夫の愛人が、私の離縁を止めに来た
門の向こうで、女の声が裏返った。
「奥様。離縁だけは、おやめください」
ロゼルナが足を止めると、門番が女の前に立った。昨夜まで、夫の隣で笑っていた愛人だった。
「何のおつもりで、ここへ。奥様はお出かけだ」
「お金を、まだ――」
「恥を知れ。旦那様を奪っておいて」
「待って。今、お金とおっしゃった?」
ロゼルナが尋ねると、門番は口を閉じた。女は唇を噛んでいた。
「私の夫を、そんなに手放したくないの?」
「違います。離縁されたら、私、もらえないんです」
化粧をしていない頬を、涙が伝った。
「ですが奥様、この女の話など」
「まだ、何も聞いていないわ」
門番へそう言ってから、ロゼルナは女に向き直った。
「名前を教えてください」
「ミエラです」
社交界では、別の名で紹介されていた。
「ミエラ。中で聞かせて。ここでは落ち着かないでしょう」
玄関の小間へ通すと、ミエラは膝に載せた鞄を抱きしめた。
「下宿のお金も、もう待ってもらえなくて。三か月、働いたのに」
「何をすれば、お金をいただける約束だったの?」
ミエラはすぐには答えなかった。窓辺の時計が、壁の中を小さく叩いている。
ロゼルナは向かいの椅子に座った。外出用の帽子を脱ぐ。急いで追い返すつもりはないと、伝わってほしかった。
女の睫毛には、昨夜と同じ長さの影がなかった。あれほど鮮やかだった唇も、冷えて色を失っている。
夫はリリアと呼んでいた。
君たち、仲良くしてくれよ、と。
ロゼルナが何と答えればいいのか探しているうちに、二人だけで笑い合った夜を思い出す。
「旦那様に、雇われました」
ミエラの指が鞄の口から離れた。
「奥様を、嫉妬させる役を」
嫁いで三年になる。
新婚の頃、ケルヴァントは帰宅するたびにロゼルナを捜した。玄関で迎えれば、客に見せるのとは違う、少し幼い笑みを見せた。
今日、どこで何を食べたのか。庭の花が咲いたか。そんなことを話しながら食卓についた。
ロゼルナは彼の話を聞くのが好きだった。
屋敷の庭を整えたのも、朝の食事の時に花が見えると、彼が喜んだからだった。
少しずつ、帰りが遅くなった。
待たなくていいと言われた。部屋に戻って待つようにすると、最近は迎えにも出ないと笑われた。
何をすればよかったのか、いまだに分からない。
それでも翌朝には、彼の好む卵の焼き方を料理人に頼んでいた。
結婚記念日の夜は、彼の外套から冷たい夜気が流れ込んできた。
「もうお出かけになるの?」
「呼ばれているんだ」
「食事だけでも、一緒にと。今朝、お話ししたでしょう」
食堂では、湯気の立つ皿に蓋をかけたところだった。甘く焼けた玉葱の匂いが、廊下まで出てきていた。
ケルヴァントは留め金を直して、ロゼルナの顔を覗いた。
「そこまで言うなら、断ってこようか」
声が弾んでいた。
彼は、客を待たせていると言った。急に断れば先方の顔を潰すとも。その相手にはリリアもいるのかと尋ねると、肩をすくめた。
「君が嫌だと言うのなら、仕方ないけれど」
「……お気をつけて」
そう言って、通した。
蓋を取った時には肉の脂が固まりかけていた。食器を下げようとする侍女に、一人でもいただくわと答えたことを覚えている。
一口目の味は、覚えていない。
昨日の夕方、二人で役所へ行った。
その少し前に叔母のベリーズへ、離縁を考えていること、当分の住まいを借りたいことを伝えた。
叔母は、戻りたいと言われてもよいように部屋は空けておくわ、と答えた。
急いで次の結婚を決める必要もないと。
ロゼルナは叔母の膝に顔を埋めたくなった。けれど、別れたいと夫に話すまでは、泣くのを待とうと思った。
屋敷へ戻って離縁を申し出ると、ケルヴァントはしばらくロゼルナの顔を見つめた。
「本気で言っているのか」
「はい」
「僕がリリアを選んだら、どうする」
「私は、叔母の家へ移ります」
彼は笑った。
「分かった。君が望むなら」
役所で係官は、持参金の返還と私物の持ち出しについて合意したかを、二人へ順に尋ねた。
ロゼルナが持ってきた財産はロゼルナへ戻す。二人で積み上げた家の物についても、受け取る範囲をその場で確認した。
夫は頷き、先に署名した。
「届出はどちらがお持ちになりますか」
「私が、明日」
答えたロゼルナに、係官が紙を向けた。
「これを受理した時に、離縁が成立します。奥様だけで届けていただけますが、署名をなされば御主人もその扱いに同意したことになります」
ケルヴァントはペンを置き、椅子の背にもたれた。
「構わない。彼女の好きにさせてくれ」
ロゼルナは彼の名前の隣へ署名した。
帰りの馬車で、彼は窓の外を眺めたまま言った。
「明日には、持って戻ってくるよ」
何をかとは尋ねなかった。
「僕は君に、もう少し素直になってほしいだけなんだ」
ロゼルナは鞄の留め金を閉じた。
紙を破る音を、彼は待っていたのかもしれない。
もう一度お願いすれば、あの頃の彼が戻るのかもしれない。
そんな期待がまだ胸に浮かぶことに、一番疲れていた。
小間の時計が鳴って、ロゼルナは目を上げた。
ミエラの前の茶が、口をつけられないまま冷めていく。
「愛人を、演じていたの?」
「はい。町の芝居小屋で、前はお芝居をしていました。王都でも役者の仕事を探していて」
出された紙は、折り目の部分が薄くなっていた。
ロゼルナは、手渡されるのを待ってから開いた。
ミエラの名と、夫の名があった。日付は、三か月前。夜会や食事に連れ立ち、妻の前で夫へ好意を示す、と書かれている。
最初に払う分と、仕事を終えた時に払う残りの分。後者の方が多かった。
「ここに私があの人に縋るまで、と」
「そうです。怒って行かないでと言って、旦那様から離れたくないと。そうなれば終わりだと言われました」
ロゼルナは紙の上から顔を上げた。
「あなたは、それで引き受けたのね」
「初めは奥様もお芝居だと知っているんだと聞きました」
ミエラの声が細くなった。
「驚かせるのがお好きな御夫婦だと。夜会ではきれいな服も着られて、お金もよくて。だから」
その先を、ロゼルナは待った。
「いつ、違うと思ったの」
「奥様が、笑わなくなった時です」
両手の親指がこすり合わされた。
「一度、お化粧を直しに行くと言って席を立たれましたね。私、後から行ったんです。鏡の前に、奥様がいて」
ロゼルナの喉が狭くなった。
昨月の夜会だった。目の縁を押さえても赤みが消えず、誰にも見られないうちに戻らなければと思った。
背後の扉が開いた時は、鏡を見ずに部屋を出た。
「分かってからも、続けたのね」
「……はい」
「昨日も」
「はい」
ミエラは膝の上で頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
すぐに許す言葉は出なかった。
ロゼルナが部屋を出た後、夫と何を話したのか。泣いていたと報告したのか。それを聞いて彼は笑ったのか。
知りたくないことが、次々と浮かんだ。
「全部お支払いをいただかないと、帰るお金もなくて。旦那様に、やめたいと言ったんです。でも、奥様が縋るまでは終わっていないと」
ミエラは鞄から、もう一通出した。
「今夜、来るようにと言われていて」
招待状には、夫の母や友人を迎え、夫婦の仲を改めて祝うという短い文があった。妻を迎え直す、という言い回しが、夫の筆で記されている。
昨日、役所に行く前の日付だった。
「私には、今夜も旦那様と一緒になると言いなさいと。奥様が、今度こそ泣いて止めるからって」
ロゼルナは招待状を卓へ置いた。
紙。署名。招待状。
そのどれにも、彼女が戻りたくない場合の行先はなかった。
夫は今朝、母の別邸へ先に顔を出し、宴の用意をするからと言って出かけていた。
何を用意するのか、ロゼルナには言わなかった。
まだ話せば分かることがあるのだろうか。
ちゃんと愛していたんだと聞けば、嬉しくなるのだろうか。
ミエラが息を吸った。
「だから離縁は、もう少しだけ待っていただけませんか」
「それは、できません」
言った途端、ミエラの顔が歪んだ。
ロゼルナは自分の鞄へ、署名済みの届出をしまった。
「今日、届けに行きます」
「奥様」
「あなたへのお金のために、私が妻を続けることはできないの」
ミエラは唇を開き、閉じた。
ロゼルナも、続く言葉を選んだ。
この人を許してはいない。今、親しくなりたいわけでもない。
けれど、目の前で縮こまる女にすべてを押しつければ、夫のしたことを聞く機会まで失いそうだった。
「今夜は、お義母様もいらっしゃるのね」
「……そう書かれています」
「私も行きます。あなたを妻にするつもりがあるのか、御本人に聞きます。あなたは、自分のお金を求めたらいいわ」
「話しても、聞いてくれません」
「ほかのお客様もいらっしゃる前でも?」
ミエラが、卓上の招待状を見た。
「それなら、払ってくださるかもしれません。でも」
「払ってくださると、お約束はできません。あなたが行くのが嫌なら、無理に来なくても」
窓から入った風が、茶の表面を揺らした。
やがてミエラは、控えを自分の鞄に戻した。
「行きます。働いた分は、いただきたいです」
「ええ」
「奥様にしたことも私の口からお話しします」
ロゼルナは頷いた。礼は言わなかった。
立ち上がると、膝にかけていた外套が落ちかけた。急いで押さえた自分の指が、震えていた。
役所の廊下では、靴音がよく響いた。
ミエラとは、夕方に屋敷の門前で落ち合うことにした。帰り道まで一緒にする必要はなかった。
ロゼルナは表通りで辻馬車を雇い、まず叔母の家へ荷物を届けさせた。屋敷の侍女には、自分で包んだ衣類と本だけを運んでもらった。
まだ妻であるうちに、花瓶や食器の数を確かめに戻ろうかと、一度迷った。
あの庭で冬を越す花の植え替えは、誰に引き継ごう。
それも、書き置きをした。水をやる時期も、寒さに弱い鉢を入れる場所も。
今朝、玄関を出る前に、庭師へ手渡してきた。
置いてきたものが、鞄の中の紙よりずっと重かった。
役所の窓口で、昨日と同じ係官がロゼルナを見て、空いている椅子を示した。
「お一人で、お持ちになったのですね」
「はい」
「お気持ちは、昨日と変わりませんか」
芝居だったと分かったのに。
別の女に恋をしたのではなかったのに。
ここへ来る途中、何度も自分へ尋ねたことだった。
夫の外套から、知らない香りがすることが苦しかった。あの香りまで、妻を泣かせる芝居のためだったのだろうか。
背中が冷えた。あの外套へ自分から触れたいとは、もう思えなかった。
「変わりません」
ロゼルナは届出を出した。
係官は両名の署名を確認し、昨日提示した身元の証明も改めて照らし合わせた。財産について合意した別紙も、正本と一緒に受け取る。
ペンの先が紙を走った。
それほど大きな音でもないのに、ロゼルナは机の端を握った。
「受理いたしました。こちらが証書です」
差し出された紙に、自分の名があった。
ロゼルナは両手で受け取った。
昨日は隣に夫がいた。今日は、その場所に誰もいない。
係官に頭を下げて、廊下へ出た。
もう一度、鞄を開けて見たくなる。確かに入っていると分かっているのに。
外へ出ると、秋の日差しが石段に白く伸びていた。
どこかでパンを焼いている。空腹を覚えたのは、朝から初めてだった。
叔母の家では、温かいスープが待っていた。
「顔がこわばっているわ。先に食べましょう」
ベリーズは、何があったかと急いで尋ねなかった。
匙の底が器に触れる度、かすかな音が耳に戻った。塩の味がして、それから、煮崩れた野菜の甘さがした。
食べ終えてから、ロゼルナは今朝のことと、役所で済ませたことを話した。
ベリーズは途中で一度、膝に置いた布を握りしめたが、口を挟まなかった。
「今夜、行くの?」
「はい」
「行かなくても、あなたはもう帰らなくてよいのよ」
「分かっています。でも、私の知らないところで仲直りをしたという話を始めてほしくないんです」
あの人が悪かったと、皆に言ってもらいたいだけなのだろうか。
少しは、そうなのかもしれない。
その気持ちまで見えなくしておくのは、もうやめたかった。
「自分で、違うと言ってきます」
「そう。帰ってくる部屋は、ここにあるから」
ベリーズの声を聞き、ようやく肩が下がった。
ロゼルナは、夫が好きだと言った青いドレスを荷物から出した。着ようとして、やめた。
あの色はまだ嫌いではない。けれど今日のために、選び直したい。
襟の楽な、淡い杏色の一着を取り出した。
「奥様」
門前で待っていたミエラは、昨夜と同じ外出着だった。けれど、夫から贈られたという髪飾りはつけていなかった。
「まだ、そう呼ぶのね」
「ほかに、どうお呼びすれば」
「ロゼルナです」
「では、ロゼルナ様」
言い直してから、ミエラは口を押さえた。
「どうかしたの?」
「旦那様の前では、奥様をお姉様と呼ぶように言われていました」
ロゼルナは足を止めた。自分にもそんな台詞が向けられたことがある。
誰の妹だったのだろう。
記憶の中の、甘く作られた声を思い出す。
「その呼び方は、もうやめていただきたいわ」
「私も、二度と言いたくありません」
ミエラがあまりに真剣に答えたので、ロゼルナは小さく息を漏らした。
笑い声だった。
ミエラも、少しだけ口元を緩めた。
それだけで、隣を歩く相手が昨日とは違って見えた。
広間には、もう客が集まっていた。
見覚えのある顔がこちらを向く。夫の古い友人。近くの屋敷に暮らす夫妻。以前、ベリーズの家で何度も会ったニルヴァンもいた。
男爵家を継いでから王都を留守にすることが増えたと、叔母から聞いている。最後に会った時より、日差しに焼けた顔をしていた。
目が合って、軽く会釈した。
相談しなかったことが、一瞬悔やまれた。けれど、今はまだ、誰に何を言ってもらいたいのか分からなかった。
卓の中央には、祝いの花が飾られていた。
ケルヴァントが好きな、白い花だった。
「ロゼルナ」
夫だった人が、いつもの速さで歩いてきた。
「来てくれると思っていた。リリアも、一緒だったのか」
「ミエラさんです」
「何?」
「お名前は、ミエラさんだそうです」
夫の笑顔がわずかに止まった。
それから彼は、ロゼルナへ声を落とした。
「聞いたんだね。それなら話が早い」
彼の母レアナが、卓の向こうから歩いてきた。
「ようやく揃ったのね。あなたたちのことで、大事な話があると聞いているけれど」
「ご心配をおかけしました、母上。ちょっとした行き違いです。今日は、そのお詫びを」
「私からも、お話ししたいことがあります」
ロゼルナが言うと、レアナは彼女とミエラを交互に見た。
「では、先に聞きましょう。食事の前がいいわね」
夫が頷いた。
「もちろん。僕から、ちゃんと説明するよ」
彼はロゼルナの背を押そうとした。
ロゼルナは自分で席へ進み、腰を下ろした。
ケルヴァントが、隣に立とうとした。
彼女は椅子を引かなかった。
「座る場所なら、あちらに」
向かいの席を示すと、彼の手が宙に残った。
「まだ怒っているのか。全部、芝居だったと聞いただろう」
「ええ。あなたのお金で、私を泣かせるお芝居を」
客のひとりが、手にした杯を置いた。
「言い方が悪い。君が僕を好きか、確かめたかっただけだ」
ケルヴァントは笑いかけた。夜会で別の女の腰を抱きながら、同じ顔で彼女を見ていた。
「僕も辛かった。君が一度でも、行かないでと言ってくれれば」
「言いました」
喉がひりついた。今度は、飲み込まなかった。
「結婚記念日の夜に。食事だけでも、一緒にと」
「それは……だから、君はもっと、はっきり」
「帰ってきてほしいと、私は言いました」
ケルヴァントは唇を舐めた。
「そういう意味だとは、思わなかったんだ。君はいつも、行ってらっしゃいと言うから」
「あなたが行きたいと言ったからです」
「だったら、行かせたくないと言ってくれよ」
卓の上の花が、彼の袖で揺れた。
いつも、もう一つ違う答えがあったことにされる。
食卓でも、門口でも、夜会でも。彼の望む返事をしなかったロゼルナばかりが、悪いことにされる。
「私が何も言わないとおっしゃるなら、それは違います」
言い終えた自分の声を、聞いた。
レアナが、息子へ顔を向けた。
「ケルヴァント。芝居というのは、どういうこと」
「リリアには、僕と親しくする役を頼んだんです。それだけですよ。彼女と寝たこともありません。だから、ロゼルナが心配するようなことは」
ミエラが息を吸った。
「今夜もあなたの妻になりたいと言うよう、お命じになりましたね」
「君は黙っていろ」
「奥様があなたに縋るまで、残りは払わないと」
ケルヴァントが立ち上がった。椅子が床を引っかいた。
「ロゼルナ、こんな女の話より僕を信じてくれ!」
「その方を選んだのは、あなたです」
卓の向こうで、彼の母が顔を伏せた。
ケルヴァントは、振り向いたまま動かなかった。
ミエラは、鞄から控えを出した。
「初めはこの仕事を奥様も御承知だと聞きました。違うと分かってからも、私が続けました。そのことは、ロゼルナ様にお話ししました」
彼の母へ紙を差し出す。
「私への約束も、お話ししてよいですか」
レアナは紙を受け取ってから、息子を見た。
「あなたの署名ね」
「払いますよ。金の話は後でいいでしょう。僕は、妻と話しているんです」
「では、私の話を聞いてください」
ロゼルナは鞄から紙を出した。昼に役所で受け取った、離縁の証書だった。
ケルヴァントの顔が、紙へ近づいた。
「提出したのか」
「はい」
「どうしてだ。愛人なんて、いなかったんだぞ」
彼の声を、三年、食卓で待っていた。今はもう、聞きたい言葉がなかった。
「愛人がいなければ、私が泣いた夜もなかったことになるのですか」
彼の口が動いた。声にはならなかった。
広間の奥から、食器の触れ合う音が届く。食事の支度は、まだ進められていた。
「ロゼルナ。僕は、君を」
「好きだとおっしゃっても、私は帰りません」
自分で言うと、胸が痛んだ。
あれほど待っていた言葉を、聞かずに止めた。
「昨日、あなたが署名したものを届けました。今日から、あなたの妻ではありません」
「昨日のことは、そういうつもりじゃ」
「係の方は提出すれば成立するとお話しくださいました。あなたも、お聞きになったでしょう」
「知っている!」
初めて、声が広間に跳ね返った。
ケルヴァントは、すぐに音量を落とした。
「君は、持って戻ってくると思ったんだ」
「戻りませんでした」
彼は母を見た。それから客を見た。
誰も、笑わなかった。
ロゼルナは証書を鞄に戻した。
ミエラが小さく頭を下げる。
「ロゼルナ様。朝はお話を聞いてくださって、ありがとうございました」
ケルヴァントが、その声に振り返った。
ロゼルナはもう、椅子を引いていた。
立ち上がると、膝が少し頼りなかった。
「待ってくれ。こんなふうに、みんなの前で終わらせることはないだろう」
「今日は何を祝うとお招きになったのですか」
ロゼルナが尋ねた。
ケルヴァントは口を閉じた。
彼の母が、卓に置かれた招待状を自分の前へ引いた。
「夫婦として迎え直す、と。私は聞きました」
「そのつもりだったんです」
「ロゼルナさんへ、先にそうお話ししたの?」
「彼女は分かって」
「聞いていませんでした」
ロゼルナは、レアナに向かって答えた。
「今朝ミエラさんの招待状を見せていただいて、初めて」
レアナの口元がきつく結ばれた。
「来てくださって、ありがとう。先に私が、あなたに確かめるべきでした」
謝罪を受けると、喉の奥に固まっていたものが緩んだ。今ここで、泣きたくはなかった。
ロゼルナは頷くだけにした。
「母上、少し大げさに受け取られていませんか。仲直りをしようと思って、こうして準備したんですから」
「今、断られたのを聞いたわ」
レアナは、ミエラへ向き直った。
「あなたへの残りは、どれだけなの」
ミエラが金額を答えた。母は控えを見直し、息子の前へ置いた。
「ケルヴァント。払いなさい」
「契約では、まだ」
「その条件をここでもう一度、声に出してお読みになる?」
彼の指が紙の端を押さえた。
ロゼルナは、鞄を持つ手を緩めた。
夫婦の食卓へ戻るまで、妻が縋るまで。自分の痛みが、この人の仕事を終わらせる合図にされていた。
それでも、彼女の賃金の額を決めるのはロゼルナではない。
「払えばいいんでしょう」
ケルヴァントは財布を出した。卓へ貨幣を置きかけると、ミエラは小さな革袋を開いた。
「こちらへ、お願いします」
卓を転がる物を拾わなくて済むように、袋を差し出していた。
彼は乱暴に入れた。金属の音が、短く重なった。
ミエラは袋の中を確かめ、控えの余白に受け取った額と自分の名を書いた。レアナに見せてから、ケルヴァントへ渡す。彼は記された額を確かめ、控えを返した。
「もう、これで終わりだ」
「はい。これで、仕事を終えます」
彼女は袋をしまった。
レアナが、ロゼルナに視線を戻した。
「お帰りは、一人で大丈夫?」
「馬車を待たせてあります。叔母の家へ戻ります」
「そう。ベリーズ様にも、よろしくお伝えして」
レアナはそれ以上、引き留めなかった。
ミエラは、ロゼルナへもう一度頭を下げた。
「許していただこうとは、思いません。お顔を見るのもお嫌でしょうから、もうこちらへは参りません」
何か立派な返事ができればよかった。
けれど、ロゼルナはまだ、夜会の鏡の前にいた自分を忘れられない。
「分かりました」
それだけ答えた。
ミエラは、背を伸ばして広間を出た。夫の隣へ戻らずに。
古い友人の一人が、ケルヴァントへ近づいた。
「帰るよ。今日は、祝えない」
「何を言っている。食事も、まだ」
「また何かあったら、先に奥さんの話を聞け。……いや、もう、奥さんではないのか」
友人は言い直し、ロゼルナへ一礼した。
ニルヴァンも、近づいてきた。
「お気をつけて、ロゼルナ様」
「ありがとうございます」
彼の目にどう映っていたのかは、尋ねられなかった。聞く余裕がなかった。
ただ、憐れむ言葉を急いでくれないことが、ありがたかった。
ロゼルナが扉へ向かうと、背後で別の客が椅子を引いた。
「お待ちください。皆さんまで帰ることは」
ケルヴァントの声が追ってきた。
けれどそれはもう、ロゼルナを呼ぶ声ではなかった。
給仕が、食堂へ運ぶ皿を抱えたまま、戸口を空けた。
蓋の下から、煮た肉の香りがした。
今日は、待たずに出た。
翌朝、ベリーズは食卓で、小さく唸った。
「何か、困ったことが?」
「昨日の宴は、料理もお菓子もずいぶん用意していたのでしょう。ロゼルナ、誰が片づけるのかしら」
叔母は、余った物を捨てるのを嫌う。幼い頃に遊びに来た時も、帰りには必ず包みを持たされた。
ロゼルナは、自分の前のパンを割った。
「あの家の心配は、今日で終わりにします」
「それがいいわ。考えなくてよいことを増やしましょう」
「叔母様が、先に考えていらしたのに」
「そうだったわね」
ベリーズが笑った。
ロゼルナも笑うと、焼いたパンの端が口の中でほろりと崩れた。
食べられる。味が分かる。それだけで、目頭が熱くなった。
叔母は見ないふりをして、紅茶を注いだ。
財産の受け渡しを終えるまで、ケルヴァントから手紙が来た。
ロゼルナは叔母に読み上げてもらわず、自分で開いた。必要な物の受け取りを済ませ、別にした私的な手紙には返事を書かなかった。
来訪を求める使いが来た時も、面会は望まないと、自分で伝えた。
庭師から届いた短い知らせには、冬を越す鉢の置き場所が書かれていた。
夫へではなく、庭師へ礼を書いた。
今度の家でも花を育てようと思ったが、すぐには始めなかった。まず、自分の部屋の窓から何が見えるかを、ゆっくり眺めたかった。
ミエラからは、ひと月ほどして封書が一度届いた。
中には、短い謝罪と、下宿代を払い、故郷へ戻るという報告があった。新たな仕事はまだ決まっていないとも書かれていた。
ロゼルナは最後まで読み、引き出しにしまった。
彼女がその後、よい人になったのかは分からない。自分がいつか許せるのかも、まだ分からなかった。
返事を書かずにいることを、叔母は責めなかった。
冬の初めに、ニルヴァンがベリーズを訪ねてきた。
前から頼まれていた領地の果物の届け物があるという。叔母が使いの者と別室で話している間、ロゼルナは彼と茶を飲んだ。
「お久しぶりですとは言えませんね」
ニルヴァンが言った。
「ええ。あの晩は、お騒がせしました」
「またこうしてお茶をいただけて嬉しいです」
「私もです」
彼が昔と変わらない笑顔を見せたので、ロゼルナも口元を緩めた。
「では、どのお菓子からいただきましょうか」
ニルヴァンは卓上の菓子に目を落とすと、妙に真剣な顔になった。
「何か、お嫌いな物でも?」
「いえ。どれも、きっとおいしいと思います」
「それでは、お答えになっていませんわ」
ロゼルナが笑うと、彼の眉が下がった。
「甘い蜜漬けは、少し苦手なのです。果物の味が、分からなくなるので」
「あら。まだ、そうおっしゃるのね」
「覚えていらしたんですか」
覚えていた。
結婚する前、叔母の家で、彼が同じような顔をしていた時を。
皆がおいしいと褒めるので、皿を下げてよいか尋ねられて困っていた。ロゼルナが好きならいただいてもよいかと尋ねると、とても助かった顔をした。
「私は、好きです」
「ええ。それも、覚えています」
ニルヴァンが、自分の前の蜜漬けを彼女の側へ寄せた。
「お嫌でなければ」
「いただきます」
蜜のかかった一切れを口へ運んだ。舌に触れた甘さが、すぐに溶けた。
向かいで彼は、茶を飲んでいた。
同じ物を好きだと言わなくても、会話は途切れなかった。
それから、彼が叔母を訪ねる日は楽しみになった。
領地の仕事で王都へ来ない間は、話しかけようとして、いないことに気づく日があった。
次に来たら、あの話の続きを聞きたい。
菓子店で酸っぱい砂糖菓子を見つけると、彼なら好きだろうかと考える。
その気持ちをベリーズに話すと、叔母は茶をこぼしかけた。
「どうして、私に許可を取るの」
「取っていません。お話ししただけです」
「では、その話を本人にもなさい」
ロゼルナは頬を押さえた。
叔母は、いかにも何も聞いていないという顔で、新しい茶を淹れ直した。
春になった。
窓を開けていても、茶がすぐには冷めなくなった午後、ニルヴァンが訪ねてきた。
いつもなら叔母の席がある場所に、今日は誰もいなかった。
「ベリーズ様は、夕方までお帰りにならないと」
「ええ。私も、今朝聞きました」
出かける用事を知った時、いつものように日を改めますと手紙を書きかけた。けれど、彼と会いたいのは自分なのだ。
手紙を出すのをやめた。
ニルヴァンは、持参した本を卓へ置いた。先月、二人で話題にした旅行記だった。
「最後の町に、菓子の市が出るそうです」
「それだけで、買っていらしたの?」
「いえ。橋の造りについても、少し」
「少し」
「……菓子の方が、気になりました」
素直に答えるので、ロゼルナは笑った。
今日持ってきてもらうよう頼んだのは、この本だった。次に読みたいからと伝えると、彼は領地から忘れず運んできた。
「こちらも、お約束のものです」
包み紙が、かさりと鳴った。
「酸っぱい方です。まだ、お好きかと思って」
ロゼルナが差し出した橙の砂糖菓子に、ニルヴァンの目が丸くなった。
「覚えていてくださったんですか」
「蜜漬けのお皿を、ずっと睨んでいらしたもの」
「睨んでは。少し、残念だっただけで」
彼は一つ口に入れ、眉を寄せた。
「そんなに酸っぱい?」
「ええ。これは、いいですね」
思わず笑うと、彼も笑った。
「私は、こっちの甘い方が好きです」
「では、それはロゼルナ様に」
彼が皿を寄せる。彼女は膝の上で指をほどいた。
「ニルヴァン様はどうしていつも私のお話を聞いてくださるの」
「面白いからです」
返事は思ったより早かった。
ロゼルナは瞬いた。
「そんなに愉快な話を、しているかしら」
「甘い菓子がお好きでも、私が酸っぱい方を好きだと言えばどんな味なのか聞いてくださるでしょう」
ニルヴァンが菓子を一つ、つまんだ。
「あの晩、広間でお会いした時も。あの女性が話し終わるまで、お待ちになっていましたね」
「待ちたい話ばかりでは、ありませんでした」
「はい。ですから昔もこうして、私の話を聞いてくださったなと。その時、思い出しました」
そんなことまで覚えているのかと、ロゼルナは顔を上げた。
彼は菓子を口に運ばず、手にしたままだった。
「もう少し、私もお話ししてよいですか」
「ええ」
「ベリーズ様へ挨拶に来る日を、楽しみにしていました。あなたと会えるので」
庭で鳥が鳴いた。
その一声が、耳のすぐ側で弾けたようだった。
ニルヴァンは、ようやく菓子を皿へ戻した。
「御迷惑でしたら」
「次は、二人でお店へ行きたいわ。叔母様への挨拶のついでではなく」
言い切ってから、胸が跳ねた。
今の声は、震えていなかっただろうか。
ニルヴァンが身を起こした。
「明日でも、よろしいですか」
返事が早すぎて、今度は彼の方が赤くなった。
「ずいぶん、お急ぎなのね」
「……ずいぶん、待っていましたから」
ロゼルナは頷いた。
明日の話を、もう少ししたかった。何を着よう。どの店から回ろう。甘い菓子と酸っぱい菓子の、どちらもある店がよい。
包み紙が、かさりと鳴った。
ロゼルナは、自分のための菓子を選んだ。
白い皿に、甘い橙が残っていた。




