第45話 舌-密偵
マルコは、密偵である。
ただし、素人同然――いや、まさに素人の密偵である。
そもそもマルコは密偵としての訓練を受けた人間ではない。もとはホルメアの地方領主に仕える従士の家に生まれた少年だった。
従士とは、騎士と農民との中間的な存在である。普段は農民と同じく、領主から与えられた土地を耕して糧を得ている。だが、ひとたび戦が起これば槍を持って領主につき従い戦う。そのような半兵半農の存在なのだ。
そうした従士の家は、決して裕福なものではない。領主から与えられている土地も、せいぜい小さな畑を作るのがやっとという狭いものだ。当然、それだけでは一家が生きていくだけの糧を得られるものではない。そのため、従士の多くは近隣の農作業の手伝いなどで糊口をしのぐのが普通であった。
そうした従士のご多分に漏れず、マルコの家も貧しかった。普通の農民の方が、よっぽど良い暮らしをしていただろう。
そんな従士の家に九人兄弟の三男として生まれたマルコは、生まれながらにして厄介者だった。
家を継ぐ長男と、その長男に万が一があったときの代用品である二男には、家でも役割が認められていた。ところが三男ともなれば、もはや無用の長物である。そうした家督を継げない従士の家に生まれた男子は、跡取りがいなくなった他の従士の家か農家の養子になるか、自らの才覚で道を切り開くしかない。
しかし、お世辞にもマルコは利発な少年ではなかった。
従士の家に生まれた嗜みとして槍の扱い方を教わっていたが、どうにも腕は上がらず、弟たちにすら負けてしまう。農作業の手伝いにしても、他人の倍の時間がかかってしまうほど要領が悪い。
これで落胆でもしていれば可愛げもあったのだが、マルコは生来の楽天家であった。怒られても罵られても、それを叱咤激励だと捉え、いつもニコニコと微笑んで明るく振る舞う、そんな少年であった。
そんなマルコの唯一の取り柄といえば料理である。
とにかく料理を作るのも食べるのも大好きだった。本人も、鍬や槍を振るうより、スープを掻き回す大きな木製の匙を握っている方が性に合っていると言う始末である。
これでは家族からも愚図や愚鈍と蔑まれるのも無理はない。
そんなマルコに転機が訪れたのは、ボルニスの街が反乱奴隷に占拠されたという噂が流れ出した頃である。
「ボルニスの街の反乱奴隷の様子を探るために、人を出せ」
仕えているホルメアの地方領主から、マルコの家にそんな指示が届いたのである。
それに、マルコの父親は困り果てた。
自分らはただの従士である。密偵の訓練など受けたことなどない。そんな自分たちが凶暴なゾアンたちが巣食う街へ行って、無事に帰れるとはとうてい思えなかった。そのようなことは領主も百も承知のはず。ならば、これは本命である密偵から目をそらすための隠れ蓑として自分らは利用されるのだと薄々察せられた。
「僕が行くよ」
そんな悩む父親に名乗りを上げたのは、マルコである。
マルコも、そろそろ家を出なければならない年頃だった。しかし、家を出ても頼れる人も行く宛もない。大きな街に出て、そこで住み込みの仕事でも見つかればいいかな、と漠然と考えていたところである。そこに密偵とはいえ、住み込みの働き口を世話してくれるという領主の話は、マルコにとっては渡りに船だったのだ。
また、マルコの父親としても都合がよかった。大事な長男や次男は出せず、かといってマルコの弟や妹たちはまだ幼すぎる。その点マルコは厄介払いする意味でも、ちょうどよかったのだ。
こうしてマルコは、にわかに密偵となってボルニスの街に潜入することになったのである。
連絡役と名乗る男から簡単な基礎知識を教わったマルコはボルニスの街に赴くと、領主官邸へ食料を納めていた商人の家に、男の遠い親戚の子という紹介で下働きとして住み込みで働くことになった。そこでマルコは仕事をしながら官邸内部をうかがったり、人から情報を聞き集めたりするように言われたのである。
そして、その日も領主官邸の厨房へ食材を運びながら、それとなく人々の様子を観察していたマルコを呼び止める人がいた。
「あなた、あまり見ない顔ですね」
マルコが振り返ると、そこには驚くほど美しいエルフの女性がいた。厨房の中をうかがっていたマルコは驚き、問われるがままに最近になって出入りするようになったことなどを話してしまう。
「厨房の中をご覧になられていたようだけど、何か興味深いものはありまして?」
自分の話にひとつひとつうなずきながら聞いていたエルフの女性が、するりと入れた質問にマルコは困ってしまう。いくらマルコでも、官邸内部を探っていましたと言うのはまずい気がした。
何と答えれば良いのか思案するマルコの鼻に、美味しそうな匂いが届く。
「ゾアンの料理」
その香辛料の刺激的な匂いに、思わずマルコはそう言った。
「ゾアンの料理が気になります!」
それは、まるっきり嘘ではない。
領主官邸に出入りするようになった当初、たまたまゾアン風の味付けがされた料理を振る舞われる機会があったが、マルコはその時の衝撃と感動は忘れられない。
めったに食べられない肉。それまでは味付けは塩味――それもかなり薄いものしか知らなかったのに、あの口の中で焼けるような香辛料の味。つんと鼻の奥を刺すような刺激。そして、その奥からにじみ出る肉の旨味。世の中にはこれほどおいしいものがあったのかと感激したものだ。
マルコは不審な行動をごまかすつもりでゾアンの料理について口にしたのだが、話しているうちについつい当初の目的を忘れて熱く語り出す。その止まらない勢いに、やや面食らっていたエルフの女性だったが、マルコの言葉を遮ると、こう言った。
「なるほど。あなたはゾアンの料理に興味があるのですね」
マルコは必死に首を縦に振った。すると、そのエルフの女性はニッコリと微笑んだ。まるでつぼみがほころび、大輪の花が開くような笑みである。
だが、マルコはそれをなぜか怖いと感じた。
「よろしい。あなたをここで雇い入れてあげましょう。そうすれば、ゾアンの料理を間近で見ることができます」
この突然の提案に、マルコは驚いた。
連絡役の男の話では、これまで領主官邸に潜り込もうとした数多くの密偵が正体を見破られて、捕縛されたり、逃走しなければならなくなったりしたらしい。それほど領主官邸に侵入するのは困難だと聞かされていたのに、向こうから誘ってくれたのだ。
しかも、そのエルフは自分をよほど気に入ったのだろう。今、住み込みで働いている商人に直接赴いて事情を説明してくれるばかりか、連絡先を教えてくれれば遠縁の男にも詫び状を出してくれるとまで言ってくれたのである。
何て自分は幸運なのだろうと、マルコは喜んだ。
これでうまく密偵のお役目を務めれば、ご領主様も褒めてくれるし、家族も喜んでくれるに違いない。
それよりも何よりも、あのゾアンの料理を間近に見られるのだ。もしかしたら、作り方を教えてもらえるかも知れない。いやいや、食べることができるかもしれないのだ!
マルコはふたつ返事で了承したのである。
幸いにも、それからしばらくして連絡役の男からは「私のことは気にせず新しい仕事に精進するように」と書かれた手紙が届けられた。
もしかしたら危ないからやめろと言われるかと思っていたマルコは、ホッとしたものである。ただ少し気になるのは、やけに「私のことは気にせず」を強調して書かれていたことだ。それもそれだけ領主官邸での仕事に集中しろという意味だろうと解釈したマルコは、喜び勇んで領主官邸に住み込みで働き始めたのである。
しかし、領主官邸で働き始めてすぐに、マルコは困ってしまう。
食事の量が少なかったのだ。
この時、領主官邸に住み込みで働いている人の多くは、エルフの女性たちである。そのため、食事も彼女らが基準となってしまう。
これがマルコにとっては一大事であった。
他のファンタジー世界と同様に、この世界のエルフもまた森に住まう種族である。
しかし、森に住まう種族と言っても、彼らは決して森の王ではない。彼らの耳が発達したのも、見通しの悪い森の中で敵の襲来をいち早く察知するためのものだ。これは兎と同じく、彼らエルフが肉食獣などから捕食される側だった証である。
また、エルフたちの天敵は肉食獣ばかりではない。茂みや草むらに隠れている毒蛇や毒虫といった小さな殺し屋も森には数多く存在する。
そんな天敵たちから逃れるために、エルフは樹上で生活をしていた。大木の上に住居を築き、そうした木々の間に蔦で編んだ橋を架けて往来し、村を構築していたのである。
そうした樹上での生活のためか、エルフたちは肥満を忌む風習があった。こうした点もふくよかな体型を美しいとするドワーフとは相容れない理由かもしれない。
とにかく、そんな彼女たちの食事は、非常に質素なものである。たいていは、拳ほどの大きさのパンひとつに、葡萄や林檎を干したものを数個、それと少量のナッツだけだ。たまに鳥や獣の肉もつくが、それも大した量ではない。
食べ盛りのマルコには、これだけではとうてい足るものではなかった。
しかし、食べさせてもらえるだけでもありがたいのに、それに文句をつけるわけにもいかない。とは言っても、胃袋は正直だ。いくらマルコが我慢しようとしても、空腹になれば腹の虫が鳴いてしまう。
その日も、午後の仕事を終えたマルコが休憩を取ろうとした時、またもやお腹が鳴り出した。
さすがのマルコも、腹の虫が鳴るのを誰かに聞かれたらと思うと恥ずかしい。誰にも聞かれないように、人気のない方へ歩いて行く。すると、隠れるのにはちょうど良さそうな茂みを見つけた。
マルコは、そこで腹の虫がおとなしくなるまで隠れることにした。
しばらく空腹を抱えながらうずくまっていたマルコだったが、どうしても思い浮かべるのは食べ物のことばかりである。頭から振り払おうとすればするほど、次々に食べ物のことばかりが頭に浮かぶ。
そして、ついに我慢できなくなったマルコは、つい声に出してしまう。
「「ああ、おいしいものが食べたいなぁ……」」
◆◇◆◇◆
「やあ……」と声をかける、蒼馬。
「こんにちは……」と返す。マルコ。
お互いに、この場には自分しかいないと思って洩らした独り言だった。それなのに、まさか近くに人がいて、同じ言葉を洩らしたという偶然に驚いた蒼馬とマルコは、しばらく無言で見つめ合ってしまう。
そこに、ギュルルルルッと大きな音が響いた。
それはマルコのお腹から響いた大きな腹の虫が鳴く音である。おかしな沈黙を破った腹の虫が鳴く声に、蒼馬は思わず噴き出してしまった。それとは反対にマルコは赤面してしまう。
笑いをこらえながら蒼馬は手にしていたパンをふたつに分けて、それをマルコに差し出した。
「これ、食べる?」
マルコは一瞬の躊躇いもなく、ありがたくパンを頂戴する。
そして、ふたりは地べたに腰を下ろして肩を並べると、一緒にパンを齧り始めた。
しばらくふたりで黙々とパンを齧っていた蒼馬だったが、ひとつため息を洩らす。
「……おいしいものが食べたいよね」
「そうだねぇ……」
マルコも、しみじみと蒼馬に同意した。
マルコが期待していたゾアンの料理を食べる機会には、いまだ恵まれていない。そのくせ、領主様付きだというゾアンの女性が作る料理の臭いを日に三度も嗅がされるという、まるで拷問のような日々だ。
そんなことを考えていると、しだいに今の食事への不満が頭をもたげてくる。
「だいたい、ここの領主が官邸から料理人を追い出さなければ、もう少しおいしいものが食べられたのに!」
そのふっくらした頬を膨らませて不満を述べるマルコに、蒼馬はパンを咽喉に詰まらせかける。
蒼馬が街を制圧した時には、領主官邸にも人間の料理人がいたのだ。しかし、彼が作る料理は初めて街に来た時に酒場で食べたものより、いくぶんマシという程度のものであった。それに最高のご馳走として出されたのが、ただの豚の丸焼きである。
それにシェムルが「これなら私が作った方がうまいな」と言い、それについ蒼馬も同意してしまったのを聞いた料理人は激怒した。それならばおまえの料理を食わせろと吠える料理人に、シェムルが差し出したのが携帯していた干し肉一枚である。手間をかけて焼いた豚の丸焼きに対し、携帯食である干し肉を出すのは、いくらなんでも失礼じゃないかと蒼馬は顔を青くした。
すると、案の定よほどプライドを傷つけられたらしく、干し肉を口にした料理人は目に涙を浮かべて立ち去ると、二度と姿を現さなくなってしまったのである。
そうした食事環境の悪化の一端を担っている事実を指摘された蒼馬は、苦笑いするしかなかった。
そんなこととは知らないマルコは、さらに叫んだ。
「だいたい、すぐ食べるパンぐらいなら二度焼きしなくたって良いじゃないか!」
それは蒼馬も初耳である。いったいどういうことだとマルコに尋ねると、現在この領主官邸で食べられているパンは、一度焼いたパンを乾燥させてから、さらに焼き直して保存性を高めたものだというのだ。
そう言われてみれば、と蒼馬は思い出す。以前、贅沢を戒めるつもりで自分に出すパンは、庶民と同じ堅いパンにするように指示したことがあった。もしかしたら、あれが二度焼きしたパンだったのかもしれない。
自分がよけいなことを言わなければ、もう少しまともなパンが食べられていたかと思うと、蒼馬はガックリときてしまう。
「きっと、ここの領主様はおいしいものを食べたことがないんだよ」
だからおいしいものを食べようとしないと真剣に怒るマルコに、落ち込んでいた蒼馬もムッとする。今の言葉は聞き捨てならなかった。この世界の人に、おいしいものを食べたことがないと言われたくはない。
「僕から言わせれば、ここの料理はちょっとどうかと思うよ」
意地になった蒼馬は、マルコに現代日本で食べた料理について話し出した。
やわらかくて甘いパンに始まり、様々な具材を入れた菓子パンや総菜パン、さらにはラーメンやカレーライスなどの一般大衆食、家族旅行の先で食べた各地の名物料理、ついには蒼馬も食べたことがないフォアグラやトリュフなどの高級食材まで熱く語ってしまう。
生魚を食べる寿司や刺身の話は不評であったが、それ以外の料理の話にはマルコも目をキラキラと輝かせて聞き入っていた。
その中でもマルコがもっとも興味を示したのは、やはり身近な食べ物であるパンについてである。
「僕がいたところにあったパンは、もっと甘くて、柔らかくて、ふかふかで、ここのとは比べ物にならないくらい美味しいパンだったんだ」
蒼馬が語るパンの話に、マルコは今にも涎を垂らさんばかりの表情だった。
マルコはこれまで、そんなパンは見たことも聞いたことも、もちろん食べたこともない。
「甘くて、柔らかくて、ふかふかで……!」
それは、あの空に浮かぶ真っ白な雲のようなパンなのだろか? きっと食べたらおいしさのあまり、あんな風に空に浮かんでしまうようなパンなのだろう。
「そのパンは、どこで手に入るの? どうやって作るの?!」
予想以上にパンの話に食いついて来たマルコに、蒼馬は気を良くして、得々とパンの作り方を話して聞かせる。ドライイーストを混ぜて、温かいところにおいて発酵を促進させるなど、この世界にはないパンの作り方にマルコは興奮で頬を紅潮させる。
「すごい! そうやって焼けば、ふかふかで柔らかくて、おいしいパンになるんだね!」
蒼馬は「まあね」と素っ気なく答えながらも、得意の絶頂であった。ところが、次のマルコの一言で蒼馬は固まってしまう。
「それで、そのパンをふかふかにする『どらいいーすと』って何?」
マルコの質問に、蒼馬はハッと我に返る。
今まで蒼馬は、現代のパン作りを広めようとしなかった。それは、毎日のように自分のために食事を作ってくれるシェムルの手前、自分でパンを焼くのが憚られたのもあるが、それ以上にイースト菌が入手できなかったからである。
「ちょ、ちょっと待てよ。そもそもこの世界にイースト菌っているの?」
小麦や大豆は存在していたが、トウモロコシやジャガイモなどは見つかっていない。それと同じように元の世界にあったものが、すべてあるとは限らないのだ。
「でも、お酒ができるんだから、そうした微生物は間違いなくいるよね」
そうした微生物がいなければ、酒さえできないはずだ。少なくともビールやワインが存在するのだから、そうした微生物はいるのだろう。
でも、それではイースト菌がどこにいるのかと問われれば、蒼馬も答えに窮してしまう。
「お酒じゃなくて、パンの話なんだけど……」
ふかふかで柔らかいパンの作り方を教えて欲しいとせがむマルコに、蒼馬は慌てて弁解する。
「え? いや、麦汁とかがお酒になるのも、目に見えないほど小さい生物のおかげなんだよ。で、イースト菌っていうのも、そうした小さい生物の仲間なんだ」
「なんで目に見えないのに、生物だってわかるの? どうして、そんなのがいるって知っているの?」
マルコの意外に鋭い指摘に、蒼馬は言葉に詰まる。
蒼馬を言い負かせてやろうと思ってマルコは言っているのではない。ただ純粋な疑問をぶつけているだけだ。
しかし、それだけに蒼馬は、困ってしまう。この世界の人間に微生物の存在をどうやって説明すれば良いかわからず、あわわと無意味な言葉を口から洩らすだけであった。
「……-マ! どこだ?! さぼっていないで、仕事に戻れ!」
その時、遠くから自分を呼ぶシェムルの声に蒼馬は気づいた。
「ご、ごめん! 僕は、もう行かなくっちゃ」
これ幸いとばかりに、蒼馬はマルコが呼び止めるのも振り切って、その場を逃げ出すようにして立ち去ってしまった。
「あ~ぁ。行っちゃった……」
ひとり残されたマルコは、しょんぼりとしてしまう。ふかふかのパンの話だけではなく、もっといろんな食べ物の話をしたかったのに残念だった。
しかし、自分も休んでばかりはいられない。マルコは小さく気合いを入れると、仕事場である厨房へと歩き出した。
その途中、何気なく上を見上げると、真っ青な空に丸みを帯びた白い雲がひとつだけ漂うのが目に入る。
マルコは、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「ふわふわで、やわらかで、おいしいパンか……」
マルコがいた村では、貴重な燃料を節約するためにパンは村中でまとめて焼くものだった。そして、いつもはのろまとか愚図とか呼ばれていたマルコも、その時ばかりは村の人気者である。家族の分ばかり、村中の人からもパンを焼くのを頼まれたものだ。
そして、マルコも自分が焼いたパンを大喜びで食べる村人や家族の顔を見るのが、とてもうれしかった。
それを思い出したマルコは、無性にパンが焼きたくなってくる。
「……よし。パンを焼こう!」
マルコはふくよかな頬を緩めたのだった。
◆◇◆◇◆
領主官邸の奥で、女官長としてその日の雑務をこなしていたエラディアのところへ、ひとりの女官が報告に訪れた。
「お姉様。あの者が、窯を借りたいと言っているのですが」
ペンを握っていた手を止めたエラディアは、しばらく考えてから、それがマルコのことだと察すると、小さくため息を洩らす。
「……構いません。あの者の好きにやらせなさい」
エラディアの返事に、その女官は躊躇う様子を見せていたが、しばらくして意を決すると口を開いた。
「お姉様。あの者は、密偵に違いありません。なぜ、あのような者を……」
最近、ボルニスの街では不審な人物の姿が多く見受けられるようになっていた。
その多くは一攫千金を夢見る商人、開拓地での働き口を求める流民、成り上がろうとする傭兵や山賊崩れの荒くれ者たちである。
そして、そうした者たちに混ざって増えているのが、近隣諸国や組織が放ったと思われる密偵たちであった。
彼らの目的は、ボルニスの街で起きている急激な変革の実情と、そしてそれを引き起こしている「破壊の御子」なる人物――すなわち蒼馬の身辺を探ることである。
そうした密偵たちが、あの手この手で領主官邸に潜り込もうとするのを防いでいたのが女官長として領主官邸の人事権を握ったエラディアであった。彼女がいなければ、とっくにボルニスの官邸での出来事は近隣諸国に筒抜けとなり、下手をすれば蒼馬も暗殺されていたかもしれないだろう。
しかし、これまでそうした密偵らをすべて払いのけていたエラディアが、あのマルコという少年を雇い入れたことに、エルフの女官らは首を傾げていたのだ。
エルフの女官らから見ても、マルコはあまりに挙動不審である。本人は隠しているつもりなのだろうが、官邸の重要な場所を覗き込もうとしたり、日常の会話でも無理に蒼馬の話題を振ったりと、あからさまに怪しすぎた。
「それは承知しております」
ところが、マルコに密偵の疑いがあるのをエラディアはあっさりと認めた。
「あなたは釣りをしたことがありますか?」
いきなり釣りの話を振られた女官は面食らいながら、首を横に振る。
「釣りは、狙う魚に応じて餌と針を選ばねばなりません。小さな魚を狙うなら、少しの餌と小さな針、そして目立たない細い釣り糸。ですが、大きな魚を狙うのならば、たっぷりの餌と大きな針、そして太い糸を使います」
エラディアは、くすりと笑う。
「おそらく、あれを送り込んだ者も、私たちが密偵だと知った上で囲っていると気づいているでしょうね。それはまさに、大きな針と太い釣り糸のようなものです。多少賢い魚ならば、決して食らいつこうとは思いません。――ですが、その針においしい餌がたっぷりとついていたらどうでしょう?」
これまでどんな密偵も入れなかった領主官邸の奥である。蒼馬の情報が欲しい者たちにとっては、マルコはまたとない情報源に違いない。
「それでも臆病な雑魚程度ならば食いつきません。ですが、針と糸に気づいてなお食いついてくるような魚がいたとすれば、それはかなりの大物でしょうね」
仮にマルコを送り込んだ組織が尻込みしても、他の組織が横のつながりを利用してマルコと接触しようとするかもしれない。そうすれば、このボルニスに潜入している密偵たちを一網打尽にする好機になるだろう。
「今は餌と釣り針を水面に投げ込んだばかり。しばらくは魚たちも警戒するでしょう。ですが、そのうち我慢できずに食いついてくる魚が出るはずです。針と糸の動きをちゃんと見張るのですよ」
エラディアは、その赤い唇をかすかにほころばせた。
「しばらくは、あの者がやりたいということを好きなようにさせなさい。生餌は、活きが良くなければなりませんからね」
この時、エラディアは彼女の予想とは異なる魚がマルコに食いついてくるとは思いもよらないことだった。




