第3話:宿場町の情報屋
私たちの偽装工作は、驚くほどうまくいった。
イザベラの指示通りに幻惑草を使い、わざと獣道に偽の痕跡を残した結果、背後で聞こえていた追手の気配は完全に途絶えた。おそらく今頃、騎士団は森の奥で存在しない私たちを追いかけ、獰猛な魔物とご対面している頃だろう。
「すげえな、イザベラ! 本当に追ってこなくなった!」
「当然ですわ。彼らが馬鹿正直な猟犬である限り、私の仕掛けた罠からは逃れられません。さあ、問題はここからです」
森を抜けた私たちの目の前には、様々な人々が行き交う賑やかな宿場町が広がっていた。国境の関所に隣接するこの町は、通称「クロスロード」と呼ばれている。その名の通り、人、物、そして情報が交差する場所だ。
私たちはぼろぼろの旅人を装い、人混みに紛れて町の中へと進んだ。立派な馬車を乗り付ける商人、屈強な傭兵、巡礼者の集団。その誰もが、私たち――お尋ね者の公爵令嬢と規格外の勇者――の存在に気づく様子はない。
「まずは活動資金の調達ですわ」
私は懐に隠し持っていた、母の形見であるサファイアのネックレスをそっと取り出した。これを元手に、計画に必要なものを全て揃えるのだ。町の中心にある、一番立派な宝飾店兼換金所へ向かう。
「いらっしゃい。……なんだい、あんたたち。うちは冷やかしお断りだよ」
店の主人は、私たちの身なりを見るなり、あからさまに嫌な顔をした。典型的な、人を見た目で判断する商人だ。こういう手合いは、御しやすい。
「これを、換金していただきたいの」
私がネックレスをカウンターに置くと、主人の目の色が一瞬だけ変わった。だが、すぐに侮りの色を浮かべ、それを隠そうともせずに言った。
「ふん、盗品じゃないだろうな? まあいい。見てやるよ……そうだな、作りは悪くないが、石が小さい。銀貨30枚ってとこだな」
銀貨30枚。あまりにふざけた金額だった。このネックレスに使われているサファイアは、王家御用達の鉱山から採れた最高品質のもの。細工も、今は亡き名工の作だ。本来であれば、金貨50枚は下らない逸品だった。
「あら、ご冗談でしょう?」
私はわざとらしく微笑んでみせた。
「このサファイアは、北方の名鉱山と名高い『蒼き涙』の産出。この独特の深い青みと、光にかざした時にだけ見える星屑のような内包物は、他の鉱山では決して採れません。そしてこの台座の細工、ミルグレインの繊細さ。これは五十年前に亡くなった伝説の彫金師、マイスター・エッカートの作である証拠。彼の作品は市場にほとんど出回っておらず、好事家の間では金貨100枚で取引されることもある……と、父から聞いておりますわ。銀貨30枚とは、ずいぶんとお買い得な価格設定ですこと」
淀みなく並べ立てた知識に、主人は完全に気圧されていた。顔からは血の気が引き、冷や汗が浮かんでいる。
「な、なんでお前みたいなのが、そんなことを……」
「旅の途中で、学のある方から教わったのです。さて、店主様。改めて、おいくらで買い取っていただけますか? もしご不満なら、向かいの店にも話を聞いてみようかしら」
私の脅しとも取れる言葉に、主人は慌てて首を横に振った。
「ま、待て! わ、わかった! 金貨60枚だ! それでどうだ!」
当初の目的を上回る金額だ。私は満足げに頷き、金貨を受け取った。店の外に出ると、アレンが目を丸くして私を見ていた。
「イザベラ……お前、商人だったのか?」
「違いますわ。公爵令嬢としての、嗜みの一つです」
そう、嗜みだ。貴族社会は、騙し合いと探り合いの世界。物の価値を見抜く目、相手の嘘を見破る洞察力、そして自分を有利に見せる交渉術。全ては、あの息苦しい世界で生き抜くために身につけたスキルだった。
私たちはその資金で、少し立派だが目立ちすぎない商人の服と、私の護衛役としてのアレンのための革鎧、そして荷馬車と空の木箱をいくつか購入した。形だけは、立派な行商人の出来上がりだ。
だが、最も重要なものがまだ足りていない。
「アレン、次は情報収集です。酒場へ行きますわよ」
「酒場! やった、飯が食える!」
アレンの目的は相変わらず食欲に直結しているが、今はそれでいい。私たちは町の酒場「旅人の休息亭」の扉を開けた。昼間だというのに、中は薄暗く、様々な匂いが入り混じっている。私たちは隅のテーブルに陣取り、アレンが早速大量の料理を注文するのを横目に、私は店内の様子を注意深く観察した。
傭兵たちの武勇伝、商人たちの儲け話、旅人たちの噂話。あらゆる情報が、酒の勢いと共に飛び交っている。その中で、私の目は一人の少年に釘付けになった。
年の頃は十歳くらいだろうか。小柄で、すばしっこそうな少年が、客から客へと渡り歩き、何かを小声で囁いては、銅貨を数枚受け取っている。あれが、この町の情報屋に違いない。
私はタイミングを見計らって、その少年を手招きした。少年は一瞬警戒したものの、私の身なりを見て、すぐにテーブルへとやって来た。
「お嬢さん、何かご用かい? このフィンに任せれば、どんな情報だって手に入るよ」
フィンと名乗った少年は、歳に似合わず、やけに大人びた口調で言った。
「面白いことを言うのね。では、一つ聞きたいことがあるの。関所の検問長について、知っていることを教えてくださる?」
「検問長のゴードン様かい? いいね、目の付け所がいい。でも、その情報は安くないよ。銀貨一枚はもらわないと」
ふてぶてしい態度だ。だが、その目には確かな自信が宿っている。私は黙って、先ほど手に入れた金貨の中から一枚を取り出し、テーブルの上を滑らせた。
「……ッ!?」
フィンの目が、金貨の輝きに見開かれる。銀貨一枚と言った相手に、いきなり金貨を渡されたのだ。彼のプライドと好奇心は、最大限に刺激されたはずだ。
「前金よ。あなたの情報に、それだけの価値があることを期待しているわ」
「……お、お嬢さん、あんた、何者だい」
フィンの声から、先ほどまでのふてぶてしさが消えていた。
「ただの旅の商人よ。さあ、聞かせてちょうだい」
ゴクリと喉を鳴らし、フィンは身を乗り出して小声で話し始めた。
「わ、わかったよ……。検問長のゴードンは、とにかく強欲で有名だ。袖の下を渡せば大抵のことは見逃すが、最近は王都からのお達しで、そうもいかないらしい。何より、あの人は面倒事が大嫌いなんだ。少しでも厄介なことに関わると、すぐに癇癪を起して、相手を叩き出す。それと、もう一つ。三日前に、町の西にある鉱山で小さな土砂崩れがあった。死人や怪我人は出なかったけど、鉱石を運ぶ道が少し通りにくくなってて、物資の運び出しが遅れてるって、鉱山の連中が愚痴ってたな……」
鉱山の土砂崩れ。
その言葉を聞いた瞬間、私の頭の中で、全てのピースがカチリと音を立ててはまった。
「……そう。ありがとう、フィン。とても有益な情報だったわ」
私は満足して頷いた。これで、計画は完璧だ。
「なあイザE……じゃなくて、お嬢。一体何を企んでるんだ?」
隣で黙々と食事をしていたアレンが、ようやく口を挟んできた。私は彼に向かって、悪役令嬢時代に培った、とびきり意地の悪い笑みを浮かべてみせた。
「面白いことになりそうですわよ、アレン。――派手に、関所を突破しましょう」
ただし、一滴の血も流さずに、だ。私の頭の中には、強欲で面倒事が嫌いな検問長を、鮮やかに手玉に取るための策略が、すでに完成していた。