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第10話 ノイズ・イン・ザ・ブルー

「待ってよ、佐藤! 歩くの速いって!」


 特徴的な声ではないが、一度聞くと何となく忘れられない田中(仮)の声。教室棟の昇降口の先あたりで、後ろから呼び止められた。


 振り返ると、ちょっと赤みの強い茶色の髪を揺らしながら、田中(仮)が走ってくる。


「もう。話しかけようとしたら、教室にいないんだもん」

「ちょっと考え事しててな。田中(仮)に気づかなかった」


「あのさ、前から言いたかったんだけど」

 田中(仮)が不満そうな顔をしながら、俺の前にくるりと回り込んだ。


「(仮)って、何? 私、普通の田中なんだけど」

「呼びにくくないかな、それ。あだ名としても意味分かんないし……」

「俺の都合っていうか。田中って田中(仮)っぽいじゃん」

「どういうこと?」


 意味分かんない、と首を傾げる田中(仮)。佐藤の隣の席の女子であり、この世界における俺の『良き友人』ポジションとなっている。


「気にするな。お前は(仮)キャラなんだから」

「気になるから。本物どこよって」

「田中の偽物かもしれん」

「ねー、どっちの意味なの!」


 俺の制服の袖を引っ張りながら、田中が密着する。想像していたよりもいい匂いがしてきて、なんだか役得な気がしていた。


(このまま田中(仮)とリア充ルートも……)


「もうよく分かんない。あっ、見て。あれ」

 田中が声を潜めながら、廊下の先を指差した。

 人通りの少ない旧校舎の入り口付近。そこに、一人の女子生徒が立っている。


「……また、あの感覚だ」

 彼女の姿を見た瞬間、俺の視界が激しく明滅した。

 壊れかけのモニターを見ているように不快なノイズが、分裂した彼女の姿に走っている。

(なんだ、これ……姫咲の時と同じか?)

 しばらくすると、二つの姿ルートが重なるように見えてくる。


 一つは、派手なメイクに、人工的な青色に髪を染め、胸元を大胆に開けて、制服を着崩した『ビッチ』のような姿。


 そしてもう一つは、艶やかな瑠璃色の髪をなびかせ、清楚な制服姿で、道に迷ったように不安げに周囲を見回している『お嬢様』の姿。


(宝珠寺瑠璃ほうしゅじるりか。元のシナリオではサブヒロインだったんだが……)


「佐藤。何ガン見してるのかなー?」

 田中(仮)の細目が開いた。


「してない。Gはありそうとか断じて思ってないぞ」

「……よし、一回死んどこうか?」

「お前、その拳を手のひらにパンパン打ちつけるのはやめろ」


 『依存』と『迷子』。

 まるで全く異なる二つの文脈が、一つの『宝珠寺瑠璃』という人物像で競合しているようだった。


「ええ、分かってますよ。おっきな胸がお好きなことくらい」

「そうじゃなくて。もっときちんとした事情があるんだよ」

「ふーん。変態、すけべ、えっち」

「だから俺をそういう思考しかないみたいに言うな」


 田中の目には、派手な姿しか見えていないようだ。瑠璃の胸元をしばらく見た後に、小さな舌打ちが聞こえてきてから、俺の方を眺めた後に、わざとらしいため息をついた。


「一年の時は、すごいお嬢様って感じだったのにねー。今は西谷くんと、んー、まあ付き合ってるっていうか……」

「付き合ってる?」


 この段階でルートが確定しているのだろうか。それは大きな改変だが、俺にはそう見えなかった。


「知らないの? めちゃ有名だけど」

「んー、なんていうか……呼び出されたらすぐ行く、みたいな。今日も西谷くん探してるみたいだし」


 田中が言葉を濁す。

(なんか歯切れが悪いな)


 その時だった。


「お、いたいた。何してんだよ、瑠璃」

 旧校舎の方から、西谷と高木たちが現れた。

 その瞬間、瑠璃が慌ててスマホをしまう。


「あっ、西谷くーん……っ!」


 瑠璃が西谷たちの集団に駆け寄っていく。


 それでも俺の目には、まだ『お嬢様』の幻影が見えていた。本来のシナリオなら、瑠璃が迷子になっていたところを、偶然通りがかった西谷が助けるシーンだったはず。


「お前、ほんと盛ってんなぁ。わざわざ待ってたわけ?」

「もちろんだよ。西谷くんのためなら、ルリはなんでもしちゃうから」


 猫なで声で、瑠璃が西谷に媚びる。


 元の宝珠寺瑠璃の設定では考えられない。彼女は旧華族にルーツを持つ『お嬢様』で、今も莫大な資産を持つ名家の娘。相応のプライドを持っていたはず。


「まあいいわ。ちょうどイラついてたとこだし」


 西谷が下卑た笑みを浮かべて、瑠璃の肩に手を回す。


「駅前のカラオケ亭、部屋は302。あの店なら、俺の言いなりだからな」

「うん、ぜったい行く。だから西谷くんはルリのこと、きちんと待っててね?」

「あんまり待たせんなよ。俺は気が短いからな」

「……西谷くんのためなら、何でもします。だから見捨てないで」

「やっすい女だよな、お前」


 西谷が瑠璃の耳元で囁いた。

 その瞬間。ブツリとノイズを伴いながら、『迷子のお嬢様』の姿が消えていく。


「私には西谷くんしかいないもん。だから、どんな風にだってご奉仕するから……」

「はっ、ビッチかよ。口でやらせりゃ下手くそだし、ただでさえ反応薄くてつまんねー女なのに、なんか偉そうなこと言ってんだけど」


 瑠璃の発言を嘲笑うように、西谷が指を差すと、それに釣られた取り巻きたちも笑い始める。

(それじゃダメだろ、瑠璃……)


 『お嬢様』としてのプライドと、少女としての純粋な愛情を持っていたはずの、可憐で気高い宝珠寺瑠璃はどこにもいない。


 俺の目の前にいるのは、下卑た笑いを浮かべた西谷へと媚びへつらっている、派手な青髪の女子生徒だけ。


「ほんと嫌い。付き合ってるっていうかさ、西谷くんが、宝珠寺さんを利用してるって感じじゃん」

「ダメだダメだ。甘々えっち以外は、俺は認めないぞ……」

「ふざけてる場合か。とりあえずコロしとく?」


 田中(仮)の目が開かれると、激しい殺気の圧が俺を襲った。


「け、決してふざけてはいないぞ! 佐藤と田中(仮)だって、この先、仲を深めると、お互いの家を行き来するようになり、勉強会の合間にいい雰囲気になって、佐藤の部屋で田中(仮)が制服のままシーツを握りしめながら、初体……」


 刹那。学校指定の上履きの上から、何かの激しい衝撃が俺を襲う。


「いっっってぇぇぇえ!」


 遅れて、俺の断末魔が廊下に響いた。

 足の甲から、熱を持ったような痛みの信号が全身を駆け巡っている。


「ふん。セクハラは犯罪だからね」

「こ、これはセクハラじゃない……俺の描くハッピーエンドへのプロットなんだ……」


 片膝をついて、踏まれた右足の甲をさすりながら、俺は瑠璃と西谷の方を見る。


(西谷め。お前も足を踏まれてしまえ)


「マジキモい。変な動画とか見過ぎ」

「憶測で断定するな……」


 姫咲の時と同じように、元の設定から大きく変化している。


 もちろん企画会議でこんなシナリオは予定していないし、案すら上がっていないはず。


 それでもこの世界は、『健気なお嬢様』としてではなく、『西谷の性欲処理担当』としての瑠璃を選んでいたのだ。


「今日は八重歯当てんなよ。俺を二度と萎えさせんな」

「……はい、西谷くん。ルリはあなたのために尽くします」


 西谷たちは、こちらに気づくこともなく、そのまま校門の方へと歩いていく。

 その背中を見送りながら、俺は憤っていた。


「話聞こえた? 最低……」


 田中(仮)がドン引きした様子で呟く。


 西谷が『主人公』で、瑠璃が『ヒロイン』の構図は、西谷が『主人』で、瑠璃が『奴隷』のような構図に変わっている。


「瑠璃も西谷に媚びちゃダメだ。あんな奴のどこが良いんだよ」

「たぶん好きだからかな? それにしてもよく分かんないけど……」


 田中(仮)も首を傾げている。


 メインヒロインは姫咲透華で、宝珠寺瑠璃はサブヒロイン。


 メインルートからすれば、正史ではないのかもしれない。しかしそれでも、企画段階では、『覇権ヒロイン』を立てるために、西谷への依存心で自分の身を滅ぼすようなストーリーにまではされていなかったはずだ。


(元の瑠璃のルートでも、透華を上げるようなエピソードが多かった。それでもきちんと皆をハッピーエンドにするとは聞いていたんだが……)


「これじゃ瑠璃が救われない」

「しょうがないんじゃない? 自業自得なところはあるし。てか、なんで名前呼んでんの?」


 田中(仮)から向けられる疑いの眼差し。やましいことはないが、ちょっと動揺してしまった。


「あ、いや。宝珠寺よりも瑠璃の方が呼びやすいだけだぞ」

「呼びやすいって、まさか佐藤まで宝珠寺さんと?」

「誤解だ、誤解!」


 腰に手を当てながら、細目で睨みつけている田中(仮)を何とか宥める。


(いや、待てよ)


 田中(仮)に言い訳しつつ、俺はさっきの『ノイズ』への記憶と印象を、まるでストーリーの原案を生み出していくかのように、手繰り寄せる。


(あれは、もしかして瑠璃の声にならない叫びだったのでは?)


 西谷が声をかける直前まで、瑠璃の姿がブレていた。まだ悪意シナリオが迷走している証拠で、このルートが見せている可能性の一つにも思えた。


「……法則性があるのか?」

「どうしたの、佐藤。なんか怖い顔してるけど」

「悪い、田中(仮)。先に行っててくれ」

「えっ、突然、何事?」

「腹が痛くなった。ちょっくら保健室行ってくる」


 俺は田中(仮)の返事も待たずに、踵を返した。向かう先は、もちろん保健室なんかじゃない。


 ──この悪意シナリオに染まっていない、唯一の協力者が待つ図書室だった。

読んでいただき、ありがとうございます!


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