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第4話 再起への道筋




「ねえ、聞きまして? あの噂」

「ええ。ジェードさん、この間は王宮付きの庭師にまで言い寄っていたそうよ」

「まあ、なんてこと……」


 耳を塞ぎたい。

 けれどそんなことをすれば余計に目立ってしまう。だからできない。ただでさえ自分は今こうしてただ廊下を歩いているだけで、ざらついた視線を集めてしまっているのだから。


 人の噂が広まるのは早いもので、先日ついたばかりの傷はもう既に学園内の嘲笑の種と化していた。

 針のむしろ、というのはこういう気分のことを指すのだろうか。

 さっきからずっと、頭の奥を金槌で叩かれているかのような頭痛が止まない。


「彼女、一体何のためにこの学園にやって来たのでしょうね」

「さあ……。もしかしましたら、あのお方、殿方とお近づきになるためにいらしたのではなくって?」

「まあ! そんなこと……ジェードさんのお耳に入ったら大変よ」

「ええ。でもわたくし、どうにもそのような気がしてなりませんの。この前わたくしのお友達も、ジェードさんがダグラス公爵家のご令息様に〝お声がけ〟していた所を見たそうよ……」


 彼ら彼女らはクスクスと笑い合って、身の程知らずな異分子の醜聞を針小棒大に言いふらした。

 噂には尾ひれがついて回るものだ。ノエの名前にはあっという間に〝ならず者〟の烙印が押され、根拠のない虚説までもが真実の顔をして練り歩くようになってしまった。

 ノエは表立って嘲笑っても許されるような、好きなだけ汚してもいい的として扱われるようになってしまったのだ。




「……あれ?」


 授業の開始を告げる鐘が鳴り、教科書を取り出すために鞄の中を覗いたノエは、顔を青くして手の動きを止めた。

 入れたはずの教科書が見当たらない。そんなはずはないのに。昨日寝る前にきちんと用意したはずなのに。

 しかし誰に見せてもらうことも出来ず、凍り付いたように動けなくなったノエを置いたまま授業は進む。


「では、次。ここの問題を。ジェード」

「っ!」


 教師に名指しで当てられる。

 ノエは反射で立ち上がった。周囲の生徒の視線が集まる。

 一斉にこちらを向いた、無機物のような好奇の目。その眼差しが身体の至る所に突き刺さり、痛みと熱で全身が燃えてしまいそうだ。それなのに頭の中は北風が吹き荒んでいるかのように冷えている。

 何も言わずにただ震えて下を向くノエに、痺れを切らした教師は「教科書を見ろ」と軋んだ声で言った。


「教科書の第二章。四十七頁だ」

「……あ。そ、その」

「……まさか忘れたのか?」


 教師の声に一段と失望が滲む。

 その瞬間、教室にはささやかな笑いが立ち込めた。閉め切られた窓の内側、風通しの悪い部屋の中に満ちる、腐った臭いのする爽やかな笑い声が。

 心臓をきゅう、と棘のついた縄で絞めつけられる。名前を呼ばれた瞬間から汗が止まらなくて、何も握っていないのに手が震えてしまう。

 最近はずっとそうだ。名前を呼ばれると嫌な汗が流れ続けるのだ。自分が知らない内に何か間違ったことをしてしまったのではないかと不安になって、自分への疑心暗鬼に押し潰されそうになる。


「す、すみま、せん」

「……ジェード」

「は、はい」

「学生としての本分を理解するように」

「……はい」


 そう言われ、簡潔に釘を刺された。

 ノエは冷汗の滲み出た身体に何とか「動け」と指示を出して、出来る限り音を立てないように座る。激しい耳鳴りに襲われ、自分の心臓の音以外何も聞こえない。

 一度底に落ちてしまうと、そこから這い上がることは容易でない。

 悪い風というものは際限なく同じ場所で吹き続けるものであり、暗い顔をした人間の元には次から次へとありふれた不幸が訪れるものなのだ。




「ない……」


 その後ノエは寮の部屋に戻って棚を探したが、失くした教科書はどこにも見当たらなかった。

 ならばどこかに落としてしまったのかと思って、普段通る道や使ったことのある教室を一通り覗いてみたのだが、結果はこの通り。

 日が暮れるまで紛失品の捜索を続けたが、ついぞ見つかることはなかった。


 一体どこに消えてしまったのだろう。

 買い直すにしても、手元に届くまでに時間がかかる。ただでさえ授業の理解に苦しんでいるというのに、これでは他生徒との距離が開くばかりだ。

 そうして酷く落胆し、背筋を曲げて寮へ続く道を歩いていた時のことである。


「……え」


 寮に備え付けられた共用のゴミ捨て場の前に、見覚えのある三つ編みの少女が立っていた。

 同室のユズリという少女だ。

 その光景を見たノエは、目を見開いて固まった。

 彼女の手にはノエが探していたはずの、失くしてしまった教科書が握られていたからだ。


 ノエが驚きで硬直している間に、ユズリはその教科書の頁を無惨に引き裂いた。

 千切れた紙が雪のようにゴミ箱の中へと落ちていく。

 ひらり、ひらりと。

 無価値な紙切れとなって。


 彼女はノエの本をこっ酷く捨てたのちに、人の目を気にしてか足早にその場を立ち去って行った。

 残されたノエは壁に背中を預け、力なくしゃがみ込んで、細い腕で目元を覆う。

 教科書を失くしてしまったのではない。ただ故意に隠されていただけだったのだ。そして今はゴミ箱の中にある。修復不可能な状態で。

 

 分かってはいたことだ。

 分かっていたことだが、自分は、こんなにも。


「……もう、帰りたいなあ……」


 生まれ育った村が恋しい。

 大好きな家族に、友達に、会いたかった。

 村を出る前はあんなにも眩い期待に満ち溢れていたのに、今は一刻も早く懐かしいあの場所に帰りたくて仕方がなかった。







 学園にも、寮の中にも、ノエの居場所はなかった。

 だから必死に唇を噛んで、目の端を何度も指で擦る。

 こんな所で泣いてはダメだ。また噂の種になってしまう。何かまた面倒事を起こしたのかと思われる。

 誰にも泣いている姿を見られたくない。せめて泣くなら人目のつかない所がいい。

 それか、あるいは、あの場所ならば。


「……っ」


 鼻を啜り、眉を寄せ、息を吐けば涙が零れてしまいそうだから呼吸すら止めて、ノエは一目散に走った。

 そうして日の落ちた庭園を駆け抜けて、辿り着いたのは──一面に青い花の咲いた、美しい花畑だった。


「っ、う」


 足がもつれ、勢い余って転倒する。服にも顔にも泥がつく。

 痛みで呻きながら顔を上げる。

 するとそこには、甲斐甲斐しく花に水をやる黒髪の少年の姿があった。

 彼は背後で鳴り響いた大転倒の音に顔を顰め、そしてため息をつきながら振り返った。


「何だ、君。もう邪魔しないって言ったのは──」


 そう言いかけて、しかしグランは口の動きを止めた。

 彼は眉間に寄った皺をより一層深め、頭痛を堪えるような表情を浮かべながら側頭部を親指で押さえる。


「君、何でそんなに泥まみれに……」

「ゔっ」

「え?」

「う、ぐ、ゔぇぇぇぇん!」


 グランは手に持っていた水差しを落とし、唖然とした。

 突然ノエが盛大に涙を流し始めたからだ。

 その声は天まで轟くほどであり、近くに立っていたグランの鼓膜は皮が破れたかと思うほどに激しく痺れた。

 ノエの泣き方には遠慮がなかった。故郷を想起させる花の群れを見て、心に張っていた最後の糸が切れてしまったのだ。一度溢れてしまった涙を止める術などなく、感情が身体の外へと濁流のように流れ出ていく。


 そんな光景を前にして、グランはすっかり困り果てていた。

 まさかこんなにも目の前で激しく泣かれるとは思っていなかったからだ。同じ年頃の女の子が大号泣している姿を目の当たりにするのが初めてで、どう対応すれば良いのか全く分からなかった。

 だから先程からずっと両手を宙で彷徨わせ、かけるべき言葉を探し続けている。


 するとノエは泣きながら地面を這いずって、勝手に花畑の目と鼻の先に座り込んだ。

 そして顔を猫のように擦りながら、濁り切った声で叫ぶ。


「わっ、私っ。そんなに嫌われるようなことした!?」


 明日喉が腫れるかもしれない。

 顔も服も泥だらけ。目は真っ赤に充血している。そんな姿を好きになった男の子に見られている。

 でもそれすら今は気にならない。とにかくどこかに気持ちを吐き出したかった。そうしなければ、めいいっぱいの不安と失意が膨らんで、身体が張り裂けてしまいそうだったのだ。


「確かに私には! 足りない所も、悪い所も、いっぱいあるけど……! でも自分なりに、どうにか、毎日、頑張って……!」


 声が震える。視界が歪んで、花の青色が何重にも歪む。


「べ、別に、教科書まで捨てること、ないでしょ。噂だって、みんな、間違ったことまで、ホントのことみたいに、広めて」


 ずっと言いたかった。けれど誰に言えばいいか分からず、胸の奥に押し込めていたこと。それが一気に決壊して、心の隙間から溢れ出す。自分ごと感情の波に押し流されていくような感覚が、身体のすべてを支配する。


「は、話しかけたのが、だめだった?」


 馴れ馴れしすぎただろうか。

 だからこんなにも取り返しのつかないくらいに嫌われてしまったのだろうか。


「私、皆に嫌な思いさせた?」


 それが不愉快だったのだろうか。

 関わろうと思うこと自体が迷惑だったのだろうか。だから皆に後ろ指をさされるのは当然で、私物を勝手に捨てられるのも仕方がないことなのだろうか。


「何がだめだったの。どうすれば良かったの?」


 どうすれば上手くやれたのだろうか。

 何が正解だったのだろう。何をすれば嫌われずに済んだのだろう。

 それとも、ここに来たこと自体が間違いだったのだろうか。

 特別な力があると言われて舞い上がってしまった。勘違いをしてしまった。何かを成し遂げられる人になれると思ってしまった。


「……誰か、教えてよお……」


 ノエは萎れた声で呟いた。

 膝に額を押し当て、短く連続で息を吐く。

 これからどうするべきなのか、一人で考えていても答えが出ない。けれどだからと言って誰に頼ることもできなかった。

 これはきっと自分一人で解決すべき問題なのだろう。でもそれが出来るほど今の自分は強くない。強くないから、この学園には相応しくないのかもしれない。


 するとそれまで黙って話を聞いていたグランは、唇を硬い動きで震わせてから、頭を掻いて右を向いた。

 そして眉間に濃い色の影を落としながら言う。


「……人には、向き不向きってものがあるだろ」


 そう言われて、ノエは顔を上げた。

 その額には薄紅色の髪が何本も貼り付いている。それを手で払うこともせず、ノエはただ彼の鋭利な横顔をじっと見つめた。


「だから……あー……その。アンタの何がダメだった、とかじゃなくて。単純に、アンタにはこの場所が合ってなかったんだよ」


 それはノエを哀れに思ったから慰めている、というよりは、自分が思っていることをただ淡々と吐き出しているような口振りだった。

 そこには同情ではなく、代わりに淡白な理論だけがあった。

 彼はノエを見ないまま、花についた水滴を指で掬いながら言う。


「アンタ、遠い村から来たんだろ? 家族との仲は?」

「……とっても、仲良し」

「なら良いじゃないか」


 グランは一瞬だけここではないどこか遠くを見つめた。まるでそれは遠くの空に浮かんでいる星の残像を眺めているような顔だった。

 そして彼はすぐに視線を花畑へ落とし、傷んだ花がないか確認しながら話を続ける。


「アンタには帰る場所があるんだ」

「……帰る、場所」

「ああ。ならこんな学園さっさと辞めて、村に帰っちまえばいい」


 彼はさっぱりと言い切った。

 そして腰に吊り下げた小袋の中から何かを取り出して、それをノエに投げるようにして渡す。

 それは小さな香り袋だった。赤い布で造られたその袋からは、馴染みのあるオーリアの花の良い香りが漂ってくる。


「餞別だ。……泣かれたままと言うのは、後味が悪い」


 ノエは手のひらの上にのったその香り袋をじっと見つめた。

 どうやらこれは、彼なりの気遣いの証らしい。泣いているノエをそのまま放っておくことが出来なかったのだろう。


 自分で作ったものだろうか。それとも偶然どこかの店で買って、それをこうして渡してくれたのだろうか。分からないが、彼はとにかくノエが「オーリアの花が好き」と言ったのを覚えていてくれて、それでこの香り袋をくれたのだ。

 両の眼から零れ落ちていた涙がやっと止まる。

 グランは決まりが悪そうに眉間を押さえながら、ぶっきらぼうな口調で言った。


「……とにかく。さっさとこんな場所には見切りをつけて、アンタは故郷の村に帰れ」

「……そうだね」


 指をゆっくりと折り曲げて、香り袋を手の中に閉じ込める。大事に握りしめたそれに顔を近づけて、身体の中を優しい花の香りで満たす。

 彼の話を聞いて腑に落ちた。

 彼の言葉に感銘を受けたノエは、頬に残った涙の痕を手の甲で拭き取って、香り袋を握ったまま何度も小さく頷く。


「そっか。そうだった。私には帰る場所があって、大事な家族も友達もいるんだ」

「……分かったなら」

「なのに、何を怖がってたんだろう?」

「は?」


 ノエは頬を叩いて立ち上がった。

 心を覆っていた分厚い雲のような澱みが、凄まじい早さで透明になっていく。

 ノエは指で頬の肉をぐにぐにと捏ね回し、「よし!」と叫んで身体の向きを変える。そうして彼の顔を真正面から見据える。


「グランくん!」

「え?」

「私、もう少しここで頑張ってみる!」

「……はっ?」


 グランの声が裏返る。どうやら余程ノエの発言が予想外だったらしい。

 呆気に取られた様子で目を瞬かせる彼の前で、ノエは自分の胸を力強く叩いた。


「私、大事なことに気づいたの。村にはいつでも帰れるんだから、今帰る必要はないってことに!」

「いや。俺は、そういうことを言ってるわけじゃ」

「そうだった。帰る場所があるんだから、ここでどれだけ失敗したって大丈夫なんだ!」


 この学園でどれだけ盛大で滑稽な失敗を繰り返した所で、故郷の村が滅びるわけでもない。

 どうしても駄目になったら帰ってしまえばいい。きっと村の皆はノエのことを暖かく出迎えてくれる。泣いているノエを慰めて、優しく話を聞いてくれる。

 その時点で自分は十分に恵まれているのだ。失敗したって負債を負うわけじゃない。村での穏やかな暮らしに戻るだけ。

 自分はまだ学園に入学したばかりで、何も得られてはいない。つまり何も失うことがない。

 恐れることなど何もないではないか。


「私……私、きっとまだ頑張れる気がする! 私にできることがまだあると思うの!」


 グランは自身が盛大な過ちを犯したことに気づいたような顔をして額を手のひらで覆う。

 しかし清々しい表情で天を仰ぐノエの視界に彼のそんな素振りが映ることはなく、ノエは生まれ変わったような様子で背筋を伸ばして笑った。


「ありがとう、グランくん!」

「……いや。俺は……」


 言い淀む彼の手をノエは問答無用で握りしめ、ぶんぶんと音が鳴るほど激しく上下に振った。


「……あ。そうだ!」

「まだ何かあるのか……」

「大事なことを言い忘れてた。あのね、グランくん」

「……なんだ?」

「私ね。王子様と仲良くなるために、あなたに話しかけたわけじゃないのよ」


 失敗したとて、失うものは何もない。

 ならば言いたいことは今すぐに言ってしまえば良い。これから先どう思われるかを気にするよりも先に、目の前にある誤解を解く方がずっと大事だろう。


「あなたのこと、とても素敵な人だと思ったから。だからまずは友達になりたくて、たくさん話しかけたの」


 そう言うと、グランは口を開けたまま固まった。

 数分前まで泣いていたとは思えないほどに溌剌とした笑顔を浮かべて、ノエは右手の親指を快活に立てる。


「じゃあね。またね」

「あ」

「また会いにくるね!」


 こうしてノエはすっかり元気になって、無邪気に手を振りながら彼の元を去ったのだった。

 彼に貰った香り袋を、神様から頂いたお守りのように大事に握りしめながら。







「ではこの問題が分かる者は……」

「はいっ!」


 ノエは威勢よく右手を挙げた。

 その勢いに教師は多少面食らったような顔をして、けれど咳払い一つで体勢を立て直し、「では、ジェード。答えるように」と冷静に指示を出す。

 名ばかりの無能な特待生、嘲笑の受け皿が進んで立ち上がったことで、教室内に静かなどよめきが広がる。

 しかしノエはその空気に臆することなく、教室の一番前まで歩いて向かった。そして白い灰を加工して作った粉筆を握り、迷うことなく複雑な数式と魔術陣を巨大な黒板に書き込んでいく。


「……ここで魔力効率を最適化するために、魔術陣の全ての固有値を等しくする必要があるので……答えは0.033になります」


 ノエが答えると、教師は眼鏡をかけ直して手元の教科書を何度も確認した。

 そしてやや間を置いてから、「……正解だ」と低い声で呟く。

 周囲を見渡すと、生徒たちは皆目を丸くして動きを止めていた。ノエは胸を張り、きびきびと歩いて自身の席へと戻る。

 大量の視線が背中に突き刺さるが、ノエはそれを一切気に留めなかった。ただ教科書と学習帳を開き直して、教師の話の中で重要と思われる部分を書き取っていく。


 実力を示せば自然と周りに人は集まる。

 ソーン王子のその助言は正しいと思った。授業についていけないのは自身の努力不足が原因だし、裏を返せばその分野に関しては努力で補うことが可能ということだ。

 幸い、ノエは努力することが嫌いでなかった。魔術学に関しても、初めは専門用語が分からず理解に苦しんだものだが、一度用語の意味を頭に叩き込んでしまえば、分かることが増えて楽しくなってくる。


 授業が終わると、ノエは本と学習帳を詰め込んだ鞄を持って、古代魔術部の部室へと駆けこんだ。


「アレクサンデル先生!」


 ノエは肩を揺らしながら元気よく挨拶した。

 部屋の中には骨董品と古い本が大量に、乱雑に置かれていて、その中央に置かれた揺れる木造りの椅子には、白い髭を蓄えた老人が腰掛けている。

 老人は振り返ってノエを見ると、「おお」と嬉しそうな声で言った。


「マイちゃんか。よく来たね」

「ノエです!」

「そうか、ノエちゃんだったか」


 顔を合わせる度に間違った名前で呼ばれるが、そんなのは些細なことだ。

 古代魔術部の顧問を務めているアレクサンデル先生。彼は歳のためか多少ぼけた所があるものの、その魔術の知識量に関してはこの学園内の誰よりも優れていると言える。優しく、博識な、おじいちゃん先生だ。


 しかし彼の受け持つ古代魔術部には部員が一人もいない。

 何故なら古代魔術は魔力の消費が激しい上に術式の構築が難解だからだ。現在主流となっている現代魔術は燃費向上のために古代魔術を改良したものであり、要するに古代魔術は時代遅れの魔術形式であると言える。

 つまりこの忙しなく人が蠢く学園内で、彼は唯一と言って良いほど暇を持て余している人材なのだ。

 よって彼は、放課後毎日部室を訪れるノエに快く魔術の知識を教授してくれている。


 彼の話は確かに難しい。

 しかし古代魔術は原初の魔術でもあるのだ。これは数学で例えるならば、公式を求めるまでの過程が古代魔術、そうして求めた公式を使って問題を解くのが現代魔術、という感じである。

 つまりは古代魔術を理解できるようになれば、自ずと現代魔術の講義が夜眠る前に母親が読み聞かせてくれるおとぎ話よりも優しく感じられるというわけだ。

 だからこそ最近ノエは授業について行けるようになったし、積極的に発言することも出来るようになった。


「ノエちゃんは物覚えが良いね」

「ありがとうございます!」

「しかし、それにしても……わたし以外にも、もっと若い先生もいるんだよ? そういう人には聞きに行かないのかい?」

「ええ、まあ……」


 不思議そうにそう問われ、ノエは目を逸らしながら答えた。

 確かに教師は他にも多くいる。例えば召喚術の授業を担当しているトラクリー先生などは生徒から多大な人気を集めている。何故なら彼は若くて美しいからだ。

 そんな人気の教師に声をかければどうなるか。

 余計に噂が拗れるに決まっている。

 今のノエに出来る最大限の努力は、噂によって付着してしまった印象から可能な限り距離を取ることだ。


 複数のことを一度に完璧にやり遂げようとするから空回る。まずは一つの分野に熱意を絞ることが大切なのだと気が付いた。

 その成果は如実に表れているだろう。嬉しくなったノエは一層気合を入れて、アレクサンデル先生に新たな古代魔術についての質問を投げかけたのだった。




 その夜のことだ。

 寝息を立ててぐっすりと眠り込むノエの、その枕元に暗い人影が立つ。


「……」


 ユズリはノエの寝顔を観察し、彼女が深い夢の中にあることを確認した。

 感情のない緑色の瞳でノエを見下ろして、それから身体の向きを変え、ノエの学習机の上に積まれた本に手を伸ばす。それは勿論、ノエの私物を密かに処分するためだ。

 ユズリにはそうしなければいけない理由があった。

 だから彼女の本に触れようとしたのだが。


「……え?」


 何故か本が持ち上がらない。

 どれだけ力を込めても机から離れないのだ。まるで何か強力な力で上から押さえつけられているかのように。

 必死で本ごときと格闘すること数分。けれど彼女の本は少しも動かず、疲弊したユズリは床にくずおれる。


「な、なんで……?」


 彼女の本を凝視した時、ユズリはやっと気が付いた。

 本自体に防衛魔術がかけられている。それも随分古いやり方で。

 そのために彼女の本は強固な膜に覆われて机に貼り付けられたようになっていて、だからこの本を持ち上げることが出来なかったのだ。


「は……? 眠りながら? 防衛魔術を?」


 ユズリの背中にぞっと寒気が走った。

 意識を失えば、普通魔術は効力を失うものだ。だから魔術士は気絶させさえすれば簡単に無力化できる。それは眠っている間も同じことで、だから普通ならば寝ている間は最も隙だらけになるはずだった。

 しかし彼女はその離れ業をいとも容易くやってのけている。最近魔術を習い始めたばかりの、平民生まれのズブの素人が、だ。

 本当は狸寝入りをしていて、こちらの様子をじっと伺っているのではとも思ったが、何度確認しても彼女は完全に眠り込んでいて、「うにゃうにゃ……」と寝言まで呟いている。


 いや、それよりも、だ。

 ノエがわざわざ寮の自室の中で、自身の私物に防衛魔術をかけたのは何故か。自分とユズリ以外出入りしない部屋の中で、わざと防衛魔術を施していたということは。


「……!」


 ノエに対するいじめの主犯が誰なのか、彼女はもう勘付いてしまっているのだ。

 その事実に気が付いたユズリは、顔を青くしてその場に蹲った。口を押さえ、何度も途切れ途切れに息を吐く。

 背中に見えない何かがのしかかって、身体の骨が曲がって崩れてしまいそうだった。







 熱い紅茶入りのカップがのった皿を持って、慎重に一歩ずつ足を前に進める。

 転んだら大変なことになる。また〝お叱り〟を受けてしまう。だから決して躓いてはならない。


「あっ!」


 それなのにユズリは何かに背を押され、その場でみっともなく転倒してしまった。当然地面に落としたカップは割れ、淹れたばかりの紅茶は芝生に吸い込まれる。

 けれどそれは、ユズリの注意不足が原因ではない。

 風の魔術でわざと突き倒されたのだ。ユズリもそれを分かってはいる。しかし抗議することなどできるはずもない。ユズリに出来るのはとにかく頭を下げて、自分を卑下して謝ることだけだった。


「も、申し訳、ございません。わたくしが、不注意なばかりに」

「本当よ。あなたが鈍間なせいで」

「も、もうしわけ、ございません」

「相変わらず謝るしか能がないのね。みっともなくて愚図で、見ていられないわ」


 色の濃い金髪を豪奢に編み込んだ令嬢が口元を扇子で覆う。するとそれに追従するように、彼女の周りに座る少女たちもクスクスと笑った。

 ここは庭園の東に位置する生徒専用の屋外サロンである。芝生には真っ白な木で出来た机と椅子が並べられていて、その後ろには音楽隊が一列に並んで控えている。生徒たちはこうして自主的にサロンを開き、そこで情報を交換したり議論を行ったりするのだ。


「そう……鈍間と言えば、あなた」


 ユズリが割れた陶器の破片を拾って片付けていると、金髪の令嬢は持っていた扇子を切れ味の良い音を立てながら閉じて言った。その声にユズリは肩を小さく震わせる。


「あの身の程知らずの〝名無し〟は、いつになったらこの学園から居なくなるのかしら?」


 金髪の令嬢はそう言って目の端を鋭く尖らせた。

 名無し、というのはつまり平民の特待生・ノエのことだ。ノエは由緒正しき家柄の出でない。高貴な家名を持っていないので、裏で名無しという蔑称を付けられているのだ。

 金髪の令嬢は憂いを帯びた恐ろしい眼差しでユズリを見つめる。


「わたくしがあなたに、あの名無しを学園から追い出すよう言いつけてから、随分と経ちましたけれど……まるで成果がお見えになりませんことね」

「そ、それは……」

「あなた、まさか手を抜いているのではなくって?」

「いいえ、そんなことは……!」


 彼女の言葉を首を振って否定しようとする。

 するとユズリの頬に衝撃が走った。一瞬顔が焼き鏝を当てられたように熱くなって、それからすぐに鈍い痛みが神経を伝って全身に広がる。

 硬い扇子で頬を打たれたのだ。ユズリが頬を押さえて視線を上げると、自身を射殺さんばかりに睨みつける令嬢と目が合った。


「貧しい子爵令嬢ごときが、わたくしに口答えなさるおつもり?」

「あ……」


 この金髪の令嬢は、名をリラ・メイティと言う。

 裕福な侯爵家の一人娘で、幼い頃から随分と両親に可愛がられて育ってきた。欲しい物は何でも与えられてきたし、自分の思い通りにならないことはなかった。だから自己中心的で我儘な性格に育ってしまったのだ。

 親の権力を笠に着て、気に入らない使用人や自分よりも身分の低い令嬢を虐めるのが趣味の、意地悪な娘である。


「あの名無しをこのまま野放しにしておけば、ロゼリア様がどう思われるか。馬鹿なあなたでも分かるでしょう?」

「は、はい……」


 リラは王子の婚約者たるロゼリアの取り巻きの一人である。

 レディハイト家は王国内でも有数の有力貴族であり、つまりこの学園の女王であるロゼリア・レディハイトに気に入られれば、学園内での確固たる立ち位置が保証されるわけだ。だから令嬢たちは皆ロゼリアの機嫌を伺い、彼女の気に障る物を躍起になって排除する。

 リラも当然その一人であり、だからこそノエを目の敵にしていた。

 

 それにノエのことは個人的にも気に入らないのだ。

 何せノエは……ちょっと顔がかわいいからって……密かに男子生徒に人気があった。

 実の所、困っているノエに手を差し伸べたいと思っている男子生徒はかなりの数居た。純粋で、無邪気で、愛嬌のあるノエは、上流階級に浸かり切った貴族の子息たちにとって見たこともないほど新鮮な美少女だったのだ。

 ちょっと馬鹿っぽい所も可愛かったし、守ってあげたいと思うような魅力があった。

 しかしノエは一方的に守られたいとは微塵も思っていなかったし、皆が思っているほど馬鹿でもなかった。むしろ頭は良い方で、だから今では目を見張るほど順調に成績を伸ばしている。庇護されるのではなく、対等に皆と関わりたいと思っていた。

 けれどそんな思いが伝わることはなく、紅色の美少女の救世主になるのは一体誰なのかと、今も尚彼女の背中には浮ついた視線が向けられている。

 当然プライドの高い令嬢たちはノエの存在が心底気に食わない。


 だからリラはユズリを使って彼女を虐め、この学園から追い払おうとしていたのだ。

 しかし結果はこの通り、未だ彼女はのうのうと学園にのさばっている。そのためリラは使えないユズリを叱責していたのだった。


「……そうねえ。あの名無し、見るからにとろそうだもの。不注意で怪我でもして……魔術が使えなくなれば大変なことよ」

「……え?」

「そうなれば、いくら王子の推薦があるとは言え、学園に居られなくなるでしょうね。魔術も使えない能無しに、この神聖な学園の地を踏ませるわけにはいきませんもの」


 ユズリの背中に冷たい汗が伝う。

 つまり彼女は言外に、「直接危害を加えてノエを退学へ追い込め」と示しているのだ。

 しかしそれはただの嫌がらせとは訳が違う。彼女の人生を狂わせるような、取り返しのつかない犯罪行為だ。

 だからユズリは流石に首を横に振って後ずさった。けれど怖い目をしたリラに顔を近づけられて、耳元でそっと囁かれる。


「……あなたのご実家、随分と苦労なさっているようね」

「!」


 ユズリは唇を噛みしめた。

 彼女の言う通り、レイハ家が行っている事業は行き詰っていて、今現在も厳しい状況下にあった。ユズリの両親は何せ人が好く、そのためにすぐ悪人に騙されてしまう。だから本来ならば得られるはずだった権益を失ってしまい、あっという間に没落してしまった。

 ユズリはそんな実家を立て直すため、この王立ディオラム学園に入学したのだ。この学園を好成績で卒業して、将来は安定した職に就く。そして稼いだ金で家族に楽をさせてやりたかった。

 けれど入学してからすぐに意地悪な令嬢たちに目を付けられて、貧乏貴族として見下されながらこき使われる羽目になった。しかしそれも数年耐え凌げば解放されること、今は必死に勉強して良い成績を収めるのだ、と意気込んでいたのだが。


「知っていますのよ。あなたのご実家、わたくしのメイティ家から資金の援助を受けているそうね」

「……!」

「もしもわたくしがお父様に、あなたから〝ひどい仕打ちを受けた〟と言いつけたら……きっとあなたのご家族は路頭に迷うことになりますわね。ああ、あなたのせいで。お可哀想なこと……」

「そ、れは!」

「ではどうすれば良いか、お分かりになって?」


 上下の歯が噛み合わず、寒くもないのに身体が震えた。

 ユズリには頷く以外の選択肢が用意されていなかった。家族を人質に取られているも同然なのだ。だからリラの言葉に従うしかない。

 そうすることしか出来なかった。

 情けなくて、怖くて、堪え切れずに涙が滲んだ。





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