア軍の陣営を大きな顔で出歩くようになっていたのである。
そんなセサル王を快く思わないロマニアの将兵は多い。
ダライオスもまた、そのひとりであった。
だが、ダライオスがセサル王を警戒するのは、他の者とは少し理由が違う。
彼がセサル王を嫌うのは、その目にある。
今もセサル王の目に浮かぶ、どんよりと重く濁った輝き。
それは、敵の大軍に包囲された時の一兵卒の目に浮かぶ輝き。それは、不治の死病を宣言された病人の目に満ちる輝き。
絶望と諦念である。
しかし、セサル王は死地に陥った兵卒などではない。健康的とは言い難いが、それでも死病を患っているわけではない。
何があったかは知らないが、おそらくセサル王はこの世界すべてに絶望しているのだ。
そして、絶望しているからこそ期待しない。期待がないからこそ失望しない。失望がないからこそ恐れない。恐れがないからこそ躊躇わない。自分の命すら頓着しないのだから、ロマニア国の軍勢の中をこうして平気な顔で出歩けるのも当然だった。
しかし、そんな思考は、もはや生者のものではない。
それは、死人の思考である。
ところが、その死人が活き活きと動いているのだ。これほど不吉なことはない。死者が活き活きと動き回るなど、生者を呪うときと決まっている。
だからこそ、ダライオスはセサル王に強い嫌悪と不安を感じていたのだ。
そんなダライオスと想いを同じにするのは、ロマニア軍の中ではピアータ姫ただひとりである。彼女もまた「亡者が迷い出ている」と言ってセサル王を避けていたのだった。
ダライオスとしては、今すぐにでもロマニアの陣営から叩き出してやりたいが、そうもいかない。案内すると言う名目でセサル王がおかしな行動を取らないか見張りつつ、ドルデア王の天幕に案内した。
「おお! 我が友セサル王よ」
今日もまたドルデア王は両腕を広げてセサル王を迎え入れた。
そして、そこまで案内したダライオスにドルデア王は労いの言葉をひとつかけてから下がらせると、天幕の中でセサル王とふたりっきりになる。
「して、何か朗報でもあったかな?」
誕生日の贈り物を親にねだる子供のような目をして尋ねるドルデア王に、セサル王はひとつうなずいて見せた。
「ご明察ですな。朗報がふたつばかり。――ひとつ目は、西の反乱奴隷の頭目が進軍。まずは初戦を勝利し、コンテ河の渡し場を奪い取りました。そして、ふたつ目は――」
そう言いながらセサル王は、ひとつの書状を取り出した。
「――例のホルメアの御仁から返信が届きました」
ドルデア王はセサル王から渡された書状を食い入るようにして読む。読み終えると、その内容を反芻するかのように、何度もうなずいてからドルデア王はニヤリと笑う。
「……ついに機は熟したか」
「左様。ついに熟しましたな」
しばしふたりは声を合わせて笑いあった。
それからドルデア王は、かねてからの疑問を口にする。
「しかし、セサル王とあの者に交友があったとは意外であった」
セサル王は、何でもないとでも言うように、ひょいと肩を小さくすくめて見せた。
「詩作と絵画の違いはあれど、同じ美の信望者同士。以前より親しみを覚えていたところ、あの方が辺境での無聊を慰めるために雇った芸人がたまたま我が国の者だったのです。それをツテに数年前より親交を深めておりました」
ドルデア王は、なるほどと納得した。
山間の小国であるバルジボアは、耕作できる土地が少ない。そのため少なからぬ国の人が生活の糧を求めて、戦を生業とする傭兵や歌舞音曲を披露する旅芸人となることで知られている。このロマニアの征西軍の中にもバルジボア人の傭兵は多く、中には将軍まで叩き上げた人物もいるくらいだ。
「いずれにしろ、セサル王の厚意には深く感謝しておる」
そこでドルデア王は、わずかに眉間にしわを寄せた。
「――それだけに余は、貴殿に何か酬いたいのだが……」
「先にも述べたように、私は今ある国土を守れれば良いのです」
先日、初めてセサル王がロマニア陣営を訪れた時に、協力する対価としてバルジボアとの友好を求めていたのである。
確かにホルメア国がロマニア国に敗れれば、両国の間をのらりくらりと生き延びてきたバルジボアにとっては立つ瀬を失ってしまう。大国にすり寄り、自国の安泰を図るのは当然と言えよう。
だが、もともとバルジボア国は占領しても、その労力に比べてうまみがない。そんな吹けば飛ぶような小国を見逃すだけで、宿願であったホルメア国平定を成し遂げられるとあっては、さすがのドルデア王も気がとがめた。
「しかし、それでは余の気がすまぬ」
それにセサル王は、少し考えてから答える。
「では、ひとつだけお願いが」
「おお、何でも言ってくだされ」
「それでは、ドルデア王の肖像画を描かせていただきたい」
「余の肖像画をか……?」
思わぬ申し出に、ドルデア王は首をかしげた。
高名な画家すら尻込みするセサル王の絵の腕前は聞き及んでいる。そんなセサル王に肖像画を描いてもらうというのならば、むしろこちらが莫大な謝礼を積まねばならないところだ。それなのに、それがセサル王にとって何の利益になるかわからなかった。
そのドルデア王の疑問に、セサル王はこう答えた。
「初の西域統一王となったドルデア王最初の肖像画の作者として、私の名が永遠に残ります」
それは、とりもなおさずドルデア王が初の西域統一王として歴史に名を残すということである。
当然、ドルデア王はこの申し出に快諾したのであった。
◆◇◆◇◆
「西域統一王か……」
上機嫌のドルデア王に自ら見送られて、自分にあてがわれた天幕に戻ったセサル王は、先程ドルデア王に告げた賛辞の言葉を口にした。
しかし、セサル王の真意は、その賛辞とは真逆である。
「だが、本当に西域を統一するような王が出てきてもらっては困るのだよ」
この戦いに介入したのも、それが理由である。
ボルニスの反乱奴隷とホルメア国のどちらが勝っても、相手を飲み込み、ロマニア国をしのぐ大国となってしまう。そうなってしまえば今の西域の均衡が保てなくなる。
それでは自分が遊ぶ余地がなくなってしまうではないか。
そんなことを考えるセサル王は、侍従が差し出した冷やした果実水を手に取りながら尋ねる。
「さて、何か新しい情報は届いているかな?」
「はい、陛下。コンテ河の渡し場における詳細な情報が入りました」
優雅に果実水をすすりながら侍従の報告に耳を傾けていたセサル王だったが、蒼馬がハリボテの砦でホルメア兵を追い払ったという話には、さすがに小さく目を見張った。
「それは面白い! そうか、そうか、ハリボテの砦でホルメア兵を手玉に取ったのか!」
目を細めて、セサル王はクックッと笑った。
「しかし、こうも早く砦の正体がよくぞ調べられたものだな」
強固な石の砦を一夜で出現させるというハッタリが利けばこそ、ホルメア国は攻撃するのを躊躇う。ならば、その正体が露見するのは遅ければ遅いほど破壊の御子にとっても都合が良いはずだ。おそらくは、そのために砦の正体がばれないように万全の態勢を整えているだろう。
それなのに、渡し場を攻め落とされた報せが先日届いたばかりである。よくぞ調べたものだと配下の働きを称賛するセサル王に、侍従は意外なことを告げた。
「それが砦の正体を掴むのは、容易だったそうです」
「それはどういうことだ……?」
そう尋ねるセサル王に侍従が説明したのは、占拠したコンテ河の渡し場で破壊の御子が人の往来を制限していないというものだった。そのおかげで、しばらくは戦いを恐れて近寄るのを避けていた行商人らも、今では自由に往来していると言う。
セサル王の密偵たちも、これは異常だと思い、とり急ぎ報せてきたのだった。
「行商人に扮した『根』の者によれば、砦がハリボテであり、本当の砦を造っている最中だと反乱奴隷の兵士たちが自慢げに話していたそうにございます」
しばらくセサル王は考え込んでから、ぽつりとこぼす。
「……挑発だな。――ワリウスめのことだ。それを聞いて、カンカンに怒ったであろう?」
「御意にございます。怒りのあまり、あわや失神する寸前だったとか」
侍従の答えに、セサル王は声を上げて笑った。
「この『破壊の御子』という男は、何と人を怒らせるのがうまいことか!」
ひとしきり笑い終えてから、セサル王は不意に真顔になる。
「しかし、妙だ。――コンテ河の渡し場近辺の地図を」
すぐさま侍従が机の上に地図を広げると、セサル王はそれを見下ろした。
「……何もない」渡し場の辺りを人差し指でくるりと円を描く。「――やはり、何もない。森、割れ目、山、窪地。どれひとつとしてない。ただの平地だ」
ゆっくりと二十を数えるほどの間、ジッと地図を睨みつけていたセサル王の唇が、ニイッと吊り上がっていく。
「これは、こいつは! 『破壊の御子』とやらめ……!」
そうして舌なめずりするセサル王の顔は、あたかも獲物を前にした蛇そのものであった。
「命令書を書く準備を。『根』の者たちに、ホルメア軍の後方で網を張らせよ。これは思わぬ大物がかかるやもしれぬぞ」
慌ただしく命令書を書く準備をする侍従を眺めながら、椅子の背もたれに身体を預けたセサル王は脚を組み、頬杖をつく。
「さて、この挑発をどうみるかね? ホルメアの老獅子殿」




