表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

犯行中の悪戯

作者: 旗 元彦

 幽霊を見つけて気絶したのだ、と言っても誰も信じてはくれない。彼を愛する女は走る幽霊だし、走る幽霊はいまに彼を愛する女でもある。

 私がその幽霊を見たのはコテージに向かう途中だった。


 でも刑事と探偵は犯人を捕まえてくれた。

 現実に捕まった犯人は、

 私の犯人像とはまったく違っていた。

 もちろん、走る幽霊が真犯人だ。


 山荘のざらついた木材が私の手の感触の始まりにある。一九九八年、秋、私はつきあって三年半になる相田克己と、S県のある山の麓辺りに建つコテージで二泊しました。創作料理と山間のコテージでの宿泊という魅力的な旅行で、一万七千八百円で良いプランだった。料理は計五回、一日目の昼、夜。二日目の朝昼晩。あの当時の二人分でこれなら得してる。やってきた台風も初日に遭遇しただけですぐに去って行った。

 料理を作ってくれるコテージの旦那さんは、元ホテルの料理長でS県では結構有名な人だった。奥さんは細身で渋くオシャレをする声の大きい方です。のどの奥まで開いているようななんて声でしょう! 

 で、コテージには昼前に到着するように克己はジムニーを運転してくれて。小さな賢いジムニーはちょっとした坂道の林道に入ってもぐいぐいと登っていけた。狭いしダサイ車だったし、わたしはあんまり好きじゃない車だけど、克己と行く旅にはジムニーは必要不可欠なところがあった。ジムニーが行けないところには行かない。特別危ない道はほとんど行かないわけで、だからわたし達は行こうと思えばどこにだってジムニーと行けた。望むなら、ジムニーの車内をやりくりして車中泊だってなんとかできちゃった。

 克己とジムニーの天井を見上げながら、宿泊費を節約して美味しい料理を食べたこと、登山でちょっと辛かった石越えの場所、山の開けた場所で星座を眺めたものの、二人ともちっとも星座の正確な場所を知らないどころか、どれがどの星か実際に夜空を眺めると月以外はまったくわからないね、と笑ったこと。だけど星の輝きの違いだけは見逃さなかった。二人はアウトドアを楽しむのに、上空の星座を知らない即席麺さんだったのだ。あ、そういえばこの旅は、カローラからジムニーに買い換えたばかりのときだっけ。

 普段はそれなのに、わたし達は豪勢に気持ちの良いベッドを備えた宿に泊まることになった。

 克己が助教授になったお祝い。

「克己、おめでとう、次は教授だね!」 

「せいぜい研究するかな」

「またー、自信くらいあるんでしょ? 優れた栄養がつくように健康な食事を与えてあげようじゃないか。イタリアンの研究をしておいてあげるさ」

「お、ボンゴレ、楽しみだなあ」



 最終日のあのとき。

 眠る前に、私はコテージで若いカップルに悪戯をしたことを思い出してしまう。確かに私は山田夫妻の評判を落とすわけにはいかなかった。とっさにそこの奥さんの振りをした。「主人が腕を骨折して今日はお休みにしたんです」と言ったのだ。そうなんですか! 残念だね。楽しみにしてたのに。あっちのほうに別の山荘があるからさ由美行こうよ。わ、行きたい。じゃあ、ごめんなさいね、次にまた来ます。ええ。人の良いカップルは別れ際に「お大事に」と言って立ち去ってくれた。それを奥で克己が見ていた。

「うまいもんだな」

 この人の声には私への賛辞と尊敬の響きがある。

「スカーフをつけるとおかみさんが完成するよ。じゃあちょっと町の病院まで頼まれた服を持ってくから」

「うん。お使い終わったら電話して。ヒロミさんがこちらで食事するなら私が夕飯つくるから」

「わかった」

 私達は抱き合ってキスをした。

 彼の車を見送って鼻歌を木に反射させて、私は掃除用具入れを漁った。コテージの周囲を軽く掃くのに抜群な箒を拝借する。

 玄関のドアを開けるところだった。

 私はヒロミさんと違ってスカーフを持っていない。

 そんなの荷物にない。

 彼はヒロミさんのスカーフを考えていたんだ。

 なるほど、と私は思った。

 手に握っていた箒が床に落ちた。

 ねえ、光江、あなたが首に巻いたハンカチを、彼がスカーフと勘違いしてたとしたら?

「でもどこで?」

 え?

 バカ。幽霊を見たときでしょ。

 信じられない。

「克己の荷物……」 

 もしかしたら、ボストンバッグ、車のトランク。血の着いたダウンジャケットが入っていたら?

 息苦しくなってくる。

 巨大な松のテーブルに手をつく。

 小さく悲鳴をあげる。

 違う。

「幽霊……、わたし、幽霊を見たんだわ! あのとき、本当に居たんだ! 居た! 居た!」

 そこで、

 コテージのガラス張りの扉の前に立ち、こちらを覗く幽霊の顔を見つけた。

 男の幽霊は窓ガラスに両手の手の平をくっつけてじっとわたしを凝視する。

 そこで記憶はなくなっている。

 二度目の気絶をしたのだ。



「えーと、せんばじゅお、さん?」

「そうです。たけなかせんばじゅお。面白い名前でしょ? ブラジル辺りで日系になった人にちなんだ名前なんです。そのお爺さんはとっくに死んでますけどね」

 探偵、竹中千羽重緒は皿のピーナッツを一つ一つ箸で的確に摘み食べていた。コテージ前に止めたパトカーの若い警官と話していた刑事が戻ってきた。三橋刑事は腹だけ飛び出した体をのろのろとモデル歩きさせるように歩いてくると、センバジュオのピーナッツを指でつまんでもぐもぐした。

「竹中君、避難小屋で起きた殺人事件のタレコミをしたいって奴がいるらしい」

「それは吉報ですね」

「なにが吉報だ」

 皿を両手に持ってキッチンから野内三郎が不機嫌なやさしさでテーブルに素早く料理を置いた。

「二人して高木さんに事件の話を隠さず喋って、高木さんが事件に巻き込まれたらどうするだ」

「サブロー、高木さんじゃないよ、光江さんだよ」

「お前、下の名前なんかで呼んだりして、相変わらず女性には馴れ馴れしいぜ、こいつ」

「安心だよ」刑事はさっそく大きな手でからあげを獲得して口にする。「報道でこの事件を知ってる人間は一億人はいるんだ」

「私は別にかまいませんよ」

「高木さん、でも。三橋刑事、現場近くでしょう。深い情報を聞いたら危ないでしょう、犯人はまだ捕まってないんだし。ああ、いまフォークと皿を持ってきます」

「そうだ、そうだ。マヌケな初動捜査は誰の責任ですか」

 からあげを食べきるまで喋るのが惜しいのか、三橋刑事は小学生みたいにぷいと横を向いて口を動かしていた。

「あれはね、最初の通報じゃあ傷害事件って話だったんでね。それが行ってみたら避難小屋で刺殺体があるじゃないか。そしてそこへ向かう途中、小屋を脱出した、隣の県で誘拐されていた弘子ちゃんを発見ってわけさ。これはね、同時に誘拐犯達が捕まらなくても大手柄だよ」

「すでに誘拐を諦めて逃走していた誘拐犯グループをじっくり料理できる。そこはラッキーです。もちろん、改めて強調するまでもない、当然の残業ってわけですが。しかし、タレコミをした男は誰だったんですかね。その男、まだ生きていればいいんですが」

「センバジュオさんなにか言いたそうですね。もしかしたら誘拐犯を同時に捕まえるチャンスがあったんですか」と私は訊ねた。

 センバジュオはわたしにウィンクをした。背の高い長身を用いて繰り出されただけはあって情熱的ではあった。でもハンサムだけど野性的な風貌だからあんまりそんな仕草は似合わないところがあった。ピーナッツをわざわざ箸で食べちゃってアホなんだろうな、このひと。

「そのとおりなんですよ。光江さん、おそらく誘拐犯達にとって、警察が来たのも仲間が死んだのも突然のことだったんです」

「そりゃどうして」

 三橋刑事はサブローが持ってきた皿とフォークを抜け目なく最初に頂く。すぐに、刑事のフォークはあさりのスパゲティに伸びる。

「高木さんもどうぞ」

「ありがとう」

 初日に頂いたのとは落ちるがどれもなかなかにうまい。

「サブローさん料理上手ですね」

「竹中君、で、どうしたんだい」

「あのね、三橋刑事、僕にも料理を食べる時間をくださいよ」

「セン、お前のはこっちの皿だ。とうがらし抜き」

「助かるよ、僕は辛いの苦手なんです。サブローはほんといい亭主になれるんで、どうです光江さん?」

「やめろよ。高木さんには親父さんとヒロミさんを病院に送ってあげてる旦那が居るんだから」

 私達は初日を五人で楽しく過ごした。コテージの夫婦、私と克己、サブロー。

 二日目の朝、警察がこの山の避難小屋付近で誘拐された弘子ちゃんを発見、無事に保護された。警察は同時に誘拐犯グループの仲間と思われる男性の遺体を避難小屋で発見していた。

「三橋刑事」 

 玄関ドアを開けた若い警官は緊張した手つきでドアノブを握っていた。

「どうした」三橋刑事はスパゲティを啜った。

「無線連絡です。そのX教授が脱獄しました、それで」

「あいつめ! 逃げてもどうにもならんだろうに、それで?」

「三橋刑事の奥様が都内で殺されました」

 三橋刑事の態度は落ち着いていた。ずっと前から妻の死を予告されていたように、若い警官に車に戻って待っていてくれと頼んだ。刑事は黙々と大量のからあげを噛んだせいで額に汗が浮いていた。

 コテージの居間では静かに食事をする音が、新時代の音楽のようにコツコツと流れている。

 センバジュオは部外者の私が居ても遠慮なく胸の内を吐き出した。

「やっぱりX教授を見殺しにするべきでした」

 サブローは悲しい顔で相棒を睨んだ。非難の表情だった。

「三人で決めたことなんだ」と三橋刑事は言った。

「ええ、二対一で、刑事とサブローが救助しようってね。僕は自分を恨んでますよ。実はあのとき、刑事とサブローの話し合いで決める前に、僕にはX教授を見殺しにする絶好の機会があったのに。バカでしたよ」

 センバジュオがテレビをつけるとすでにX教授の脱獄はニュースになっていた。顔写真には頭の禿げた精悍な黒い肌の中年男性が映っていた。身長は百九十センチ以上、剣道、柔道の経験者。趣味はスキューバダイビング。一級船舶免許所有。わたしはX教授をなかなかの美男子と思った。すぐに犯罪暦の話になる。バラバラ事件、弁護士のコメンテーターは口を濁していたけれど人間を食べたような言い回しをしてしまい、慌ててキャスターが遮った。食人など放送にはふさわしくない時代になってきたのだ。

「裁判なんて解決にはなりませんよ」

「竹中君、君は探偵だぞ」

「僕が推理するのは犯人を捕まえるためじゃないんですよ刑事。殺してやりたいと思った凶悪犯人を私刑にかけるためなんです。世の中にとってはそれもいいんです。もとより探偵なんて曖昧な立場ですしね」

「セン、俺がそんなことはさせないぞ」 

 センバジュオは両手を振り回して黙った。

「X教授と対決したときから覚悟はしていたよ」三橋刑事はテーブルに巨大な尻を乗せると俯いた。「妻にも十分気をつけろとは言っておいた。ヤツを捕まえる必要があるな……、たぶん我々の前に再び現れるだろう。もういちど裁判にかけて箱に入れる。二人とも賛成してくれるね?」

 センバジュオはサブローに向かって叫んだ。

「僕を慰めてくれる、かわいい女の子を用意して欲しい気分だよ!」

 サブローは薄い唇を引っ張って笑った。

「俺は刑事に賛成」

「ありがとう、サブロー君」

「わかりました。あなたのために祈りますよ……。神様が、僕に、X教授の命の如何を選択する機会を、再び与えたないように」

 センバジュオは顔を片手で覆うと泣いた。



 三橋刑事はサブローと一緒に奥さんの元に戻ってしまう。私はワトソン役を仰せつかったわけだ。手始めとしてセンバジュオの手伝いを断って台所仕事を終わらせてみた。うん、ばっちり、タオルも清潔だ。そうだ、洗い物があるかあとで見てみよう。プライバシーを覗く余計なお世話かもしれないけど、たまってたらたまってたでヒロミさんが大変だ。良い天気のうちに洗わないと、夫妻の予備の着替えもそんなにないかもしれないし。さもないと室内干しの臭いで溢れたコテージの部屋を出現させる。わたしは家でしかたなく室内干しをするときを思い出して数回頭を横に振った。

「センバジュオさん、さっきの話ですけど」

「ああ、心配ありませんよ。X教授は光江さんを狙ったりする余裕はありません。きっと数年は姿を隠してますよ」

「いえ、そっちじゃなくて」

「ふむ」

「凶悪犯を憎いと殺すんですよね。でも反対に凶悪犯を好きになったらどうするんですか?」

「そうですね……」

 センバジュオは食卓椅子に脚を組んで座っていた。宙に浮かんだつま先をぶらぶらと揺らしリズムよく考えようとしている。揺れるつま先は彼の孤独みたいだ。私はこう考えて意外さに気がついた。センには友人がいるじゃない! でもつま先はあんなに精密に動くモノだろうか。

「セン、さびしかったら言ってね」と私は言った。

「ありがとう光江さん。でもそんなわけじゃないんですよ。X教授を愛することを考えていたんです。たぶん彼一人を救えたなら、世界中のひとを救えるようなことが起きるのかもしれない、って空想してたんです。僕には辛い空想です。だって彼の生存のありようが人類救済に少しは関わっているかもしれないなんて」

「ロマンチックな空想ね」

「ええ、そうですよ、馬鹿げてます」

 センは私の言葉に多量の軽蔑の響きを感じて自分自身でその考えを貶した。私はというと自分の凡庸な意見に驚いていた。まるでこの世界に生きていないみたいな言葉だった! 

「私、先に帰りたいかな」

「ゆっくりしたらどうです? X教授も誘拐犯も近くにはいませんよ」

 どうして馬鹿げているといえるのだろう、理由を求めてもやってきそうになかった。代わりに、走る幽霊が私の脳に住んだX教授の胸をナイフで突き刺して殺してしまう。X教授なんて精神異常者は怖くないんだわ。

「下の商店街でも見て帰るわ」

「どうしたんです? 事件は解決しますし、ゆっくりしましょう。克己さんやここのご夫婦だって戻ってきますしね。僕は僕の気に入った人たちと……、ちょっと騒ぎたいんですよ。きわめて感傷的ですけど」

 だってただの中年男じゃない。夜の野球場の試合で、レフトを守って、捕球をやりそこなってエラーをした野球選手のほうがずっと強いわ。こうしてX教授を考えると人を殺しただけの人、その不気味さ、ホラー染みた雰囲気は全部精巧な想像上のことなんだ。きっとバッタが人を殺したらわたし怖いって思うわ、でも怖いバッタを足で潰すのは簡単。

「ううん、帰るの。克己の車を運転して駅に置いて、商店街を覗いて、それで、電車で帰るわ」

「無責任じゃないですか? 克己さんと奥さんを待つくらい。ご主人だって無理すれば数日の入院なんてせずに帰ってこられるでしょうしね。表のジムニーだって駅に置かれちゃあ。克己さんが歩いて行くか、誰かに送ってもらうかしないと駅にいくまで難儀ですよ」

「センは車じゃないの?」

「僕が送るんですか? それもいいですけど。僕はサブローの車で来ましたから。もともと帰りは登山がてら歩いて下山して電車で帰る予定でした」

 けどバッタの想像を潰したら死ぬのは私自身かもしれない。

「歩きか」

 私が残念そうに言うとセンは笑顔になった。

「わかりました。僕がタクシーを呼びましょう。で、ここで待たせます。光江さんはそれに乗ってください。みんなには僕から言っておきますよ」

「ありがとう! 書置きかいておくから克己に渡して」

 センは私がメモに筆を走らせるのを隣で見守り書置きを受け取ってくれた。

「タクシー代くらい僕に出させてください。なんだか刑事の件で変なことになってしまいましたから」

「いいえ、そういったことで帰るんじゃないのに」

「いえ、さっき彼らを見送ったときに、光江さんにお詫びをしておくように頼まれてもいるんですよ」



 帰宅中。

 センの用意してくれたタクシーはのろのろと道を進んだ。私はそんな鈍行で送ってほしかったから気持ちとぴったりはまった。どうせタダだし、お金を出していても、このタクシーが道を間違えてわき道に入って右折左折しようと楽しめた。

 タクシーのラジオに誘拐事件の状況が放送されている。

 ―台風のなかの七月三日、避難小屋に隠れた誘拐犯達は山田弘子さんの両親に身代金を要求。三人とみられる犯行グループのうち、一人が避難小屋に残っているあいだに、犯行犯達は身代金を約束の鉄橋の下で受け取りに出発。その際に、避難小屋で犯行犯と思われるUさんが刃物により殺害される。殺人時、弘子さんは拘束されて二階で一階の物音を聞いていた。一階から「助かったわよ」という女性の声を聞き、一階に降りるとUは死んでおり、避難小屋のドアが開いていた。弘子さんが避難小屋を出ると、同時期、近隣の神尾山で遭難救助に出ていた捜索隊の車に出会い救助された。その一報を聞いた弘子ちゃん身代金誘拐事件の捜査本部は、身代金の受け渡しを済ませた前後に犯人達を取り逃がしていた。五十人ほどの警官で鉄橋付近の街道に張り込んだ末の逮捕失敗となった。犯人達は現場の地理に詳しい地元の人間とみられている。

「女の子が無事でよかったですよ」と運転手は言った。  

 私の口は応えなかった。誘拐されて汚れていない無事な女の子なんているとは思えなったからだ。

 私は商店街を歩いた。観光用に近代的にデザインされた建物と旧来の西洋風日本家屋と古い日本家屋があった。私は、ラジカセにモーツァルトのピアノソナタを流させるクレープ屋に出会った。クレープはそんな感じがするわけだし、そうなって欲しいし、決してクレープ屋のおじさんがが自己に高望みをしているわけではない。ならどうしてこんなクレープみたいな小麦の生地に、甘い物を包むのか私には面白く思えた。幽霊がこのクレープに挟まれたら滑稽だろうな。まさかクレープ屋のおじさんが幽霊ではあるまい、私は偉人に生えた髭のように幽霊をおもしろく背負い投げる。そして私はもしかしたら鳩の糞尿まみれの世界を幽霊と同時に眺めるのかもしれない。走る幽霊が弾丸のように運動して宗教的な聖人像の頭部を割ったのだ。石膏が地面に散らばる。それだけでなく石膏に隠されていた幽霊となっていた魂も死ぬ。石膏のかけらはずいぶんと鳥の糞に似ている。

 私はクレープを買っていた。

「会えてよかったです」

 泣き虫なセンの声がした。

「センさんどうしたの?」

「いえ、あのあと、また三橋刑事絡みで用事ができたんです。X教授の自殺死体がダムで見つかったらしいんですが、偽者とわかってるのに行かなきゃ行けないんです。彼が本当にそうした可能性は捨て切れませんし。留守は急遽知り合いに任せたんです。病院に居る本人達にも、克己さんにも光江さんのことは連絡しておきました。彼、笑ってましたよ。ああ、この子は愛ちゃん、さっき仲良くなったんですよ。ヒロミさん達のコテージに配達をしてくれる肉屋さんの娘さんです」

 弘子ちゃんだ!

 この子は弘子ちゃんだ、でもどうして?

 直観がくれることを私は落ち着いて両手で掬った。

 ご丁寧に、弘子ちゃんは地元の有名な小学校の制服を着ていた。

「なんだか驚かないわ。センが残るって言ってなかったし」

「ええ、そういえばそうですね。探偵にしては、僕、ダメですね。あなたに材料を渡せておけばよかったのに」

「充分だわ」

「こんにちは」と弘子ちゃんは言った。

 センは弘子ちゃんに訊ねることがあるのだろう。

 弘子ちゃんは魅入るように私の声と顔に注目している。二人の探偵の推理は、子どもの無邪気さそのものとまるで見分けがつかない。片方は確かに子どもなのに。

 私は、弘子ちゃんを本物の愛ちゃんか探りをいれるなんて嫌だった。私と弘子ちゃんには親密な類似があるのだから。そして私は鳥の糞の上空を走り回るクレープ屋の前で、クレープを手に持ったまま、もう二度とここに戻ってこれない、と感じた。あの走る幽霊すら、もう幽霊と考えることはないだろう。

「わたし、愛ちゃんに会ったことがあるわ、あの山で会ったわよね」

 センは注意深くわたしの言葉に傾聴する。

 愛ちゃんはかわいい頭部と首を振る。

「それなら姿や形だけで出会ったんじゃないかしら? わたしは愛ちゃんの声だけを聞いたかもしれないわ。たぶん、愛ちゃんの声を聞いて、愛ちゃんそのものを知ったのかも。愛ちゃんもきっとそうじゃない?」

「知らない」と愛ちゃんは言った。

「あの山で走る幽霊に出会ったわ。その幽霊が山で男を殺したのよ、センさん」

「そうかもしれません」センは目の縁に涙を溜めていた。「でも、もう犯人の一人は捕まったんです。一時間くらい前ですよ。まだテレビの報道でもやってませんけど。そいつが山での殺しも自供したそうです。留守をしてもらった若い警官さんに教えてもらったんですよ、これ」

「そう、絶対にそのひとは犯人じゃないわ。センさん、あなたの推理はどうなってるの?」

 わたしの勢いに怯えてしまい、愛ちゃんはセンのズボンの膝辺りを握っている。

「光江さんにはそんなことを訊いて欲しくなかった」

「なんでよ?」

「僕には推理できても、探偵でいられないときがあるんです」

 わたしは叫んだ。

「はっきりいって!」

「僕はあなたを愛してしまっているようなんです」

「えっ、馬鹿げたことじゃないの! あなたは探偵なのよ! この世界であなたの推理を待っている罪人達の群れがあなたには見えないの? 無念の人たちなんて、探偵がなにもしなくてもとっくに成仏してるじゃない。あなたわたしが質問したことを覚えてるの?」

「少なくとも光江さんは凶悪犯ではありませんよ。それか避難小屋で殺人をやった犯人でもありません」

「本当は探偵じゃないくせに何を言ってるの!」

「幽霊なんていませんし、僕はあなたの彼氏の克己さんを疑ってもいます。僕にも質問をさせてください。克己さんは一連の事件の犯人じゃないんですか? 僕には克己さんが殺したのか、それとも本当の克己さんが殺されたのか、まったく推理できない。書類上は、あなたの彼氏は、克己なんて名前じゃないんですから……。いったい、あなたはどちらと一緒だったんですか? ひょっとすると克己さんは死体になったほうかもしれませんよ」

「わたしは克己とずっと一緒にいるのよ!」

「それなら僕が推理することはありません。ともかくその克己さんとやらはあなたのおかげで助かってるんです。それに克己さんみたいな存在は二人もいりませんよね。さようなら、光江さん、握手してもらえませんか? 僕、とてもあなたと握手したいんです」

「嫌よ。探偵さん、助かったばかりの弘子ちゃんを家に帰したらどうなの」

「はい、光江さん。この子は確かに弘子ちゃんです」

「あなたには失望したわ」

「僕もそう思ってますよ。だって犯人の自白ができあがって、すべて解決してしまったんですからね。誘拐犯の隠れ家を推理して犯人を捕まえたら、避難小屋の殺人も自白したんですから、ここの警察の手際の良さには探偵の僕も驚きました」

「わたし、この近くのホテルにサブローさんが潜んでいても驚かない自信がある」

「サブローはさっき一足早めに三橋刑事を追って電車に乗りましたよ。僕も次の電車に乗ります。光江さんも乗るんでしょう」 

「ええ、たぶん。克己が駅でわたしを待ってなければね」

「ジムニーならひとりで待ってましたよ。僕は祈りますよ、あなたが殺人をしていないという推理が真実であることを願って、それでは」

 弘子ちゃんは大人になったような顔で、わたし達を眺めることをやめてしまい、クレープ屋のほうに顔をやっていた。

「二人ともさよなら。楽しかったわ、妖精探偵さん」

「僕のあだ名、知ってたんですね」

 わたし達は握手をして別れた。



 宿泊初日。

 幽霊騒動で疲れきったわたしと克己がコテージに辿り着くと、ヒロミさんは背中に、さきほどオーブンで焼き上げたばかりの、チキンの丸焼きの匂いを漂わせて出迎えてくれた。彼女に握手を求められると、私達は吸い寄せられるように上下に手を動かした。奥さんの人肌のあたたかさは、半時前の、幽霊の影が薄れさせるようにあたたかい。

 幽霊騒動なんてのはたいしたことがないことだ。

 コテージに着く前の道筋。

 克己が野糞をしたいといって、ジムニーを二股の道で停車させたときのことだ。分岐点に設けられた指示のための木の板を見ると、右は避難小屋、左は登山道だった。克己は登山道の方角の林に歩いていった。ちょうど辺りは斜面になっていて、トイレットペーパーを芯ごと持って歩く克己の姿は林のなかに消えていく。台風の影響が残り強風がまだ吹いてきている。雨粒が落ちないのが不思議なくらいの天候だ。

 強風が山間を通るにたびに耳を澄ましていると男の幽霊が避難小屋への道を登るところを目撃した。

 私は好奇心に釣られて外に出た。

 幽霊は楽しいことでもしてるのかもしれない。幽霊の姿があまりにも親しいものだったために、恐ろしさはあまりない。ジムニーの鍵を上着のポケットに押し込んで、車の戸締りをして私は幽霊を追い始める。風は十五メートルはありそうだった。髪が乱れないようにフードを被り、ポリエステルとナイロンでできたジャケットの襟をぴんと上に張らせる。

それでも風は強く、私は身体ごと嵐の回転する渦巻くような曇り空に、針金を通した肉が焚き火に掲げられていくみたいに上手に吸い込まれそうだ。

 こんなことは、避難小屋に登る煙を見たからだ。

 男の幽霊は避難小屋の様子を窺うように辺りをうろついている。

 幽霊はドアをノックする。

 木材でできた、ってふうな荒っぽい触りのあるドアに触れる。

 後ろを振り向いた幽霊の顔は、私に男の幽霊の素性を教えた。

 克己ではない!

 私は男の幽霊を内心は克己だと思っていたのに、それは間違いで、幽霊は犯罪者の顔をしている。そして男の幽霊は、手袋をすると、トイレットペーパーの芯にナイフを通した。柄の部分を慎重に持ち、芯から突き出た刃先をした手で覆って隠す。まるでトイレットペーパーを用を足した客から受け取った山岳ガイドのようだ。

 ドアが開いたとき、

 ジムニーの助手席に座っていた。

 避難小屋のドアが開いたとき以降の私の記憶は失われている。

 闘わなければいけないのに、一度目の気絶をしたのだ。

 それで私は帰ってきた克己に幽霊が出たと騒いだ。

 不安でたまらなかったのだ。

 克己は彼女がいま生まれたんだ、ってくらいにとてもやさしくしてくれる。

 トイレットペーパーのことは訊ねたりしない。

 自分の従順さに満足を覚えて恍惚となる。 

 たしかに私の肉体は、まるで母親に出産されたばかりみたいに濡れている。

 傍の男も濡れている。

 克己、どこにいったんだろう。



エピローグ

 

 コテージに向かう道中にて。

 わたしはこの出来事を十二年後、思い出した。

 もうひとつのこと。


 ついにジムニー後部座席の下に血のついたダウンジャケットと刃物を見つけてしまった。幽霊さんを驚かせなくちゃ! 表面に血のついたジャケットを裏返しにすると刃物を包んで防寒具を丸めた。あはは、びっくりするだろうなあ。嬉しいな、こんなことして幽霊はあたしと交信してくれるんだ?

 次はどんなことをするんだろう。

 幽霊はカギの閉まったジムニーに入ってこれる。

 あたしは幽霊の証拠品を自分の使い古しの旅行カバンに仕舞い込んだ。 

 男の幽霊はあたしを強風のなか、見詰めていた。

 幽霊がまばたきをするところをばっちり目撃しちゃう。

 ああ。

 幽霊は全速力で走り出した。

 その前傾姿勢はまるで狩以外の目的を秘めた狼みたいだ。

 ジムニーの扉を乱暴に開けるとあたしは外に飛び出す。

 戻ってきて! 戻ってきて!

 あたしを置いて行かないで!

 ここはとても嫌!

 不潔で横柄なおじさんとおばさんの監督人達がみんなを突付いたり叩いたりしてる。整列、整列、こいつは仲間はずれ、おしおき、御褒美、できの悪い。そのみんなといっても、臭っただんごみたいな鼻をした親なしの子ども達ばかりだけど! あたしだって臭い。倉庫みたいな押入れみたいな場所に押し込められてお漏らしをしてしまった。しかも両方。あたしは全身が青ざめたように体温を失って、汚い赤いTシャツを脱いで上半身裸、床の小便をTシャツで必死に拭いていく。

 よかった!

 あたしのうんこだけは床に落ちなかったんだ!

 坂道を登るとあたしは叫んだ。

 ひょっとすると号泣していたのかも。

 でも大丈夫。

 幽霊はあたしに気づいてくれた。

 あたしはもう抱きしめられてる。

 男の血が目の前で流れている。

 外では風がビュウビュウと音を立てて暴れている。


 二人の幽霊の声が聞こえる。

 大丈夫、大丈夫。

 悲しいことなんて起こらないんだよ……

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ