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第5話 幸運はきっとすぐ傍に




 ユズリの瞳に光はなく、少しの先も見えないほどに真っ暗だった。

 自分が今どうやって歩いているのかも分からなくて、足を動かしている自分を、物凄く遠い空の上から見下ろしているように感じていた。

 喉の粘膜に液状の苦い何かが張り付いている。

 そのせいでほとんど息が出来なくて、唾液を飲み込む度に酷い吐き気に襲われた。


 少し離れた所には、薄紅色の髪を揺らしながら歩く少女の姿がある。

 彼女の耳には背後に差し迫る危険の音が届いておらず、能天気なその背中がいっそのこと羨ましくも見えた。


 ……自分は今から、彼女を傷つける。


 それが取り返しのつかないことだということは分かっている。けれどユズリにだって引き下がれない理由がある。

 だから仕方のないことなのだ、と言い聞かせて、罪悪感から逃れようとした。責任から逃避した。そうしなければ、心の形を保っておくことができなかった。足の先から崩れてしまいそうだった。


「……ごめん、なさい」


 謝ったってどうにもならない。そもそも彼女には聞こえていないのだから意味がない。

 つまりこれはただの自己満足だった。少しでも自分の身体に降りかかってくる罪の重さを和らげようという、浅ましくて愚かな形だけの謝罪だ。

 ユズリは息を殺し、一歩ずつゆっくりと彼女に近づいた。

 彼女が廊下を曲がる。その先には階段がある。


 ユズリが手を伸ばし、背中を押すと、彼女の軽い身体はいとも容易く傾いた。







 ノエは教科書を抱えて廊下を歩いていた。

 ノエの頭の中では、先程の講義で習ったことが繰り返し再生されている。その内容をぶつぶつと小さく声にも出しながら、お昼ご飯は単語の復習をしつつ中庭で食べようと考えた。


 最近では、嫌な噂が聞こえてきてもほとんど気にならなくなった。

 それ以上に学園での勉強が楽しくて仕方がないのだ。

 特に魔術の実技。ノエはこの科目が随分と得意だった。

 理論も知らないまま独学で光の魔術を扱えていたほどなので、ノエの才能は折り紙付きである。

 であるからして、未だ友達は出来ないままだが、それでもノエの学園生活は充実していた。

 友人については、いつか時間が解決してくれるだろうと楽観的に思う。それまではノエなりに、真心を込めて勉学に打ち込むしかないのだ。


 そうして授業の復習に気を取られていたノエは、背後から近づく影に気づくことが出来なかった。

 廊下を曲がり、下り階段の一段目に足をかけた時のこと。


「え」


 ドン、と背中に何かが触れた。

 突如として視界が傾く。床がやけにゆっくりと迫ってくる。まるで時間感覚を普段の何倍にも引き延ばされているように。

 身体が浮遊感に包まれて、お腹の中身がふわりと持ち上がった。

 誰かに突き飛ばされた、とやけに落ち着いた頭が判断を下した。一体誰に? 疑念が湧き上がる。

 だからノエは反射的に、身体を捻って後ろを向いた。


「っ」


 自身を突き飛ばした犯人の顔を確認する。

 その瞬間、ノエは目を大きく見開いた。

 そこには栗色の髪を三つ編みにした少女、ユズリの姿があった。だがノエが驚いたのはその事実に関してではない。

 ユズリの目には涙が浮かんでいた。

 だからノエは虚を突かれて、思考を一瞬止めてしまったのだ。


「あっ」


 それからノエは我に返った。

 このままでは頭から落ちてしまう。最悪打ち所が悪ければ死ぬ。どうすればいい。いや、考えている時間もない。

 無我夢中で防衛魔術の魔術陣を床に構築し、魔術陣の中央にバン! と音が鳴るほど強く手を叩きつける。


「ひーっ! お願い!」


 咄嗟に書いた魔術陣だ。きっと図形も文字も汚くて読めないはずだ。きちんと発動するかどうかも分からない。それでも必死に祈りながらノエは魔術陣に魔力を流し込む。

 ドンッ、ゴンッ、と硬いものに何かがぶつかる鈍い音が、連続で鳴り響いた。ノエは身体中の至る所を階段の角にぶつけながら、無情にも勢いよく一番下まで転がり落ちていく。


「何の音だ!?」

「あ……」


 尋常ならざる物音を聞きつけ、近くの教室に居た教師や野次馬の生徒たちが事件現場へと駆けつける。

 そこには階段の一番下で身を捩るノエと、腰を抜かしたように階段の一番上に座り込むユズリの姿があった。そんな光景を見れば、当然教師たちはユズリが何かしたものと検討を付ける。

 自分の両手を見つめて震えるユズリに、教師は顔を青くして「レイハ!」と鋭い声を上げた。


「かすり傷です!」


 しかしそんな暗澹とした空気を、濁りのないノエの声が豪快に切り裂く。

 ノエは床に両手をついて猫のように軽やかに身を起こして、口に入った自身の髪の毛を右手で素早く振り払った。そして胸に手を当て、翡翠色の目を見開いて言う。


「私が足を滑らせました!」

「……え」

「私の不注意が原因です! お騒がせしてすみません!」


 ユズリは信じられないものを目の当たりにしたように、身を硬くしてノエを見つめる。呆然とする教師と生徒たちに向けて、ノエは迷いなく言葉を続けた。


「けれど少し足を挫いてしまったので……ユズリさん!」

「えっ?」

「私のこと、保健室まで連れて行ってくれませんか!? 通りがかったよしみで!」


 ノエはわざとらしく自分の右足を両手でスパァン! と叩き、そして軽快にユズリを指名した。

 教師はしばし困惑していたが、ノエの勢いと澄んだ眼差しに気圧され、ユズリに「……頼めるか? レイハ」と困った顔をして言う。そう言われては断ることもできず、ユズリは口を閉じたままぎこちなく頷くしかなかった。




 保健室には担当の教師が居なかった。今は会議のために部屋を開けているらしい。

 ノエは部屋の扉を開けて、勝手に椅子を二つ引っ張ってきた。そしてそれを、未だ心ここに在らずという様子のユズリの前に差し出す。


「はい」

「……え?」

「どうぞ」


 保健室の中にはノエとユズリ以外に誰も居ない。棚には様々な魔術薬の瓶と、薬草の植わった鉢が並べられている。

 ノエは彼女の隣に腰かけ、物珍しそうに辺りを見回した。それからユズリへ視線を向けた時、彼女の手が震えていることに気づく。

 彼女の顔は酷く恐ろしいものに追いかけられたのかと思うほど青かった。大量の脂汗が額に浮いていて、今にも失神してしまいそうな有様だ。


「……大丈夫?」


 彼女のことが心配になって、ノエは声をかけた。

 背中を摩ったほうが良いのだろうか。それとも距離を取ってそっとしておくのが良いのか。

 そうしてノエが悩んでいると、ユズリは下唇を噛みしめながら顔を上げる。彼女は切れ味の悪い刃で心を酷く切り付けられたかのような表情を浮かべて、ノエを激しく睨み付けた。


「だい、じょうぶ、って、何よ」


 彼女は手の甲が真っ白になるほど硬く拳を握りしめていた。強く歯を立て過ぎたのか、彼女の唇からは僅かに血が滲んでいる。


「どうして……。どうしてあなたがそんなこと言えるわけ!?」


 溜め込んでいた感情に火が点いたように、彼女は立ち上がって大声で叫んだ。

 ガシャン、と音を立てて椅子が後ろに倒れる。今にもノエに掴みかからんばかりの勢いで、彼女は声を荒げて叫んだ。


「あなた、私に突き落とされたのよ!?」

「そ、そうだね……」

「普通怒るでしょ!? 怒って当然でしょ!? なのに何で心配なんかしてるのよ! 馬鹿じゃないの!?」


 彼女は溢れ出した感情の行き場を見失っているようだった。ノエに向けられているように見える怒りの矛先も、実の所それは全て彼女自身へと向かっている。

 ユズリは肩を上下に激しく揺らし、そして覚束ない足取りで一歩ずつノエから距離を取った。


「……大体、気づいてたんでしょう。私があなたに、嫌がらせ、してたこと……」

「それは……うん」

「なら、なおさら。なんで……」


 彼女はノエの行動が理解できないようだった。

 だから先程からずっと、彼女の声には怯えが滲んでいる。何せ理解できないものは恐ろしい。きっと彼女の目にはノエの姿が得体の知れない化け物のように見えているのだろう。

 ノエは自分の髪の毛の端を親指と人差し指で挟み、居心地の悪さを誤魔化すために指を擦り合わせる。それから両手を膝の上に置いて、彼女へ真っ直ぐに向き直った。


「……ユズリさん」

「……何よ」

「私、怒ってたよ」


 脚色も嘘もない、そのままの言葉を伝える。

 ユズリは目を見開いて身を硬くした。そんな彼女の顔を覗き込み、無理にでも目線を合わせる。そうやって目を逸らすことが出来ないようにした。相手の顔を見て話したかったから。


「本を捨てられたのも悲しかったし、突き飛ばされたのにもカチンときた。だからあの時後ろを向いたの」

「……え」

「私を突き飛ばした人が誰なのか見てやろうと思った。顔をちゃんと確認して、直接怒ってやろうと思ったの。相手がどんなに身分の高い人だったとしても、面と向かって文句を言ってやる! って」

「……それなら、なんで」

「うーん。それは……うーん……」


 ノエは腕を組み、首を傾げて唸った。そして自分の頭の中で言いたいことを組み立てる。


「……泣いてたから?」

「え」

「振り向いた時に、ユズリさんが泣いてるのが見えて……それで、怒るよりも先にやるべきことがあると思ったの」


 揺れる髪の毛を耳にかけ直して、ノエは清々しい口振りで答えた。


「だってユズリさん、全然楽しそうな顔をしてなかったから。だからきっと、あなたにも何か事情があるんだと思った。それなら怒るより先に、その事情を知りたいと思ったの。怒るのはその後でいいやって」

「……頭を、打っていたら、死ぬかも、しれなかったのよ」

「でも無事だよ、私。ほらこの通り」

「……何、それ」

「私に魔術の才能があって心底良かった……」

「……何よ、それ……」


 ノエは胸に手を当て、安堵のこもったため息をついた。

 するとユズリは口を不均等に歪め、両手で顔を覆う。

 そしてその指の隙間から、啜り泣いているかのようなくぐもった声を漏らした。

 彼女は「……わたし」と、今にも消え入りそうなか細い声で呟く。


「私、本当は。あなたが噂されているような人じゃないってこと、知ってた」


 ユズリは酷く俯き、目元を何度も擦りながら言う。


「だって、あなたの教科書には……授業で教わったこととか、自分で調べたこととか、そういうものが、たくさん書き込まれてた。どこを捲っても、あなたの努力の痕が見えた」


 ノエはじっと身体を動かさずに、口を噤んで彼女の話に耳を傾けた。


「あなたが本当は、努力家で、真面目で、ひたむきに頑張ってるだけの人だって、知ってた。……知っていたのに、私は、自分のためにあなたを蔑ろにしたの」


 彼女の声の輪郭線が、徐々に震えて溶けていく。


「こ、こんなこと、言っても、言い訳にしか、ならないけれど」

「うん」

「わ、わたし。あなたのことをいじめるように、言われてたの。そうしなければ、わ、わたしの、家族が、大変なことになるから」

「……うん」

「わたしの、うちは、貧しいから。わたしより身分が上の、ご令嬢に、さ、逆らったら、どうなるか、分からないの。だから、あなたのことを……」


 彼女の緑色の瞳から、大粒の雫が次々に零れ落ちていく。きっとその涙に嘘はない。


「あ、あやまっても、許されることじゃ、ないわ。でも、本当に、ほんとうに、ごめんなさい……」

「……うん」

「本当に、ごめんなさい……!」


 怒っていた気持ちは、とうの昔に萎んでいた。

 何の理由があったとしても、突き飛ばされて危うく怪我をするところだったのだから、もっと彼女を問い詰めるべきなのかもしれない。

 けれど自分はこうして何事もなく活力に満ちている。

 それに、きっと彼女もとても苦しい思いをしてきたのだ。

 なら、いいのではないかと思った。自分が良いと思ったなら、その気持ちに従っても許されるのではないかと。

 だから泣きじゃくる彼女に手布を差し出して、ノエは軽やかに微笑んだのだった。




「……泣きやんだ?」

「まだよ……」

「まだなのね」


 ユズリは一度涙腺が壊れると、中々元には戻らない性質の人らしかった。

 このまま彼女を一人にするわけにも、この状態で外に連れて行くわけにもいかない。だからノエはとりあえず、彼女の涙が止まるまで寄り添うことにした。


「……それにしても」

「?」

「あなた、本当に心が強いのね……」


 鼻を啜り、ノエを見上げながら彼女が言う。ノエは頭の後ろを手で撫でながら、眉を下げて控え目にはにかんだ。


「まあ、それはその通りなんだけど」

「否定しないのね……」


 ノエが頷くと、彼女はちょっと呆れたような顔をした。ノエは必要以上の謙遜をしない。恵まれているのにそれを否定することは、きっと誰かを傷つける羽目になる。

 鼻の下を自慢げに擦りながら、ノエは自身の上着の内側に手を入れた。そして小さな布で出来た袋を取り出し、それをユズリへ堂々と見せる。


「それとは別にね。私には元気をくれるお守りがあるの」

「……これがそう?」

「そう! 大事な人がくれたものなの」


 その香り袋を両手で抱きしめ、ノエはうっとりと頬を緩ませる。

 憧れの彼が「あんたのために用意したんだ……受け取ってくれ」と言って(※言ってない)渡してくれた、宝石よりも値打ちのある宝物だ。

「泣くほど辛いことがあったのなら、これを抱いて俺のことを思い出せ……」と言って(※言ってない)くれた、ノエの家宝である。

 ノエは美しい思い出(※ほとんど捏造である)に包まれながら、愛しいお守りに頬を擦り寄せた。

 しかしその時、とある違和感に気づく。


「……あれ?」

「どうしたの?」

「……? ……?」

「どうしたのってば」

「匂いが、しない?」


 ノエは何度も小刻みに息を吸い込み、それから首を傾げた。

 香り袋から一切匂いが漂ってこなかったからだ。どれだけ鼻を近づけて息を吸っても何も感じられない。この間までは爽やかな花の香りに満ち溢れていたというのに。


「な……何で!?」

「中を見てみたら?」

「そ、そうだね! ……ッあ!」

「なに?」

「か……か……」

「何よ」

「枯れてる……」


 ノエはこの世から春が消えた、とでも言わんばかりに顔を暗くして振り返った。

 香り袋の中に閉じ込められていたオーリアの花は、まるで水分の一切を失ったかのように干からびていた。いつの間にか死に絶えていた香り袋の中身を目にして、ノエは両手で顔を覆ってくずおれる。


「ほ、保存の仕方がダメだったの……? 毎日持ち歩いていたのがいけなかったのかな……。折角初めてのプレゼントだったのに。家宝にして千年先まで飾ろうと思ってたのに……」

「……ちょっと見せて」


 するとその時、突然ユズリは目尻を鋭く上げて、ノエに向けて手を伸ばした。首を傾げながらも、ノエは彼女に持っていた香り袋を見せる。

 彼女はじっと香り袋を観察して、それから目を見開き、驚愕の滲んだ声で言う。


「あなた、これ……〝幸運の花飾り〟じゃない?」

「え?」


 聞き覚えのない単語が彼女の口から飛び出す。ノエは目を瞬かせ、「それ、何?」と聞き返した。


「知らないの? 魔道具の一つよ」


 魔道具とは、魔術によって様々な特殊効果を付与した道具のことを指す。魔道具は日常の様々な場所に使用されていて、夜の街を照らしている街灯も火魔術の効果が付与された魔道具の一種だ。

 ユズリは香り袋を見つめて何度も頷き、「絶対そうよ、これ」と目を輝かせながら言う。


「私が前に街の道具商で見たものとは、ちょっと形が違うけど……でも間違いないわ。これ、幸運の花飾りよ」

「それってどういうものなの?」

「持ち主の運気を物凄く上げるのよ。でも一度使ってしまったら花が萎れて枯れるの」


 それを聞いて、ノエははっとした。

 階段から突き落とされた時、あの一瞬でよく魔術を発動できたものだと自分を褒め称えていたが、そうではなかった。

 あれは紛れもない奇跡だったのだ。自分は知らずのうちに、彼が渡してくれた魔道具に救われていたのだ。


「凄いわよ、これ。誰から貰ったのかは知らないけど……これ、相当高価なものよ?」

「えっ」

「運気を上げる魔術って物凄く付与するのが難しいのよ。作るにしても手間がかかりすぎるし、買うとなったら……ざっとこのくらいの値段ね」

「そん、なに?」

「道具商でも滅多に扱ってないのよ。あなた、その人から随分大事にされてるのね……」


 ……いや、多分そうではない。

 確かにノエは彼のことが好きだが、彼は別にノエのことを何とも思っていないだろう。むしろ印象は最悪に近いし、好かれているとは思えない。

 それでも彼は、追い詰められたノエを見ていられなくて、こんなにも貴重な物を惜しむ様子もなく手渡してくれたのだ。

 泣いている人を放っておけなかったから。

 少しでもいい事がありますように、と。


 色褪せた花弁の詰まった小袋を、ノエはぎゅっと静かに抱きしめた。

 出会ったばかりの相手に、ありったけの善意をくれる人。

 庭師のグランくん。

 優しい男の子。


「……好き!!」


 ノエは顔を真っ赤に染めて叫んだ。

 やはり彼は思った通り、世界で一番素敵な人なのだ。







 ノエは嬉しかった。

 やっと寮の同室生と真正面から話せるようになったからだ。

 これまではあまり話しかけると迷惑になるかと思い遠慮していたが、先日の一件があってから彼女と少しだけ打ち解けることが出来た。未だたどたどしさは残っているものの、目を見て話してくれるようになった。

 踊り出したいような気分になったノエは、街のお店からたくさんのお菓子を取り寄せたというわけだ。


「あのね。こっちが今街で凄く人気のお菓子屋さんのクッキー缶でね。こっちが最近新しくできたお店のタルトなの。あ、そうだ! 紅茶もね、買ってみたの。でもどれが美味しいか分からなくて、色んな種類を揃えてみたんだけど……」


 お風呂上がりに部屋着を着たまま、ノエは今先程届いたばかりの箱をワクワクしながら早速開けて、部屋の中央に置かれてある大きな丸い机の上にお菓子を一つずつ並べていった。

 そんな光景を前にして、ユズリは呆気に取られて固まった。彼女は栗色の髪を後ろで一つ結びにして、気難しそうに眉間に皺を寄せている。


「ユズリさん、その寝間着似合ってるね!」

「あ、ありがと……。というかあなた、買い過ぎじゃないの?」

「へへ。楽しくなっちゃってつい。ユズリさんは甘い物好き?」

「嫌いじゃ、ないけど」

「良かった! ちょっと待っててね。紅茶淹れてくる」

「あ……わ、私も手伝う」

「ありがと!」


 ぱっと花が咲いたようにノエが笑うと、ユズリは慌てて目を逸らした。

 彼女には少し人見知りな部分があるらしい。だからこれから少しずつ、自然に打ち解け合えたらいいなと思う。色んな共通点を探したり、楽しいことを分け合ったりして。

 ノエは髪の毛を下の方で二つ結びにして、部屋着の袖をくるくると折った。それから買ったばかりの紅茶の箱を持ち上げ、眉を寄せて「むむむ……」と唸る。


「美味しい紅茶の淹れ方の本を借りてくるべきだった……」

「……淹れ方、教えようか」

「! いいの!?」

「別にそんな、大したものじゃないけど」

「助かるよ~! 私実はほとんど紅茶飲んだことないの。村じゃ見かけること自体珍しくて……」

「……地方じゃあまり流通してないものね」

「わ。ユズリさん手際良い……!」

「別にそんな……褒められるようなことしてないけど」

「いやカッコいいよ! こう、サーッ! ピシッ! って感じで」

「どういう感じよ」


 彼女に正しい紅茶の淹れ方を教えてもらいつつ、ノエは皿の上に菓子をのせていく。つまみ上げたクッキーの真ん中には赤いジャムがのっていて、それがきらきらと光って宝石のように見えた。


「こういうのずっと憧れてたんだ」


 ノエは目を細めて、笑って言った。


「皆がやってるお茶会? みたいなの。羨ましかったんだよねぇ。どうしても一回やってみたかったの」

「そう……」


 貴族の令嬢たちはよく庭園でお茶会を開いていた。それが眩しくて、楽しそうで、いつも羨ましく思って見ていたが、まさか突撃するわけにもいかず、人生で一度は招待されてみたいなあ、などということを漠然と考えることしかできなかった。

 その念願がたった今叶ったのだから、これほど喜ばしいことはない。寮の一室で、部屋着のまま行うお茶会は、きっと他の生徒たちが開いているような茶会とは次元が違うのだろうけれど、ノエにとってこの空間は幸せの詰まった宝箱だった。


「……私にとっては」


 けれどユズリは顔の半分に影を落として、カップの中に注がれた紅茶の表面を見つめながら、小さな声で呟く。


「そこは……楽しい場所じゃなかった」


 その言葉は身体に溜まっていたものが思わず口を伝って外へと漏れ出てしまったかのような、誰に聞かせる予定もなかった独り言の形をしていた。

 ユズリは暗い声で呟いてから、弾かれたように顔を上げ、自分が零した声の湿っぽさを恥じる。


「その……別に、あなたが用意してくれたものを、否定してるわけじゃなくて」


 慌てて首を横に振るユズリに対して、ノエは「うん。分かってる」とあっけらかんとした様子で呟いて。



「ならユズリさんにとってのお茶会が、今日から楽しいものになるといいな」



 と、何の含みもなく笑って言った。

 彼女はノエの顔を呆然と見つめてから、再び紅茶の表面に映る自分を見た。


「……あなたって」

「うん?」

「いつもそうなの?」

「? うん」

「……何か、色々、バカらしくなったわ」

「……? 良い意味で?」

「そういう所よ」


 ユズリが肩を竦めて、息が苦しくなるのではないかと心配になるほど長いため息をつく。呆れたような顔をして、彼女はぐったりとした様子で天井を見上げた。

 けれどその表情には一抹の晴れやかな光が差し込んでいたので、きっと彼女の中で何かが明るい方へと動いたのだろうなとノエは思った。


「それじゃあ、いただきます」

「ちょっと。そのまま飲むと火傷するわよ。匙で掻き混ぜて冷ましてから飲みなさい」

「あ。そっか。へへ……」


 ノエは言われた通りに小さな匙で紅茶をゆっくりと掻き混ぜる。その姿を、ユズリは固唾を飲んで見守った。ノエはあまり紅茶を嗜んだことがないと言っていた。だから口に合わなかったらどうしよう、と思ったのだ。微妙な思いをしないかと心配で、ノエの表情をじっと見てしまう。

 ノエはカップを傾けて、少し冷めた紅茶を口に含んだ。


「……!」


 するとノエの顔が華やいで、その周りに光の粒が散る。

 ユズリは胸を撫で下ろした。


「おいしい~!」

「そ、そう……」

「すごくいい香りがしてほんのり甘い! お砂糖入れてないのに!」

「それなら、良かった」

「美味しい紅茶って飲むと気分まであったかくなるんだねえ」

「……その茶葉だったら、こっちのお菓子とよく合うんじゃない」

「そうなの? 詳しいのね!」

「昔はよく実家で飲んでただけよ」

「そうなんだ」


 どうやらユズリは随分と博識らしい。

 それに淹れてくれる紅茶がとても美味しい。勿論茶葉も良いものを使っているけれど、こんなに香りが良くて美味しいのは彼女の手際が良かったためだろう。

 温かい紅茶を飲んでほっと一息ついた時、ノエの顔を不思議そうにまじまじと見つめながらユズリが呟いた。


「噂って当てにならないものね……」

「?」

「……あなたって、聞いてた話よりずっと素直で明るいじゃない」


 褒められていることを感じ取ったノエは、口を逆三角形に開き、目を閉じてニコ! という擬音が聞こえてきそうな笑い方をした。

 それから、しかし眉を下げて、顔の前で手を振って言う。


「でもね。その噂には私にも原因があって……」

「原因?」

「入学初日にやらかしちゃったの。ソーン王子とロゼリア様相手に」

「王子って……あなた何したのよ」


 ノエはしょんぼりと肩を落としながら、入学当初にやらかした失態をありのままに説明した。

 すると頬杖をついて話を聞いていたユズリは、次第に眉間に皺を寄せて、唇を歪に曲げていく。

 そしてノエの話を最後まで聞き終えて、彼女は紅茶のカップを皿の上に置き、両手で机を勢いよく叩いた。


「いやそれはあなただけが悪いわけじゃないでしょ!?」


 そう言われて、ノエは目を丸くする。

 ユズリは髪と揃いの色をした眉を吊り上げて、自分事のように憤りながら叫んだ。


「いや……それであなたが諸悪の根源みたいに言われてるのはどう考えてもおかしいじゃない!」

「そ……」

「大体ね! そりゃまあ、婚約者のいる男性と二人になるのは良くないことよ? でもそもそも話しかけてきたのは王子の方じゃないの!?」

「それは……まあ……」

「無理に連れ回したわけでもないんでしょ!? たまたま会って、話しかけられたから学園を案内してもらっただけ? それの何が悪いの!? 大事にするような話でもないじゃない!」

「それは……その……王子もロゼリア様ともう一度話し合うと……」

「それが出来てないから今こんなことになってるんじゃないの!」


 ユズリは激しく言い募った。己の内に沸いた義憤の炎を強く燃やしているようだった。

 そんな彼女の前でノエは両頬を叩き、そして彼女の手を握りしめる。


「ちょ、ちょっと待って、ユズリさん」

「なによ」

「私に味方してくれる意見は心地良すぎて、そればっかりで心が埋まっちゃうから……」


 これ以上聞いていると自分が絶対的に正しいような気がしてきて、自分以外の立場に立って物事を考えられなくなりそうだ。だから彼女の言葉を制止した。


「でもありがとう。本当はちょっとモヤッとしてた所もあったから、そう言ってくれて嬉しい」

「……あなたが良いなら、別に」


 彼女が庇ってくれたことは本当に嬉しいので、その意見は胸の奥の大切な物入れに丁寧にしまっておく。これから何か大変な目に遭った時に、こっそりと取り出して眺めようと思う。


「とにかく、うん。考えなしに行動してしまった私にも、やっぱり悪い所があって……だからこれからは振る舞いに気を付けようと思ったの」

「……そう」

「なので良ければ、私が変なことしてたら教えてやってほしいのです。私、実はこう見えて世間知らずで……」

「結構見たまんまよ」


 ユズリは迷いのない口振りで呟いてから、はっとした様子で顔を上げた。彼女の慌てたような顔を見て、ノエは口を大きく開けて風通しのいい笑顔を浮かべる。

 彼女が結構遠慮のない突っ込みを入れてくれたのが嬉しかったからだ。徐々に彼女の素を引き出せている気がする。これは大変に名誉なことだ。


「……こ、これから」


 照れ臭くなったのか、居たたまれなくなったのか。ユズリはその場の空気を新調するような、普段よりも少し大きな声を上げた。


「ど、どうするつもりよ。あなたは」


 ノエは静かに瞼を上下させて、それから首を傾げた。

 ユズリは表情を石のように硬くして、唇を尖らせながら言う。


「他の生徒たちに目を付けられてるのよ。目の敵にされてるの。特にリラ・メイティ。あの令嬢はあなたのことがよっぽど気に食わないみたい」

「うーん。その人と仲良くなる方法はあると思う?」

「天地がひっくり返ってもないわよ」

「天地がひっくり返っても……」


 それはまた随分と嫌われてしまったものだ。

 できれば友好的な関係を築きたいと思ったのだが、ユズリの話によるとそれは、目を閉じたまま最高位魔術師の試験(※この国で最も取得が難関な魔術資格の試験)に合格するよりも難しいことらしい。


「……私だって、その子にいじめられてるのよ」


 ユズリは俯きながら言った。


「前にも言ったけれど、私のうちは貴族の中でも位が低いの。その上事業に失敗してて、その子の親に資金を援助してもらってるから、その子に逆らったらうちの実家が潰れるのよ」

「そんな……」

「……でもそれだけじゃない。身分が低くとも、よっぽど優秀だったり、素晴らしい魔術が使えたりする生徒は、表立って見下されることは少ないわ。裏では陰口を叩かれるかもしれないけれど、分かりやすくいじめられることはないでしょうね。この学園は、結局の所実力主義の場所だから」


 彼女は額に手を当てて、「でも駄目よ、私は」と力なく呟いた。


「苦手なのよ、そういうの。座学は好きだけど、実技の授業になるとてんで駄目。緊張して、何も上手くできなくなる」


 人に見られていると思うとどうしても手が震えてしまう。だから実技の魔術試験はいつも最下位で、露骨に蔑んでも許される存在なのだと思われてしまうのだと、彼女はそう言った。


「あなたは……優秀だから、きっとこれから何とでもなるわね。私とは違うもの」

「ユズリさん……」


 悲しそうに彼女が笑う。この先の未来を悲嘆するような、諦念の滲んだ笑みだった。

 そんな彼女の手を、ノエは掬い上げるように掴んで強く握りしめる。目を見開く彼女に、ノエは頷きながら力強く言った。


「なら緊張しなくなるまで一緒に練習しよう!」

「へ」

「経験さえあればきっと何とかなるよ!」

「あ、あなたね……」

「それに私、支援系の魔術は大の得意なんだ! 強化の魔術も今勉強してる最中なの。気分を解す魔術もいつか使えるようになるかも」

「そんなの試験で使ったら一発で退出よ……」


 ユズリは呆れたようにそう言って、それから少しだけ強張っていた頬を緩める。白いカップを持ち上げて、彼女は残っていた紅茶を全て飲み干した。

 さくさくのクッキーを口いっぱいに頬張って、ノエは上目遣いで彼女を見つめる。


「ねえ、ユズリさん」

「なに」

「ユズリさんのこと、ユズちゃんって呼んでもいい?」

「……好きにしたらいいわよ」

「やった!」





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