第29話:魂の錨
暴走したアレンの力は、まさしく「破壊」そのものだった。
過激派の魔術師たちが放つ、炎や氷の矢、雷の槍。それら全てが、アレンの体を覆う禍々しいオーラに触れた瞬間、いともたやすくかき消されていく。
「な、なんだ、この魔力は……!?」
「化け物め!」
アレンは、獣のような咆哮を上げると、魔術師の一人に殴りかかった。その動きは、普段の彼のような洗練された武術ではなく、ただ目の前の敵を破壊せんとする、原始的な衝動に突き動かされている。
魔術師は防御障壁を張るが、アレンの拳はそれを紙のように突き破り、魔術師の体を壁へと叩きつけた。
このままでは、死人が出る。いや、アレンが、完全に理性を失った、ただの破壊の権化になってしまう。
その恐怖が、私の心を支配した。
(止めなければ……!)
日誌に書かれていた『魂の錨』という言葉が、脳裏をよぎる。魂が器から乖離するのを防ぐ、「対の存在」。今の私に、その代わりが務まるという保証はない。だが、何もしなければ、アレンはもう、元のアレンではなくなってしまう。
私は、恐怖を振り払い、決意を固めた。
そして、暴れ狂うアレンと、怯える魔術師たちの間に、無防備なまま立ちはだかった。
「アレン! おやめなさい!」
私の、張り裂けんばかりの叫び声。
破壊衝動のままに、次の標的へと向かおうとしていたアレンの動きが、ぴたり、と止まった。血のように赤い瞳が、初めて、私という存在をはっきりと捉えた。
「目を覚まして、アレン! あなたは、そんなことをする人じゃないでしょう!」
私は、彼に必死に語りかける。それは、ただの命令ではない。私が知っている、私が信じている、勇者アレンという人間そのものに訴えかける、魂からの叫びだった。
「わたくしの知っている勇者は、誰かを傷つけて喜ぶような、そんな下劣な人間では断じてない! あなたは、ただ力が強いだけの男じゃない! 誰よりも優しくて、誰よりも真っ直ぐで……そして、誰よりもお人好しな、わたくしの……わたくしの、たった一人の勇者でしょう!」
私の言葉が、暴走する彼の魂に届いたのか。
アレンの体を覆っていた、黒く禍々しいオーラが、嵐の後の凪のように、少しずつ弱まっていく。ぎらついていた赤い瞳の色が、徐々に、見慣れた穏やかな黒い色へと戻っていくのが、分かった。
「……イザ……ベラ……?」
彼は、目の前に立つ私を見て、自分が何をしようとしていたのかを、ようやく理解したようだった。その瞳には、深い困惑と、そして自分自身への恐怖の色が浮かんでいた。
「お……れ……」
次の瞬間、アレンの体から全ての力が抜け、彼は、まるで糸が切れた人形のように、その場にゆっくりと膝から崩れ落ち、意識を失った。
アレンが倒れたのと、ほとんど同時だった。レオナルドと、そして意外なことに、司書長のオルダスが、血相を変えて回廊の角から駆けつけてきた。過激派の魔術師たちは、その隙に、蜘蛛の子を散らすように姿を消していた。
オルダスは、意識を失って倒れるアレンと、その周囲に未だ漂う、尋常ではない魔力の残滓を見て、全てを察したようだった。
「……やはり、そうか。あの日誌は、真実だったのだな……」
彼の声は、苦々しい悔恨に満ちていた。
オルダスは、厳しい、しかし有無を言わせぬ口調で、私たちに告げた。
「この男を、すぐに安全な場所へ移す。そして、イリス殿。お主には、聞かねばならんことが、山ほどある」
私たちは、オルダスの先導で、アカデミーの地下深くにある、誰にも知られていない隠された一室へと、アレンを運び込んだ。
冷たい石の床に、アレンを横たえる。彼の寝顔は、いつものように穏やかで、先ほどまでの狂乱が嘘のようだ。
私は、自分の言葉が、かろうじて彼を繋ぎ止めたことに、わずかな安堵を覚えていた。
そして、同時に悟っていた。
この、どうしようもなくお人好しで、単純で、そして誰よりも優しい勇者の『魂の錨』に、なれる存在がいるとすれば。
それは、おそらく、この世界の誰でもない。
この私、イザベラ・フォン・ヴァイスハイトしかいないのだと。
それは、傲慢かもしれない。だが、それ以外に、彼をこの世界に繋ぎ止める術がないのなら。
私は、私の全てを賭けて、その役目を果たそう。
そう、強く、心に誓った。




