第47話 シェムルの怒り(前)
「小僧! おまえは、何という愚かなことをしたんじゃ!」
領主官邸の執務室で政務に取り掛かっていた蒼馬のところへ、そう怒鳴り込んできたのはソロンであった。
最近、ソロンは酒を控えているようで顔を赤くするのを見るのも珍しい。だが、この時のソロンの顔は以前にもまして真っ赤であった。しかし、それは酒精のせいではなく怒りのためである。
政務を執っていた蒼馬と、部屋の片隅で字の練習をしていたシェムルは、突然怒鳴り込んできたソロンに目を丸くした。
「いったい何のことでしょうか?」
これほどソロンに激怒される覚えが蒼馬にはない。しかし、ソロンはその返答に目を吊り上げる。
「昨日の乱闘騒ぎの件じゃ!」
それは昨日起きた事件である。ズーグとドヴァーリンが酒飲み友達になったのをきっかけに、一部のゾアンとドワーフたちに酒を介した親交が生まれていた。その時もゾアンとドワーフたちが街に繰り出して酒を酌み交わしていたのだが、ちょっとした意見の相違から喧嘩となり、街の住人を巻き込んだ乱闘騒ぎへと発展したのである。
それを知った蒼馬は、すぐさま処断を下した。まず、乱闘に加わった者たちを集めて注意を促すと、全員に損害を受けた酒屋への謝罪と賠償を命じたのである。
「何か、それで問題でも?」
その後の報告では酒屋の主人も謝罪と賠償を受け入れたと聞いている。いったい何の問題があるのだろうと首を傾げる蒼馬に、ソロンは激怒した。
「この馬鹿たれがっ!!」
ソロンの怒声を真正面から喰らい、蒼馬は目を白黒させる。
「喧嘩に加わったゾアンとドワーフどもは、小僧の軍に属する者じゃ! ならば、軍規に従い処分せねばならんのじゃぞ!」
ソロンは怒鳴り散らしながら分厚い紙の束をバシバシと叩いて示す。そこに書かれている軍規に従えば、確かに民を傷つけた者は重罪とし、街の処刑台に引き出し棒叩きの刑に処せられることになっていた。
しかし、たかが酒の席で酔った上での狼藉である。さすがにそこまで厳しくするのはどうかと蒼馬は言った。そのとたん、蒼馬は軍規の書かれた紙の束でソロンに殴られる。
「このたわけめがっ! それは、やさしいのではない! ただ甘いだけじゃ!」
「そ、それじゃあ改めて処罰を――」
言い終わらないうちに、再び頭を叩かれる。
「いったん処罰を下したのじゃ。それをコロコロと変えれば、よけいに信頼をなくすわ!」
そう言い捨てると、ソロンは足音を荒げて執務室から出て行ってしまった。
ソロンという嵐が過ぎ去った執務室で、しばらく蒼馬とシェムルは茫然としてしまった。あまりのソロンの剣幕に驚き、蒼馬を殴るのも制止できずにいたシェムルは、ようやく我に返ると憤慨する。
「まったく、とんでもない奴だ」
目の前で自分の「臍下の君」を殴られるのを阻止できなかった苛立ちもあり、シェムルはギリギリと牙を軋ませて吐き捨てた。
「しかたないよ。確かにソロンさんの言うとおりだよ」
蒼馬自身も自分の悪癖には気づいていた。
いまだに現代日本人の少年という気質が抜けない蒼馬は、他人を裁くというのが苦手であった。
また、蒼馬のところまで挙げられる裁きとなると、たいていが死罪などの重罪人ばかりでる。そうした人たちの多くは蒼馬の前に曳き出されると、もはや命はないものと覚悟を決めて悄然とうなだれたり、逆に必死に助命を訴えて泣き叫んだりするのだ。
極刑となって当然という極悪人だけならばまだしも、その中には厳密に法に照らせば極刑もやむを得ないが、同情の余地がある者もいる。
そんな人たちを前にすると、蒼馬は何かと理由をつけては助命してしまうのだ。
以前から、それにソロンが良い顔をしていないことは知っていた。
それに、自分でも甘いとはわかっている。
しかし、いざ人を裁こうとすると、たかが高校生のガキの分際でしかない自分が、どの面を下げて人を裁こうというのか、という思いが湧いてくるのだ。
自分ができないのならば別の人に任せてみようと考えたこともある。だが、自分ではできない辛い判断を他人に押しつけるは卑怯な行為に思え、蒼馬はそれもまた踏み切れずにいたのだった。
そんな苦悩をする蒼馬をシェムルは努めて明るい口調で慰める。
「暗い顔して考え込んでも、良い結果は生まないぞ、ソーマ」
シェムルもまた、蒼馬の甘さが統治者としては欠点であることは承知していた。氏族の族長であった父親が同胞たちの規範となるため、ことさら身内には厳しい態度で接していたのは身をもって知っている。それと比べれば、蒼馬は甘いと言わざるを得ない。
だが、それと同時に、その甘さが蒼馬の本質であることも知っていた。
その甘さがあるからこそ、蒼馬は自分を救い、ゾアンを救い、そして奴隷となっていたすべての異種族たちを救ったのだ。
だからこそシェムルは、ただ甘いと弾劾するのではなく、その甘さを簡単に捨てて欲しくはなかった。
「うん。それはわかっているんだけど……」
しかし、それでも蒼馬の顔は晴れない。
それにシェムルは少し考えてから、小さくポンッと手を打つ。
「そうだ! 馬だ、馬! 気晴らしに乗馬の練習に行こう。さあ、行こう!」
最近、蒼馬は乗馬の練習をするようになっていた。
これからの戦いには騎馬が重要になると考え、牝馬を含む数十頭の馬をジェボアの商人ヨアシュから買い入れていたのである。
馬を購入するにあたり、馬具を見直す機会があった蒼馬は、初めてこの世界には蹄鉄や鐙がないことを知った。特に鐙は、馬にまたがる時にないと不便である。そこで、すぐさまドヴァーリンに頼んで作らせたのだが、蒼馬にとってはあって当たり前と思っていたこの鐙が、実はとてつもないものであったのだ。
いまだ鐙が存在しなかったこの世界では、馬に乗るには両足で馬の胴体を締めるようにして身体を固定しなければならなかった。しかし、それでは激しく動く馬の上で身体を安定させるのだけでも難しい。そのため、この世界では馬に乗るには幼い頃から乗馬の訓練を積まなければならず、この時代の騎兵の多くは馬を個人で所有できる貴族などに限られていたのだ。
しかし、蒼馬がごく当たり前に思っていた鐙は、それを覆すものとなったのである。
ところが、そこに蒼馬の思いもよらない落とし穴が待ち構えていた。
「では、ソーマも馬に乗れるようになるな!」
馬に乗るのが簡単になると聞いて、喜んだのはシェムルである。
これまで蒼馬が遠出をする際には、たいてい馬車などを利用していた。もちろん、そこにシェムルが同乗するのは言うまでもない。
しかし、シェムルは平原の覇者と呼ばれたゾアンの娘である。馬車に乗るより、自らの足で平原を駆け回りたいという欲求があった。だが、それでは蒼馬の警護が務まらない。そのため、これまでは平原を駆け回りたい気持ちをぐっとこらえていたのだ。
だが、もし蒼馬が馬に乗れるようになれば、ふたりで平原を自由に駆け回れるようになる。
敬愛する「臍下の君」とたったふたりで平原を駆け回る。それはとても素晴らしい光景としてシェムルの脳裏に浮かび上がった。
「さあ、練習しよう! 早く馬に乗れるようになろう!」
喜色満面でシェムルは急かしたが、現代日本にいた時も馬に触れたこともない蒼馬は乗馬を学ぶのに気おくれしてしまった。だが、その場に居合わせたマルクロニスなどから「馬に乗れて損はない」との言葉もあり、蒼馬は乗馬の練習をすることになったのである。そして、それ以来シェムルは何かとこうして蒼馬を乗馬の練習に引っ張り出そうとするようになっていたのだ。
「平原を思いっきり走ると気持ちいいぞ! 多少の悩みなら、それだけで吹っ飛ぶ」
この時もまた一刻も早く乗馬の練習へ行こうと自分を急き立てるシェムルに、蒼馬は苦笑を洩らしてしまう。悩む自分を鼓舞する意味もあるのだろうが、シェムル自身が平原を走りたいようだ。どうやらシェムルも字の練習ばかりで、ずいぶんとストレスを溜めこんでいたらしい。
「そうだね。ちょっと気分転換しようかな」
「よし! 早く行こう!」
全身から喜色を発したシェムルに腕を引かれながら、蒼馬はつい笑ってしまった。
◆◇◆◇◆
その日、半刻ばかり街の外で馬に乗る練習をした蒼馬は、シェムルだけをともなって街に戻ってきた。
いまだ馬に乗りなれない蒼馬は、それだけでも疲れ切っていた。まだ身体に無理な力が入っているのか、いたるところの筋肉が悲鳴を上げている。それでも、練習の成果は出て来たようだ。当初は馬に乗るというより、馬にしがみついているといった方が正しかった蒼馬の乗馬姿も、最近では少しは見られるようになっていた。
「なかなか様になってきたぞ」
今も打ち付けたお尻や擦れた内股が痛くてたまらないが、こうしてシェムルが喜んでくれるのを見ると、その苦労も報われた気になる。
笑顔を交わしながら街の中を領主官邸へと向かっていたふたりだったが、その時、事件が起きた。
たまたま道端で水瓶を持ち上げようとしていた女性の脇を蒼馬が通りがかった時である。その女性が濡れた水瓶に手を滑らせ、それを落としてしまったのだ。落ちた水瓶は大きな音を上げて割れると、水を辺りにまき散らした。
元来、馬は臆病な性質である。いきなり近くで立てられた水瓶が割れる音に、何と馬は驚いてしまったのだ。さらにそこへ乗り手である蒼馬が驚く気配が伝わり、馬の驚きは恐慌へと変わる。恐慌状態となった馬は、いきなり前脚を高々と振り上げたかと思うと、蒼馬を乗せたまま走り出してしまった。
まだ乗馬になれていない蒼馬は馬を落ち着かせるどころか、振り落とされないように馬の胴に必死にしがみつくことしかできない。
「ソーマッ!」
シェムルは叫ぶなり、四つ足となって馬を追いかけた。長距離走の速度では馬に及ばないゾアンも短距離での加速ならば、馬をはるかに上回る。瞬く間に暴走した馬に追いつくと手綱を掴み取って引くのと同時に、頭を押さえ込んだ。
頭を押さえ込まれては脚を止めるしかなかった馬だが、それでもシェムルを振りほどこうと首を振るう。しかし、シェムルは女とはいえ平原の牛を相手に飛びかかり、それを狩り仕留めてきたゾアンである。その程度では振りほどけはしない。
暴れ馬は最後の悪あがきとばかりに、いきなり後ろ脚を蹴り上げた。
その脚は運悪く道の脇にあった露店を蹴倒してしまう。その露店を開いていた農家の主婦らしい女性も悲鳴を上げて地面に倒れてしまった。
「落ち着け、落ち着け!」
馬を安心させるように首筋を軽く叩きながら声をかけてやると、ようやく馬は暴れるのをやめた。
おとなしくなった馬の背中で、ようやく上体を起こせた蒼馬は、ホッと安堵した。しかし、すぐに馬に蹴倒された露店と女性に気づき、顔を青くする。
「ご、ごめんなさい! 大丈夫ですか?」
すぐさま蒼馬は馬から下りると、倒れている女性に駆け寄った。
幸いにも女性は驚いて転倒した際に地面についた手に軽い擦り傷を負った程度で、露店も倒れただけで壊れた様子はない。被害といえば露店に並べてあった瓜のような野菜が地面に落ちていくつか割れてしまったぐらいである。
すぐさま蒼馬は謝罪をし、駄目になってしまった野菜の代金に慰謝料を上乗せした金額を支払うことを約束した。街の権力者である蒼馬に謝罪ばかりか慰謝料までもらえることになった女性は、かえって恐縮してしまい、ぺこぺこと頭を下げる。
遅ればせながらやってきた街の治安を守る警邏兵らも、当事者が街の統治者である蒼馬であり、被害も大したことはないと知ると、集まっていた野次馬たちを追い払い始めた。集まっていた野次馬たちも領主が起こしたゴタゴタに巻き込まれたくはなく、また騒動自体も大事にはならなかったので、すぐに興味を失って散っていく。
しかし、ただひとりだけ立ち去る野次馬たちとは逆行し、騒動の中心へ向かう人がいた。
その人は、いまだに怪我をした女性に平謝りし続ける蒼馬の姿を見ると、しばし自分の長い髭をさすりながら思案する。それから、おもむろに道端に落ちていた長い木の棒を拾い上げると、ゆっくりとした足取りで蒼馬の後ろに立った。そして、木の棒を両手でしっかりと握りしめると、いきなりそれを振りかぶる。
それに、気づいたのはシェムルであった。
「ソーマッ!」
あまりにとっさのことで、シェムルも声を上げることしかできない。突然叫んだシェムルに、蒼馬はきょとんとした顔になる。
そんな蒼馬の肩口に、木の棒がバシッと音を立てて振り下ろされた。




