第66話:過去からの手紙と帰郷の決意
アルビオン王国の、王家の紋章。
その、蝋で固められた印影を見た瞬間、私の心臓は、まるで氷の鷲に掴まれたかのように、冷たく、そして、きつく、締め付けられた。
私が、捨てたはずの過去。忘れたはずの、屈辱。それが、形を持って、今、目の前に、突きつけられている。
「おい、アンタ。イザベラに、何の用だ?」
アレンが、私の前に、守るように、一歩、踏み出した。その声は、いつものような能天気さはなく、地を這うような、低く、そして、危険な響きを、帯びていた。レオナルドもまた、いつでも動けるように、その杖を、そっと、握りしめている。
「ひっ……!」
伝令の男は、アレンのただならぬ気迫に、完全に、怯えていた。
「わ、私は、ただ、この手紙を……。『ポート・ソレイユの救世主』、その中でも、『賢者イリス』と呼ばれる方に、お渡しするよう、命じられただけで……!」
私は、深呼吸を一つして、自らの心を、無理やり、平静に戻した。そして、震える手を、悟られぬように、ゆっくりと、差し出した。
「……わたくしが、イリスです。その手紙、お預かりしますわ」
王家の紋章が刻まれた封蝋を、私は、まるで、憎い敵の首を折るかのように、鋭く、そして、無慈悲に、引き裂いた。
中にあった羊皮紙を、広げる。そこに、綴られていたのは、私の予想とは、少しだけ、違う人物からの、言葉だった。
差出人は、私の元婚約者である、あの愚かな王太子ではない。その弟、第二王子である、アーサー殿下からだった。
その内容は、私の、凍てついた心を、さらに、かき乱すのに、十分すぎるものだった。
それは、一国の王子が書いたとは思えぬほど、切実で、そして、絶望に満ちた、救いを求める、悲鳴だった。
曰く、私が追放されて以来、アルビオン王国は、ゆっくりと、しかし確実に、崩壊への道を、歩んでいる、と。
あれほど、民衆から崇められていた、聖女リリアーナの「聖なる力」は、なぜか、日に日に、衰弱。奇跡はもはや起こらず、大地は、原因不明の病に蝕まれ、凶作と、飢饉が、国中を、覆っている。
王太子は、寵愛する聖女の衰弱に、心を痛めるばかりで、民の苦しみに、目を向けようとはせず、国政は、完全に、麻痺。
各地で、不満を募らせた貴族や、民衆による、反乱の火種が、燻り始めており、王国は、血みどろの内戦が、いつ、勃発しても、おかしくない状態にある、と。
アーサー殿下は、手紙の最後を、こう、締めくくっていた。
『貴女を、断罪したことは、この国の、最大の過ちだったと、今、痛感している。稀代の悪女などではない。貴女こそが、この国に必要な、真の叡智の持ち主だった。どうか、この愚かな国を、滅びから、救ってはもらえないだろうか。罪人としてではない。我が、個人的な、最高顧問として。貴女の名誉の回復と、ヴァイスハイト公爵家の復興は、この私が、命を賭して、約束する』
……今更、なんだというのだ。
私は、手紙を、強く、握りしめた。
私を、石もて追い、家族を、地の底へと叩き落とし、私の全てを、奪っておきながら。今更、助けてくれ、だと?
冗談じゃない。
勝手に、滅びればいい。あなた方が、その愚かな選択の末に、招いた結末なのだから。自らの手で、招いた炎に、焼かれて、灰になればいい。
私の心は、冷たい、暗い、復讐の炎に、包まれようとしていた。
だが。
その時、私の脳裏に、浮かんだのは、王太子や、聖女の、憎い顔ではなかった。
飢えに、苦しんでいるであろう、名も知らぬ、民の顔だった。
アイアンロックの、ポート・ソレイユの、あの、ささやかな、しかし、懸命に生きる、人々の笑顔だった。
指導者の、たった一つの過ちが、どれほどの、罪なき人々を、苦しめることになるのか。私は、この旅で、それを、嫌というほど、知ってしまった。
私の、この知略は。アレンの、この力は。レオナルドの、この慈愛は。
ただ、過去の恨みを晴らすためだけに、あるのではない。
「イザベラ……?」
アレンが、私の葛藤を、感じ取ったのか、心配そうに、私の顔を、覗き込む。
私は、顔を上げた。
私の表情から、迷いは、消えていた。
そこにあったのは、怒りではない。諦めでもない。
全てを、終わらせるための、鋼の、決意だった。
「……どうやら、わたくしたちの、平和な船旅も、ここまで、のようですわね」
私は、仲間たちに向き直り、静かに、告げた。
「次の目的地は、アルビオン王国。わたくしの、故郷です」
私の声は、冷たく、響いた。
「どうやら、あの国には、駆除すべき、害虫が、まだ、残っているようですから」
それは、復讐ではない。
私が、この手で、全てを救い、そして、全てを、終わらせるための、最後の戦い。
悪役令嬢が、その全ての力を以て、自らの国を、「救済」しに、帰るのだ。
私は、ただ、その結末だけを、見据えていた。




