弐
「どこ行ったのよ、あのバカ」
悪態をつきながら後ろや物陰に彼女がいないか探す。数時間前に日も落ちている上、雨が降っていることもあり、この中を探し回るのは無理があった。どうしようかと腰の辺りに手を置いた時、ポケットに堅い感触があった。
「あ、ケータイ」
携帯電話という連絡手段を持っていたことをすっかり忘れていた。潤子は雨で濡れることも構わずに一世代前の折り畳み式の携帯電話を取り出し、彼女からの連絡が無いか確認した。
不在着信、一件。眩しいぐらいのバックライトで光る画面にはそう表示されていた。
「……って、お母さんじゃん……」
期待外れの連絡先に肩を落としたが、一応録音されたメッセージを確認した。今家にいるかどうか、今日は仕事で帰りが遅くなるという内容だった。潤子の母親が仕事で帰りが遅くなるのはけして珍しいことではない。
「つまんないことで電話してくんなよ全く……」
パチンと電話を閉じ、それをポケットにしまう。防水でもなければ防滴でもない携帯電話なのだが、もう変え時だと思っていたので大して大事に扱わなかった。
「ウチの場所、覚えてたらここに来るよね……」
もしかすると先に自分の家に来ているのでは?
そう考えた潤子は自分と母親が住む団地まで帰ってきていた。三階建ての横に長い建物の正面はボンヤリとした光が点々としており、その光は真ん前にある公園をわずかに照らしていた。その公園唯一のアスレチック、ピンクの象の滑り台は雨で濡れたことで、妙な光沢を持たせていた。
駐輪所とゴミ置き場の間を進み、やっと屋根のある場所にまでたどり着いた。乾いたコンクリートの床に濡れた靴で足跡を作りながら階段を登る。潤子の家は二階の端から二番目の部屋だった。二階まで階段を上がると、踊り場のところに髪も制服も濡れそぼった茜がうずくまっていた。
急いで駈け寄り声をかける。冷え切った身体をぶるぶると震わせ、口を微かに動かしてうわ言のように何かつぶやいていた。
肩を揺すって顔をこちらに向けさせると、顔をくしゃくしゃにして潤子に抱きついた。
「ジュンちゃぁん~……」
「もう、先行くなら言ってよ。……探しちゃったじゃん」
でもよかった、と優しく抱き寄せた。
「さっさと部屋に入ろ。今は多分お母さんはいないと思うから」
「うん……。鍵掛かってたから入れなかった……」
再会できた喜びからか、茜は駅からの道よりかは落ち着きを取り戻したようで、やや笑みを見せながら言った。さぞ心細かっただろうが、やはり芯の強い子だと潤子は思った。
ポケットから鍵を取り出し、鍵穴に刺しこむ。鍵の突起が金属に擦れる鈍い音に続いて、心地よい開錠の音がドアに響いた。所々塗料が剥がれたあずき色の扉が重々しく開かれた。
「ただいま」
「お邪魔します」
入ってすぐの壁にある玄関照明のスイッチを点け、濡れた靴を脱ぐ。狭い廊下の左右には段ボールが積まれ、その上に洗濯物と思しき衣類が重ねられていた。
「ゴメンね、散らかってて。……ダイアニャはどこにいるかな」
ダイアニャとは潤子が小学校の時から飼っている雄猫の名前だ。このアパートはペット禁止のはずだが、同じアパートの人から譲り受けたようだ。『ダイアニャ』という名前は当時潤子が付けた名前だが、その時は雌だと思っていたらしい。
「あ、ご飯はもう貰ったみたいだね」
小さなテーブルが置かれたダイニング。部屋の隅に用意された猫の食事スペースに置かれた空の器を拾い上げ、潤子は流し台へ持っていく。その後ろ姿を見ているとその足元を白い毛の塊がすっと通り過ぎた。
「そこにいたかダイくん」
「ダイアニャ、久しぶりだね」
茜が手を伸ばすとそれを嫌がるように顔を背け、テーブルと椅子の足を抜けて、真っ暗な部屋の奥へ逃げて行ってしまった。
「あっ……」
「逃げたの? アイツ、何照れてんだか」
けして照れているわけではないだろうが、そう言ってみた。今まで久しぶりと言えどこんな露骨に避けられたことはなかったので、茜は少しショックだったようだ。
「今あったかいお茶入れるから、部屋で待ってて」
「ありがと。……っ」
茜はダイニングから見て右側の襖、潤子の部屋へ行こうとしたが部屋の中を見て少し躊躇った。
「やっぱりここにいるよ」
「?」
何が気になるのか知る由もない潤子は不思議そうな顔でそれを見ていた。
お茶を注ぎ終わるとそれを盆に載せて持ち上げた。酒の瓶や何やらで足の踏み場が少ないキッチン、ダイニングを抜け、これまた狭い襖の間をなんとか盆を潜らせ、部屋の中央にある黒いミニテーブルに置いた。それに続く様に茜が入ってくる。
「とりあえず濡れた服脱いじゃって。服貸すから。えっと……これでいい?」
「うん。ありがと」
年季の入った大きな黒いたんすから適当な服を取り出し、茜に渡すと自分もパーカーを脱ぎ、部屋着に着替えた。濡れた服をハンガーに通してカーテンのレールに掛けようとした。その時、
「あ。カーテンも閉めないとね」
独り言のように呟き、ベランダに続く大きな窓のカーテンを閉めた。そしてその上から濡れた服を掛ける。
「ちょっと隣の部屋のカーテンも閉めてくるね」
まだ着替えている途中の茜にそう言うと襖を抜けて足早に隣の部屋へ移動した。
茜がいる部屋と壁一つを挟んだ母親の部屋には、衣類やら本やらがそこら中に散らばり、さらに部屋干しされた洗濯物から独特の匂いがする。電気をつけると母親の布団の上で猫が我が物顔で寝ていた。
「茜は今落ち込んでんのに。優しくしてやれよ」
意図が伝わる期待もせずに人語で忠告。何言ってるんだとばかりに欠伸をされ、軽く蹴飛ばす。寝床を荒らされた猫はぶすっとした顔で洗濯物の山を陣取り、再び丸くなった。
「のんきな奴……」
気にせずに窓へ近づき、カーテンを閉めようとする。まだ降り続きそうな雨が潤子をさらに憂鬱にさせた。
「……?」
その時、窓の外に妙なものが見えた。
窓の外には道路を一つ跨いで民家があり、向かいに見える家の窓からは光が漏れていた。道路には傘を差して歩く人が一人。それ以外はとくに人の気配を感じさせる物は何も見えないのだが、左右に見える二本の電信柱。そのうちの遠くにある方。
顔があった。
暗がりにぼんやりと浮かぶ白い顔が電柱から半分だけこちらを覗いていた。
雨が降っていて視界が悪く、とてもこの距離では見ることができないはずだが、その顔は暗闇に浮かぶようにして表情まではっきりと見え、明らかにこちらを見つめているのがわかる。
その顔がある位置は潤子の目線とほぼ同じ高さ。ここは二階だから、約七メートルと言ったところか。そんな高さの位置に人の顔があるわけがない。
人間じゃない。
そうわかった瞬間、茜はすぐさまカーテンを閉じた。急いで茜のいる部屋に戻り、襖を閉めた。そして部屋の真ん中で縮こまってお茶を飲む茜に詰め寄った。血相を変えて戻ってきた潤子を茜は小動物的な大きな二つの目を丸くして見つめた。
「何アレ……」
「えっ?」
「……電柱から覗いてた、アイツ……何?」
それを聞いた瞬間、飲んでいたお茶を手から落とし、畳の床に零した。そんなのお構いなしに、潤子はさらに聞いた。
「なんなのアレッ? 人間じゃないよね」
せっかく泣き止んでいたのに、茜は再び泣き出した。
「わかんないよぉッ」
「私だって! アンタは昔からあんなのを……ッ」
潤子は何か言いかけたがそれも茜の様子を見て強くは言えなかった。茜は耳を押さえて固く目を瞑り、うぅぅと喉を鳴らした。何も聞きたくない、何も見たくないという拒否を表す姿勢。よほど怖いのだろう。潤子だって怖かった。泣くことは無かったが、歯を軽く噛み合わせ、複雑な表情をしていた。
「……ねぇ、アイツが付いてきたから、私に頼んだんでしょ」
すすり泣きが落ち着いたのを見計らって尋ねる。
「だったら、アイツがどうしてアンタに付いたのか聞かせてよ」
「……わかった」
茜は決心したようで、すんすんと鼻を鳴らし、かすれた声で言葉を搾り出し、ぽつぽつと話し始めた。