16話「本屋」
「……まじか」
早起きして水瀬の野郎を詰めてスマホを返してもらうはずだったのに、今年度最大の大寝坊をかましてしまった。起床時間衝撃の13時26分。他の追随を許さない大寝坊である。
「はぁー……」
健康的生活を気取って生きる丁寧な生活系JKの気分でいた分この寝坊はかなりメンタルに来た。普段5時起きなんだもん、時計見て目が飛び出たわ。
スマホのアラームが無いってだけでロングスリーパー過ぎない? 13時間睡眠なんて有り得るかなぁ!? そんなに俺って疲労蓄積してるかなぁ……?
とりあえず家を出る支度をする。スマホが無いという不便さ由来の苛立ちを抱きつつモーニングルーティンをこなす。ネット断ちトレーニングとか参加したら発狂しそうだな、俺。現代人すぎる。
「ちょっとだけテレビ見よ」
ここまで不本意な寝坊をかましてしまったのなら、折角なら最後の授業が始まるくらいのタイミングから学校に赴いてやりたい。
制服を着て何食わぬ顔で校内を闊歩し、水瀬と接触。スマホを取り返して担任に鬼の言い訳LINEを送り付けよう。よし、これだ。タクティクス練れたわ。
という訳で、軽く見た目を整えて制服着てヨギボーに深く腰掛ける。動き出しはまあ14時半くらいでいいだろう。しばらくゴロゴロである〜。
*
「ナルコレプシーなんか俺は???」
目を開けたら時刻は16時47分。授業はとっくに終わり、部活動が開始している頃合である。
ヨギボーってさ、人をダメにするソファみたいに言われてたけど深く腰掛けると案外体がガチガチになってリラックス出来なかったりするじゃん? それを狙ったわけだよ俺は、居眠りしないようにって。
爆睡したわ。気持ちよすぎ。ヨダレ垂れるレベルの爆睡、アホかて。
「どうしよう……マスクしてくか」
とりあえずマスクと、先々週桃香と結乃と三人で遊んだ時に買ったサングラスを着ける。制服を着た不審者が出来上がった。よし。俺とはバレないな、よしよし。
ニット帽被って首元向けて全力で引っ張って覆面にしようかとも思ったが、ちょっとそれは言い訳効かないレベルのガチ不審者になってしまうのでやめておいた。学校に着く前に職務質問の待機列作る可能性あるしね。
「さて、ゆくか」
部屋を出て鍵を閉め、マンションのロビーまで降りると同じマンションの人に困惑した目で見られた。いつも挨拶してくれるおばさんだ、今日は挨拶してくれないのかな? こちらからしておいた。
「さてさてさぁて」
マンションを出た時点で家に帰ろうとする同じ高校の人間がチラホラと見えた。その流れに逆らうように、俺は学校に向けて足を……。
待てよ? 水瀬って部活なんてしてんのか? していなかった場合、俺が学校に行った所でそれはただの徒労なのでは。
「むむむ……」
「ひっ!? 強盗!? 制服!!?」
コンビニに入りイートインスペースで甘いものを食べながら考えようとクリームのっけプリンを購入。舌鼓を打ちつつ考える。
水瀬が何かスポーツをしている印象はない。子供の頃の印象から勝手に文化部タイプだと思っているが、おそらくこの認識は間違っていないだろう。見た感じアイツヒョロいし。
文化部って、あんま毎日特定の教室に集まってるイメージないんだよな。ここは学校に向かわず、まずは水瀬のバイト先に向かうのが賢明ではないだろうか。
少し時間を潰してあの本屋に向かうか。……時間を潰すって何するんだろ、スマホもないのに。俺だけ旧石器時代なんですけど、スマホロストで臨む現代めっちゃしんどいなー。
「……考え込んでても仕方ないか」
ま、バイト先に水瀬が居ないのなら代わりに別の店員がいるだろうし。その人に水瀬の家を聞き出せば良いだろう。まあ同じバイト先だからって知っているとは限らないが。
「あ、小依くん!」
「いるんかい。17時出勤は気合い入りすぎだろ」
「学校近いし」
少し間を置いて本屋に向かったらエプロンを着た水瀬が居た。学校終わってすぐ働いてんのコイツ。すごいな、普通に尊敬するわ。
「ねー水瀬、私のスマホ持ってったっしょ。返せや」
「あれ? 一人称が私になってる。今店内には僕しか居ないよ?」
「……俺のスマホ返せっつってんの。殴るぞお前」
一々指摘してくるなよそんなこと。一人称なんて同時に二つ使い分けてたらごっちゃになるんだよ。
「あー……ちょっと待ってて。事務所に置いてきてるからさ。あ、もし人来たら代わりに接客してくれない?」
「は? 接客? 無理だよ、俺働いた事ないし」
「大丈夫! 入ってきたらいらっしゃいませ〜って言ってくれればいいからさ!」
なんか畳まれたエプロンを渡された。制服の上から着ける……いやなんで? 流されないが?
「じゃ、持ってくるよ」
「なあ水瀬、これってバカッターとかそういうジャンルの行為なんじゃないか? 店員じゃない奴に店員させるのは非常識だろ」
「じゃあ定時まで待つ? 平日は僕、夜の9時まで入ってるけど」
「3時間も何もせず古本屋ん中におれるかいな」
「だよね。じゃ、よろしく!」
よろしくって……まあしょうがないんだけどさ。お客さんが来たらどうするの、俺本当に何も出来ないんだけど……。
ガラガラガラ。
「! い、いらっしゃいまへ!」
店の扉が開いたから挨拶したら噛んだ。恥ずかし。
入ってきたのは20代後半くらいのスーツを着たおじさんだった。おじさんは俺をじーっと見ると、そのまま視線がスカートの方に移動した。
……いかん、いつもの癖で短くしてたんだった。桃果や結乃といる時は彼女らに合わせて短くしてるから、その習性で自然にスカート折ってたの忘れてたわ。
見られてる。足をジロジロと。気持ち悪いな……隣の棚に逃げよ。
やることも無いし出しっぱなしにされてる本を著者順に棚に入れ直そうかな。まず陳列のルールから分からないが。
ま、ルールと違ってても著者名があいうえお順になってたら手に取りやすいだろ。棚から出して位置を入れ替える訳でもないんだし、余計なお世話にはならないだろうと整理を始める。
「随分と沢山溜め込んでんだな。本の後ろに本置いてるし。物売る店としては駄目な陳列だろ……」
棚の一列に三層くらい本の層があった。中身が同じ本ならまだ理解出来るが全然違うみたいだし。売る気あるのだろうか?
まあ坪や本棚の数の問題もあるだろうし一概に駄目とも言えないというか、仕方ないのだろうか。商品棚の綺麗さは勿論大事だけど、抱えた在庫を店頭に出すのもきっと同じくらい大事だもんな。
……いや、なら流行りの作家とかやたら名前聞く作家とかを纏めて専用の場所作ったり、季節がテーマの作品を現実の季節にリンクさせて特設コーナー組んだり、在庫として出すものと一旦倉庫に入れておくものを分ければいいだけなのでは?
いやそれ以前だわ。図鑑に辞典に小説に漫画、レシピ本や雑誌とジャンルが一致しない本が乱雑に詰め込まれてる。そういう良さがあるのか? A型が見たら放火するでしょ、この店。
棚の後ろにある本なんて下手すりゃ店が潰れるまでそこが定位置じゃん、残酷すぎるわ。
「せめて背の高い本を後ろに置いて、背の低い本を前にだな……ん?」
勝手にあれこれ口にしつつ本をゴソッと入れ替えていたら視線を感じた。
本を手に持ちながら背後に意識を集中させると、先程やってきたお客さんが俺の背後に立ちわざわざ俺の背中越しに本棚を眺めていた。
(退くか)
邪魔なのかなと思い横に移動しまた棚を触り始めると、お客さんは本を一冊手に取ってパラパラと読みはじめた。
立ち読みしてるくせにまた俺の背後に立った。なんで?
「おっと! 申し訳ありませんお客様!」
よく分からないまま本の位置替えをしていたら水瀬がやってきて俺の背後の客の足元に本を落とした。それを拾うように水瀬が客の足元でしゃがむと、客は焦った様子で店を出ていった。
「なんなんだあの人。変なの」
「小依くん今盗撮されてたよ」
「えっ。……盗撮?」
「うん」
「え、でもスマホなんか持ってなかったぞ? あの人両手とも本にくっついてたじゃん」
「確証は無いけど、片足だけ妙に伸ばして小依くんの足の間に置いてたでしょ。多分、靴の上部分に小さなカメラを付けてるんだと思う」
「靴の上? ……つまり、スカートん中盗撮されてた?」
「だろうね」
えっ、きっっっも!? こんな店ん中でそんな事する人いるの!? 怖すぎるだろ! んだよそれ、だから謎に片足を俺の足の間に置いてたんか……。
「今日生理なのに……」
「そんな、生理じゃなかったら別に良かったみたいな」
「良くないわ! 良くないけど、生理の日は、その……羽とかさ」
「羽?」
「何でもねえよバカ!」
「僕に八つ当たりしないでよー……」
八つ当たりというか恥ずかしいからつい大声を上げただけなのだが、水瀬は苦笑混じりに「ごめんね」と言った。別に謝られても、水瀬は悪いことしてないし……はぁ。
「で? スマホ持ってきたん? 早く返してよ」
「うん。はい」
俺が手を出すとそこにスマホが置かれた。ほっとした。たかがスマホ一つでこんなに一喜一憂するとか筋金入りだな、俺。
「ありがと」
「うん。小依くんって、右手にしかネイルしてないんだね」
「へ? そうだけど。……あ、お前今キモイって思ったな殴るぞ」
「思ってないよ!?」
「いーや思ったね。心は男の癖にネイルするとかキモいなって思った。そうだろ、本当の事言えよ」
「思ってないって! 単純になんで片手だけなんだろって思ってさ!」
「え? そりゃお前、ネイルしてっと洗い物とかやりにくいし。だから片手にしてるというか」
「小依くんって左利きだっけ?」
「そうだけど」
「そうだったんだ! 知らなかった、天才タイプじゃん!」
「どこの迷信……? シンプルに親があんなんだったから右利きに矯正されなかったってだけなんだけど」
「親があんなんって? 僕、小依くんの親の事知らないな」
な、なんだよこいつ。スマホを渡した瞬間饒舌になりやがって。
「俺の事なんてどうでもいいだろ。暇かよ」
「暇だよ?」
「仕事しろ。店ん中もう少し綺麗にしろよ」
「1人じゃとても手回らないよー……小依くん、このお店でバイトしない?」
「絶対やだ」
「なんで!」
「置いてる物が賢すぎる。合わない」
「小依くんって成績優秀な方じゃなかった?」
「学校の勉強は暗記じゃん、文学の理解って読解力じゃん。割いてるリソースの濃度段違いだろ」
「よく分からないや」
「ガリ勉君よか本の虫のが脳みそ使ってるだろって話」
「……?」
「いいや。じゃあね水瀬。仕事頑張れ」
「話し相手なってよ」
「仕事しろよお前マジで」
バイト先に知り合いが来たら延々と喋れんのか。晒されるってそういうの、クチコミに書かれたらどうするんだこいつ。
「小依くんはバイトとかするの?」
「しようとは思ってるけど」
「なんのバイト? 候補とか教えてよ」
「候補〜? えー……コンカフェ嬢は向いてるかもって言われた」
「コンカフェってなに?」
「コンセプトカフェの略称。メイド喫茶みたいなもん」
「そうなんだ」
いや、実は俺もあんまり知らないけど。ネットで見るコンカフェ嬢の人ってなんかメイドっぽいし、当たらずも遠からずだと良いな。
「て事はさ、手でハートを作って料理に萌え萌えきゅんするやつもやるってこと? 小依くんは」
「いややるとは言ってないし、向いてるって言われただけだよ」
「やってみせてよ、萌え萌えきゅん」
「は?」
「ちょっとまってて!」
「おいバカ高校生コラ。客残して奥行くな〜、無法地帯かこの店は」
またもや俺を置いて水瀬がバックヤードの奥へと消えていった。絶対客が来ても無視するぞ俺は。
「お待たせ!」
「何してたんだよ」
「丁度今日買ったご飯オムレツだったからさ! ここにハートの魔法掛けてよ!」
そう言って水瀬がレンチンしたばかりであろうコンビニのオムレツ弁当を持ってきた。業務中何当然のように飯にありつこうとしてるのこいつ。てか本屋の店員が売り場の近くに飯なんか持ってくるなよ。
ホカホカの蒸気が立ちのぼる弁当を手で指して、水瀬は「ほら!」と俺に魔法を催促する。
「やらねえよ」
「えー見たいなぁ。どうしてもダメ?」
「駄目。あんななよついたこと俺には出来ないし」
「そっかぁ。……あの時僕が首を突っ込まなかったら、小依くんのパンツはしっかりあのおじさんに撮られてたんだよね」
お? なんか言い出した。恩を着せてその恩を利用しようって魂胆かよ。
「少しずつだけど小依くんの体ににじりよってたし、もしかしたらもっと酷いことされてたかもしれないね」
「……お前今めちゃくちゃ人間としての徳下げてんなって自分で思わないの?」
「小依くんの事を身を呈して守ったのに! あんまりじゃないか!」
「いや呈してはいなかったよ。話しかけてただけだったよ」
「お願い! 小依くんおねがーい!!」
ついには土下座までされた。プライドなし男くんじゃん、たかが萌えセリフを言わせたいって理由で土下座までするか……?
「くだらねえ俺は帰るよ」
「萌え萌えきゅんしないともう僕二度と動けないよ!! さあ早く、解除魔法を!」
「気絶するまで殴るっていう素敵な魔法もあるんだがそっちにするか?」
「食べものに愛を込めるタイプの魔法をお願いします!」
「嫌だって」
「なんでさ!」
「なんでって、だって恥ずかしいし……」
「恥ずかしくないよ! 小依くん可愛いし!」
「は? ……可愛い?」
「え、うん。嫌だった?」
「嫌ですね訂正しろ」
「じゃあ精一杯の萌え萌えきゅんをしてくれたら訂正するよ」
「その執念なんなの……?」
土下座で額を床に擦らせてまで頼み込んでくるから仕方なく、折れてあげる事にした。はぁ……ただスマホを取り返したいだけだったのになんでこんなトンチキな出来事に巻き込まれないといかんのだ。
「はぁ……もえもえ、きゅー」
「駄目だよ小依くん真面目にやって! そんな投げやりな萌え萌えきゅん可愛くないだろ!!」
「うざぁ」
真面目になんかやるわけないだろ、そもそもお前が真面目に仕事をしろという話である。
そもそもそういうオーソドックスなメイド喫茶なんかも行ったことないし、どういう風に言えばいいのか分からない。知らないものをどう再現しろってんだ。
「……あ、ちなみに萌え萌えきゅんの前に『ご主人様には美味しく食べてほしいから魔法をかけるにゃん。美味しくなーれ、美味しくなーれ』っていう言葉を足してから萌え萌えきゅんしてね」
「お前……」
キモいなぁ、厄介客だろうなこんな奴いたら。要らん注文してきやがって。どう言おうと同じだろ。
「さあ!」
「……はぁぁ。……ご主人様には美味しく食べて欲しいから魔法をかけるにゃん、美味しくなーれ、クソ不味くなーれ。萌え萌えきゅん」
「あれ、おかしいな。最後ちょっとノイズが」
「萌え萌えきゅん!」
「そんな気功砲みたいに何度も素振りしないよハートは」
「さっさと食えよ」
「もっと真心を込めて頂かないとなぁ〜」
「萌え萌えきゅん!!」
「声だけ大きくされても」
「萌え萌えきゅん!!!!」
もう直接水瀬の胸板を何度も手で作ったハートでぶっ叩く。これで満足しただろ、さっさと帰らせろや。
「萌え萌えきゅっ」
「真、店はどんな感じ……」
萌え萌えきゅんをぶちかましたタイミングでお客さん? か分からないけど、深いシワのあるおじいさんが店に入ってきた。
見られてしまった、変な儀式を。水瀬は弁当を隠すのに必死だし、俺はどうしよう。天津飯に憧れてるんでって言って誤魔化すか? 無理筋か。
「あ、じいちゃん、これは」
「……真。彼女は一人だけにしておきなさい」
「え」
「彼女……彼女!?」
どうやらこのおじいさんは俺と水瀬が恋人であると勘違いしているらしい。この世で一番ありえない相手と言っても過言じゃない水瀬となんでそういう風に思われるんだ……。
「違うよじいちゃん、この子は僕の友達で」
「友達になった覚えはねえよ」
「えっ。傷つくな……」
「ふん」
勝手に一人で傷ついてろ、俺の知った事では無い。俺はおじいさんの隣を素通りし出入口に向かう。
「じゃーな水瀬、今度こそ仕事頑張れよ」
「まって小依くん!」
「まだ何か……?」
「エプロンは脱いでってね。それ備品だから」
「あっ、たしかに」
そういえば脱ぎ忘れていた。店の備品を持ち帰る所だった、危ない危ない。
「ふむ。もう二人は同衾は済ませたのか?」
「はい? ……ドウキンって何だ、水瀬」
「さあ?」
よく分からない言葉に二人して顔を見合わせると、おじいさんは笑ってなんか昔話を初めた。何故。
その後もよく分からない昔の言葉っぽい単語をドンドン出して俺と水瀬の会話に混ざって入り、自然と話し続けてしまった。
意外と水瀬とおじいさんと話すのが楽しくていつの間にか21時をとっくに超えていた。
夜だから一人で帰すのは危ないと水瀬は言い出し、いいって言ってるのに無理やりマンションの下まで着いてきた。
おじいさんはあの本屋の店長らしく、水瀬を引き取った親戚の父親に当たるらしい。身内かいって突っ込んでしまったよ。
「本当に良かったのに……お前の帰りが遅くなっちゃったじゃん。大丈夫なん? 地元着く頃にゃ相当遅くなってるでしょ」
「僕は大丈夫だよ、学生寮だし」
「じいさんの所に住んでる訳じゃないのか。……てか寮って門限あるだろ。100パーアウトじゃね?」
「バイトの申請出してるから結構融通効くんだよ、だから僕はいい。でも小依くんは、夜は気をつけないとダメ!」
「おい女扱い。だからお前は俺に対して女扱いするのやめろっつってんの」
「女の子だからとかじゃないよ! 個人的に小依くんが心配だから言っているんだ」
「え?」
「小依くんには怖い思いしてほしくないの! それじゃあ僕行くからね」
「え、うん。……??」
怖い思いしてほしくないって、なんだそりゃ。そんなこと言われる程深い間柄じゃないだろ俺たち。
水瀬の言っている言葉にイマイチ実感が湧かないまま、俺はエントランスドアを開けエレベーター前で振り向く。
「またねー!」
ガラス越しだし全然声は通ってこなかったが、水瀬は俺に手を振りながらそう言っていた。相手に倣って一応こちらも小さく手を振る。
「またね、か」
水瀬に言われた言葉を反芻する。また会話する事が決定されているらしい、俺いつそんな仲良くなったんだよアイツと。
なんか、昔は話してると無性に腹が立ったのに今の水瀬とは話していても全然嫌悪感を感じなかった。つい先日のレイプ話を出されかけた時はつい瞬間的に怒ったが、ずっと精神が穏やかなまま長時間会話が終わるとは驚きだ。
「変なの」
エレベーターの中で一人呟いた。邪な目で人の事を見ずに対等に会話を交わしてくれた男と話すのは久しぶりだった。なんか新鮮な感じがして、どこかで『また話すのも良いかもしれない。今度はゆっくり』などと考えてしまったり。
……いや、無いな。折角女として改めての新生活を送ってるんだから、昔の知り合いとは縁を切るって決めただろ。同じ学校に居たとしてその方針は変わらない、俺は過去を知り得る人間に触れない事で黒歴史の拡散を阻止するのだ。
俺は自分の頬を手でパンパンと叩き、緩みきった頭をリセットした。




