海
この世界には男女の他に第二の性がある。発情期があり、男女共に妊娠が可能なω(オメガ)。身体能力や知能が優れたエリート階級のα(アルファ)。人口の9割を占めるβ(べーた)。
オメガの発情期は数ヶ月に一度、数日続き、アルファを惑わすフェロモンを体にまとう。発情期中にアルファがオメガの項を噛むと運命の番となり、番以外へのフェロモンの効果は無くなる。さらに、オメガは番以外に対して拒絶反応を示すようになる。番契約は一度しかできず、解約はできないため事故で番になることがないように、オメガの中には項を保護するチョーカーを着けている者もいる。
そんな、生まれながらの運命が定められている。
寝苦しさで朝早くに目を覚ます。
布団を避けようと体を動かすとゴツンと重いなにかにぶつかる。ベッドの上にはあるはずのないモノがそこにある。今の俺では運べないそれを一瞥し、汗を流すために浴室に向かう。
「はぁ、なんでこいつ。」
隣のベッドはシワひとつない。俺もできればもう一度寝たいが、こちらのベッドを使って寝るほどではない。
「響ちゃん、おはよう。」
各部屋に備え付けられたインターホンから大和の声が鳴る。
「おはよう、響。ケイはどうした?」
扉を開けると2人は慶人を探すように奥を見ている。
「慶人はまだ寝てるぞ。どうした?もう出るのか?」
まだ7時。海に行くには早すぎるだろう。
「いや、朝食に行こうと思って、響も行くか。」
そういえば、昨日そんな話をしていた。朝食はバイキング形式で確か7時から10時までだ。
「いや、俺はいいや。慶人と一緒に行く。」
どうせいつも朝食は摂っていない。慶人が起きたらそれを伝えて俺はもう少し寝よう。
なぜか楽しそうに笑っている大和とそんな大和を引きずった優大を見送り、部屋に戻る。
「誰ですか?」
いつの間にか慶人が起きて、気付かない間にシャワーも浴びたようだ。
「優大と大和。これから朝食行くんだと、行きたければ1階に会場があるらしいから自分で行けよ。」
「平宮さんは行かないんですか。」
「あ、いや。」
やっぱり気付くか。あまりお腹が空いていないし、朝食は食べなくても大丈夫だろう。
「ダメですよ。行きましょう。」
「はぁ。」
慶人に2人との会話を聞かれていた時点でこうなる気がしていた。慶人だけが会場にいたらどの道後で2人がうるさい。仕方なく慶人に着いて1階に降りる。
「そういえば、ベッド間違えてたぞ。俺のベッドに入ってきてた。」
階段を降りながら慶人に今朝の事件を伝える。優大達のせいで危うく忘れるところだった。
「危ない。」
よほど動揺したのか階段から滑り落ちそうになる慶人を慌てて支える。
「なんで、なんで教えてくれなかったんですか。」
直ぐに立ち直って俺から離れるが、まだ動揺しているようだ。教えてと言われても、俺はどうすればよかったんだ。
ビュッフェはそれほど混んでおらず、優大達もすぐ見つけられた。
結局俺らのことを待っていたようで机の上にはコーヒーとジュースしかなかった。
一緒に料理を運んで、大学の時のように賑やかに朝食を終える。慶人も時折話に入ってきて楽しそうだったのでよかった。
その後着替えて、9時にホテルを出る。目的地はすぐ近くのビーチ。雲ひとつない海日和だ。
昨日座っていた堤防沿いを歩く。昨日の暗さとは打って変わり、海からの反射でまぶしい。車通りも意外に多く、目的地へ向かう通行人もいて雰囲気が明るい。
ホテルから歩いて3分。もう9時過ぎだが、予想していたより人は少ない。
看板に目を引く文字で遊泳時間の注意書きが書かれている。遊泳ができるのは9時から7時まで、もう始まっているが客はこれに合わせて来るから9時半になれば人も増えるだろう。
「優大、僕の水着、早くしないと海が逃げるぞ。」
俺らを置いて大和は更衣室に一直線で向かっていく。
「お前達はどうする?」
大和を気にしながらも優大は俺らも気遣ってくれるが、俺も慶人も水着を持ってきていない。
「一応、お前達の分も買ってあるけど、」
そんな俺の考えを先読みするようにカバンの中から俺たちの分の水着も出す。
「僕は大丈夫です。」
それには手を伸ばさず慶人が応える。かなり海を楽しみにしているようだったが、俺の勘違いなのだろうか。
「じゃぁ、俺もいいよ。どっかここら辺見て居場所探しとくから、お前らだけ着替えてこいよ。」
慶人を1人で待たせるのも申し訳ないし、さすがに泳ぐならチョーカーを外さなければならない。
「そうか、じゃぁこの荷物頼んでいいか?適当にシートひろげて待っててくれ。」
優大はカバンを渡して、急いで大和の後を追うように走ってゆく。
残った俺たちは優大のカバンを持ち直し、シートを広げられそうな場所を探す。今日のこの海日和な天気は、日差しを避けたい者からすれば大変だ。
「平宮さん、あれって海の家ですかね。」
慶人の視線の先を追うと確かに建物が見える。建物の陰で周辺は少し暗くなっている。シートを広げるにはちょうどよいだろう。
優大達にメッセージを送って移動する。
その海の家にはライフセーバーの控え室やビーチの管理室があり、売店もあるがまだ開いていない。周りに置かれた、パラソルもまだ閉じている。
2時間後の開店に向け、店の奥で店員らしき人が慌ただしく準備している声が聞こえる。
「どうしますか?」
これ以上奥へは海上ボートやサーフィンの客専用のエリアらしく、浮きで海が区切られている。またビーチの入り口に戻り、海が見えて通行人の邪魔にならない場所にシートを広げる。優大のカバンの中には俺ら四人分の帽子や扇子、日焼け止めなどいろいろと入っている。
暇つぶしを兼ねて2人で日焼け止めを塗っている間に、ちょうど大和達も着替え終えてやってきた。
「適度な日陰だし、いいなここ。」
「慶人くん、本当に泳がなくていいの?絶好の海日和なのに。俺と競争する?」
大和は慶人のことがまだ気になるようで、一緒に泳ぎたいとごねているが慶人の応えは変わらない。
嫌なら無理強いはしないが、本当は泳ぎたいのであれば泳いでほしい。ここはちゃんとライフセーバーもいる。溺れたりクラゲに刺されたりしても適切に対応してくれるはずだ。
「競争はどうだっていいけど、泳ぎたければ少しでも泳いだ方がいいぞ。」
「焼けたくないので大丈夫です。それに、あなただって一緒じゃないですか。」
少ししつこく尋ねすぎたのかやや怒気のこもった返事が返ってくる。確かに俺が泳がないのに言える立場ではないだろう。
慶人からの冷たい対応から直ぐに立ち直り大和は海に向かって走り出す。この脳天気さが羨ましくもある。
「仲が良いんですね、あの2人。」
2人が小さくなるほど海の奥まで入ってゆく様子を見ながらそんな他愛もない会話をする。
「だよな、幼なじみらしいぞ。俺らは小中高一貫の学校で俺は高校からだけど2人は初等部の頃からずっと一緒らしいから、腐れ縁って大和が。」
そんな話を聞いたのも最近のことだ。家が近くて保育園もおなじ場所だと言っていた気がする。
高校の頃、俺の知らないところで2人に助けられていたらしいが、俺が今それに報いることができているのか時々不安になる。
「そんなことより、なんで泳がないんだ。海が苦手とか、」
しつこいと分かっていてもどうしても気になってしまう。
「そうじゃないんですけど、泳いだことがなくて。」
それだけいうと慶人は黙ってしまう。それにつられて俺も黙る。
『泳いだことがない』という言葉の真意を測りかねる。しつこい俺を黙らせるために発したただの嘘ならよいのだが、そうでなければ俺は聞くべきではなかった。
俺が泳がない理由も似たようなものだ。俺は小中と真面目に学校に行けなかったから義務教育の一環である水泳の授業を受けたことがない。プールでなら流れもなく安心できるが、海には足を入れる事すら怖いのだ。
「そういえば慶人は、バイト夏休みが終わったらどうするんだ。元々夏休み中だけの予定なんだろう。」
そんな辛気くさい、暗くなった空気を変えようと別の話題を持ち出す。教育係として慶人を担当する時に工場長から短期バイトだから必要最低限の教育だけで大丈夫だと言われたが、工場と家の距離から考えても止める理由はない気がする。
「それは。まだ、次のバイト先が見つからなくて考え中です。」
上手に話題を変えられなかったようで、また暗い空気になってしまう。
1ヶ月でバイトを見つけるのは簡単じゃない。特にオメガにとっては。俺も今のバイト先を見つけるまでに数十件、面接を受けた。俺はオメガと名乗ったことはないが、チョーカーを付けているだけで門前払いを受けることも多い。
「続けるっていう選択肢はないのか。」
その方が楽だろう。仕事も順調で周りともなじんでいるし、短期バイトでは職種も限られる。
「いや、その。それでもいいですけど、いろいろな職種を経験してみたくて。」
そう説明しているが、本心ではないだろう。もっと色々気になることはあるが、これ以上深追いするほど親しくない俺に聞く権利はないだろう。それにあまり人と喋らない俺にはそういった会話の線引きが分からない。深追いして慶人を傷つけるのは本意ではない。
工場内の人も高齢化が進んでいる。慶人が続けたいのであれば皆歓迎してくれるはずだが、本人次第だ。
「なぁ、慶人。お前、いくつだ?」
また話題を変える。学校のことなら注意すれば墓穴を掘ることもないはずだ。
「知らないんですか?」
苦し紛れの話題転換だったが、慶人はそれに乗ってくれる。
「知らない。履歴書は個人情報が隠された状態でお前の名前と学歴、受賞歴しか見れなかったんだ。」
年齢は仕事に関係ないからと、印刷の段階で見えないように隠されていた。それに、見たないようもほとんど覚えていない。
「18です。大学1年。」
しばらくの沈黙を経て慶人が口を開く。俺より1つ下だ。
俺も今更ながらに年齢や学校の場所を教える。俺の実家について知っているのにこんな事も知らない関係性が少し可笑しくもある。
慶人は経営学部の通信教育課程に通っているらしく。その授業方法について尋ねると、ここぞとばかりに1人で喋ってくれる。
その後も質問を重ねて少しだけ慶人のことを知ることができた。1番の衝撃は俺と同様、高校から一人暮らしをしているらしい、ということだ。
いい暇つぶしにはなったようで気付けば海の家も営業を始め、人も増えている。
「あー、疲れた。響ちゃん、なんか飲み物ない?」
2時間泳いで満足したのか、2人も帰ってくる。
飲みかけのペットボトルを大和に渡すと、一気に全部飲み干しもう1本今度は自分でカバンから出して飲み始める。
「ちょうどいいから昼食にするか。」
優大が海の家を見ながら聞く。既に人が入り賑わっている。
タイミングを伸ばせば買えなくなるから、と片付けて少し早い昼食を摂る
かき氷や焼きそば、カレーライス、ハンバーグなど様々な料理からそれぞれ好きなモノを注文し、パラソルの下に運ぶ。俺は朝食を十分に食べてきたのでかき氷だけだ。熱い日差しの中で食べると、いつもとはまた違ったおいしさがある。
「それで、この後どうする?僕、もう泳ぐのは飽きちゃった。」
言い出しっぺの大和は海に満足したようで午後の予定を考え始めている。確かにただ喋っているくらいなら場所を変えた方がよいかもしれない。
「海といえば後はスイカ割り、ビーチバレー、サーフィン、とかですか。」
慶人は海でできることをいろいろと挙げているが、大和が片っ端から却下している。
確かに、どれをするにも道具がない。サーフィンに関してはサーフボードを借りるだけでかなりの値段になるだろう。
「うーん、僕は別に。・・あれ、あそこなんかトラブルかな。」
突然、大和がビーチの一角を指差す。その指の先には人だかりができている。周りの人もそちらに注目しているようで、心配そうな迷惑そうな声が聞こえてくる。
「うーん、あれはオメガの発情期ぽいね。アルファとかいなければいいけどね。まぁ、抑制剤持ってるだろうし大丈夫でしょ。」
目のいい大和はすぐに状況を察し、障害沙汰でないならともう関心を失っている。
人混みの真ん中で女性が座り込んでいる。その匂いに当てられたのか、他にも体調が悪そうにしている人が何人か見える。
『なんでオメガがこんなとこいるんだよ。』『なぁ、抑制剤飲んでないのかよ。』『迷惑よね。』
こういう状況に立ち会ったとき、俺は不安になる。自分の取るべき行動に自信が持てなくなる。
俺はオメガだ。発情期のつらさも、それでも楽しみたいという気持ちも理解できる。
でも、俺はアルファと名乗っている。アルファとしての俺はどう行動すればよいのだろうか。
匂いに当てられたふりをした方がいいだろうか、今は十分に距離がある。周りと同じように迷惑だと笑っていればよいのだろうか。でも、彼ら、彼女らを助けたいという気持ちもある。見捨てるのは違うだろう。
どうするのが正解なのだろうか。
「おい、2人とも大丈夫か?」
優大の声で我に返る。
「近くに何があったっけ?」
「ちょっと離れてるけど、普通にカラオケとか美術館、科学館、図書館とかもあるな。2人は行きたいところあるか?」
「あ、科学館ってどんなところですか。」
「えぇ、慶人くん真面目。」
もう既に3人とも会話に戻っている。動揺しているのは俺だけだ。
俺の異変に気付きながらも口には出さないその優しさが、今は嬉しい。
俺が気持ちを落着かせている間に話はまとまり、科学館と図書館に行くことになった。大和は文句を口にしているが、大人しく後を着いてきている。
一度ホテルに戻り、車に乗って出発する。
ビーチ沿いを通るとまだ様々な人の声が賑やかに響いていた。