第60話:無を埋めるは全ての記憶
私たちの、常識を逸脱した「攻撃」を前に、魔王は、初めて、狼狽した。
アレンが放つ、武器ではない、純粋な希望と記憶の光。レオナルドが捧げる、浄化ではない、ただ、そこにある孤独を癒すための、祝福の祈り。
それらは、魔王という「無」の存在にとって、未知の、そして、理解不能な概念だった。
『やめろ……』
魔王の、完璧だった表情が、困惑に歪む。
彼の、絶対的な無であったはずの魂に、温かい光が、無理やり流れ込んでくる。そこには、アレンが食べた、猪の丸焼きの味も、レオナルドが感動した、魚料理の香りも、そして、私が、初めて、アレンに心からの笑みを向けた、あの日の記憶さえも、含まれていた。
『やめろ! このような、無意味な感情を、私に流し込むな! 終焉は、絶対でなければならん! このような、感傷は、不純物だ!』
魔王は、本能的に、抵抗を始めた。
彼の体から、凄まじい絶望の波動が、逆流となって、私たちに襲いかかる。
私たちの脳裏に、この古代文明が滅びた、あの日の光景が、鮮明に映し出された。人々の、断末魔の叫び。全てを失った、深い、深い絶望。
さらに、その波動は、私たちの心の奥底に眠る、トラウマを呼び覚ます。
断頭台の上で、石を投げつけられる私。
イザベラを守れず、血の海に沈む彼女を、ただ見つめるしかないアレン。
飢えと孤独の中で、誰にも祈りが届かず、朽ち果てていくレオナルド。
それは、魂そのものを、直接、殺しにかかる、究極の精神攻撃だった。
「ぐっ……! この、悲しみは……あまりに、重すぎます……!」
レオナルドが、膝をつく。彼の慈愛の光が、揺らいだ。
アレンもまた、歯を食いしばり、必死に耐えているが、その黄金のオーラは、明らかに、その輝きを弱めていた。
(ダメだ……。このままでは、こちらが、飲まれてしまう……!)
絶望の奔流が、私たちの心を、蝕んでいく。
その、まさに、私たちの絆が、引き裂かれようとした、その瞬間だった。
私は、私の最後の、そして、最強のカードを切った。
「魂の錨」として、私の魂を、完全に、解放したのだ。
『二人とも、わたくしの心の中へ!』
私は、調和のレガリアの力を通し、私の精神、私の記憶、私の全てを、仲間たちと、完全に、共有した。
二人の脳裏に、私の人生が、流れ込んでいく。
悪役令嬢として、孤独に生きてきた日々。誰にも理解されず、ただ、役割を演じ続けるしかなかった、氷のような心。
そこへ、アレンという、規格外の光が差し込んだ、あの日の衝撃。
レオナルドという、優しさが加わった、旅の温かさ。
アイアンロックで、ポート・ソレイユで、エルドリアで。私たちが、共に、乗り越えてきた、全ての記憶。
『この絶望は、本物ですわ! この痛みも、本物です! ですが!』
私は、二人の魂に、直接、叫んだ。
『わたくしたちが紡いできた、この旅の記憶もまた、紛れもない、本物でしょう!? この希望は、悲劇を否定するためのものではない! その悲劇の先に、新しい結末を、わたくしたちの手で、描き加えるための、力なのです!』
私の、揺るぎない意志が、二人の魂を、再び、強く、繋ぎ止めた。
私は、アレンだけの錨ではない。私たちの、この旅、そのもの全ての、「希望の錨」なのだ。
「……そうか。そうだよな!」
アレンの黄金の光が、以前にも増して、力強く、輝きを取り戻す。
「わたくしたちの希望は、あなた方の絶望の上に成り立っている。だからこそ、あなた方の魂も、我らが、共に、背負いましょう!」
レオナルドの祈りが、変わった。それはもはや、魔王への祝福ではない。この地に眠る、数千年分の、全ての犠牲者の魂を、癒し、救済するための、大いなる鎮魂歌となっていた。
『ぐ……おお……っ!』
魔王が、苦悶の声を上げる。
その表情に浮かんでいたのは、困惑だけではなかった。
彼の「無」が、私たちの「全て」によって、満たされていく中で、そこに、初めて、「痛み」以外の、別の感情が、芽生え始めていた。
『この、感覚は……なんだ……? 苦しい……。だが……温かい……とは、なんだ……?』
魔王の、完璧だった青年としての姿が、激しく、明滅を始める。
ある時は、絶望の化身として。またある時は、私たちの希望の光を映した、黄金の輝きを放つ、神々しい存在として。
彼は、作り変えられていた。「無」でも「有」でもない、新たな存在へと。
『私……は……消えて……いく……』
魔王は、自らの変化を、どこか、不思議そうに、呟いた。
『いや……違う……。私は……生まれて……くるのか……?』
その言葉を最後に、創世の祭壇は、全てを飲み込む、まばゆい、純白の光に、包まれた。
私たちは、その光の中で、最後の力を振り絞り、ただ、お互いの存在を、強く、強く、感じ合っていた。
これが、私たちの、最後の戦い。
私たちの出した、「第三の答え」。
その結末が、今、示されようとしていた。




