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年金通知書の一行

掲載日:2026/10/01

郵便受けから取り出した圧着ハガキの端を、修三は人差し指の爪で慎重にめくった。ペリペリと紙のはがれる音が、玄関の静けさに乾いて響く。


『年金振込通知書』。待ちに待った通知だった。


「これでやっと、肩の荷が下りる」


先月、四十年余り勤めた中堅建材メーカーを完全退職した。六十歳で定年を迎えた後も、雇用延長で六十五歳まで愚直にタイムカードを押し続けた。現役時代と比べれば給与は六割以下に激減し、かつての後輩に頭を下げ、痛む腰を湿布でごまかしながら耐え抜いた五年間だった。それでも「これを乗り越えれば、人並みの老後が待っている」と自分に言い聞かせてきた。


年金は額面で月二十万円、年額二百四十万円になるはずだった。退職金で板橋区の分譲マンションの住宅ローンは完済した。現役時代に比べれば質素な暮らしになるだろうが、ひとり暮らしなら十分にやっていける。たまには駅前の赤ちょうちんで刺身をつまみ、熱燗を一杯やるくらいのささやかな楽しみは残ると思っていた。


だが、ハガキの内側に印字された数字を目にした瞬間、修三の息が止まった。


**差引支給額:143,200円**


「……は?」


喉の奥から乾いた声が漏れた。老眼鏡を押し上げ、何度も目をこする。二十万円ではない。十五万円の大台にすら届いていなかった。


明細を目で追う。介護保険料、国民健康保険料、所得税、住民税。容赦のない項目がずらりと並び、額面から五万六千円以上が根こそぎ削り取られていた。


「何かの間違いだろ」


受話器をひったくるように掴み、年金事務所へ電話をかけた。呼び出し音が十数回鳴ったあと、事務的で落ち着き払った女性の声が応対した。


「あの、通知が届いたんですが、振込額が十四万三千円ちょっとしかなくて。二十万円と聞いていたんですが……」

「恐れ入ります。前年にお勤め先での給与収入はございましたでしょうか」

「ええ、延長雇用で三月までフルタイムで働いていました」

「なるほど。前年にしっかりご収入があったわけですね」


職員は淡々と、しかし手慣れた調子で制度の仕組みを並べ立てた。

住民税と国民健康保険料は「前年の所得」を基準に計算されるため、退職直後の初年度は、現役時代の高い水準に基づいた負担がそのまま年金から差し引かれるのだという。さらに、単身で年金二百四十万円という水準は控除枠を超えやすく、保険料の算定段階も上がってしまうのだと。


「二年目以降は、退職後の年金収入のみで再計算されますので、手取りは十七万円前後に戻るかと思われますが……初年度はどうしても、このような差引額になってしまいます」

「……そうですか」


電話を切り、修三はリビングのパイプ椅子に崩れ落ちた。膝の上には、冷たい数字の並んだハガキが転がっている。


月十四万三千二百円。

家賃はない。だが、マンションの管理費と修繕積立金で毎月二万五千円が消える。水道光熱費で一万二千円、通信費で八千円。固定費だけで四万五千円が差し引かれ、手元に残るのは九万八千円。


三十日で割れば、一日あたり約三千二百円。食費を削り、日用品を切り詰めたとしても、不意の医療費や年に一度の固定資産税を考えれば、一円たりとも無駄にはできない。


「熱燗どころじゃないな……」


自嘲の笑みを浮かべてみたが、胸の奥に鉛のような冷たい塊が沈んでいった。


現役時代は給与明細の天引き額などろくに見もせず、手取りの額だけを確かめて生きてきた。国が自動で計算し、会社が勝手に納めてくれていた「社会の会費」という名の重石が、退職した途端、むき出しになって老いた両肩へのしかかってきたようだった。


台所に立ち、やかんを火にかけた。急須に茶葉を放り込み、熱湯を注ぐ。立ち上る湯気を吸い込みながら、修三は手元のスマートフォンを取り出し、震える指で検索窓に文字を打ち込んだ。


『単身 高齢者 生活費 足りない』

『年金 手取り 生活保護』


画面をスクロールするうち、ひとつの試算ページで指が止まった。


**【東京都板橋区・単身世帯の生活保護受給目安】**


* 生活扶助(食費・光熱費等の日常経費):約74,250円

* 特例加算:1,500円

* 住宅扶助(家賃補助上限):53,700円

**受給できる生活保護費の目安:約129,450円/月**


数字を見つめたまま、修三の思考が凍りついた。


生活保護なら、家賃の補助に加えて、手元に約七万五千円の生活費がまるまる残る。さらに画面の下には、赤字で注意書きが添えられていた。


『生活保護受給者は、医療費の自己負担が全額免除(医療扶助)されます。また、国民健康保険料、介護保険料、住民税の支払義務はなく、NHK受信料なども全額免除となります』


修三は、手元の裏紙に書いた自分の試算を見返した。

手取り十四万三千円から、持ち家の管理費・修繕積立金二万五千円を引けば、手元に残る金は十一万八千円。そこから病院にかかれば、医療費は一割か二割を自己負担しなければならない。さらに固定資産税の請求も届く。


「……生活保護以下じゃないか」


思わず声が出た。


四十年余り、真面目に働き通した。満員電車に揺られ、風邪を引いても会社へ行き、有給休暇もろくに使わず、定年後もプライドを捨てて延長雇用にしがみついた。給料から何十万円、何百万円という税金と社会保険料をきっちり天引きされ続け、国や社会を支えてきたという自負があった。ローンを必死に完済して、やっと手に入れた自分の城だった。


それなのに、いざ自分が引退した途端、手元に残る金は生活保護の受給基準とほぼ同水準。いや、医療費の免除や各種負担の免除まで考えれば、実質的には生活保護を下回っている。


真面目に働いて家を買ったから資産があるとみなされ、助けの手は差し伸べられない。汗水垂らして納めた保険料の結末が、この「一日三千円の綱渡り」なのか。


どうなってるんだ、この国は。


怒りなのか、情けなさなのか、自分でも分からない感情が喉元までせり上がり、胃の腑が雑巾を絞るように痛んだ。


そのとき、ふと頭の奥底から、ぞっとするような考えが這い上がってきた。


――この先の心配をしなくて済むなら、いっそ、もう全部終わりにしてしまえば楽なんじゃないか。


息が止まり、指先がすうっと冷たくなった。

死ぬための計画を立てようとしたわけではない。ただ、明日も、来月も、五年先も、この冷酷な数字に脅かされながら生きていくのかと思ったら、朝が来なければいいと願ってしまったのだ。何も払わず、何も怯えず、ただ消えてしまえるなら。その考えは、暗闇の底から甘い逃げ道のように手招きしていた。


だが、次の瞬間、修三は冷めかけた湯呑みを強く握りしめた。


「……馬鹿野郎、しっかりしろ」


自分を叱責するように呟いてみる。それでも、胸の奥の暗い重みは晴れない。生きたいのか、消えてしまいたいのか、自分でも分からない。ただ、真面目に生きてきた人間が、どうしてこんな屈辱を味わわなければならないのかというやるせなさだけが、部屋の隅々に満ちていた。


翌朝、修三は市役所の窓口で減免の相談を切り出した。だが、担当者の答えは冷淡だった。

「前年の給与所得を基準に計算しますので、初年度の保険料の減免は困難です。分納の相談には応じられますが、支払額そのものが減るわけではありません」


窓口を回され、庁舎の一角にある無料のライフプラン相談窓口へ案内された。


パーテーションで区切られたブースには、仕立ての良い紺のスーツを着た三十代半ばの男性ファイナンシャルプランナーが待っていた。名刺にはきらびやかな資格が並び、歯切れのよい声で「修三さん、よろしくお願いします」と深々と頭を下げる。その淀みのない所作と清潔感が、かえって修三の着古したポロシャツをみすぼらしく際立たせた。


通知書と通帳、裏紙の試算表を差し出す。

プランナーはそれらを手際よく受け取り、ノートパソコンのキーボードをカチャカチャと軽快に叩いた。


「なるほど。六十五歳まで雇用延長でフルタイム勤務されたのですね。本当にお疲れさまでした。住宅ローンも完済されているのは素晴らしいですよ」


口当たりのいい労いの言葉とは裏腹に、画面に映し出されたグラフは残酷だった。プランナーは細いボールペンの先で、赤い折れ線を指し示した。


「手取りが二年目以降に十七万円前後に戻ったとしても、インフレ率や健康保険料の引き上げ、家電の買い替えや修繕費、将来の医療・介護の自己負担を織り込みますと、毎月二万から三万円の赤字が累積していきます。男性の平均余命である八十代半ば、あるいは九十歳まで生きると仮定した場合――」


淀みなく、冷たい宣告が下される。


「現在の退職金の残額に加えて、最低でもあと千二百万から千五百万円ほどの金融資産があれば、ひとまず“安心”の領域と言えますね」


千五百万円。


頭の芯が真っ白になった。


六十歳の定年のとき、国や会社は「六十五歳まで働けばなんとかなる」と言った。

だから、年下の社員に使われ、給料を半分に削られても、歯を食いしばって五年間の延長雇用を耐え抜いたのだ。

その六十五歳まで辿り着いた今、目の前の若い男は、事も無げに「あと千五百万あれば安心」だと笑っている。


「……じゃあ、それが用意できない人間は、どうすればいいんですか」


絞り出すような修三の声に、プランナーはマニュアル通りの困り顔を作った。


「いえ、これは平均の試算ですから。例えば、七十歳までアルバイトなどで月五万円ほど補填されるとか、あるいは支出をさらに極限まで削れば、破綻は避けられますよ」


七十歳まで。

また「働け」と言うのか。


六十歳でゴールだと思ったら「六十五歳まで走れ」と言われ、六十五歳まで走ったら今度は「七十歳まで止まるな」と背中を蹴られる。七十歳まで生き延びて、もしそのときに体が動かなくなっていたら、この社会は「自己責任だ」「もっと早く準備しなかったお前が悪い」と切り捨てるのだろう。


「……安心って、何なんですかね」


修三の乾いた呟きは、パーテーションの隙間に吸い込まれて消えた。


二千万円あれば安心、千五百万円あれば安心。数字をいくら差し出したところで、物価は上がり、保険料は引き上げられ、制度の都合で手取りは削られていく。どれだけ現役時代にしがみついて社会に身を捧げても、安心という名のゴールポストは、歩み寄るたびに先へ先へと遠ざけられていくのだ。


「修三さん? ご無理のない範囲で、生活防衛のプランを……」


気遣わしげに覗き込んでくるプランナーの顔が、ひどく遠く見えた。この男が悪意を持っているわけではない。ただ冷酷な社会の計算式を忠実に読み上げているだけだ。それが分かるからこそ、怒りのぶつけどころすら見つからない。


「……いえ、もう結構です。よく分かりました」


修三は椅子を引いて立ち上がった。

丁寧に頭を下げて書類を鞄に押し込み、逃げるように相談窓口を後にした。


ビルの外に出ると、生ぬるい風がアスファルトの熱を巻き上げていた。

駅へ向かう人波の中には、自分と同じように背中を丸め、くたびれた顔をした老人たちが大勢歩いている。誰もがこの冷たい街の片隅で、それぞれの生活へと散っていく。


――俺たちは、何のために四十年以上も満員電車に揺られ続けたんだろうな。


四十余年。国を支え、会社を支え、言われた通りに延長雇用まで真面目に勤め上げた。

その結末が、生活保護の基準を下回る手取りの現実と、「死ぬまで働かなければ安心できない」という宣告だった。


報われない、という言葉ですら生ぬるい。

自分という人間が社会の都合のいい歯車としてすり減らされ、搾り取れるものをすべて搾り取られた途端、「あとは自分の蓄えだけで野垂れ死ぬな」と放り出されたような、底なしの虚脱感が足元から這い上がってきた。


駅前の赤ちょうちんが、夕暮れの街にぼんやりと灯り始めている。

ガラス戸の向こうで、誰かが楽しそうにジョッキを傾けていた。


修三はポケットの中に手を突っ込み、自宅の鍵の冷たい金属を強く握りしめた。

熱燗の一杯すら、いまの自分には「破綻を早める無駄遣い」でしかない。


喉の奥がカラカラに渇いていたが、自動販売機の百五十円の缶茶を買うことすらできなかった。

家へ帰ろう。

昨日の残りの冷や飯を温めて、水道の水を飲もう。


頼るべき国も、怒りをぶつけるべき相手もどこにも見当たらないまま、修三はただ重たい革靴を引きずり、薄暗い駅の改札へと吸い込まれていった。


前回の【後編】の終わりから、さらなる現実が容赦なく修三に襲いかかる「続きの展開」です。


---


つましく生活すれば、何とかなるか。

何とかするしかない。誰に頼ることもできないのだから、腹を括るしかないと思っていた。


だが、現実は容赦などしてくれなかった。泣きっ面に蜂とは、まさにこのことだった。蜂は一刺しどころか、修三の生活の急所を目掛けて群れで襲いかかってきた。


まず逝ったのは、台所の冷蔵庫だった。

パッキンが劣化して隙間が開き、ガムテープを貼ったりゴムを挟んだりして、だましだまし使ってきた十年選手だった。ある朝、牛乳を取り出そうと扉を開けると、庫内から生ぬるい風が漂ってきた。コンプレッサーのうなり声は消え、奥の壁に張り付いていた霜がだらだらと溶け落ちている。冷えなくなった箱の中で、昨日の残りの総菜が静かに腐り始めていた。


「嘘だろ……」


呆然と立ち尽くした翌日、今度は脱衣所から異音が響いた。

洗濯機が「ガガガッ、ガリガリッ」と金属をすり潰すような悲鳴を上げ、脱水の手前でピタリと止まった。エラー表示が点滅し、いくら電源を入れ直しても二度と回らない。底に溜まった洗剤交じりの重たい水を、バケツで何度も汲み出しながら、修三の腰に鈍い激痛が走った。


災難はそれだけで終わらなかった。

風呂に入ろうとリモコンのボタンを押すと、壁の湯沸かし器が点滅して「888」という見慣れないエラーコードを吐き出した。蛇口から出てくるのは、氷のように冷たい水だけ。追い打ちをかけるように、夕飯を炊こうとした炊飯器のフタのツメがパキンと折れ、フタがだらしなく開いたまま二度と閉まらなくなった。重石代わりにフライパンを乗せて炊いてみたが、炊き上がったのは芯の残った不味い生米だった。


何ひとつ、修三の思い通りには動いてくれない。

すべての家電が、まるで示し合わせたかのように、主人の引退に合わせて息絶えていく。


震える手で机に向かい、十年前のノートパソコンを開いた。買い替えの相場を調べようとブラウザを立ち上げる。

だが、とっくにメーカーのOSサポートは切れ、画面は真っ白なまま固まった。カリカリカリ……とハードディスクが虚しく空回りし、激しい処理落ちでマウスカーソルすら動かない。


「おわこんじゃん……」


誰に言うでもなく、口から乾いた現代の俗語が漏れた。

終わったコンテンツ。時代の波から取り残され、用済みになり、ただ朽ちていくのを待つだけの存在。

壊れた冷蔵庫も、動かない洗濯機も、サポートの切れたパソコンも、そして四十年働いて放り出された六十五歳の自分自身も、すべてが同じ「オワコン」に見えた。


量販店のサイトをスマートフォンで確認する。

小型の冷蔵庫で四万円。洗濯機で三万五千円。給湯器の交換工事は十万円を優に超える。炊飯器にパソコン……最低限の生活を買い戻すだけで、二十万、三十万という金が一瞬で吹き飛ぶ。


手取り十四万三千円。

一日三千二百円で切り詰めて、小松菜の葉先をちぎって耐えようとしていた人間の足元を、文明の寿命が容赦なく崩しにかかる。


「つましく暮らせば何とかなる?……笑わせるなよ」


誰もいない薄暗いリビングで、修三は両手で顔を覆った。

冷たい水しか出ない蛇口、開けっ放しの炊飯器、生ぬるい冷蔵庫。

現役時代、便利さに寄りかかって築き上げてきたはずの「人並みの生活」の残骸に囲まれながら、修三はただ、音もなく崩れ落ちていく自分の暮らしを見つめるしかなかった。


これじゃつらいことばかりで口角がへの字になりそうだから、俺は無理やり笑ってみた。


「でれしししし」


さっき読んだ、なろうの小説『はじめてのおふろ』、たのしそうだったなー。


「でれししし」


……あれ? ひょっとして俺、危ない人になってる?


薄暗い部屋の真ん中、両手で顔を覆ったまま、引きつった奇声を漏らしている六十五歳の男。ふと我に返り、背筋がすうっと冷たくなった。誰も見ていないとはいえ、あまりに惨めで、そして笑えてくるほど怪しい。


「……何やってんだ、俺は」


乾いた笑いが喉の奥で消えた。

だが、その馬鹿げた奇声のおかげで、張り詰めていた頭の芯の痺れがほんの少しだけ緩んだ。


スマートフォンの画面を伏せる。

壊れた冷蔵庫、息の止まった洗濯機、氷のような水しか吐き出さない蛇口。全部そのままだ。消えてなくなったわけでも、直ったわけでもない。


けれど、いつまでも動かないパソコンの前で「オワコンだ」と膝を抱えていたところで、冷蔵庫の霜が凍り直すわけでもない。


「よし、動くか」


誰に聞かせるでもなく声に出し、修三はよっこらしょと立ち上がった。腰が小さく悲鳴を上げたが、無視した。


まず、冷えなくなった冷蔵庫の扉を全開にする。

奥で溶け落ちた霜の水を雑巾で吸い取り、バケツへ絞る。異臭を放ち始めていた昨日の残り物はポリ袋に二重に縛って生ゴミの袋へ放り込んだ。まだ傷んでいない納豆のパックと、賞味期限の残っている卵を取り出し、涼しい流しの下へ一時避難させる。


次に、脱水できずに止まった洗濯機。

蓋を開け、水を含んで鉛のように重くなったシャツとタオルを両腕で抱え上げた。そのまま浴室へ運び、足で踏みつけて脱水する。ぎゅうぎゅうと踏みつけるたび、石鹸水の泡が排水口へ吸い込まれていく。

昔、母親が風呂場で毛布を洗っていた光景が、ふと頭の隅をよぎった。


「家電が死んだくらいで、人間まで死んでたまるか」


絞った洗濯物をベランダの物干し竿へ干しに出ると、夕方の生ぬるい風が頬を撫でた。西の空が、妙に鮮やかな朱色に染まっている。


給湯器の「888」エラーは、以前マンションの掲示板で「点検時期の通知で、安全装置が働いて一時停止しているだけのこともある」と書かれていたのを思い出した。型番をメモし、明日、管理人に聞いてみることにする。最悪でも銭湯に行けばいい。板橋には昔ながらの煙突の銭湯がまだ残っている。一回五百円ほどかかるが、毎日入らなくたって死にはしない。


炊飯器の折れたツメは、百円ショップの耐熱ガムテープと小さなレンガを重石にすれば、とりあえず蓋を押さえ込んで炊くくらいはできるだろう。


一気に三十万を投じて新品を揃える必要なんてないのだ。

リサイクルショップを覗けば、単身用の動く冷蔵庫が数千円で転がっているかもしれない。自治体の粗大ごみ持ち込みや、ジモティーのような譲渡アプリを駆使すれば、タダ同然で手に入るものだってあるはずだ。


現役時代の自分なら、「みっともない」「新品を買えばいい」と鼻で笑ったかもしれない。

だが、いまの修三には、見栄を張る相手も、体裁を繕う会社も存在しない。あるのは自分の命と、手元に残された十四万三千円という現実だけだ。


「やれることから、一個ずつだ」


台所に戻り、薬缶に水を入れて火にかけた。ガスはまだ生きている。

青い炎がシュンシュンと音を立てて薬缶の底を舐めるのを眺めながら、修三は小さく息を吐いた。


さっき読んだ、なろう小説のバカバカしいほど呑気なお風呂の話。

お湯を張って、湯気に包まれて、「きもちいいー」と笑い合うだけの、他愛のないファンタジー。


あんな風に、いつか笑って湯船に浸かれる日が来るかどうかは分からない。

明日の通帳の数字が劇的に増えるわけでもない。

それでも、無理やりにでも口角を上げて奇声を上げた瞬間、確かに自分の中の何かが「まだ折れていない」ことを主張していた。


薬缶の注ぎ口から、白い湯気が勢いよく噴き出し始めた。

修三は火を止め、急須に茶葉を放り込んだ。湯呑みに注がれた濃い緑色の茶から、香ばしい香りが立ち上る。


「よし」


熱い茶をすする。喉の奥にじんわりと熱が染み渡っていく。

まだ、やれる。終わったコンテンツだと自分で決めつけるのは、すべての知恵を絞り尽くしてからで十分だった。



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