蟻正と高速ダッシュ変質者
いつもと変わらぬ表情のまま、蟻正は車を走らせる。空には星の代わりに高層ビルの消えぬ灯りが無数に広がり、地下は相反して底知れぬ闇を抱いている。高速道路を走る蟻正の周囲には、昼間と変わりない量の車が行き来し、毒々しい色の広告が高速道路を彩っていた。
朝、隣にいた同乗者はいない。恐らく、いや「間違いなく」セツナはスラムで一夜を無事に明かすことができる、という確信はあった。だがそれ以上に、頭を冷やして考えるべきことが増えていた。
すなわち雪城セツナは超能力者なのか、という点だ。
そう思うに至った理由は幾つもある。まずはハイパーリム無しであの身体能力。強化外骨格であれだけの反応速度を出すのは難しい。さらに、自身の電脳知覚上にセツナの強化外骨格のネットワークは存在しなかった。つまり無線や脊髄との情報共有とは異なる、全く別の仕組みで強化外骨格を制御している可能性があった。
理由その2。トラックから叩き落された瞬間に、セツナは何かをしようとしていた。それは銃も電子機器も用いず、しかしあのハンマーメイズに致命傷を与えうるものであった。
蟻正は自身の手を見る。セツナを殴った腕。過去の記憶が蘇る。かつての不条理。続く地獄。治安維持部隊所有の監獄年にて浪費した少年時代。考えはまとまらない。殴ってしまった後悔と、セツナへの疑念と、そして今後どうするか。頭の中をぐるぐると思考が行き来し、まとまることはない。
それは行き先も同様であり、スラムに戻るわけでも、かといってBRIGADEのビルに行くわけにもいかず。結局同じ高速道路を延々と当てもなく走り続けていた。
数時間走行が続いたとき、端末から音が鳴り響く。ロック画面に表示される「天井を開けるのじゃ」という文字列。差出人を見て蟻正は素直に車の天井を解放した。
「おパンツダッシュ&着地!」
「もっとスピードを落とすのじゃイチロウ!」
それと共に、車のミラーに異常者が映る。パンツ一丁の変質者が、何故か高速道路をダッシュで駆け抜けていた。乗り物も使わず、革靴のみで走っている。なのに彼の姿はどんどんとこちらに近づいてくる。足の動きは目で負える程度なのに、一回足を踏み出すだけで数メートルを軽く移動する姿は本当に異常そのものだ。生身のパンツ野郎の背中には、空音隊長が背負われているようであり、時たま悲鳴が響いている。
「ひょいっと」
そんな気軽な声と共に、時速80kmを超える車体にイチロウは平然と追いつく。周囲の車からのぎょっとした視線もなんのその、イチロウと空音はいともたやすく天井から車内にどすりと入ってきた。彼らは当然と言わんばかりに後部座席に座り、一息つく。
通常の人間が出せる身体能力ではない。いや、異常な人間でもありえない速度である。だが、それについては意図的に触れず、蟻正は謝罪の言葉を紡いだ。
「申し訳ありませんでした。私が未熟でした」
「相手が違うじゃろ? お主なら上手くやっていけると思ったのじゃが、見当違いじゃったか?」
空音は風でぼさぼさになった髪を整えながら蟻正を睨む。運転を続けながら蟻正は無言で俯いた。蟻正も事情は概ね察している。上級個体がパブで現れたのは、二人を監視するためであった。あれ以降、視界や電脳世界上では捉えられてはいなかったが、何らかの手段で蟻正たちは監視されていた。考えてから喋るのではなく、喋りながら考えているといった様相で、蟻正は喋り始めた。
「……仲間が皆殺しにされたことを思いまして。スラムから出た後、治安維持部隊の下請けをしていた時の話です。仲間の一人が、見張りの仕事をさぼったその時に」
「その事件でお主は死刑囚になったのじゃったな」
「はい、トラウマです。ですが、」
そこで言葉を区切る。過去に何があったとしても今の蟻正はBRIGADEの一員である。故に次にするべきことは、
「明朝、謝罪しに向かいます」
「今日ではないのじゃな」
「まだ頭が冷めていません。中途半端なまま謝罪しても、新入社員の信頼は取り戻せないと判断しました。それに、言葉だけではなく行動で示す必要もあります」
「そうじゃ。お主は今、初日に新人を殴りつけるパワハラ屑ゴミカス上司じゃ」
「……そうですね。だからこそ、正しくあるべきなのに」
「お、落ち込むな! そうじゃ、向こうの方は上級個体に監視してもらっておるから、心配せんでもよいぞ!」
空音の言葉を受けて蟻正が凄まじい勢いで落ち込む。いくらトラウマだとしても許されないことをしてしまった。自身の大きな失態を受け入れながら、一方で蟻正は疑問を持つ。
「雪城の方には行っていないのですか?」
当然と言えば当然であった。蟻正よりも心配すべきは新入社員の方である。だが、先ほどまで黙っていたイチロウが柔和な表情で返答する。
「経歴からすると問題ありませんよ、蟻正さん。それに、彼も自身と向き合う必要があります」
「?」
蟻正は意味が分からない、と頭をかく。全力を出さなかった、確かにやってはならないことではあるが、それ自体は「次回から気をつけます」で済ませればよい。仮に超能力者であるのならば、それ相応の対応をすれば良い。だから、セツナの方にそこまで考えるべきことがある、とはあまり思えなかったのだ。その問いに対してイチロウは、衝撃の答えを返す。
「だって本来彼は、ハンマーメイズを瞬殺できたはずですから」
勿論あの装備であるならばという前提付きですが、とイチロウは前置きする。蟻正と空音は驚きを隠せない。ありえないのだ。ECR2桁台を瞬殺するなど、目の前のイチロウくらいしかできない離れ業。魔法の如き、理外の実力だ。
「あと、パンツ一丁になる必要もありますね」と意味の分からない言葉を続ける。だが、イチロウは見た目はさておき「本物」だ。その目が間違っているとは蟻正には到底思えなかった。
パンツ一丁の変質者は薄い笑みを浮かべながら、「その期待の新人にも共有しておいてほしい情報です。何故、治安維持部隊が出てきたか判明しました」と語る。彼が取り出した紙の資料を見て、蟻正はようやく、何故彼らが直接赴いたかを理解した。
「社内に、『エデンの子供たち』の信者が複数います。彼らは兵器開発法令に違反する形で、徳川ネオインダストリー本社に隠れてあの兵器を開発していました。彼らの狙いは一つ、親会社である徳川ネオインダストリー本社からの離反です」
『PCP』
厳密にはこれもまた開発中の兵器である。これをさらに強化・複合する計画であったが、その前段階で徳川ネオインダストリー本社に嗅ぎつけられ、急遽脱出する形となった。




