幕間D
1
その瞳を見て今江はすぐに諦めた。
今江にとって刑事の仕事とは、ひとと会うことに尽きるものだった。被害者がでる。証言を聞く。犯人を追いかける。ひと。ひと。ひとばかり。ひとに始まり、ひとに終わる。それが捜査第一課の刑事の仕事だ。毎年大晦日を迎えるたびに、果たしてこの一年で何人と言葉を交わしたのかと考える。
数えきれないほどのひととの出会い。そんな出会いの中に、時おり彼女のような瞳の持ち主に出会う。形容する言葉を当てはめるのは難しい。『鋭い』。違う。『深い』。違う。『えげつない』。少し違う。
強いていうならば『物質』だ。人間はひとの眼を見て会話をする。ひとの眼を見て相手を読む。相手の眼に人間性を認める。だが彼女の瞳には人間性が無い。ただの物質。物質として並ぶ二つの眼球。
物質なる瞳は眼前の事象をあるがままに観察する。すなわち、この瞳の前に虚偽は意味をなさない。
だから今江は諦めた。その瞳を見て、今江は嘘をつくことを諦めた。
「実はわたし、警視庁のものなんです」
カウンターの反対側に立つ初老の女性は、『物質』の瞳で今江を見つめている。
「なにそれ。自慢?」
女性は笑ってみせた。瞳と相反して、口調と顔つきはやわらかい。客商売を務めるのだから当然だ。
濃紅の着物。帯は純白。その帯にあわせたのか、ウェーブのかかった髪に白い菊飾りをあてている。
『物質』の瞳の持ち主は嘘を見抜いても告発しない。嘘を嘘のまま泳がせ、自在に会話を操ってみせる。一方で嘘をついたこちら側は、『嘘』という重い仮面を顔にはりつけながら相手に挑まなければならない。ハンデが大きすぎるのだ。
警察を自称すれば相手は警戒を覚える。だから今江は今日一日を九重愛の母親、九重恵の旧い知人と偽って過ごしてきた。きさらぎ荘の元大家である福田夫婦も、佐倉田教会の牧師である牧田も疑う様子はなかった。ここでも今江は九重恵の旧い友人を自称するつもりだった。しかしこの相手には通じない。今江は瞬時にそのことを見抜き、警察官であることを白状したのだ。
名古屋駅周辺の繁華街に位置するクラブ『グロリア』。ラテン語で『栄光』を意味する店名に何か思いがこめられているのかはわからない。店内はいたって普通のクラブだ。照明の少ないフロアに黒いソファーとガラスのテーブルが並んでいる。きらびやかなドレスをまとった若い女性が男性客とともにソファーに座り、会話と高級酒で場に花を咲かせていた。
店の奥には今江が座っているバーカウンターが伸びている。カウンターの横にはグランドピアノが一台置いてあり、若い男が『戦場のメリークリスマス』を奏でていた。
グロリアは二十歳になった九重愛が東京から名古屋に戻ってから働き始めたクラブだった。ここで愛は父親を名乗る鳥羽鉄也に出会い、彼女の運命は大きく行き先を変えたのだ。
桂から送られてきたデータにグロリアの情報が記載されていた。店内に入り、ボーイに『ママさんとおしゃべりしたい』と伝えると、今江はバーカウンターに案内された。
「とりあえず呑んで。なにか吞まなきゃ客じゃない。客じゃなければ話すこともない」
グラスを撫でながらママがいった。今江がジンリッキーを注文すると、ママは慣れた手つきでシェイカーをふり始めた。
トールグラスに注がれたジンリッキーが供される。ひと口だけ呑んで今江は重い息を吐いた。ママを前にして生まれた緊張感が炭酸と混じって溶けてしまったようだった。
「九重愛さんについて調べているんです。半年くらいここに務めていらした」
「うん。覚えているよ」
ママはマルボロを取りだして吸い始めた。淡い照明の光の下で紫煙が妖艶に踊りだす。
「愛のことをだらだら話しても仕方がないでしょ。そっちが聞きたいことをいって。こっちはそれに答えるから」
「愛さんはどうしてこちらのお店に」
「ミツミが連れてきた」
「ミツミさんとは」
「うちの従業員。いまはおつかいに出てるよ。ほんとはそこのボウヤに行かせたいんだけど、ピアノを弾く以外は何もできない子だから」
ママはグランドピアノを奏でる男性にタバコを向けた。『戦場のメリークリスマス』が終わり、次に『ピアノマン』を奏ではじめる。
「愛さんとミツミさんの関係は」
「しらない。友だちじゃないかな。そんな雰囲気だったよ」
「愛さんの印象は」
「とにかく大人しい。あそこまで無口な女の子は珍しいね。水商売にとってトークスキルは絶対。無口な女には向かない職業だ。だけどあの子はそんな欠点を補って余りある武器をもっていた」
「外見ですね」
「その通り」
ママは灰皿にタバコを押しつけた。
「顔はいいしスタイルもいい。パリコレから抜け出してきたんじゃないかと心底驚いたよ。喋らないなら喋らないで構わない。向こうからペラペラしゃべる客を担当させるなり、トークスキルに卓越した子を同席させるなり。うちの子はみんな優秀だからね。大事なのはグロリアに九重愛がいるという事実。この事実があればそれだけで客が寄ってくる」
会話の内容に反してママの口調は冷めていた。
「だけど……本当に愛さんは大人しい女性でしたか。大人しいだけの女性でしたか」
「なんだ。知ってるの。そうね。愛は気分屋なところがあった。基本的には無口なんだけど、たまに饒舌に話したり、この世の全てを恨んでるんじゃないかってぐらい暗く落ち込んでいる時もあった」
グラスを握る手が強くなる。今江はグラスの縁にかかったライムをしぼった。
「それは、大変ですね」
「大変じゃない。さっきもいったけど、うちの子は優秀なの。愛の気分がおかしいときは、それに合わせられる子を同席させた。愛がネガティブなことをいったら、それを笑いに昇華させて吹き飛ばす力をもった子を同席させる。そんな風にね」
「でも、他の従業員さんに負担がかかるわけでしょう。愛さんをクビにするつもりはなかったんですか」
「まさか。うちの看板娘になってもらうつもりだったくらいさ。従業員一同で愛をかわいがったよ。愛が来れば客が来る。客が来れば金が落ちる。金が落ちれば給料があがる。そのためにみんなで愛のサポートに必死になった」
「愛さんは、お店のみなさんに……」
「愛されていたよ。名前のとおりに」
無表情のままママはいう。『物質』の瞳でママはいう。抑揚のない声でママはいう。だからこその本心だ。愛は愛されていた。この店のみなに愛されていたに違いない。
「解離性同一性障害。愛さんは多重人格者だったんですよ」
他人の病状を勝手に口にすることが現代社会においてタブーであることを今江は理解している。理解していながらも今江は伝えた。ママには伝えるべきだと思った。何故なら、ママは愛にとって他人ではないはずだから。
「あっそ」
今江の意に反し、ママは小石を蹴飛ばすようにつぶやいた。
「驚かないんですか」
「別に。お店に被害はなかったし。どうでもいいわ」
ママはもう一本マルボロをくわえた。今江はカウンターに置かれたマッチをひと擦りで点けて差しだした。
「ありがと。あんたも吸う?」
今江はうなずきマルボロをもらった。タバコを吸うのは人生で二度目だった。高校生の時に遊び半分で吸ってその味に閉口した。その時金輪際タバコは吸わないと誓い、今もタバコにはいい印象を抱いていない。
それでも今江はマルボロを吸った。吸わなければいけないと確信していた。
「ある意味じゃ、わたしたちは誰もが多重人格者なんじゃないの」
ママはカウンターに肘をおいていった。
「クソみたいな上司にこびへつらいながら、善良な部下には大声をあげて罵倒する。アクション映画で人が派手に殺されるシーンを見て歓喜しながら、ヒューマンドラマで人が死ぬシーンを見て涙する。子どもには正義の尊さを唱えるのに、誰も見てなきゃ平気で不正を働く。『明日は魚を食べよう』と思っていたのに、今日になってみたら肉が食べたい。ねぇ、わたしたちは時間の中でいくつもの人間を演じている。あなたもそうでしょ。一定の人間なんていない。ひとは誰しも多重人格者なんじゃないの」
今江が口を開きかけたその時、店のドアが開き、ボーイが『おかえりなさい』といった。
真っ黒の野暮ったいロングコートを着た女性がビニール袋を両手にもって入ってきた。ハーフアップの金髪に足元はオレンジ色のハイヒール。ロングコートの下にはきらびやかなドレスを着ていることだろう。
「あれがミツミ。愛をこの店に連れてきた張本人」
ミツミはビニール袋をボーイに渡し、何か冗談をいわれたのか笑いながらボーイの肩を強くたたいた。
「話したければ、もういっぱいご注文を」
2
「愛ちゃんと初めて会った場所?」
ミツミは小皿に広げた柿の種から、ピーナッツだけをつまんでポリポリと食べている。面長の顔に一重のたれ目。決して器量がよいとはいえないが、快活なものいいと実直な性格が数分に満たない会話の中でひしひしと伝わってきた。
「小学校の教室ですよ。一年生の時に同じクラスになったんです。時々いっしょに遊ぶ仲だったかな」
「一年生の途中で東京に引っ越したのを覚えてる?」
今江がたずねる。傍らにはグランドピアノから奏でられる『ピアノマン』に触発されて注文したジントニックがあった。
「夏休みの途中に引っ越しちゃったんですよね。知らない間に東京に行っちゃって。お別れ会ができなかったってみんなでブーブー文句をいいましたよ」
「それで、去年のいつごろ愛さんと再会したの」
「四月です。岡崎城に遊びに行ってその帰りに名古屋駅に着いたら愛がナンパされていたんですよ。最初は愛だって気づかなかったんですけどね、ちょっと声をかけて助けてあげたら、なんと驚き。九重愛ちゃんじゃないって」
「小学校一年生以来に会ったんですよね。愛さんだってすぐにわかったんですか」
「わかりましたよぉ」
ミツミは焼酎の水割りでのどを潤した。
「子どものころと同じ美人さんでしたもん。もぅほんと。愛ってば子どもの頃からどえりゃー美人さんだったんですよ。そのあとお茶しながら愛の近況をきいたんです。一月にお母さんといっしょに東京から名古屋に戻ってきたんだけど、お母さんは病気で入院されてたの。愛はお母さんの治療費を稼ぐためにアルバイトをしていたけど、どの仕事も長く続かなくて困っているって」
「愛さんのお母さんの恋人は? その恋人が東京の本社に帰るから九重親子もいっしょに引っ越したと聞いたんだけど」
「引っ越してから二年後くらいに別れたそうです。その後も愛のお母さんは何人か東京で恋人をつくったけど、結婚はせず、結局二人だけで名古屋に帰ってきたんですって」
「それで、グロリアで働かないかと誘ったわけですか」
「うん。だって愛はすっごい綺麗だったし、うちのお店ならやっていけると思ったから。ホステスってとにかく離職率が高いんですよ。一か月続けばいい方で、一日で辞めちゃうって話も珍しくありません。でもそんなの普通の会社だったらありえない。ママも同じことを考えたの。ひとりを雇うために費やした時間とお金が無駄になるなんてイヤイヤイヤ。だからママは従業員ファーストでわたしたちが長く続けられるお店づくりを目指した。お給料と居心地がよければ誰だってそこで働き続けるでしょ? ママはお給料を相場よりも高くして、職場の輪を乱すようなひとは雇わなかった。うちのお店なら他のお店みたいに、愛を妬むようなホステスもいないし、むしろ愛目当ての客のおかげでお店にお金が落ちてくるって、みんなでよだれを垂らしたもんよ」
愛の仕事ぶりはママたちの期待通りだったらしい。客足は増え続け、お店の売り上げも上々。秋になったら半年に一度は壊れる空調を修理しようかと考えていた八月の中旬、鳥羽鉄也がグロリアに現れたのだ。
「鳥羽さんは取引先からの接待でうちのお店に来たの。見てくれは普通だけど、同席していた部下へのあたりが強かったから嫌なタイプの客だなと思ったよ」
ミツミは苦虫を噛みつぶしたような顔をした。
「さて誰が相手をしようか。愛はあぁいう説教好きのタイプには当てられないな……なんて考えてたら、鳥羽さん。急に愛を見てボロボロ泣きだしちゃったの」
「泣きだしたぁ?」
今江は石目のフロアタイルを見渡した。このどこかに鳥羽何某の熱い涙がしみ込んでいるというのか。
「愛ってお母さんにうり二つだったみたい。愛の年齢も確認して、生まれた時から片親だってことも聞いたらさらに泣き出しちゃって。間違いない。この子はわたしの娘だって、もういい歳をした大人がギャン泣きよ」
「仮に自分が父親だと確信したところで、そんな簡単に相手にいう? 愛さんがショックを受けるとか考えないのかしら」
「あの手のタイプの人は、他人の気持ちなんて考えないんですから」
ミツミはグラスに半分以上残った水割りをひと口で飲み干した。けろりとした表情で次の一杯をつくり始める。
「それに愛は平然としていましたよ。無感情な性格が吉とでましたね。後になってあの時のことを本人に聞いても『不思議な感じだね』っていうだけ」
「鳥羽さんは愛さんのお母さまにお会いになったのかしら」
「なってません。愛のお母さん、去年の五月に亡くなりましたから」
グロリアで働き始めたばかりで、愛には葬式をあげる余裕はなかった。それでも愛の母は色とりどりの花と共に棺桶に横たわり、立派な葬式で弔われた。その費用を用意したのはグロリアのママだった。ママ曰く『愛に貸しをつくって店を辞めさせないため』だったらしい。あくまでも、ママ曰く。
「そのあとは愛と鳥羽さん、何度かお店の外で会って、お母さんのお墓参りにも一緒に行って、結局、十二月に父親と暮らすために東京に引っ越したんです」
シュンと枯れた花のようにちぢこまり、ミツミはカウンターに身体を伏せた。
「愛さんは七歳の時に東京に引っ越して、二十歳になって名古屋に戻ってきた。東京にいた時にどんな生活をしていたのか聞いたことある?」
「ない。あんまり楽しくなかったって本人がいってたから。楽しくないなら聞かない方がいいでしょ。楽しくないことなんて、わたし聞きたくないし」
正直な女だ。今江はくすりと笑い。さて困ったとすぐに顔をしかめた。名古屋における愛の調査についてはこれぐらいだろう。次に東京における愛の過去について調べたいのだが、その取っ掛かりが見つからない。桂から送られてきた愛のデータには彼女が在籍していた公立学校の名前が書かれていた。だが学校を訪れたところで、過去の在校生の情報を教えてくれるとは思えない。必要なのは東京時代の愛を知る人物だ。さてどうしたものかと考え込むと――
「ちょっとなら知ってるよ」
ハッと顔をあげると、ミツミの背後に黒いベストを着た若い男が立っていた。
いつの間にかグランドピアノの音色は止んでいた。ピアノの前には誰もいない。その事実が今江に男の正体を伝えた。
「ピアノを弾いていたひと」
「ご清聴ありがとうございました。ミツミ。三番テーブルのヘルプについて。チサトさんがすごい勢いでドンペリ空けてる。あれじゃお客さん破産しちゃうよ」
「わ、すごい。オッケーオッケー。セーブさせてくる。任せんしゃい」
ミツミがスツールから立ち、ベスト姿のピアニストが代わりに着いた。
吸血鬼のような白い顔に太い眉がりりしく乗っている。針金のように身体は細く、指先は女性のものと見間違えるほどに美しい。
「ママから聞いたよ。警察なんだって。驚いたな。愛、何かしたの?」
「別に犯罪に巻き込まれたわけじゃないから安心して。それで、何。愛さんの東京時代のことを知っているの」
「ぼく、一年前まで東京の芸大に通っていたんです。その時のアルバイト先に愛がいたんですよ。ほとんどぼくと入れ替わりで愛は辞めちゃったので、向こうはぼくのことに気づいてなかったみたいですけど」
「なんのアルバイト?」
「ピザのチェーン店です。ぼくは配達を、愛はお店でピザを作ってました。長年働いている主婦のパートさんとかもいましたんで、今でもそこのお店に行けば愛ちゃんのことを知っているひとに会えるかもしれません」
今江はピザ屋の情報を手帳に記録すると、男に一杯おごった。
ブラッディ・マリーを舐めるように吞みながら、男は愛のことを語った。
「時々……本当に時々、愛から芸術関連の相談を受けましたよ。ぼくは芸大で音楽の勉強をしていましたが、もともと芸術全般に興味があって高校時代は美術部に入っていたんです。安くて質のいい絵の具とか、スケッチで使うエンピツの使い分けかたとか、技術的なこともいろいろ聞かれたな。プロの個展に友達のコネで行けることがあって、愛に頼まれて連れて行きました。愛のやつ、芸術について語る時はやたらと情熱的なんだよな。不愛想なことには変わりないんだけど」
3
「どう。耳よりな情報ばかりでしょ」
二杯目のジントニックをお供に、今江は氷織からかかってきた電話の対応をしていた。吸血鬼のような顔つきのピアノマンは、グランドピアノに戻り客のリクエストに応えてピアノアレンジを施したJポップの曲を奏でている。
「今江さんに頼んで正解でした」
電波の向こうから、氷織の淡々とした声が聞こえる。
「正直にいって、ここまで調べてもらえるとは。本当に感謝しています」
「お世辞を聞いても楽しくない。大切な休日を潰されて、こっちはたまったもんじゃないんだから」
「面倒を重ねていいですか。ひとつ調べてもらいたいことがあります」
「なに」
「素性を調べてほしい男がいます。As soon as possibleかつ、As perfect as possibleで」
「速さと質は両立しない」
「できます。今江さんですから」
「で、誰について」
ひと呼吸置いてから氷織は答えた。
「都虎次郎。九重愛の精神科医です」