第2話:国境の森と最初の策略
王都を脱出して、三日が過ぎた。
アレンの人間離れした身体能力のおかげで、私たちは馬を使うよりもずっと速く、隣国との国境線に近い深い森の中へと到達していた。昼間は彼の背に担がれ、あるいは腕に抱えられて木々の梢を飛び移り、夜は洞穴や大樹の陰で火を熾して束の間の休息をとる。そんな逃避行の連続だった。
「なあイザベラ、腹減らないか? 俺、もうペコペコだ」
焚き火の向こうで、アレンが大きな欠伸をしながら言った。彼の傍らには、先ほど彼が素手で仕留めたという巨大な猪が丸焼きにされている。その光景にも、もう驚かなくなってしまった自分がいた。
「これだけの食料を確保しておいて、よく言いますわね」
「だってこれ、ほとんど俺が一人で食っちまうし。イザベラは全然食わないじゃないか。鳥の餌みたいにちびちびと」
失礼な男だ。貴族の令嬢たるもの、人前で大口を開けて猪の丸焼きにかぶりつくなど、できるはずもない。それに、今はそんな呑気なことを言っている場合ではなかった。
「アレン、状況はあまり芳しくありませんわ。おそらく、もうすぐそこまで追手が迫っています」
「追手? ああ、あの騎士たちか。大丈夫だって。来たらまた、この前のみたいに『ぶわーっ』て吹き飛ばしてやるからさ」
アレンは自信満々に、大剣を振るう真似をする。その屈託のなさに、私は深いため息を禁じ得なかった。
「いいですか、アレン。あなたの力は確かに絶大です。ですが、それはあくまで局地的な戦闘においての話。相手は一国の騎士団。一人や二人を倒したところで、次から次へと現れます。それに、今はあなたの存在が王都に知られたばかりで混乱しているから良いものの、いずれは魔法騎士や、あなたのような特殊な能力を持つ者への対策部隊も編成されるでしょう」
私の冷静な分析に、アレンはきょとんとした顔で首を傾げた。
「たいさくぶたい?」
「……あなたに対抗するための、専門チームのことです」
「へえ、そんなのがいるのか。面白そうだな!」
面白そう、ではない。この男は、危機感というものが決定的に欠如している。彼の言う「神」は、なぜこんな脳筋を勇者に選んでしまったのか。いや、だからこそ私を助けろと「お告げ」をしたのかもしれない。このままでは、勇者は早晩どこかで野垂れ死ぬだろう。
「とにかく、力押しは最悪の選択です。私たちの目的は、追手を殲滅することではなく、無事に国境を越えること。そのためには、戦わずに切り抜けるのが最善策です」
「戦わない? どうやって?」
ようやく話を聞く気になったらしいアレンに、私は最初の「策略」を授けることにした。
「まず、私たちの痕跡を消します。アレン、あなたの足跡はあまりに特徴的すぎますの。その跳躍力で地面にできる窪み、常人には折れないような枝をへし折った跡。これらは全て、追手に『ここに規格外の何かがいる』と教えているようなもの」
私は立ち上がると、森の茂みから匂いの強い薬草を数種類摘み取ってきた。公爵令嬢としての教育には、毒や薬草に関する知識も含まれている。それがこんな形で役立つとは、皮肉なものだ。
「これを、私たちの服や荷物に擦り付けます。これは『幻惑草』。複数の薬草と混ぜることで、嗅覚の鋭い動物や魔物を混乱させる効果があります。追手が使うであろう軍用犬の鼻を欺くには、これで十分でしょう」
「へえ、草でそんなことができるのか! すげえな、イザベラ!」
目を輝かせるアレンに薬草を渡し、作業を手伝わせる。単純作業は得意なようだ。
「次に、進路です」
私は地面に木の枝で大まかな地図を描いた。これも、王城で見た軍事用の地図を記憶していたおかげだ。
「この先、国境を越えるための関所があります。ですが、王都からの通達で、今は厳重な警備が敷かれているはず。正面から行けば、捕らえてくださいと言っているようなもの」
「じゃあ、関所をぶっ壊して……」
「駄目です」
アレンの脳筋思考を、ぴしゃりと言葉で遮る。
「関所を無理やり突破すれば、私たちは隣国にとって『武力で国境を越えた侵略者』と見なされます。それでは、逃げ込んだ先でも追われることになる。それでは意味がないでしょう?」
「うーん……じゃあ、どうするんだ?」
ほとほと困り果てた、という顔のアレンに、私はにやりと笑ってみせた。悪役令嬢を演じていた時の癖が、つい出てしまう。
「決まっているでしょう。――化けるのですわ」
私たちの目的地は、関所の手前にある宿場町。そこには、多くの商人や旅人が集まる。私たちはその中に紛れ込み、身分を偽って堂々と関所を通過するのだ。
「幸い、私にはまだ、母から貰った宝飾品がいくつか残っています。これを元手に、変装のための衣装や、旅の商人になりすますための荷物を揃えます。あなたは私の護衛、ということにでもしておきましょうか」
「おお! なんだか面白そうだな!」
アレンは、まるで新しい遊びを教わった子供のようにはしゃいでいる。その様子を見ながら、私は思考を巡らせた。
(問題は、関所の検問官ね。一筋縄ではいかないはず。何か、彼らの注意を逸らすための仕掛けが必要になる……)
私の頭の中では、すでにいくつかの計画が組み上がり始めていた。追手の騎士団を森の奥深くへと誘導し、私たちとは別の方向で魔物と鉢合わせさせるための偽の痕跡作り。宿場町で最も信用を得やすい商人の特徴。関所の検問官が最も嫌がるであろう面倒事の種……。
「よし、イザベラ! 全部あんたに任せる! 俺は、イザベラの言う通りに動くぜ!」
アレンのその言葉は、私の胸に奇妙な熱を灯した。
誰かに、全面的に信頼される。私の知略を、何の疑いもなく信じてもらえる。それは、政略結婚の道具として、悪役令嬢として生きてきた私にとって、初めての経験だった。
「……ええ。任せておきなさい。この程度の危機、私の策略にかかれば、無いも同然ですわ」
私はそう言って、不敵に微笑んだ。
断頭台の上で諦めかけていた人生が、今、確かな手応えをもって動き出しているのを感じていた。
勇者の隣。そこは、私が今までいたどんな場所よりも、ずっと自由で、刺激的な舞台になりそうだった。