2話「あやまち」
誠也さんとの二人暮らしは、特になんの問題もない平凡なものだった。
ありふれた質素なカップ麺やコンビニの飯。時々出てくるインスタントの味噌汁と目玉焼きと白米。
ありふれた日常会話。学校でどんな事があったかだとか、そういうのを聞かせて当たり障りのない答えを返して。
不平不満もない親子関係。なのに、何故か日々俺は胸の中に晴れない感情を募らせて行った。
母親の事は好きでは無かった。だからこの父親を憎む気持ちなんてない。
これは多分、当時母親が生きていた頃に募らせていた鬱憤なんだと思う。慣れてしまう前の、周りの家庭を見て自分と比べていた頃の麻痺していた怒りや悲しみだ。
母親が死んで、ぶつける先が居なくなってしまったことで俺はそれを誠也さんに無意識下でぶつけようとしていたのだろう。
「小依くん。次の休み、一緒に」「休みは五十嵐ん家行くんで、無理」
その日、初めて俺は強い口調で誠也さんに反発した。それまで誠也さん個人には喜も怒も哀も楽も、なんの感情も向けてこなかったから彼は驚いた顔をしていた。
「てか、もう小六なんで、親と出掛けるとかそういうのいらないっす。あんま構わないでください」
「小依くん……」
その出来事を皮切りに、俺が築いてきた無関心の皮が剥がれていって、どんどん誠也さんに対して露骨に嫌悪を示すようになった。
家での居心地がまた悪くなって、あまり家に帰らず人の家に入り浸るようになると、転校生の水瀬真と付き合うことが多くなった。
「小依くん! 今日もうち来てよ!」
「えー……」
ただ、俺は水瀬の事があまり好きじゃない。なんというか、コイツとはどこか波長が合わないのだ。
「ねえねえ小依くん! デュエマの新弾箱買いしたんだ! 開けるの手伝ってよ」
「おー」
という、よく分からない要求を呑んで以降、やたら水瀬は俺に話しかけるようになった。
給食の時間に俺の配膳の量を無駄に多くしたり、ドッジボールでは球を取るたびに俺にパスしたり、授業中話しかけてくるのを無視したら消しカスを投げてきたり。
腕っ節は俺の方が強いから調子に乗ったら強めに腕を握ったりは出来るけど、それでもコイツは何故か俺にばかり懐いてきた。
水瀬がしつこく付きまとうようになった代わりに、咲那とはあまり話さなくなった。ある日を境によそよそしくなって、それから男子と女子が対立するようになって完全に会話しない仲になってしまった。
今はどこに顔を出しても必ず水瀬が居る。咲那が抜けた穴を埋めるように水瀬がずっと近くに居て、その癖いつまで経ってもこいつは鬱陶しくて堪らなかった。
「小依くん!」
水瀬がプールの授業の着替え中、俺に膝カックンをして転ばせてくる。
「小依くん!!」
水瀬が俺が貰ったラブレターを奪って、皆に見せびらかす。
「小依くん!!!」
水瀬が珍しい虫を見つけたとか言って、俺にそれを見せてくる。要らないと言ったのに机に乗せてきて、俺の反応を眺めている。
「小依くん!!!!」
階段を降りる直前に話し掛けられて、驚いて足を踏み外す。階段を落ちていって、肩を強く打った。
「ご、ごめん! ごめんね、ごめんね小依くん……」
「い、いいよ別に……」
保健室に連れて行ってもらって処置してもらったあとも、ずっと水瀬は俺に付き添って謝りながら泣いていた。悪い奴じゃないのは分かっている。コイツは、ネットとかでよく見るタイプのやつだ。
仲良くなったら自分のことをなんでも認めてくれて、受け入れてくれると思っている。だから物事の加減が出来なくなるし、無意識に相手に対し失礼な事をやってしまうこともある。
それでいて、悪意は無いから怒られてもピンと来ない、みたいなやつなのだ。
発達障害、だっけ? よく分からないけど、そういう病気なんだから仕方ない。そう思う事で、俺は水瀬に鬱陶しさを感じながらも、なんとか彼を拒絶せず、理解しようとした。
家の中で塞ぎ込んでいたのだから外でくらい、オープンで快活な奴で在りたかったのだ。
「ただいまー!」
「お邪魔します」
水瀬の家、というかコイツは親戚の家で暮らしているらしいので水瀬の親戚の家にお邪魔する。水瀬の部屋がある二階に続く階段を登っていたら女の人が台所から声掛けてきた。
「おかえりなさーい。お友達も一緒?」
「うん! 小依くん!」
「あ〜、いらっしゃい小依くん。後でお菓子でも持っていくわね」
「ウッス」
「いいから叔母さん! 僕が持ってくって! 小依くんは先に部屋でくつろいでて!」
「分かった」
水瀬に言われて一人でアイツの部屋に上がり込んでテキトーにランドセルを置いて座る。
この家に来たのは初めてでは無い。去年に一度来たし、その後もちょくちょく遊びには来ている。でも水瀬の叔母を会うのは初めてだった。他に人がいる時は、叔母が家に居ないタイミングを図って招いていたから。
水瀬が戻ってくると、夜まで大昔のガンシューティングゲームに付き合わされる。ゲーセンにあるような銃型のコントローラーを使って、画面にいる敵を打ち倒していくやつだ。
「……そういえば、父親もこういうゲーム好きなんだよな」
「小依くんのお父さんも?」
「うん。去年はよくゲーセンに連れて行ってくれてさ、こういうゲームをずっと遊んでたな〜って」
「へえ! こういうの好きなんだ! 珍しいね」
「珍しいかな? FPS好きと大差ないんじゃない」
「クオリティが段違いでしょ! こっちは自分で移動したりなんか出来ないし!!」
「じゃあなんでこんなレトロゲームになんか付き合わせるんだよ」
「だからこそ奥深いんだよ〜!」
噛み締めるように言うが、全然分からなかった。自分で移動できない、出来るのは照準を動かす事で敵は決まったパターンで出てくる。botに弾を当てるだけのゲームのどこに深みがあるんだよ。
やっぱり感性が合わない。こんなゲームをするなら対人ゲームをしたい。スマブラとか、マリカーとか、この際桃鉄でもいい。人が二人いるのに、なんたってCPU相手にしないといけないんだ。時間の無駄だろ。
遊んでいると夕方になった。もう何時間も同じコースを周回しているのに飽きる様子を見せない水瀬についに痺れを切らせ、俺はコントローラーを床に置いた。
「小依くん?」
「ギブ。一人でやってろよ、俺はそろそろ帰る」
「え、もう帰るの? なんで!?」
「だってお前と居てもつまらないんだもん」
「そっか。あはは……ごめん。うち、新しいゲーム置いてないからさ」
「そうなんだ。ドンマイ」
「小依くん家は新しいゲーム、ある!?」
「え? あー……まあ、父親がそう言うの好きだし」
「じゃ、じゃあ今度小依くんの家に行ってもいいかな!!」
急に水瀬が変な事を言い出した。そんなの勿論ダメに決まっている。こいつに限った話じゃない、誰も俺の家には入れたくなかった。
家は、俺が虐待されて育った場所だ。学校は虐待とは離れた優しい世界だった。
この二つは決して相容れてはいけない物だ。母親が死んで、誠也さんが来た家も結局は俺の中では虐待された場所という認識は昔のまま変わらなくて、だからこれ以上外の人間を中に入れるのは辛抱ならなかった。
「絶対駄目だ。家になんか来るな!」
「えぇ、いいじゃん! 一回くらいさ!」
「駄目だって!」
「お願い!」
「嫌だ! 来んな!」
「どうして!? やっぱり僕が人殺しの子供だから!?」
「あ?」
俺が反応すると、水瀬は「やばっ」と言って口を手で押さえようとした。その手を掴みあげ、どういう事か聞くつもりで水瀬の腕を掴んだままにした。
「お前、今のどういう意味だよ。親が人殺しって、両親ともか?」
「…………母さんが。父さんは、母さんが事件を起こした後にどこか消えちゃって」
「だから親戚の家で世話になってんだ」
「うん」
そこで、聞き出すのを辞めればよかった。俺は、好奇心に抗えずにその話の先、具体的な事件の内容を聞き出したくなってしまった。
「で? お前の母さんは何をしたんだよ?」
「だから……殺人……」
「どういう風に?」
俺が尋ねると、少しだけ無言になった後で水瀬が僅かにこちらに目を向けた。その目に含まれていた感情を読み取ると、一気に背中に気味の悪い感覚が走る感じがした。
「人を轢き殺したんだ、車で。念入りに二回も。それで殺意があったと認められて、刑務所に入ってるよ」
水瀬の目を見て勝手に俺が抱いた嫌悪感と、当時コイツが住んでいた地域的に絶対に関連は無いのに"交通事件"という点が勝手に頭の中で結びつき、俺の意思を無視して口が動いて言葉を吐き出した。
「最低の屑じゃん。人殺し野郎」
何故か俺は、それを目の前の水瀬に言い放ってしまった。殺人を犯したのは、彼の母親なのに。
自分の母親が交通事故で死んだ事、同時期に全く別の場所で交通事件を起こし人を死なせた事。
それらが結びついた結果、俺は目の前の水瀬を気味の悪い敵認定してしまった。
普段から少し鬱陶しいなあと思っていたのもあったし、家庭内で吐き出しきれない鬱憤も一つの要因となり、色んな物が偶発的に積み重なった結果なのだろう。俺は目の前の男を排除すべき存在だと認識してしまう。
水瀬の家から帰って以降、俺はクラスメート達に口裏を合わせて水瀬を無視するよう煽動した。
膨れ上がった憎悪が勝手に水瀬に矛先を向けて、その発散の方法として俺は教室にいる人間を使って水瀬をいじめるようになった。
「水瀬〜、これ捨てといて〜」
給食終わりに校庭を歩いている水瀬に向けてゴミ袋を上から投げた。
「水瀬の親は人殺し〜!」「水瀬の親は殺人鬼〜!」
毎朝学校に来るのが早いクラスメートに水瀬の親の事を黒板に書かせ、担任が来るまで男子数人で囃し立てた。
「こ、小依くん」
「え、こわっ、こわこわこわっ! なんか殺人鬼に話しかけられたんですけど〜!」
「小依も轢き殺すのか〜? この野郎がっ!」
ドッジボールで一緒のチームになった水瀬が俺に話しかけようとしたが、味方からボールを投げられて水瀬は蹲る。体育教師がこっちを向くまで水瀬を蹴る。唾を吐きつける。
「人殺しに勉強とか?」
「「「必要ありませ〜ん」」」
水瀬の筆箱を、ノートを、教科書を学校の池に捨てる。落書きだらけの汚れた教材を拾いに行く水瀬を後ろから飛び蹴りして、汚水の貯まったプールに落とした。
そうして、俺達は水瀬をいじめながら小学校最後の一年を過ごし、中学に上がった。
俺は小六での水瀬への行いと、母親がつるんでいた男が不良の先輩の親だったという事で不良達に目を付けられ、気付けばそちら側の人間の仲間入りをしていた。
「ほら吸えよ、小依」
「あざっす笑」
中一で酒とタバコを覚え、ピアスを付けて髪を金髪に染めた。先輩達も皆金髪で、髪色が被っているのに自分達は個性的だと謎の優越感を抱きながら中学生活を過ごした。
「小依……」
「あん? なんだあの女、お前の女か?」
授業も受けずに先輩達とタバコを吸いに行こうとしたら廊下の角で咲那がこっちを見てきた。
「いや、知らないっす」
酷く蔑むような目付きで、俺を睨むように見る咲那に何故か笑いが零れて、中指だけ立てて無視した。
そして、咲那や俺とは別クラスになった水瀬が教室から出てきたのを見て、俺は先輩に「アレ、俺のお気にのおもちゃなんすよ」と言いつけた。
水瀬は中学に上がっても俺にいじめられた。それは小学時代よりも苛烈なもので、一年の内に彼は"不良の標的にならないように振る舞う一般生徒達"からも嘲笑の的となった。
俺のいない所でも普通の生徒達から虐められ、やがて先生達からも冷遇を受けるようになり、いつしか水瀬は学校に来なくなった。
何故か俺は、自分が発端だというのにそれが不愉快でならなかった。