9話「痛み」
痛そうな描写があります!
学校を休んだ。夏休み前の数日間なんて、行っても行かなくても変わらない。期末テストはもう終わって点も全科目90点以上取れたし、多少サボっても成績に響くことは無いだろう。
意外とカッターナイフを使う機会なんて普通に生きてる分には無かったから生まれて初めて買った。チキチキチキと刃を出し、射線の入った刃を見る。
「痛そう……」
痛い事は嫌いだ。怖い事も嫌いだ。人を殴るのだって、拳が痛くなるから実は全然好きじゃない。
痛い事が嫌いなのに俺は今自分で自分を傷付けようとしていた。理由は……よく分からない。
ネットを見ていたら見掛けたのだ、リストカットとかいう謎の行為を。それをするとストレスが軽くなるみたいな事言ってる人を偶然見つけたから、少しでも楽になれるならと言う軽い気持ちで真似してみる事にした。
胸の内が晴れないこの不快感が少しでもマシになるならと、俺は様々な自傷行為に走るつもりだ。我が事ながら、馬鹿馬鹿しい理由である。
「これ、死なねえの……?」
試しに手首の……血管を切るのはやばそうだから血管の色が薄くなっている所を切ってみる。やはりというか、当たり前に鋭い痛みが赤い線をなぞるように襲ってくる。
切れ目からプツプツと玉のような血が出てきて、やがてツーっと下に垂れていく。切れ方が浅かったらしい、でもあんまり深く切ると死にそうだしな……。
もう一度別の箇所を切ってみる。鋭い痛み、血が流れる。ただそれだけ、別に何かスッキリしたりとかはない。何も感想は無い。
「……もっと切らなきゃ駄目か」
三本、四本と切り傷を増やしていく。痛い、痛い。でも少しずつ痛みは熱に変わって慣れと同時に馴染んできた。
「で、これ、どうするべきなんだろう」
勢いに任せて数本切り傷を作ってしまった。血がすごい溢れてくる。止血しないとだよな……。
風呂場の床に落ちた血はシャワーで流せばいい。問題は腕だが、普通に血を拭いて包帯を巻けばいいのかな。
……うわ、てか考え無しに手首に切り傷つけたけど、これ学校行ったら絶対なんか言われるじゃん。もっと力こぶの辺りを切ればよかった、見える所を切るとか馬鹿すぎる。
まあいっか。
テキトーにリスカ跡を処理して、俺は真っ直ぐになる様曲げて形を整えた安全ピンを出して、テキトーに耳たぶにぶっ刺した。
メリメリって音と共に穴が開通する。痛い、しかしこちらはリスカとは違いすぐに熱さがやってきた。
……痛みが無いと、なんだか自傷する痛みが感じられなくて肩透かしだ。
別にピアスを入れたい訳では無いのでそのまま安全ピンを抜き、別の箇所も刺す。息が詰まりそうになりながらも、今度は耳の上の方の軟骨に針を当てる。
「い、いたたっ」
軟骨は、まあ骨だから当たり前なんだけど、硬くて中々貫通させれなかった。力を入れても中でグリって針が動いて中々言う事を効かない。
軟骨が中で変に砕けているのか、痛みが点ではなくじわじわ広がっていく。涙が出てくるが、無視して耳の上を指で押えて無理やり穴をぶち上げた。
「痛い……っ」
あまりの痛さで呼吸が一瞬止まった。突然のアクシデントに驚いた時みたいだ。でも……ここはなんかちゃんと自分で痛めつけた感があって気持ちがいい。快感とかではなく、清々するって感じの心地良さを覚える。
……でも、二個目は怖い。指で軽くつまむだけで強い痛みを覚える。まじの自傷だこれ。
「……っ。くっ」
もう一箇所、軟骨に穴を開けた。奥歯がカチカチと震えそうになるのを食いしばって黙らせ、安全ピンを引き抜く。もう指が血まみれでヌルヌルだ。俺は血の着いた指を口に入れ、鉄の味を舐めとった。
「はぁ……はぁ……はっ、う、あぁ……」
口に入れた指でそのままべろをつまみ、口外へ伸ばす。下唇に指を置いて、風呂の鏡の下にある台にその指を置く。顔とべろを固定して、べろの上部分に針の先を乗せる。
「〜〜〜〜〜っ!!?」
一気に針を落とす。が、ベロは耳よりもずっと肉厚で今までの力加減では貫通しなかった。ビリビリとした痛みがベロに伝わり、痛みに反応してるせいかベロが俺の意思を無視して虫のように蠢く。
痛い、痛い! 本当に痛い! けど、これだ。なんか楽しくなってきた。リスカの時はイマイチだったけど、自傷行為をする気持ちよさとか楽しさを今俺は味わっている気がした。
自分で自分で貶める。そんな滑稽な行為に笑いが込み上げてきた。
安全ピンを回し、キリキリとドリルのようにベロの穴を深くしていくと、鋭い痛みが断続的に下に響いた。穴の震度が深くなる度に、痛みが傷の奥から登ってくる。
ブチ、ブチッ! って感覚だけで音がしたような錯覚を覚える。ただ勢い余って安全ピンが指にまで突き刺さってしまった。べろに穴を開けている時程では無いが十分に痛い。
ボロボロと涙が出ている。しかし、変な笑いが止められなかった。自分の体にどんどん傷が増えていく。ざまあみろ、なんて言葉が誰に対して思うでもなく口から勝手に零れた。
「ひひっ、へへへっ」
頭がイカれたのかと思った。そういう人にしか見えない声で笑いながら、俺は思い切り安全ピンが貫通したベロを、まだピンが刺さったまま口に入れようとした。
「いぎっ!? ……っ、ぃ」
唇に安全ピンが当たり、ベロが止まる。
血が混じった唾液が絶え間なく口の端やベロから滴り落ちる。ヌルヌルの液体が指に付く。俺は何度も何度も、自分でベロに空けた穴を悪化させる為に往復行為を繰り返す。その度に電流のような痛みが走るが、止める理由にはならなかった。
ベロに空いた穴がユルユルになって、真っ直ぐ伸ばした安全ピンをつまむと弱い力で簡単に引き抜く事が出来た。炙られているかのような物凄い痛みがべろに走り、もう普通に俺は泣いてしまっていた。
まだだ。まだ試したかったことは残っている。
「へ、へぁっ、へへっ」
口が半開きのまま俺はさっき買ったハサミを取り出し、穴の空いたベロに刃を当てる。
そのまま、思い切りハサミを閉じた。やはり一度ではベロを切ることなんて出来なくて、思い切り力を込めてぐにぐにとハサミを動かしたり、開閉をしていたら、バツンって音がした。
意外にも、安全ピンでベロを刺した時よりも切るほうが痛くなかった。けど、縦に割れたベロからは血がどんどん出てきて、吐血した人みたいになっている。
「うぇっ」
ガーゼをベロの切れ目に挟んで止血した気になってそのまま風呂場に座り込む。何故か吐き気を催した。
自分の裸体におびただしい血が滴り落ちている。手首からも出血してるし、血を流しすぎたのか少し気持ち悪くて、怠い。頭が痛い。
熱に浮かされハイになっているのか、変な笑いが長い間口から溢れた。その後、それまでの笑いを無かったことにするかのように、悲しみが胸の奥から昇ってきて声を上げて泣いた。
誠也さんは仕事でいない。風呂場を綺麗に掃除し、自分で付けたくだらない傷のジンジンとした痛みを感じながらベッドに寝転がって、また泣いた。
梅雨の激しい雨の音が俺の泣き声に共鳴するようで、とても不愉快だった。
*
もう何日も引きこもっているうちに終業式になった。変わらず俺は学校をサボっていた。
誠也さんは俺のリスカ跡を見つけて大激怒していた。母親と全く同じじゃないか、という旨の発言をしていた。知った事か、もう母親とかどうでもいい。
色んな道具が見つかって、耳の穴も切ったまま放置していたベロの事もバレた。誠也さんは俺がどんどん母親のような女に堕ちていくのを感じ取ったのか、「男と会ったり体を許したりしないでくれ!」と言ってきた。
何様なんだろう。どの目線で俺にそんな事を頼み込んでいるのだろう。
……親のつもりか? 親って子供に物事を懇願する立場じゃないだろ。意味分からない。
「親を気取ってんじゃねえよ。ゴミ男」
俺は、誠也さんにそう言った。血が繋がっているだけで、お前に俺を叱る権利なんかない。親である事を一度放棄した、金で子供を買って孕ませた犯罪者が口を開くな。という感情しか湧かなかった。
誠也さんは孤立無援になりかけた俺を育ててくれた。どういう経緯があれどそれは事実。だが、誠也さんへの嫌悪感を、もう隠しておく事が出来なくなった。
誠也さんが俺に真面目な女の人生を歩んでほしいと言うのなら、誠也さんが望まないような終わってる愚図女のように見せかけて否定してやろうと思った。お前みたいな人間が父親ごっこして、お前程度の人間が一生懸命ガキを育てても失敗作しか出来上がらないって思い知らせてやろうと思った。
家を出た。今頃学校では校長が長々と下らない話をし、体育館内で生徒が熱中症で倒れる音が何回か聴こえてくる頃合だろう。
一人で、水かさと勢いを増した用水路の近くまで来る。すると、その用水路を見下ろしている男が居るのが見えた。
「何してるの」
話しかけた意味は特に無い。一人じゃ暇だし、奇行に及ぼうとしているその男と時間を潰そうと思っただけだ。
「自殺するなら他の方法にしなよ。これに巻き込まれるのはしんどそう」
そう言ってみると、男はこちらを向いた。そいつは水瀬だった。
「水瀬? なにしてんの、お前」
「……誰?」
妙な事を尋ねられた。……いや、分からなくて当然か。水瀬は俺が女になった事なんて知らないし、今は髪も伸びてるし、体も完全に女になってるし。
「一方的なお前の知り合い」
「一方的な?」
「うん。で? お前、自殺でもすんの?」
「いや、そんなつもりないけど……」
「じゃあそこで何してんの?」
「……自殺の下見?」
自殺する気満々じゃないか。
「君は何してるの? こんな雨の日に」
「自殺の予行練習しようかなって」
「え!? や、やめなよ!」
「冗談だよ。てかお前に言われたくないんですけど」
「……」
水瀬は押し黙った。このままここに居たら横風に吹かれて傘も意味が無い。
俯く水瀬の手を握り、引っ張って強引に道路橋の下まで連れてくる。雨避けが出来たので、傘を畳んで地面に置いてコンクリの傾斜に腰を下ろした。
「君……」
「コンビニでサンドイッチ買った。食う?」
「……食べる」
「隣座れよ」
「うん」
俺から少しスペースを空け、控えめに座る水瀬の腕を掴みもっとこっちに来るように引っ張る。そこだと雨に濡れるだろ、頭悪いんかこいつ。
「はい」
「あ、ありがとう」
サンドイッチを渡すと、水瀬は俺の耳に目線を固定しているのが見えた。
「んだよ」
「耳、すごいね。ピアス。何個つけてるの?」
「えー? 知らね、数えてよ」
「付けてるのは片耳だけ?」
「左耳だけ」
「そうなんだ。じゃあ……6つ?」
ピアスを数えてなんか感動しているような反応をする水瀬。もっと面白いものも見せてやろう。
「ねーねー水瀬、見て」
「うん? うわっ!? 舌が切れてる!?」
「かぁいいやぉ」
「グロいなあ……!? これ自分でやったの?」
「自分でやった。グロくないだろ、可愛いやろ」
「道理で滑舌がちょっと悪いわけだ」
「うるさいな。腫れてるんだし悪いに決まってるだろ」
「腫れてるんだ、痛そう……」
まあ切った初日ほど酷くは腫れては居ないが。あの日は腫れすぎて飲み物しかまともに口にできなかった。
「しかしなんでまた……趣味?」
「なにが」
「舌とかピアスとか」
「んー……そりゃ手首を見れば何となく分かるんじゃないか?」
「手首?」
俺は自傷跡を見せたついでに、手首のリスカ痕も水瀬に見せてやった。彼は唾を飲んだ後、窺うように尋ねてくる。
「……いじめられてた?」
「いじめられてる。現在進行形」
「そっか……」
「お前は?」
「僕は……同じく、いじめられてる」
「誰に」
「誰にって。話して何になるのさ」
「……気になる」
「気になる?」
「冬浦って男にいじめられてたのは知ってる。でも今は…………今もそいつにいじめられてるの?」
変な質問になってしまった。まあ、あくまで今の俺は冬浦小依では無い他の誰かのフリをしてるわけだから、聞き方としては間違ってないとは思うが。
「今いじめてきてるのは小依くんじゃなくてその友達だった人らだよ。小依くんとは、二年になってから一度も会ってないし」
「……そうだね」
俺の友達だった人ら……コイツと同クラになった、俺のかつての不良仲間の誰かが未だにいじめ続けてると。三年間もよく飽きずにそんな事やれるな。
「そのいじめに耐えかねて自殺? しょーもな」
「……前までは、小依くんが、いじめてはくるんだけど程々の所で止めてくれて。小依くんがいなくなってから、歯止めが効かなくなったみたいな」
「……」
……なんだそれ。謎に良い様に解釈されてないか? 程々の所で止めていたのは教師にバレないようにする為ってだけなんだが。ポジティブ方面の認識を持たれていそうだ。
「今にして思えば、小依くんはなんだかんだで僕の事を守ってくれてたんじゃないかなって」
「そんな事ないけど」
「えっ?」
「あっ、いや! えーと……いじめをするよう奴が、いじめてる相手を守ったりする訳ないだろ! 意味分からんやん本末転倒やん? どうせいじめが大人にバレないように立ち回ってたんだと俺は思うな!」
「そうかな……」
「だと思う!」
まあどう思われても知った事では無いが、俺の事をそんな風に思いながら死んでいったら「なんで助けてくれなかったの」とか言いながら化けて出てきそうなので。今後の事を考えて水瀬の色眼鏡を外させておく。
「ねえ、君ってさ」
「な、なんだよ」
「今、自分の事俺って言わなかった?」
「? それがなに」
「女の子だから珍しいなって思って」
……。いやまあ確かに、俺以外に一人称が『俺』の女なんて見た事ないな。そっか、そりゃ普通指摘されるか。
というか、待てよ。顔は女の形になったとはいえ、俺は間違いなく冬浦小依であって顔にもその面影はあるよな? まずくね? バレそうじゃね? 全力で誤魔化した方が良くねえ???
「あ、えっと、まあアレですよ。本当の一人称は私だけど、俺って言ってんのは……ネット上での口調というか」
「ネット上?」
「いやー実は男って設定ってSNSやっててさ! ついつい俺って言っちゃうんだよね!」
「ネカマってやつだ」
「の逆バージョンなんだけど、まあ、そう」
「へえ」
納得したかのような顔で頷く水瀬。納得出来るのか今の説明で。はたしてちゃんと誤魔化せたか分からないので、一応顔は直視させないよう逸らしておくか。
「……君は、いじめに耐える為にそんな風に、自分を傷付けたの?」
「うん? んー……それは微妙。俺、じゃなくて私、自分の事が大嫌いでさ」
「そうなの?」
「ん。歳を取る度に嫌いだった母親に似ていくし、他人に優しくできないし、すぐカッとなるし、ちっとも大人らしくなれない。嫌な事があったら他人を許せないし、自分のせいで誰かが傷ついていてもその責任から逃げたくなるし。だからいじめられたし。そんなクソガキな自分が嫌で、自分で自分を痛めつけようと思った」
「……その割にオシャレな痛めつけ方だね」
「いいじゃん」
「いいけどさ。……というか、君は自分で言うほど嫌な奴でもないと思うけどな」
「? なんで」
「あそこで僕に声をかけたのは、僕が自殺するつもりなんだと思ったからでしょ? 自殺しようとしてる僕を止めて、サンドイッチをくれた。こんな激しい雨の日に、わざわざそんな事する人いるかな」
「割といると思うけど」
「僕はそう思わない。君は良い人だよ」
良い人、ねえ。その良い人に君、いじめられてたんだけどね。俺が冬浦小依だってバレてないから言える発言ですな。気分がいいので黙っておくか。
「……なんか、久しぶりに嫌悪とか嘲笑の含みがない言葉を言われた気がする」
「そう? よかった」
「あはは。…………でも、俺は良い人じゃないよ」
「そんな事ないよ」
「ある。……なんか、本当に久しぶりに人とマトモに会話出来たからさ。なにか恩返ししてやろうか」
「恩返し?」
「うん。お前相手にそんな事しようって思うだなんて自分でも意外だけど、今の発言で若干気ぃ楽になったし」
ここ数日間、生きてるのか死んでるのか分からない精神状態だったからな。人間として他人と等身大の会話が出来た事で、なんだかいつもより少しだけメンタルが前に向いた気がした。
「お前をいじめてる奴の名前教えてよ」
「え、なんで?」
「いいから」
「……」
水瀬から名前を聞くと、二人の男の名前を答えた。神崎、山本、香坂のいずれかが入っていたらどうしようと思ったが、入っていなくて良かった。
水瀬をいじめている連中はいずれも、俺からしてもあまり好いていない連中だった。
「それじゃ、夏休みが始まったら学校に行ってごらん。その二人、俺の魔法で懲らしめてやるからさ」
「えっ……?」
「じゃ、そろそろ俺は行くわ。くれぐれもまた自殺しようとか思うなよ。新学期からは普通に学校通えるようにしてやるからよ」
水瀬にそう言って、俺は傘を……水瀬が傘を持っていなかったので、そのままそこに置いて走って家に帰った。