第4話:強欲な検問長と空の木箱
翌朝、私たちは行商人として完璧にその姿を変えていた。
私は地味だが仕立ての良い服をまとい、少し気の強い商家の娘といった風情。アレンは無骨な革鎧を身につけ、寡黙だが腕の立つ護衛にしか見えない。荷馬車に積まれた木箱は、私たちの正体を隠すための、いわば舞台装置だ。
「いいですこと、アレン。あなたは私の護衛、アレック。私が話している間は、一言も喋らず、ただそこにいるだけでいいのです。あなたのその威圧感だけで、そこらのごろつきは寄り付きませんから」
「おう、任せとけ! 石みたいに黙ってるぜ!」
元気の良い返事に一抹の不安を覚えたが、もう後戻りはできない。私たちは荷馬車を引いて、国境の関所へと向かう長い列の最後尾についた。
列は々として進まない。商人や旅人たちは皆、関所の厳しい検問にうんざりした顔をしている。そして一時間ほど経っただろうか。ついに私たちの番が来た。
関所の検問スペースの中央には、椅子にふんぞり返った肥満体の男が座っていた。あれが間違いなく、情報屋フィンが言っていた検問長のゴードンだろう。金と権力を笠に着た、典型的な小役人といった顔つきをしている。
「次! ……なんだ、小娘の商人か。何を運んでいる?」
ゴードンは、値踏みするような嫌らしい視線を私たちに向けた。
「はじめまして、検問長様。わたくしはイリスと申します。こちらは護衛のアレック。西の『鉄の心臓』鉱山へ、精密機器を納品しに参りました」
私は練習通り、新米商人「イリス」として、丁寧にお辞儀をしてみせた。
「精密機器、だと?」
ゴードンは怪訝な顔で、荷台の木箱に目をやった。
「昨今は物騒でな。お尋ね者も出ていると聞く。念のため、その箱を全て開けてもらおうか」
来た。予想通りの展開だ。
「まあ、検問長様! それは困ります! こちらは大変デリケートな品でして、むやみに蓋を開け、外気に晒すだけでも品質が落ちてしまうのです。それに、強い衝撃を与えれば、中で破損してしまうやもしれません。どうか、このまま通していただけないでしょうか」
私は心底困った、という表情で必死に訴えかけた。世間知らずの箱入り娘が、必死に取り繕っているように見えれば成功だ。
「言い訳はいい! 国の決まりだ。開けぬというのなら、密輸の疑いで逮捕するぞ!」
ゴードンの怒声が響く。周囲の兵士たちが、ピリリとした緊張感に包まれた。私はここで、最後の揺さぶりをかける。
「……そこまで仰るのでしたら、仕方ありません。ですが、もし中身が破損した場合、その責は負っていただけますね? この精密機器、一つで金貨100枚は下らない代物なのですが」
「なっ……!」
金貨100枚、という言葉にゴードンは一瞬怯んだ。だが、ここで引き下がれば彼の権威は地に落ちる。彼は顔を真っ赤にして叫んだ。
「小賢しい口を利くな! いいから、さっさと開けんか!」
「……わかりましたわ。アレック、一つ、開けて差し上げて」
私の合図に、アレンが一歩前に出る。彼は一番手前にあった木箱に手をかけると、わざとらしく「う、うんしょ」と力を込め、ぎこちない手つきで蓋をこじ開けた。その動きはあまりに不器用で、見ている方がハラハラするほどだ。
バコン、と音を立てて蓋が開く。
ゴードンが、そして周囲の兵士たちが、その中身を覗き込む。
木箱の中は、からっぽだった。
「……これは、どういうことだッ!」
ゴードンの怒りが、頂点に達した。
「説明してもらおうか、イリスとやら! 貴様、我々を愚弄する気か!」
その瞬間、私は今まで浮かべていた困惑の表情を、悲壮なものへと切り替えた。瞳にじわりと涙を浮かべ、か細い声で話し始める。
「申し訳、ありません……! 実は、わたくしども、窮しておりまして……!」
「何をごちゃごちゃと! はっきり言え!」
「は、はい! 検問長様はご存知でしょうか。三日前に、西の鉱山へ向かう道で、土砂崩れがあったことを……」
「土砂崩れ」というキーワードに、ゴードンの眉がピクリと動いた。
「その影響で、わたくしどもが運んでいた商品は、残念ながら荷馬車ごと谷底へ……。ですが、鉱山との契約は本日中。もし納品できなければ、莫大な違約金が発生してしまいます。そこで……その……苦肉の策として、空の箱だけでも先に届け、『納品した』という事実を作ろうと……。中身は後から必ず届ける、と。そうすれば、先方も事を荒立てず、違約金も勘弁していただけるかと……!」
私の迫真の演技と、フィンの情報から得た「土砂崩れ」という事実を織り交ぜたもっともらしい嘘。それは、事情を知らない者からすれば、いかにもありそうな商人の内輪揉めに聞こえただろう。
ゴードンの顔に、怒りと共に、あからさまな「面倒くさそうだ」という感情が浮かんだ。契約、違約金、土砂崩れ。どれもこれも、彼にとっては関わり合いたくない単語だ。
「……つまり貴様らは、詐欺の片棒を俺に担げと、そう言うのか」
「滅相もございません!」
私はすかさず懐から小さな革袋を取り出し、一歩ゴードンににじり寄った。
「この通り、わたくしどもも必死なのです。どうか、この事情、ご内密に……。これは、検問長様への口止め料……いえ、ご迷惑をおかけしたお詫びと、お近づきの印にございます」
革袋から、ちらりと金貨が数枚覗く。
ゴードンの目が、ギラリと光った。強欲な彼にとって、金貨は抗いがたい魅力を持つ。しかし、これを受け取れば、面倒な商取引のトラブルに巻き込まれるかもしれない。
空の箱を一つ一つ全て検めるのは、時間がかかりすぎる。後続の列からも、不満の声が聞こえ始めていた。
面倒事か、金か。
彼の天秤は、一瞬で傾いた。
「……チッ!」
ゴードンは舌打ちすると、ひったくるように私の手から革袋を奪い取った。
「さっさと行け! 二度と俺の前に、その面倒な顔を見せるな! 次!」
その言葉は、天からの赦しのように聞こえた。
「ありがとうございます、検問長様!」
私は深々と頭を下げ、アレンに目配せする。アレンは黙って頷くと、荷馬車をゆっくりと動かし始めた。
私たちは、誰に咎められることもなく、悠々と関所のゲートを通過した。
しばらく進み、関所の姿が完全に見えなくなったところで、私は大きく息を吐いた。
「すげえ……。本当に、通れちまった……」
隣でアレンが、心底感嘆したように呟いた。
「ナイフも剣も使わなかったのに。まるで魔法みたいだぜ、イザベラのやり方って」
「これが、私の戦い方ですわ」
私は胸を張って答えた。断頭台の上では、あれほど無力だった自分が、今は一国の国境を、己の知恵だけで突破してみせたのだ。その事実が、何よりも私に力を与えてくれる。
こうして私たちは、故国を後にした。
悪役令嬢でも、公爵令嬢でもない、ただのイザベラとしての第一歩を、隣国の大地へと踏み出したのだった。