第15話:蜘蛛の巣にかかる者
月も星も見えない、闇だけが支配する深夜。
ポート・ソレイユ第13倉庫地区は、まるで巨大な墓地のように静まり返っていた。その中の一棟、私たちが仕掛けた舞台の上で、主役は静かに幕開けを待っていた。
倉庫の中央で、サイラスが演じる「臆病な錬金術師」が、そわそわと落ち着きなく歩き回っている。その不安げな仕草、恐怖に揺れる瞳、全てが完璧な演技だった。私とセリーナは、息を殺して梁の上の闇に潜み、いつでも会話を記録できるよう、録音機能を持つ高価な魔道具を起動させていた。
『――伏兵はおりませぬ』
倉庫の外で見張りをしているレオナルドから、念話用の小さな魔道具を通して、静かな報告が入る。
その直後だった。ギィ、と錆びついた扉が軋み、一人の男が倉庫の中へと入ってきた。細身の体に、蛇のような冷たい瞳。サンストーン商会の相談役、ギルだ。
「……遅かったじゃないか、ギル様。約束のものは、持ってきたんだろうな」
サイラスが、恐怖と強欲をない交ぜにした、震える声で切り出した。完璧な滑り出しだ。
「慌てるな。その前に、いくつか確認させてもらう」
ギルは用心深く周囲を見渡しながら、ゆっくりとサイラスに近づく。
「お前、本当に衛兵に嗅ぎつけられているのか? それとも、俺から金をさらに巻き上げるための、狂言か?」
鎌をかけてきた。だが、それも全て、私の脚本通りだ。
サイラスは、待ってましたとばかりに、わざとらしく声を荒げた。
「と、当然だ! このままでは、あんたから頼まれた、『あのサンストーン商会の倉庫を焼くための、特別な発火剤』の件も、時間の問題で露見する! そうなれば、俺もあんたも、おしまいだ!」
核心的な単語が、はっきりと紡がれる。梁の上の録音魔道具が、青白い光を微かに点滅させ、その言葉を確実に記録した。
その言葉を聞いたギルの表情から、すっと温度が消えた。
「そうか。それは、大変だな」
彼はそう言うと、懐に手を入れた。だが、そこから取り出されたのは、金袋ではなかった。月明かりを鈍く反射する、一振りの短剣。
「だが、安心しろ。死人に口なし、だ」
ギルは蛇のようにしなやかな動きで、サイラスへと襲いかかった。彼は最初から、交渉する気などなく、錬金術師を口封じするつもりだったのだ。
「――今よ!」
私は叫ぶ代わりに、アレンへと合図を送った。
サイラスの喉元に短剣が突きつけられようとした、その絶体絶命の刹那――。
ドゴォォォンッ!!
凄まじい破壊音と共に、倉庫の裏手の壁が内側へと吹き飛んだ。そして、舞い散る木片と土埃の中から、一人の巨漢が姿を現す。
「うおっ! なんだか、悪い奴がいるみたいだな!」
アレンが、いつも通りの間の抜けた台詞と共に、ギルとサイラスの間に立ちはだかった。
「なっ……! き、貴様は……『無傷の王者』!?」
ギルは、闘技場のチャンピオンとしてこの町で知らぬ者はいないアレンの登場に、信じられないといった表情で後ずさった。闇ギルドの幹部として、アレンの規格外の強さの噂は、当然耳にしている。勝ち目がないことは、誰よりも理解していた。
「くそっ!」
ギルは形勢不利を悟り、即座に踵を返して出口へと向かう。だが、その先には、いつの間にかセリーナが率いるクレセント商会の屈強な私兵たち、そして「不審者の目撃情報があった」という事前通報で駆け付けた町の衛兵たちが、ずらりと並んで退路を塞いでいた。
ギルは、完全に袋の鼠となった。
その頭上から、私の声が静かに降り注ぐ。
「ギル様。あなたの負けですわ」
私が梁の上から姿を現すと、ギルは忌々しげに私を睨みつけた。
「あなたと、そちらの錬金術師との会話は、全てこの魔道具に記録させていただきましたわ。『倉庫を焼くための発火剤』という、あなたの言葉も、はっきりとね」
私が合図すると、セリーナが持っていたもう一つの魔道具から、先ほどの会話が再生された。ギルの声で語られる、動かぬ犯行の証拠。それを聞いた衛兵隊長は、即座に決断を下した。
「闇ギルド『奈落の口』幹部、ギル! 放火及び殺人未遂の容疑で、逮捕する!」
衛兵たちに取り押さえられながら、ギルはなおも私を睨みつけていた。
「小娘……! これで、勝ったと思うな……! 組織を、なめるなよ……!」
その捨て台詞を最後に、彼は連行されていった。
こうして、オペレーション・ゴーストは完璧な成功を収めた。
私は梁から静かに降り立ち、見事な大役を演じきったサイラスの肩を叩いた。
「お見事でしたわ、名優。震えも、汗も、恐怖に歪む表情も、全てが真に迫っていた。あなたがいなければ、この舞台は成り立たなかった」
「……いや。最高の脚本と演出があってこそ、です」
サイラスは、かつての名優の顔を取り戻し、満足げに一礼した。
闇ギルドの幹部を一人、捕らえた。だが、ギルの最後の言葉が示す通り、これはまだ蜘蛛の巣の一角を破壊したに過ぎない。組織の本体は、まだこの町の闇に、深く、静かに潜んでいる。
私たちの戦いは、まだ終わらない。むしろ、本当の戦いは、これから始まるのだ。




