第67話:帰郷、沈みゆく王国へ
ポート・ソレイユの喧騒は、急速に、私たちの背後へと遠ざかっていく。
ホープウィング号の船内は、これまでの旅とは、明らかに違う、張り詰めた空気に満ちていた。レオナルドは、静かに、神への祈りを捧げている。アレンは、私の隣に、ただ黙って立ち、その存在だけで、私を支えようとしてくれている。
そして私は、操縦桿を握りしめながら、その一点だけを、見据えていた。
私を、裏切り、全てを奪った、故郷――アルビオン王国の、方角を。
「……作戦を、説明しますわ」
長い船旅の途中、私は、仲間たちに、今回の、あまりに危険で、そして、繊細な、計画の全貌を、打ち明けた。
聖女の力の衰退。王太子の愚行。そして、目前に迫った、内戦の危機。第二王子アーサーからの、絶望的な救援要請。
「正面から、王都に乗り込むような、愚かな真似はしません。そんなことをすれば、わたくしたちは、第二王子が差し向けた、反逆者に仕立て上げられるだけ。今回は、外科手術のように、正確に、そして、静かに、この国を蝕む『病巣』だけを、切除します」
私の瞳には、もはや、怒りや、悲しみといった、個人的な感情の色はなかった。ただ、冷徹な、外科医のような、決意だけが、宿っていた。
作戦は、四段階。
第一段階は、「潜入」。私たちは、かつて、この国から逃げ出した時と同じように、正体を隠し、辺境の寂れた港町から、静かに入国する。まず、民の本当の声を、その目で、耳で、確かめるために。
第二段階は、「接触」。密かに、第二王子アーサーと連絡を取り、彼が、駒として使える存在か、あるいは、真に、信頼に値する、パートナーとなりうるのかを、見極める。
第三段階は、「診断」。聖女の力は、なぜ、衰えたのか。大地を蝕む、病の正体は、何なのか。全ての、根本原因を、突き止める。
そして、最後の第四段階は、「切除」。原因を特定した上で、最小限の犠牲で、最大限の効果を以て、この国を蝕む「癌」を、根こそぎ、取り除く。
数日後、ホープウィング号は、アルビオン王国の、南の辺境にある、小さな漁村の入り江に、その姿を隠した。
私たちが、上陸した村の光景は、アーサー殿下の手紙にあった、王国の惨状を、何よりも、雄弁に、物語っていた。
人々は、痩せこけ、その目には、未来への希望の光がない。畑は、黒い、奇妙な病に侵されて枯れ果て、港に並ぶ漁船の網は、空っぽのまま、放置されている。
この光景が、私の、最後の迷いを、断ち切った。
王族や、貴族への憎しみなど、どうでもいい。
目の前にいる、この、名もなき人々を、見捨てることなど、私には、できはしない。
私たちは、みすぼらしい旅人を装い、村に一軒だけある、寂れた酒場へと、足を踏み入れた。
私が、店主に、いくつかの銀貨を渡し、それとなく、都の様子を尋ねると、年老いた店主は、深いため息と共に、重い口を開いた。
「……聖女様は、もう、我らを見捨てられたのかもしれん」
彼は、そう、ぽつりと、呟いた。
「聞けば、あの、稀代の悪女とまで言われた、イザベラ様が、断罪されてから、聖女様の奇跡は、ぱったりと、止まってしまった、という話だ。今では、都の者たちの中にも、こう、囁く者さえ、いるらしい」
店主は、声を潜めて、言った。
「――本当の『悪』は、あの悪役令嬢では、なかったのではないか、と……」
その言葉は、私にとって、予想外の、しかし、何よりも、強力な、追い風だった。
民衆の心は、すでに、変わり始めている。
私を、断罪した、あの愚かな為政者たちの、足元が、すでに、大きく、揺らぎ始めている証拠だ。
私は、酒場の隅で、アーサー殿下の手紙に同封されていた、特殊な暗号表を、取り出した。
彼と、密かに、連絡を取るための、鍵だ。
「まずは、王子様のお手並みを、拝見するとしましょうか」
私は、仲間たちに向かって、静かに、そして、不敵に、微笑んだ。
「彼が、わたくしの、有能な駒となるか、あるいは、真のパートナーとなりうるのか。その、最初のテストを、始めますわ」
悪役令嬢の、帰還。
その、最初の、静かな一手が、今、打たれようとしていた。
帰ってきた、滅びゆく故郷の、片隅で。




