第59話:魔王の定義と第三の答え
創世の祭壇の中央で、空間の裂け目から溢れ出した黒い霧が、ゆっくりと、一つの形を成していく。
それは、私たちが想像していたような、おぞましい異形の怪物ではなかった。
むしろ、その逆。
寸分の狂いもなく整った、完璧なまでに美しい、一人の青年。だが、その完璧さ故に、どこまでも人間離れしており、その瞳は、全てを吸い込む、絶対的な「無」を湛えていた。
魔王。
絶望の化身が、静かに、そこに立っていた。
『――ようやく、目覚めることができたか』
魔王の声は、怒りでも、憎しみでもなく、ただ、どこまでも深く、古く、そして、寂しい響きを持っていた。
『我が半身……我が、対なる存在よ』
その「無」の瞳が、まっすぐに、アレンを捉える。
『勇者。お前は、私を滅ぼすために、この世界が生み出した、最後の希望。そして、私は、全ての存在を無に還すために、この世界が生み出した、最初の絶望。我らは、同じコインの、裏と表なのだよ』
魔王は、語り始めた。自らの、存在の定義を。
彼は、悪意を持って生まれた存在ではない。この古代文明が、永遠の繁栄という、あり得ない秩序を求めたが故に、その対極として生まれた、世界の摂理そのもの。「無へと還ろうとする力」、エントロピーの化身なのだと。
『彼らが、生に執着すればするほど、私の、無への渇望は、強くなった』
魔王は、アレンを見つめる。
『そして、勇者よ。お前は、彼らの、最も愚かで、最も美しい、最後の悪あがきだ。「希望」と「存在」という、概念そのものに、形を与えたもの。だが、その目的は、最初から、矛盾を孕んでいる。私という「無」を消し去るには、お前という「存在」もまた、消え去らねばならない。それが、この世界の、絶対的な方程式なのだから』
世界の救済と、アレンの消滅は、やはり、同義だったのだ。
「……ふざけないで」
私の、静かな、しかし、氷のように冷たい声が、神殿に響いた。
「わたくしたちは、あなた方が用意した、そんな悲劇の方程式に従うために、ここまで来たのではありません! あなたが世界の終わりなら、彼が世界の希望なら、わたくしたちが、そのどちらでもない、『第三の答え』を、見つけ出してご覧にいれる!」
私の宣言に、魔王の、完璧な無の表情が、ほんの僅かに、揺らいだ。
まるで、初めて聞く言葉に、興味を覚えたかのように。
アレンが、七つのレガリアの光を宿した大剣を構え、私の隣に立った。
「難しいことは、よくわかんねえ。でも、イザベラが諦めないって言うなら、俺も諦めない」
彼の、黄金の瞳が、魔王を、まっすぐに、射抜く。
「世界も、お前も、俺も……誰も消えなくて済む、そんなハッピーエンドを、見つけてやる。それが、俺の、最後の戦いだ!」
それは、世界の理そのものに対する、あまりに無謀で、しかし、あまりに力強い、宣戦布告だった。
戦いが、始まった。
だが、それは、剣と魔法が交錯する、これまでの戦いとは、全く異質だった。
魔王は、ただ、そこにいるだけで、私たちの魂を、直接、蝕んでくる。
希望を消し去る、絶望の波動。仲間との絆を引き裂く、猜疑心の霧。全ての努力を、無意味だったと嘲笑う、虚無の囁き。
アレンの物理的な攻撃は、魔王の体を、すり抜けるだけ。レオナルドの神聖な祈りも、絶対的な「無」の前には、意味をなさない。
私たちの心が、少しずつ、絶望の色に染まっていく。
(ダメだ……。戦っては、いけない……!)
その、絶望の淵で、私の「知恵のレガリア」が、最後の活路を、閃光のように、示してくれた。
(魔王を、敵として、滅ぼそうとするから、いけないのだわ! 発想を、逆転させるのよ!)
「アレン! レオナルド!」
私は、二人の魂に、直接、叫んだ。
「その力を、魔王を破壊するために、使わないで! 彼の『無』を、わたくしたちの『全て』で、満たすのです!」
「彼の絶望を、あなたの希望で、塗りつぶしなさい、アレン!」
「彼の虚無を、あなたの慈愛で、祝福して差し上げなさい、レオナルド!」
それは、常識では、到底、考えられない戦術。
だが、アレンは、私の言葉を、一瞬で、理解した。
彼は、攻撃することをやめた。
そして、その身に宿る、七つのレガリアの力を、黄金の光の奔流へと変え、魔王に向かって、放ったのだ。
それは、武器ではない。
彼が、この世界で生きてきた、全ての記憶。仲間への愛、旅の喜び、守ってきた人々の笑顔。彼の「全て」を乗せた、感情の奔流だった。
レオナルドもまた、魔王を浄化するのではなく、その孤独な魂に、安らぎを与えるかのように、温かく、そして、優しい、祝福の祈りを、捧げ始めた。
『……な……にを……?』
魔王の、完璧な表情が、初めて、明確に、困惑に歪んだ。
破壊も、抵抗も、彼は理解できる。
だが、この、絶対的なまでの、肯定と、祝福は。
彼の、数億年の存在の中で、初めて、経験するものだった。
私たちの、最後の戦いが、始まった。
それは、殲滅の戦いではない。
絶望の化身である、哀れな魔王を、「救済」するための、戦いだった。




