幕間劇 神々の苦悩
時系列としては第33話 予知(後)の直後
そこは、暖かい太陽の光が降りそそぐ草原であった。太陽の光を浴び、新緑に輝く草が一面に生い茂り、それが穏やかな風にそよいでいる。それは、潮騒のような葉擦れの音と相まって、まるで新緑の海のような幻想的な光景だった。
それもそのはずである。
そこは人の子らが「喜びの野」と呼ぶ、神々が住まう土地なのだ。
喜びの野の中心には、大きく枝葉を広げそそり立つ一本の巨木があり、その周囲には種類の異なる数匹の獣たちの姿があった。
まず目を引くのは、巨岩の上で腹這いになっている赤い鱗の竜だ。太くたくましい四肢には鉄をも引き裂きそうな鉤爪を生やし、口許からは鋭い牙が覗いている。しかし、最高級の紅玉を想わせる美しい鱗のせいか、凶暴さよりも神々しさを感じさせる竜であった。
その隣に寝そべっているのは、これまた神々しい雰囲気を漂わせる獅子だ。野生の美しさとたくましさを兼ね備えたその身体は、黄金に輝く毛で覆われている。そして、大きな特徴なのは、その額から生えた、天を突くようにそそり立つ一本の角だ。
そんな二匹の獣が寝そべる横には、こんこんと清水が湧き出る泉があった。そこでは、一切の汚れを知らぬ新雪のような真っ白な色のイルカによく似た一匹の大魚が、悠々と泳いでいる。
そして、そうした獣たちを見下ろすようにして巨木の梢に止まっているのは、七色に輝く長い尾羽と頭に王冠のような飾り羽を生やした一羽の巨鳥だ。
その獣たちは、暖かな太陽の光と穏やかな風の中で、静かにまどろんでいるようであった。また、そうした獣たちに配慮するかのように、時間までもが緩やかに流れている、そんな空間である。
ところが、不意に巨木の枝葉がざわざわと音を立てて揺れ、獣たちが一斉に目を見開いた。だが、すぐに獣たちはけだるそうに目を閉じてしまう。
しばらくすると、どこからともなく地響きが聞こえてきた。ずしん、ずしんと大地を揺らしながら、それは近づいてくる。
そして、ついにその地響きを立てる者が現れた。
それは、光り輝く巨人であった。背丈は巨木よりはるかに高く、全身がまばゆいばかりに光り輝いている。そのため、その表情はうかがい知れないが、顔を見なくともわかるほどの憤怒が全身から吹き上がっていた。
その憤怒が向けられているのは、一角獅子だ。
巨人が吼えた。
「我が兄たる獣の神よ! いったいどういうことか説明してもらおう!」
そう問われた獅子は、寝そべったまま口を開いた。そこから飛び出したのは、流暢な言葉である。
「我が弟たる人間の神よ。いったい何のことだ?」
「とぼけるなっ!!」
人間の神と呼ばれた巨人の咆哮が、大気をびりびりと振るわせる。
「あの『落とし子』の未来を観るのならば、なぜ我に声をかけぬ!」
獣の神は、ため息を洩らした。
「ああ。確かに我らは、あの『落とし子』の未来を予見した。しかし、それは我が巫女の願いがあればこそやったこと。そして、我が兄弟たる神々がそれに協力したのは、たまさかそこに居合わせたからにすぎぬ」
獣の神はわずらわしげに人間の神を見上げる。
「たかが、その程度のことよ。それをわざわざ遠くにいる我が弟たる人間の神に伝える必要が、どこにある?」
獣の神の言い分に、人間の神はさらに激怒した。
「兄たる獣の神の心底は見え透いている! 我ひとりを除け者にせんとするつもりであろう!」
その言葉に、それまで無関心を装っていた竜が重いまぶたを開いた。
「それは違うのではないか、我が弟たる人間の神よ。もともと、はるか古の時代より、我らはここに集っていた」
竜はため息とともに、ボフッと小さな炎を吐く。
「それを最近になり、孤高を気取ってひとりだけ山の頂へと移ったのは、おまえの方であろう」
人間の神は、それにも噛みついた。
「我が兄たる火の神よ! それとこれとは話が違う! 人の子らに、無用な干渉をせぬというのが我らの誓いであり戒めであったはず。それなのに、人の子の願いとはいえ神威を振るったのだ! そのようなまねをするならば、我にも一言断りを入れるべきではないか!」
すると、泉の中から白い大魚が顔を出した。
「それはおかしいのではありませんか、我が弟たる人間の神よ。かつて我の愛しい御子を網にかけた人間に、私は御子を解き放つのを条件に豊漁の祝福を授けたことがあります。その時は、何も言わなかったではありませんか」
なだめるような少女の声にも、人間の神の怒りはおさまらない。
「我が姉たる水の神よ。たかが豊漁の祝福と、未来を告げるのを一緒にしないでもらおう!」
その怒声に、火の神が寝そべっていた岩がいきなり動き出した。丸い巨岩だと思っていたそれは、何と巨大な甲虫の背だったのである。
「我が弟たる人間の神よ。人の子らへの干渉を咎めるおまえは、いったい何人の御子を定めた? しかも、他の兄弟を崇める子らと敵対する者ばかりを。それ故、人間の子たちは他の兄弟を崇める子らを競って迫害する始末ではないか」
巨大な甲虫が顎をキチキチと鳴らしながら、穏やかな女性の声で非を鳴らすのにも、人間の神は耳を貸さない。
「我が姉たる大地の女神よ! いかなる者を御子に定めようとも、それは我の自由のはず! いらぬ世話を焼かないでもらおう!」
岩のようにゴツゴツとした巨木の表面が、湖面のように波打ったかと思うと、そこに人の顔が浮かび上がる。
「我が弟たる人間の神よ。おまえが言うとおり、御子を定めるのは自由だ。だが、ものには限度がある。おまえが定めた御子らが、相争っているのを知らぬとは言わせぬぞ。人の子らへの干渉を咎めるのならば、おまえの方こそ改めるべきだろう」
「我が兄たる風の神よ。人の子らの世界に干渉してはならぬ誓いを守るからこそ、御子らを諌めることすらままならぬのだ。我が御子らが相争うことにもっとも胸を痛めたるのは、この我ぞ!」
風の神の梢に止まっていた七色の長い尾を持つ金色の鳥が、クククッと笑い声を洩らす。
「我が弟たる人間の神よ。そう思うなら不用意に御子を定めることを自ら戒めるべきだと思うがな。――まあ、今さらそれを言っても詮無きこと。それと同じように、あの御子の未来を観たのに文句をつけても、今さらどうしようもあるまいよ」
「茶化すのはやめてもらおう、我が兄たる鳥の神よ! そのようなこと、我は百も承知しておる!」
その口振りに、ならば何を言いに来たのかと他の神々が注視する中で、人間の神は得々と言った。
「我を加えた上で、改めて『落とし子』の未来を観るのだ! 我ら七柱の神が力をひとつにすれば、必ずやあの『落とし子』の未来を見通せようぞ!」
そう人間の神が叫んだとたん、にわかに空が掻き曇った。
青々とした草原の草が見る見るうちに枯れ果て、茶色い地面が剥き出しになる。そよいでいた風は、突き刺すような冷たい風となって吹き荒れ、乾いた土ぼこりを舞い上げた。泉は黒く濁り、表面には薄い氷が張る。
そして、どこからともなく少女の笑い声が聞こえてきた。狂ったように甲高く、心底嬉しそうに高らかに、そして怯える神々をあざ笑うようにあでやかに、その笑い声は響き渡る。
火の神の赤々とした鱗が色を失って灰色に染まる。水の神は泉の中で苦しげにもだえ、大地の神の甲殻には無数の亀裂が走り、風の神の葉がいっせいに枯れ、鳥と獣の神の体毛と羽根は輝きを失い抜け落ちてしまう。
人間の神もまた、身体から輝きが消え失せ、見る見るうちに身体が小さくしぼんでしまった。小さくみすぼらしい姿になってしまった人間の神は悲鳴を上げると、頭を抱え、その場にうずくまり、がたがたと震える。
少女の笑い声はしばらく続いた後、始まったのと同じように唐突に終わった。
すると草原には再び草花が芽吹き始め、神々の姿もまた元の威容を取り戻していく。
「我が弟たる人間の神よ」
全身の抜け毛を身震いして振り払っていた獣の神が言った。
「姉にして母たるあのお方は、あの『落とし子』を招きはしたが、決して力を貸そうとはしなかった。たとえ、あの御子が死にかけていようともな」
事実、獣の神が自らの巫女と御子の請願によって、この世界で生きる力を与えてやらなければ、とっくにあの人間の子は死んでいただろう。
「それはあの方もまた、人の子らの世界への干渉を戒めたるがゆえ。その戒めを破れば、きっとあのお方の怒りに触れる。今のは、その警告よ。それを恐れずにやると言うのか? いや、今のおまえの姿を見る限りでは、とうていそうは思えぬのだがな……」
嘲笑まじりの獣の神の言葉に、人間の神は屈辱に身を震わせた。さらに獣の神は言葉の追い打ちをかける。
「いかなる者も死の運命からは逃れられぬ。人の子らが死を恐れる限り、すべての子らは姉にして母たるあの方の子でもあるのだ。いかに人間の子らが増え、おまえが力を増そうとも、あの方にだけは敵わぬと知れ!」
人間の神は、いきなり立ち上がると吠えた。
「いい気になるなよ、我が兄たる獣の神よ! 汝がいかにあがこうと、すでに運命は決している。この世界は、我と我が子らのものだ!」
それから人間の神は高笑いを上げると、まばゆい光を放ちながら、いずこかへと飛び去ってしまった。
その場に残された神々は、一様に深いため息を漏らす。
「何と、愚かなことよ。まさか自らが生んだ子らに毒されてしまうとはな」と、火の神は嘆いた。
人間の神が、あのような傲慢な態度になったのも、イノセントという人間の子と語らってからである。まさか、人間の神こそが創造神の正統なる後継者であるなどというイノセントの世迷言を真に受けるとは思いもしなかった。
「それを言うならば、我らも笑えないでしょう」と悲しげに言ったのは、水の女神である。
神々たちが自分らの力に異変を覚えたのは、人間が他種族の支配地域まで侵しながら急激に数と勢力を拡大し始めた頃だった。程度の差はあれど、すべての神々が自らの力が弱まっているのに気づいたのである。
ただし、人間の神だけを除いて。
神々は、その異変の原因にすぐに気づいた。
「まさか、人の子らの力が我らに影響するなんて」と、大地の女神は自嘲する。
この世界の根底に眠るのは、父なる創造神の遺骸である。死してなお遺骸に残る偉大なる力は、この世界に生きるありとあらゆる者の力の根源となっていた。
そして、それは神々と言えど例外ではない。
しかし、自らを崇める子らの祈りを通して、その力を汲み取っていたとは、当の神々すら思いもよらないことだったのである。
「このままでは遠からず、我らは力を失い、神とは呼べぬ存在に成り果てるであろう」と、風の神が重苦しく言う。
すでに人間の神と他の神々の力の差は歴然としている。もはや他の六柱の神々が束になっても、人間の神には敵いはしないだろう。
それはとりもなおさず人間種族が、他の種族を圧倒しているからに他ならない。
「それが我らの運命ならば、それも良かろう。――しかし、気がかりなのは……」と、思い詰めた目の獣の神。
神々にとって、もっとも気がかりなのは傲慢になった弟神のことでも、自らが力を失ってしまうことでもない。
そうした異変とともに起きた、あることであった。
「あれほど慈悲深く、情愛に溢れたお方が、なぜあのように心を乱されてしまったのか……?」
鳥の神の疑問の答えを他の神々は持ち合わせていなかった。
◆◇◆◇◆
他の六柱の兄姉たちのところから飛び去った人間の神は、喜びの野を取り囲む高峰の中でもひときわ高い山の頂にいた。そこからは喜びの野ばかりか、人の子らの世界も一望できる、人間の神のお気に入りの場所である。
そこに降り立った人間の神は、兄姉神たちへの怒りに震えていた。だが、しばらくして怒りが静まるにつれ、恐ろしさがこみ上げてくる。
「ええい! 何を恐れることがあろうか!」
人間の神は、自らの胸の内に湧いた恐ろしさを吹き飛ばすように叫んだ。
「いかに姉にして母たるお方とはいえ、しょせんは父なる創造神の被造物にすぎん。我が子らが、この世界をおしなべて支配すれば、我は第二の創造神となるのだ。そうなれば、いかに姉にして母たるお方とはいえ、恐れるに足らず!」
人間の神は、はるか下界へと向けてその両腕を大きく広げた。
「我が子らよ! 人間たちよ! あまねくこの世に満ち溢れよ。さすれば、我は至高の座へと至らん!」
人間の神は大きく咽喉を反らしながら、いつ果てるともない哄笑を上げるのだった。
自分こそが世界でもっとも高いところにいると思い込んでいた人間の神。
しかし、そんな人間の神をそれよりも高い空の上から見下ろす影がひとつあった。
それは、ひとりの妙齢の女性である。足元まで伸びた純白の髪と、万年雪を思わせる白い肌。それらとは対照的に血のように赤い瞳。そして、袖のないゆったりとした貫頭衣を腰の辺りで縛っている。
「なんて愚かな弟なのでしょう。なんて哀れな子なのでしょう」
はるか眼下で今なお笑い続ける人間の神を強い憐憫と深い慈愛のこもった目で見下ろしながら、その女は呟いた。
「ああ……! 私を苦しめないで、弟妹たち。私を許して子供たち」
その痛切な感情に耐えきれなくなった女は、自分の顔を手で覆う。そして、すすり泣き始めた。
そんな女が山肌に落とした影。それが、見る見るうちに小さく縮んでいく。
「お願い。私を助けて、私の――!」
その言葉を最後に、女の姿は忽然と消え去ってしまう。
そして、どこからかともなく、ケタケタと笑う少女の声が聞こえてきた。




