第9話 泥だらけのヴィーナス
シラけたように、西谷が飲みかけの紅茶を花壇へ──俺たちの方へ投げ捨てようと腕を振った。
「お前らには泥水がお似合い……うわっ!?」
瞬間。
俺は泥の中に埋もれていた、給水管の錆びた継ぎ手を、足裏で思い切り踏み抜いていた。
「何よ、これ!」
「制服が汚れるんだけど!」
ブシャアアアアアッ!!
亀裂が入った老朽配管から、行き場を失った高水圧の濁流が、鋭い刃のようにテラス席へと噴き上がる。
「ぶべっ!? ぎゃああああっ!?」
西谷たちが悲鳴を上げると、奴らの全身が一瞬にして、茶色い泥に染まっていった。
「おっと、失礼。配管が古くなっていたようですね」
俺は呆然とする透華の手を取り、優しくエスコートする。
「行きましょうか、お嬢様。……あちらの方々は、本当に泥遊びがお好きなようですから」
◇
西谷たちの罵声を背に、俺たちは校舎裏の水道場まで歩いた。
ここまで来れば、もう奴らの目は届かない。
透華も同じように思ったのか、俺の方を軽く見た後に、小走りからゆっくりと立ち止まった。
「……離して」
蛇口の前まで来たところで、透華が小さく呟いて手を振りほどく。
(綺麗な顔が台無しじゃないか)
その顔はまだ泥だらけで、制服も濡れて肌に張り付いている。だが、透華は寒さよりも、屈辱と困惑に震えているようだった。
「どうして……どうして、あんなことしたの」
透華が俺を睨む。
強い警戒心からだろう。無理もない。今まで全員が敵だった世界で、急に優しくされても他人を信じられるはずがない。
『初期設定』の段階で関わることすらできなかった透華。企画会議では、良い作品になることを願って、送り出したはずだった。
社運をかけた『覇権ヒロイン』かどうかは関係ない。幸福への筋書きを用意してやるのが、俺たちの仕事だから。
「……俺はお前を幸せにしたいからだ」
「からかわないで! 私は、もう嫌われ者の……」
「そんなわけないだろ。じゃあ、こいつはどうなるんだ」
俺はハンカチで拭ったばかりの『ヴィーナスの髪飾り』を、透華の目の前に差し出した。
(姫咲透華を生み出したのは、俺たちだけじゃない。イラストレーターの先生だって、こんなに可愛い子なら、きっと皆に愛されちゃいますよって……)
イラストが上がってきた時には、本当に感動した。企画が形になっていき、何もなかった世界に、何かを生み出していくような感覚──
「その髪飾りには俺たちの願いが込められてるんだ。だからもう少しだけ踏ん張ってくれ……」
水で綺麗に洗い流されて、本来の輝きを取り戻した髪飾りが、夕日に照らされてきらりと光る。
「……っ」
「お前が泥にまみれても守ろうとした誇りだろ。……ほら、頭を下げて」
「え……?」
「いいから」
俺は戸惑う透華に近づき、その泥で固まった髪を、水で少しだけ洗ってやる。
そして、濡れた金髪を三本の指で梳きながら、その髪飾りを本来あるべき場所──左の耳元に、パチっと留めた。
(そうだな。姫咲透華はこの姿でなくては……)
『システム通知:重要アイテム「ヴィーナスの髪飾り」を入手』
瞬間、俺の視界の中で、透華に重なっていたノイズが消えた。
泥だらけの制服姿ではない。
濡れた金髪が色っぽく、夕焼けの中で銀の髪飾りを煌めかせる、一枚の美しいイベントCGのような姫咲透華の姿が完成する。
「似合ってるよ、会長」
「だから、私は会長なんかじゃ……」
「俺の中ではな。最高のメインヒロインのお出ましだ」
俺は笑って答えてから、蛇口をキュッとひねり、自分の顔の泥を洗い流していく。冷たい水は、火照った頭を冷やしてくれた。
「俺は佐藤。……これからは、お前の『シュバリエ』として働く」
「シュバリエ……?」
「ああ、それが本当のストーリーなんだ。姫咲がいつか誇りを取り戻せるその日まで、俺がお前の剣になり、盾となるから」
俺は濡れた顔を上げ、ハンカチを透華に手渡した。
「だから、もう泣くなよ。姫咲の娘は人前で涙を見せないもんだろ?」
「……別に、泣いてなんか」
透華は渡されたハンカチを握りしめ、呆然と俺を見つめていたが、やがて俯くと、小さな声で言った。
「……変な人」
それはまだ否定の言葉だったが、心の底からの拒絶ではなかった。
「それで良いよ。俺はこの世界のモブでしかない」
(まずは小さな一歩から、か)
俺はゆっくりと息を吐く。
とりあえず、最悪のイベントは回避し、フラグが立った。
だが、これはまだ始まりに過ぎない。
図書室で待つ琴葉に報告に戻らなければ。きっと次の『悪意』は、すぐにまた襲ってくるはずだから。
「帰ろうぜ、姫咲。風邪ひくぞ」
「……命令しないで。……でも、ありがとう」
消え入りそうな声だったが、それは確かに、この世界で初めて透華が俺に口にしてくれた『感謝』の言葉だった。
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