プロローグ
「この庭、あなたが手入れしたの?」
少女は目前に広がる花の群れを指さしながら尋ねた。
「──」
「……あっ。ごめんなさい。ここって勝手に入っちゃダメな場所だった?」
「……そんなことは」
「そう? 大丈夫?」
「……ああ」
「それなら良かった」
少女は胸を撫で下ろした。
もしや立ち入り禁止区域を荒らしてしまったのかと懸念したが、どうやら違ったらしい。
安堵した少女は足取りを弾ませ、尋ね先の少年の元へと駆け寄った。そして顔の前に手をかざして、目を輝かせながら活力の漲った声で「やっぱり!」と言う。
「何だかこっちの方向に素敵なものがある気がしたの」
「そ、れは」
「私の勘は当たったみたい。まさかこんな所に花畑……花園? があるなんて」
ここは旧礼拝堂の裏庭。
老朽化によって使われなくなり、誰も立ち入らなくなった古い礼拝堂の裏に、その庭園は密かに美しく息づいていた。
そこにあったのは庭一面に咲き誇る、青空よりも青い色をした花たちだ。
何という美しい光景だろうか。透き通るような青色は、少女の心を容易く撃ち抜いた。
早くに目が覚めてしまったので辺りを散策していたのだが、まさかこんな素晴らしい場所に巡り合えるとは思わなかった。
感激した少女は膝を折ってしゃがみ、瑞々しく咲いた花を間近で眺める。
「ふふ。懐かしい」
「なつか、しい?」
「この花、うちの村にも咲いてたの」
「君の……」
「うん。私ね、この街からずっと離れた所にある村から来たのね」
「……そう、か」
「この街じゃあんまり見かけない花だったから、嬉しくなっちゃった。懐かしい匂いだなあと思って」
少女は微笑みながらそう語り、それから我に返って顔を上げた。
初対面の相手からこんな身の上話を突然聞かされても困るだけだろう、と思ったからだ。きっと興味がなかったに違いない。その証拠に彼の声はどこか不安定に揺れている。
少女は話題を新しく切り替えるため、「あなたはこの近くに住んでるの?」や「あなた、もしかしてここの庭師さん?」などと尋ねようとする。
そうして口を開きかけた時、少女は驚いて目を見開いた。
「……っ、な」
「──」
「泣いてる、の?」
彼の目元からいくつもの涙の粒が零れ落ちていたからだ。
彼の足元を濡らすそれを見て、少女は仰天のあまり固まってしまった。驚きで身体が強張る。突然の涙は少女の平静を奪うに値するものだった。
彼が涙した理由が分からず、少女は困惑しつつも彼の顔を心配げに覗き込む。
その時彼女はとある違和感に気が付いた。
何故かは分からない。分からないが、彼の顔が上手く見えないのだ。
まるで輪郭線だけが彼の顔から抜け落ちたように、はっきりと彼を視認することができない。記憶に残らない。彼から一瞬でも目を離せば、その瞬間に彼についての視覚情報が頭の中から消えてしまう。
目の色も、髪も、顔の形も、何一つ印象に残らない。
けれど何故だか泣いていることだけは分かる。それが何とも奇妙で、少女は頭の中を内側から爪で引っ掻かれているような強烈な違和感を覚えた。
「あ、あの……」
「っ、ぅ」
「な、何か悩みでもあるの? それなら、私でよければ話くらい聞きますが……」
彼を不審に思った。
でもそれ以上に、「このまま放っておくことなんて出来ない」と思った。
泣いている彼を放っておけない。ここで何もせず立ち去ってしまったら、きっと自分はこの先永遠に後悔する。そんな予感が胸を貫いたのだ。
だから少女は真剣に自分の胸を叩き、彼が落涙する理由の受け皿になろうと息巻いた。
「……ち、がう」
「え?」
「違う、んだ」
しかし彼は首を横に振った。
頬を滑る涙を手の甲で何度も拭って、「違う」と繰り返し彼は呟く。
「おれ、俺は、嬉しくて」
「嬉しい?」
「の、ノエさん。君に、また、会えたことが」
「……え?」
ノエ。
それは少女の名前に違いない。
しかしその名がどうして彼の口から紡がれたのか。何故彼がノエの名を知っているのか。
不思議だった。けれどそれは不快感や恐怖心から成るものではなく、胸中にはただ空に浮かぶ雲のように真っ白で純粋な疑問だけがあった。
「……あの。どうして、私の名前を?」
ノエは眉を下げながら問いかけた。
「もしかして、……どこかで会ったことが?」
おずおずと彼を見上げながら言う。
「……ああ」
すると彼は鼻を啜りながら頷いた。
その時ノエが目にしたのは、唇を噛みしめ、涙ながらに笑う彼の姿だった。
彼がどんな顔をしているのかは分からない。けれど彼は笑っていた。それが分かった。理屈ではない。理屈を超えるものは、この世界に幾つも存在する。その一つが、今なのだ。
──神様、私は。
私は、恋をしてしまったのかもしれません。
恋というものがどんな形をしているのか、私には分かりません。だって今まで恋なんてしたことがなかったから。それがどんな色をしていて、どんな味がするものなのか、頭の隅に思い浮かべることすらできませんでした。
けれど、今この胸を覆い尽くす泣きたくなるような暖かな気持ちが恋でなければ、一体何だと言うのでしょうか。
もしもこの世界に本当に神様が居るなら、そう祈るように伝えたい。
そうして、続けて感謝の言葉を述べたいと思った。
だってこんなに素敵なことはないだろう。恋をした相手が、実は昔に出会っていただなんて。
そんなの、まるで運命みたいだ。
ノエは恋に落ちた。
名前も顔も知らない庭師の少年に。
そして確信した。きっと自分は、いつ、どんな瞬間に、どんな出会い方をしても、きっとこの人のことを好きになると。
「……庭師さん。私、あなたのことをもっと知りたい」
「……ああ」
「沢山、聞きたいことはあるんだけど……」
「何だって、聞いてくれ。何だって答えるから」
「本当?」
「ああ。何でも」
「じゃあ、あなたの名前を教えて」
「……、俺の」
「うん。あなたのこと、何て呼べばいい?」
まずは、一番聞きたかったことを。
それから、一つずつ彼を知っていけばいい。
彼は目元を拭い、頬を拭い、呼吸を整え、それからノエに向けて右手を差し出した。
「ノエさん。俺の、名前は──」