第7話 呪いの末路
広大な教室には、百人程度の生徒が集められている。彼らは皆一様に頬を硬くして、人生を揺るがす重大な試験を前にした時のように、緊張で唇を荒れさせている。
そんな教室の中で、ノエは期待で胸を膨らませていた。
それが何故かと言えば、今から召喚術の実習授業が始まるからだ。
この授業では生徒が一人ずつ教壇まで呼ばれ、他生徒たちの前で召喚魔術を使いその技術を披露する。当然その結果は教師によって厳正に採点され、今後の成績にも響いてくるというわけだ。
だから皆いつも以上に真剣に取り組んでいて、召喚魔術の成功を手に汗握って祈っている。
そんな張り詰めた空気の中で、ノエもまた堅苦しい緊張に心を支配されているかと言えば……全くそんなことはなかった。
何せノエは昨晩、ユズリと共に召喚魔術について入念に予習したからだ。
『まずは魔術の仕組みについておさらいするわよ』
青寮の自室にて、ノエとユズリは向かい合って本を開いていた。ノエは手触りの良い枕を抱きしめ、彼女の話に深く頷く。
『そもそも、どんな人間も多かれ少なかれ身体の中に魔力を持っているの。この魔力は魔術を使うと減る。回復するまでには時間がかかる。だから魔力の総量が多い人ほど沢山の魔術を一気に使えるの』
『ふむふむ』
『そして、ただ魔力を持っているだけじゃ魔術は使えない。身体の中に、〝魔力を加工する装置〟が必要よ』
『それが魔力機関だよね?』
『そう。それがあって初めて、人は魔術を使えるの』
ユズリは顔の前で手のひらを広げ、『アクル』と水属性の初級呪文を唱えた。すると彼女の手の上に小さな水の球が浮かぶ。
『魔力機関によって魔力を加工して、それを呪文を通じて身体の外に出す。これが魔術の大まかな仕組みよ』
この魔力機関の質によって、どんな属性の魔術を扱えるかが決まってくるのだ。
そして魔力機関の有無や質は遺伝する。魔力機関を持たない親から魔力機関を持つ子が生まれることは本当に珍しい。だから魔力機関を持つ者……魔術を使える者が、〝貴族〟として扱われるというわけだ。
『昔は呪文の代わりに魔術陣が使われていたけど、それだと魔力の消費量が物凄いのよね……』
その場合は魔力を使って魔術陣を描き、そこにまた魔力を流し込んで魔術を発動することになる。つまり二重に魔力を消費するので、非常に燃費が悪いのだ。
要するに魔力量の多い人間でなければ、この形式で魔術を発動することは難しい。そのため魔術陣を簡略化した口頭での呪文が使用されるようになったという次第だ。
そんな話に相槌を打って、ノエは頬に手を当てながら呟いた。
『古い形式も慣れれば便利なんだけどねえ』
『そりゃノエの魔力量が多いからできるのよ。私には絶対無理』
ユズリは首を横に振り、頬杖をついて天井を見つめる。
『私は魔力量も少ないし……使える属性だって水だけよ』
『でも属性なしの魔術だってあるでしょ?』
『そうね。それが防衛魔術とか……今度の実習でやる召喚魔術ね』
基本的に魔術は、火、水、土、風の四つの属性に分かれている。しかしその四属性に振り分けられない、属性のない魔術というものも存在する。
それが今ユズリが例に挙げたような魔術だ。このような魔術は魔力機関の質に関係なく、魔力機関を持つ者ならば誰でも扱うことが出来る。
『とは言っても、〝誰にでも扱える可能性がある〟だけで、上手く出来るかは別の話よ。特に召喚魔術は普通の魔術とは随分勝手が違うから、魔術は得意でも召喚術はてんで駄目って人も居るみたい』
『へえ……』
『……何』
『ユズちゃんって召喚魔術に詳しいのね』
『まあ、そうね』
ユズリは本を閉じ、机の端の方に寄せた。そして机の下で足を伸ばし、三つ編みの端を指でくるくると弄る。
『うちの家系は得意なのよ、そういうの』
『へえ……!』
『特に父方の祖母は召喚魔術の名手だったわ。〝召喚術の魔女〟なんて呼ばれてて。名高い魔術師なのよ』
『すごい……!』
『……とは言え。お父様にはこれッぽっちも、その才能は遺伝しなかったけれど……』
ユズリは苦い物を奥歯で噛み潰したように口を歪めた。どういう反応を返せば良いのか分からず、ノエも彼女につられて微妙な笑顔を浮かべたのだった。
というふうに、ノエたちは今回の実習に備えて綿密に事前学習を行ってきたのである。
つまり準備は万端だ。よってノエの胸中では、冷たい緊張よりも、これからその成果を発揮してみせるぞという熱意の方が勝っていた。
今回の実習では、一年生はいくつかのグループに分けられて、それぞれが大教室に集められる。そして名前を呼ばれた順に一人ずつ教壇に立ち、そこで召喚魔術を行ってみせるという流れだ。
召喚するものは何だって良いが、当然呼び出すのが困難であればあるものほど高い評価がつく。高位精霊などを呼び出すことができれば、まず素晴らしい成績を付けられることに違いない。
「では、グリム・フォルガン。前へ」
「は、はい!」
教壇へと向かって歩いて行く生徒の足取りは、まるで鉄で出来た重りをぶら下げられているかのようにぎこちない。
とはいえこれだけ大勢の前で魔術を披露するのだから、緊張するのも当然のことだろう。失敗すれば大恥をかくし、やり直すチャンスもない。肩に力が入るのも仕方のないことだ。
教室の一番前に立った男子生徒は、両手を肩の高さまで上げて呪文を唱えた。
彼が床に手をつくと周囲に光が迸り、床に巨大な円のようなものが浮かび上がる。すると鍵が開いたような金属音が高らかに鳴り響いて、その円から燃える羽を持った蝶が数匹飛び出てきた。
ノエは右手で口を押さえて、左手で隣に座るユズリの服の端を引いた。
「ね。あれって火の精霊? 凄いね、ユズちゃん……ユズちゃん!?」
「大丈夫大丈夫大丈夫私は出来る私は出来る……」
「ユズちゃん……!?」
ユズリは祈るように両手を合わせながら、ここではないどこかを見つめて自分を鼓舞する文言をひたすら唱えていた。この中に居る誰よりも、彼女はひたむきに緊張している。何度か彼女の肩を揺すったが、ノエの声は中々彼女の耳に届かなかった。
「ゆ、ユズちゃん? 大丈夫?」
「だ、大丈夫、大丈夫よ多分」
そう呟く彼女の歯は上下が上手く噛み合っていなかった。まるで冬空の下に薄着で放り出されたかのような有様だ。ノエは心配になって、彼女の背中を静かに摩った。
彼女の心を宥めたのち、ノエは斜め前に視線を向ける。そこには金髪の侯爵令嬢、意地悪ないじめっ子のリラが座っていた。
教室に入る時に何か文句を言われるかと思ったが、彼女はこちらを一瞥しただけで何もしてこなかった。てっきりまた絡まれるものだと思っていたので、随分と拍子抜けしたものだ。
癪に障るを通り越して、無関心の段階へと入ったのだろうか。そうであれば良いのだが、とノエは思う。
「……次。ノエ・ジェード」
「! はい!」
そうこうしている内に名を呼ばれた。ノエは我に返り、威勢よく返事をして立ち上がる。
ユズリは眉間に薄く皺を刻み、不安げにノエを見上げる。
「じゃあ行ってくるね」
「だ、大丈夫?」
「任せて。必ずペガサスを呼ぶよ、私は」
「何でそんな自信満々なのよ、あなたは……」
ノエは自分の心臓辺りを親指の先で軽く二度叩いた。そして歴戦の勇者のような足取りで教室の前方へと向かう。
その途中、ちょうどリラとすれ違った時のことだ。
「いたっ」
不意に鈍い痛みが腕に走った。
ノエは顔を顰め、右腕を上げて首を傾げる。
腕の辺りにまるで小さな棘が刺さったような痛みを感じたからだ。けれどそれは一瞬のことで、原因が何かまでは分からなかった。
肌が机に触れた時に、木のささくれが当たってしまったのだろうか。それとも何か別の理由があるだろうか。ノエはそんなふうに疑問に思う。
しかし何にせよ大したことのない痛みだったので、それ以上深く要因を探ることもなく、ノエは止まっていた足をすぐさま動かしたのだった。
振り返ることもなくその場を通り過ぎたノエの目に、その光景が映ることはなかった。
目に毒々しいほど眩い光を宿し、口の形を腐った月のように歪めたリラが、悪魔に魅入られたように笑うその姿が。
✱
『こ……これで、本当にいいの?』
『ええ。完璧よ。完璧です』
彼女は小さく手を叩き、聞いているだけで心が安らぐような賞賛の声を上げた。
リラは彼女の指示に従い、蛇の毒と自らの血を混ぜたものを小瓶に注ぎ、そこに細い針を浸した。その後針を取り出して、それを真っ黒な布に包んで光の当たらない場所へと置き、針に向けて呪詛を唱え続ける。それを三日三晩続ければ、美しい銀色だったはずの針は禍々しい黒に染まっていた。
彼女はリラの手を自身の両手で優しく包み込む。そしてリラの金髪をそっと耳にかけて、露になった耳朶に冷たい息を吹きかけた。
『これを呪いたい相手の身体に刺せば、その相手の全身に呪いが回る。猛毒みたいにね』
『そうすれば……』
『穢れた魔力によって呼び出されるのは、穢れた化け物だけよ』
そうなればきっと、あの女の調子に乗った顔は醜く歪む。その光景を思い描いただけで、頭の中に爽やかな断末魔が反響する。
逆らったアイツらが悪い。身の程知らずの馬鹿など、死んで当然なのだ。
「それではノエ、行きます!」
能天気な薄紅色の女が手を挙げて言う。
既に彼女の全身は取り返しのつかない呪いに浸されているはずだ。
そうとも知らず、彼女の頭には依然として間抜けなお花畑が広がっている。その普段は癪に触るだけの阿呆っぽさが、今はおかしくてたまらない。周囲の目がなければ手を叩いて笑っていた所だ。
……これからあの女は、この世で最も悍ましい悪夢を見る。自らが呼び出した恐ろしい化け物に血肉を啜り食われるのだ。
あの「全ての者に愛されて当然です」とでも言わんばかりの生意気な顔が、老婆のように皺だらけになって拉げるのだ。
彼女はリラを虚仮にした報いを受ける。それはなんて素敵な未来なのだろう。
「──ノヴァ。アードリアス。スペクトラム。オーヴェイル」
彼女の淡く色づいた唇が召喚魔術の呪文を紡ぐ。
それが自身の身を抉ることになるとも知らずに。
リラは机に手をつき、身を乗り出した。数秒後に起こるであろう惨劇を眼にしかと焼き付けるために。そうして頬を赤く染めて、心を躍らせながらノエの悲鳴を待ち望む。
「……わっ?」
かくして彼女はその顔に驚愕の色を浮かべた。
……驚愕、の?
「……あれっ? えっ? 何!?」
ノエが呪文を唱えた次の瞬間、彼女の描いた門から黒い毛玉のようなものが溢れ出した。その毛玉の塊が彼女の顔に直撃し、彼女は仰天のあまり転倒する。
毛玉を顔から引き剥がしつつ、彼女は「これ何ーっ!?」と涙目になって叫んだ。
……呪い?
あれが? あんなものが?
あんなくだらないものが、呪い?
「先生! このモコモコはなにですか!?」
「これは……」
「これは!?」
「召喚魔術が失敗した時に発生する澱みだね」
「よ、澱み!?」
「門が上手く繋がらないとこうなるんだ……原因は解明されていないんだが」
「つ、つまり私は……?」
「君には召喚術の才能がないようだね」
呆気なく断言され、ノエは稲妻に打たれたような顔をして膝から崩れ落ちる。
黒い毛玉を頭にのせたまま、彼女はしょんぼりとした様子で自分の席へ戻って行った。しくしくと顔を覆って泣く彼女を、その細い肩を叩きながら「まあそういうこともあるわよ」と言ってユズリが慰めている。
そんな光景を目にしたリラの頭の中は、大量の疑念で埋め尽くされていた。
確かに彼女の召喚魔術は失敗した。ならばこれが呪いの効果だとでも言うのだろうか。こんな子供のお遊びよりもくだらないものが、大層な呪術がもたらした結果だと?
いや、違う。
あの名無しは、ただ〝単純に〟魔術に失敗しただけなのだ。
呪術の効果などではない。ただ単に本当に才能がなくて、それで召喚魔術が使えなかっただけだ。
つまり、リラの呪いは効かなかった。
それを理解した瞬間に、背中に大量の冷や汗が浮く。
一体何が駄目だったのだろうか。言われた通りに行ったはずなのに、何故呪いが発動しなかったのだろう。あの名無しが呪いに対して特殊な耐性を持っていたのだろうか。いや、そんな事例は聞いたことがない。
もしかして、何か手順を間違えてしまった?
それで、呪いが失敗した?
「では次。リラ・メイティ」
「!」
逡巡している内に名を呼ばれてしまった。リラは立ち上がり、頭を振って疑念を遠ざける。
想定外の事態に心を凍らせている場合ではない。名無しを陥れることに執心し、自身の評価を疎かにしては元も子もないのだから。
……けれど、何が原因だ。
一体何に呪いを邪魔されたのか。
「……メイティ?」
呪いの効果が現れるまでに時間がかかるのか?
それとも、初めから自分は騙されていた?
……いや、そんなはずはない。彼女がそんなことをするわけがない。だって彼女は、いつも親身で、真摯で、心から寄り添って、花の蜜のように甘くて優しい言葉を囁いてくれたのだから。
「メイティ! 止めろ!」
……あれ?
彼女って、一体誰だっけ?
「それ以上魔術を使うな! メイティ!」
「……え?」
教師の空気を裂くような叫び声が、その時ようやくリラの耳にも届いた。
頭の中を覆っていた薄暗い靄が引いていく。懐疑から一時的に解放され、現実の世界へと心が戻ってくる。
そうして手元を見下ろした時、リラは喉の奥底から甲高い悲鳴を上げた。
「ひッ! いっ、いやッ!」
気づいた時にはもう遅い。
リラが手をついた床には、リラの身体を囲むように、丸く黒い円が描かれていた。リラは腰を抜かし、尻を床につけたまま後退する。
呪文の詠唱を中断するが、しかし黒い円の広がりは止まらない。その円は徐々に床を侵食するように拡大していく。それはまるで、一つの大きな穴が突然床にぽっかりと空いたかのようにも見えた。
「なッ、何よこれ!」
意味が分からなかった。自分は教えられた通りに召喚魔術を使ったはずだ。なのに何故こんな異常が起こるのか。
まるでこれでは、こちらの方が呪われているようではないか。
「……の、ろ、われ、て?」
まさか、と思った。
ノエにかけるはずだった呪いは失敗した。
そのせいで、相手に向かうはずだった呪いが、こちらへ返ってきてしまったのだとしたら?
もしもそうだとしたら、本当に呪われたのは、彼女ではなく自分の方だった?
──この仮説は正しかった。
呪いは魔術とは全く別系統の力である。魔力を使わずに魔術のような奇跡を起こす。魔術にも劣らない効果を発揮する。
だがその代わり、呪術が失敗すればその呪いは術者本人へと返ってくる。誰かを呪うには、自身も同じく呪われても良いという覚悟を持たねばならない。
けれど、その覚悟もないままに呪術へ手を染めてしまった者の末路は。
「いや! いやッ!」
リラは絶叫した。
黒い円からは大量の芋虫のような触手が現れ、それが床に根を張るように伸びてくる。
巨大な蠍のような胴体に、無数の長い虫の形をした足が生えていて、頭部と思しき部分には逆向きになった人間の顔がぶどうの実のようにいくつもぶら下がっていた。
そんな生き物が円の中から、人間の赤子の泣き声のような音を上げながら這いずり出てくる。
その光景を見た誰かが独り言のように呟いた。
「──悪魔だ」
悪魔。
そう形容する他ない存在が現れた。
まるでこちらを嘲笑うかのような、濁りのない悪意で作られた笑みを浮かべながら。