参
「今日、部活が長引いたから、こんな時間になっちゃったの。学校出るときには雨が降っちゃってて、それで仕方ないから部室にあったビニール傘を借りて帰ったんだけど……それはいっか」
間をおいて呼吸を整え、
「それでね、学校から駅に行くまでの道で……見ちゃったの」
「見ちゃったって……アイツを?」
やや目を逸らし、静かに頷く。
「ビニール傘って透明でしょ……? ビニール傘越しに、電柱から覗いてる白い何かがあって……。最初何かなって思って、傘越しじゃなくて直接見たら……か、顔が……」
その瞬間を思い出したのか、その情景を頭から振り払うように首を横に振った。潤子は「大丈夫、続けて」と声をかけてやる。しかしそれと同時に、駅前で彼女が異様にビニール傘を嫌がった理由がわかり、ぞっとした。
「それでね、怖くなって早歩きで逃げたんだけど、振り向いたらまたすぐ後ろの電信柱からこっちのこと見てて……」
息を荒らげる。話を聞いているだけ潤子も動悸がしてきた。
「どんなに逃げてもすぐ追いかけてくるの! 駅まで逃げてきて、ジュンちゃんにメールしてる時も視線を感じるし……。それで、無駄かもって思ったけどわざと遠回りして双泉駅まで来たの。でもジュンちゃん、アレのこと見えて無いみたいだから、怖くて、寂しくて……」
……不思議に思っていた彼女の行動が、パズルピースがはまっていく様にかみ合っていく。上り電車で来た理由、頻りに辺りを見回していたこと、私が顔を覗きこんだときに大げさに驚いたこと。
そして、道筋を辿って行き、潤子は一番気になることにぶつかった。
「ここまでの道のりでさ……アカネ、悲鳴あげて逃げたよね? ……あの時は……?」
「あの時は……」
コン…… コン……
「!?」
突然、部屋の窓から音がした。二人は顔を見合わせ、確かに音がしたとお互いに確認した。
コン…… コン……
二度目の音でこれが窓を叩く音だと潤子は気付いた。何か堅い物で窓を、誰かが叩いている。二人には外にいるのが「奴」以外に考えられなかった。
二人が動けずにいると、今度は少し鈍い音。ドン、ドン、という音に変わった。窓枠が軋む音も感じ取れ、大きな力で圧をかけ、叩いて来ているのが分かった。
カーテンと窓で仕切られた向こう側。その二つで仕切られただけで奴との距離は三メートルとなかった。茜はとにかく窓から離れたかったが身体が動かず、金縛りにあったようだった。潤子も恐怖で立ち上がれずにいた。
ドン…… ドン……
迂闊に声を出しては奴に気づかれそうで、二人は声を出せずにいた。いや、すでに気づかれているのかもしれない。でも声を抑えずにはいられなかった。どうにか立つことができた潤子はそっと茜の手を握り、ゆっくりと立ち上がるように諭す。
二人で静かに部屋の隅に移動し、窓をじっと見つめたまま肩を寄せ合った。見たくないのに、どうしても窓から目が離せないのだ。窓を叩く音は徐々に大きくなり、もう窓が割れてしまいそうだった。得体の知れない「恐怖」が窓を突き破ってこちらに入り込もうとしている。
殺される。二人はそう確信した。
二人が死を覚悟した次の瞬間、ぱたりと音が止んだ。
「…………」
「…………?」
突如訪れた静寂に安堵するとともに不気味さを感じた。外の雨の音も聞こえず、全くの無音。二人とも呼吸すら忘れていた。
「諦めた……?」
どれくらい静寂が続いたかわからない。気づいた時には潤子の口から言葉が漏れていた。その言葉に茜もほっと息をつく。その顔を見てみるとやっぱりまた泣いていた。今日一日で何日分の涙を流したのだろう。潤子はふとそんなどうでもよいことを考えていた。
「ありがと、……ジュンちゃん……」
「うん……」
いつまでも頭がぼうっとしていた。肌で感じ取れるほどの恐怖だったのにもかかわらず、先ほどまでのことが夢の出来事であったかのような感覚。体中に嫌な汗をかいていた。
潤子が汗を吸ったシャツをはたはたと仰いで乾かそうとしたとき、
『……ジュンちゃん』
「!?」
今度は窓の外から、声がした。聞き覚えのある声だった。
「これって……」
「お母さん……?」
茜もすぐに気づき、困惑の表情で窓を見つめた。
『ジュンちゃん、もう帰ってるの?』
窓の外から聞こえてくるのは紛れもなく潤子の母親の声だった。窓越しでの声のはずなのに、妙にはっきりと聞こえた。
『ジュンちゃん、ジュンちゃん。もう帰ってるの? 帰ってるなら、開けて』
間髪をいれず、こちらに呼びかけてくる。
なんでお母さんがベランダ……それも、さっきから「奴」がいたであろうベランダにいるんだろう……?
「……お母さん?」
『ジュンちゃん、ジュンちゃん』
コンッ…… コンッ……
声の主が窓をノックし始めた。そしてただひたすら潤子の名前を呼ぶ。声色は確かに自分の母親の物だとわかるが、何故そこから声がするのかわからない。
何度も何度も、同じ抑揚で呼ばれるうちに、流石におかしいと二人は思った。それと同時に恐ろしい想像が頭を支配した。
外にいるのはお母さんじゃないのではないか?
『ジュンちゃん……ジュンチャン』
潤子はようやく、この声の違和感の正体に気づいた。
この声は、先ほど携帯電話に入っていた留守電の音声と同じだ。同じ音声をリピート再生するような不自然な呼びかけ。これは母親のものじゃない。
『ジュンチャン、アケテ。ジュンチャン、アケテ』
声は徐々にペースを上げ、それに合わせて窓のノックも激しくなっていった。先ほどと同じ重たい音、今にも窓が突き破られそうな音が部屋に響いた。
『ジュンチャンアケテジュンチャンアケテジュンチャンアケテジュンチャンアケテジュンチャンアケテジュンチャンアケテジュンチャンアケテジュンチャンアケテジュンチャンアケテジュンチャンアケテジュンチャンアケテ……』
ドンッ! ドンッ! ドンッ! ドンッ!
もう震えることしかできなかった。窓が叩かれる度にゆらりゆらりとカーテンが靡き、外からの光でそれがスクリーンのようになった。カーテンに奴の動きが影絵のように映り、それから目が離せなかった。
奴の身体は信じられないほど細く、それに不釣り合いな大きな頭を、窓に手をついて打ち付けていた。
ドンッ! ドンッ! ドンッ! ドンッ!
もう限界だ。壊れた音楽プレイヤーのように母親の声で自分の名前を連呼しながら、窓に頭を打ち付けている何者かの姿を見ていると気が狂いそうだった。潤子はいつの間にか奴の狙いが茜から自分になっていることを少しだけ恨んだ。茜も潤子の隣でガタガタと震えている。
体の中の全てを吐き出しそうなほどの緊張。窓枠が軋むほどの音で気が遠くなり、意識を失いそうになったその時、
「ニャァァァァァアアぁぁーーッ」
部屋の襖を押し開け、白い猫が飛び出してきた。ダイアニャだった。
ダイアニャはカーテンと窓の隙間に入り込み、めちゃくちゃに鳴いた。猫ってあんなに鳴くことあるのか、と飼い主である潤子ですら思った。ダイアニャは窓を前足で叩きながら吠え、外にいる何者かを威嚇した。カーテンの中で彼が暴れたとき、カーテンがふわりと舞い上がり、外の様子が伺えた。そこには、ぞっとするほど青白い、痩せ細った女の物と思しき足が見えた。
しばらくダイアニャが鳴きまくると見えていた足がすぅっと消え、母親の声も窓を叩く音も聞こえなくなった。