第四章
1
氷織とLAW、そして須貝の三人は、都医師の部屋を訪れ、愛についてもう少し話を聞くことにした。
都の部屋は客室棟の二階にあった。シングルルームが並ぶ南側のうち、いちばん北側、階段に近い部屋だった。
「とりあえずご感想を」
ストレッチャー付きの椅子に腰を下ろしながら都が訊ねた。白衣を丸めてカゴに放り、暖房をきかせた部屋の中でアロハシャツ一枚という出で立ちだった。
「実際にDIDの方に会うのはこれがはじめてでしたけど」
LAWと並んでベッドに座る氷織が口元に手を当てながらいった。LAWはうつらうつらと船をこきながら姉に身体をあずけている。
「あれは本物ですね。DIDと騙る詐病のひとがよくいるって聞いたことはありますが、愛さんは正真正銘DIDを患っている」
「そこまで断言しますか」
都医師はあごを引いて氷織を見つめた。
「あれが詐病ではないとどうしていえるのですか。愛さんは名女優で、先ほどはまったく異なる三役を演じてみせたわけではないと、どうしていえるのか」
「しおりちゃんは、『お腕さんが痛がっている』といいました」
「そんなこといってましたね」
座る場所がなく手持ちぶさたに立っていた須貝がうなずく。
「変わった言い回しですよね。子どもらしいというか、回りくどいというか……」
「DIDの患者は身体の部分について、所有代名詞を使わない傾向にあると聞いたことがあります」
都医師を向いたまま氷織がいう。
「その身体が自分のものではないという意識が心のどこかにあるんです。身体は自己とは別の存在であると無意識に思い込んでいる。だから『腕が痛い』ではなく『腕が痛がっている』と対他的な言葉を使うんです」
「……くわしいじゃないか」
都医師はアロハシャツに手のひらをこすりつけた。
「依頼を受けてから必死になって勉強したのかな。すべてのDIDの患者が所有代名詞を使わないというわけではない。ただ、探偵さんのおっしゃる傾向にあることは事実だ」
「愛さんの中には八つの人格があるとおっしゃいましたね」
氷織は両腕を深く組んだ。
「教えてください。彼女の内側を、ぜんぶ教えてください」
都医師はカバンの中からノートを取りだすと、ぱらぱらとめくってから一度咳をした。
「きみたちが会った順番にいこうか。一人目は、ハヤテだ。二十八歳の女性。几帳面な性格で人格たちのリーダー的な存在。全ての人格のなかでもっとも表に出ている時間が長い。他の人格と比べると安定した性格をしているから、他人との衝突といったトラブルが避けやすいと身体が理解しているのかもしれないね。次は柴田徹。六十五歳の男性。彼は人格の中でひとりだけ名字を持っている。おもしろいね。哀愁を漂わせた普通のおじいさんだよ。どこか世の中をひねくれた目で見ている諦観の塊みたいな男だ。タバコが好きで、目覚めるとまず一服しなきゃ気が済まない」
「自分の身体で勝手にタバコを吸われるってのは嫌な気分でしょうね」
タバコを嗜む趣味をもたない須貝は顔を歪ませた。昭和の時代には電車や飛行機の中でさえもタバコを吸えたというのは本当だろうか。どんぶらこの擬音と共に桃が川を流れてくる昔話と同程度に信じがたい。
「今日なんか柴田さんにしてはよくしゃべった方だよ。普段はむっつり黙って不機嫌にタバコをふかしているだけ。何を考えてるのかもよくわからないし、ぼくは苦手だね」
都はノート越しにへらへらと笑ってみせた。
「それから、しおりちゃんね。年齢はわかってない。年齢っていう概念も理解してないんじゃないかな」
「え」
氷織が声をあげる。都と須貝は氷織に視線を向けたが、氷織は『なんでもありません』と顔を伏せ都に先を続けるよう促した。
「しおりちゃんについては……見てもらったとおりとしかいいようがないね。どこにでもいるような小さな女の子。適度にわがままで、適度に泣き虫。成人女性の見た目であんなふるまいをされるとちょっと不気味だよね」
都は笑いながら同意を求める。須貝は曖昧に苦笑してお茶を濁すことにした。
「皆さんが会ったのは……この三人だけか。じゃああとの五人も簡単に説明しますよ。まずは暴風雨。柴田さんがいっていたとおり、暴力的で危険なやつだ」
「男なんですか」
氷織が訊ねると、都は首をひねってみせた。
「わからない。実はぼくは暴風雨に会ったことはないんだ。愛さんは過去に何度か暴力事件を起こしているんだけど、ほかの人格によるとその全てが暴風雨によるものらしい」
「だとすると『殺してやる』といったのは暴風雨と推測するのが妥当ですよね」
手のひらサイズのミニノートに、須貝は必死に人格の情報をつづっていた。
「それは短絡的じゃないかな。『殺してやる』って発言自体は暴力そのものではない。まぁ、極めて暴力的だとは思うけど」
納得できるような納得できないような、はがゆい感覚が須貝の首筋を漂う。
「次はブラッドだ。ニ十歳の女性。男まさりな芸術家で、時間さえあれば創作活動に励んでいる。絵を書くときもあれば、粘土をこねたり、ジオラマを造ったりすることもある。芸術家にありがちな神経質な性格をしているから、コミュニケーションをとるのには苦労するよ」
「ブラッドの作品をいちど見たいですね」
氷織が口元に手を重ねながらいった。都を見つめる目が、どこか鋭い。
「愛さんの部屋にあるはずですよ。それから次に姫子だ。二十五歳の女性。彼女もこれまたやっかいな性格でね。臆病でひねくれもの。他者不信を抱いている。嘘をつくこともよくあるし、言動が挑発的で嫌味ったらしい。ほかの人格からも嫌われていますし、わたしもあまり好きになれないタイプですね」
暑いのか都はアロハシャツの第二ボタンを外した。褐色色の胸板の上で金色のネックレスが揺れている。
「ハヤテ、柴田徹、しおりちゃん、暴風雨、ブラッドと姫子。あとは……あぁそうだ。あのおばさんを忘れていた」
「おばさん?」
「他の人格のように一般的な固有名はない。ただ彼女はシスターと呼ばれている」
「シスター。姉妹ではなく聖職者ですか?」
「うん。シスターはいい人だよ。いい人だからこそ厄介だ。暇さえあればお祈りをするし、他人の悪口をいおうものなら必ずお説教をしてくる。ぼくが一番ニガテなタイプだ。これで七人。最後のひとりは、言わずもがな。九重愛さんだ。愛さんは会えばすぐにわかるよ。ほかの七人と違ってとにかく大人しい。無口という点では柴田とブラッドに近いけど、柴田は終始ひねくれた様子で、ブラッドは無言だけどその両手は常に何か創作に励んでいる」
「愛さんとも一度お話ししたいですね。ご本人がDIDについてどのようにお考えなのかお聞きしたい」
「それは難しいかもしれませんよ」
「どうしてですか」
須貝が首をかしげる。
「愛さんは、表に出ている時間がものすごく短いのです。一日のうち、数時間や数十分。まったく出てこない日もあります。みなさんがこちらに滞在されるのは月曜まででしょう。仮に今日から四日間みなさんが一度も愛さんに会えなくてもおどろきません」
「出てきてもらうよう頼んでみます。ハヤテが柴田さんに、柴田さんがしおりちゃんに代わったように、ある程度は意志の力で他のひとに代われるわけでしょう」
「えぇ。ある程度はね。でも意志の力がほとんど通用しない相手もいるんですよ。愛さんもそのひとり。彼女は引っ込み思案なんです」
もうよろしいかな。そういって都は椅子から立ち上がり、ノートをひらひらとふってみせた。
「今日のことをこのノートにまとめておきたいので」
無理強いするわけにもいかず、氷織と須貝はうつらうつらと船をこぐLAWを起こして部屋の外に出た。
氷織とLAWの部屋に向かう途中、一度だけ氷織が足を止めた。
「どうしました」
須貝がたずねたが、氷織は答えない。何も答えず、都の部屋のドアを見つめていた。
2
須貝は恒河沙の姉妹を部屋に送り届けてから自室に戻り仮眠をとった。そしてドアを叩く音で目を覚ました。
「須貝さま。お食事の用意ができました」
須貝の腕時計は六時三〇分をさしていた。もちろん朝ではない。夕方の六時半だ。
ベッドから身体を起こし、ドアを開ける。あたま一つ分須貝よりも小さい三崎が、両手を重ねて丁寧におじぎをした。
「おやすみでしたか」
「え」
「寝ぐせがついています」
三崎はあたまの右側をさすってみせた。須貝は自分のあたまの左側をさすってみる。重力に反抗する髪が左手に突きささった。
寝癖を直してから本館の食堂に向かうと、そこにはすでに須貝以外のメンバーが席につき、そのうちの何人かは食前酒と談笑を嗜んでいた。
依頼人の鳥羽。鳥羽の秘書の建山。愛の主治医の都医師。鳥羽の子息の彰。彰の妻の優里。そして氷織とLAWの恒河沙の姉妹。ブラックスーツの神崎はそこが定位置なのか壁際に立ち、例のにやにや笑いで場を見つめていた。
二ノ宮と三崎が食道の奥にあるキッチンから出てきてテーブルに夕食を並べていく。鳥羽氏は都医師と言葉を交わしている。ふたりの話題は春闘だった。『会社に尽くさない社員のぶんまで賃金を上げなければならないのは気にくわない』と鳥羽氏は豪語し、都医師は基本的には同意の意志を示しながら、時には鳥羽氏の機嫌を損ねない言い回しで反論を混ぜていた。全面的に賛同の意を示して太鼓持ちと軽蔑されるのを避けるためだろう。議論の間にはさまれた建山は上下左右に首をふり回していた。
「お父さん」
白ワインのグラスを持ちながら彰がいった。その顔はすでに酔いが回っているのか赤く染まっている。
「愛ちゃんは来ないのですか」
「昼と同じだ。食事は部屋で摂らせる」
鳥羽は答えた。あいかわらず彰へ向ける声は無愛想だ。
「それはいけない。愛ちゃんはぼくらの家族なんでしょう。家族なら食事の席を共にするのが当然じゃないですか。ねぇ、都先生」
「あー。さて。どうかなぁ。まぁ、そうですね。大人しく食事をしてくれるひとだったらいいんじゃないかな」
鳥羽は仕方ないといった様子でうなずいた。神崎が『呼んでまいります』とアルトボイスでいうと、都医師が席を立った。
「いや、ぼくが行きましょう。様子を見て、問題がなければ連れてきますよ」
都が客室棟へ向かうと、鳥羽は渋面で白ワインを口にした。
「いつもは愛もこの食堂で食事をとっているんだ」
誰に聞かせるでもない大きなひとり言のようにいった。
「客人が多いと、パニックになって迷惑をかける可能性があると思ってな」
「何をおっしゃいます。迷惑をかけるのが家族ってものですよ」
上機嫌に彰はいう。横に座る優里は夫の不自然な笑みに怪訝な表情を浮かべていた。
テーブルに食事が並べられていく。夕食のメインは和牛のステーキだった。短い焼き時間を所望したものから順にステーキが運ばれてくる。生焼けの肉を食べて腹を壊し、地獄を見た経験のある須貝はウェルダンを希望していた。
氷織とLAWのレアステーキが運ばれてきたところで、都医師が戻ってきた。その背後には愛の姿があった。しかし――
「おぉ。愛。来たのか」
鳥羽は両手を広げていった。
しかし愛は返事をしなかった。都医師の横をすり抜けると、空の席にだらしなく座った。その前に食器は並んでいない。使用人の二ノ宮は慌てた様子で愛の前にカトラリーやグラスを並べていく。
「水。でかいグラスがあっただろ。それで」
無味乾燥した声が室内にひびく。ズボンのポケットに手を入れて、大きくあくび。一同は唖然とした様子で愛を見つめていた。
「誰なんだ」
鳥羽が問いかけた。愛ではなく、都医師に。
「ブラッドです。最初はいやがったのですが、ステーキなら食堂で食べたいと……」
「冷えた肉なんてまっぴらごめんだ。ニノ。レアで頼む。熱が入ってたらそれでいい。とっとと持ってきてくれ」
水の入ったグラスをもってきた二ノ宮にブラッドはいった。呆けた表情で見つめる須貝をブラッドは猛禽類のような瞳でにらみ返した。
食事は粛々と進んだ。主役はブラッドだった。その主役はひとこともしゃべらなかった。淡々とぶ厚いステーキに噛みつき、熱いコーンスープを胃に流しこむ。ちぎったパンでステーキのソースをぬぐい皿は真っ白になった。最後に五〇〇ミリリットルは入っているだろう大きなグラスの水をひと息で飲み干した。食卓の視線をブラッドは一手に引き受けていた。ゆえにブラッドは主役だった。
「ごちそうさま」
シャツで口元をぬぐいながら立ち上がった。氷織にいたってはまだステーキをひと切れしか口にしていない。
「待て。客人の前でその食べ方はなんだ。礼節ってものを知らないのか」
鳥羽が声を荒げる。今回ばかりは須貝も同意した。それほどにブラッドの作法は下品だった。
しかしブラッドは悪びれた様子もなく、灰色の表情のまま髪をいじりはじめた。
「知らないね。礼節ってなにさ」
「ルールのことだ。食事の作法。それにみなが食べ終わる前に席を立つなど……」
「そりゃあんたらのルールだろ」
ブラッドは侮蔑の視線で食卓を見つめた。
「あんたらのルールを押しつけるな」
そういい放ってブラッドは食堂を出ようとする。
「Patientez(ちょい待ち)」
ブラッドの背中に声が届いた。
声の主はLAWだった。
LAWは半分まで食べ終えたステーキが乗った皿を持って立ち上がった。
「うち、あんたが絵をかいてるとこみたいんやけど」
「絵だと」
ブラッドは顔をひくつかせた。
「小指の外側。黒ぅなっとる」
ブラッドが左手を内側に曲げる。みなの視線が小指に注がれた。たしかに小指の外側がうっすらと黒く染まっている。
「芸術家のあんたの小指だけが汚れるとなるとスケッチの痕くらいしか思いつかん。さっきあんたの部屋におよばれした時はイーゼルなんて立ってなかった。新しい油絵を描き始めたんやろ。あ。もしかしてスケッチは終わった? 絵具を使い始めるなら遠慮する。この寒空のした、窓を開けられるのはカンニンや」
「……なんだよ。教えたのか」
ブラッドは都医師に苦笑を向けた。
「きみがいろいろと芸術作品を創っていることは教えたけど……」
都医師は首をかしげてみせた。
「油絵を描いているとはひとことも」
「部屋におよばれしたときに、ちょっぴり油絵の臭いがした」
LAWは鼻に指を置いて得意げに笑った。
「窓を開けるってのは何のことだ」
「油絵具を使うと部屋に臭いが残るってのは常識。せやから気にするひとはしっかり窓を開けながら絵を描くんやけど、実際はどんだけ換気してもかすかな臭いは家具や壁紙に残るもんや。しっかりした臭いでなくちょっぴりの臭いがしたってことは、あんたはちゃんと換気しながら油絵を描くってこと。今から油絵具を使うとしたら窓を開けるってわけや」
「なんかムカつくな」
破顔しながらブラッドはいった。
「まだスケッチは終わっていない。今夜は絵の具を使うつもりはないよ」
「そんならおじゃまするわ」
LAWはステーキが乗った皿を持ってブラッドに続いた。皿の上でフォークとナイフがチャカチャカと音を立てる。
「うるさくしたら追い出すからな」
「せーへん。うち大人しいもん」
ブラッドとLAWは廊下へと出ていった。
食堂に残された一同はぽかんとした表情で顔を見合わせた。
否。氷織だけは違った。彼女だけは黙々とぶ厚いステーキと格闘を続けていた。
「氷織さん」
須貝は氷織にだけ聞こえるよう小声で話しかける。
「さっきの話。愛さんの部屋、油絵具の臭いなんてしました? ぼくは全然……」
「しなかった」
ひと口サイズに切り分けたステーキにフォークをさしながらいう。
「でも、LAWだから」
3
食後、氷織と須貝は鳥羽にビリヤードで遊ばないかと誘われた。
ビリヤードの経験がないので断ろうとした須貝であったが、『経験がないからこそ経験を積むべきだ』と都医師に肩をたたかれ、居間の奥にある遊戯室へと連れて行かれた。須貝の予想に反して氷織は遊戯室へとついてきた。しかしビリヤードで遊ぶつもりはないらしく、ひとり静かに壁際のソファーに落ちついた。
遊戯室の面積は居間と同じほど。うす暗い室内の左手にはビリヤード台が置かれ、その後ろでは大量の酒瓶が並ぶ大理石柄のミニバーがあった。室内の右手には二台のマージャン台が置かれ、壁際にはダーツマシンが立っていた。
ビリヤードで遊び始めたのは、鳥羽と都と建山と須貝の四人。彰とその妻の優里は食後、自室に戻った。二ノ宮と三崎は台所で夕食の皿を洗い、ブラックスーツの神崎はふらりとどこかへ消えてしまった。
ビリヤード台を四人の男が囲む。秘書の建山は雇い主である鳥羽の顔色をうかがいながらトライアングルラックに十五個の玉をそろえていく。種目はエイトボール。鳥羽&都と須貝&建山に分かれてのチーム戦だ。
「須貝くん。食事の前に、あいつらと話してきたんだろう」
鳥羽が訊ねた。顔は笑っていたがその口調は冷たかった。
「えぇ。非常に濃密な歓談でしたとも!」
須貝ではなく都医師が口を出す。その手にはミニバーからとってきたウィスキーグラスがあった。
「ハヤテと柴田さん。それからしおりちゃんの三人と話してきましたよ」
「誰と話したかなんてどうでもいい。わたしは病気の名前なんていちいち覚えてない」
タバコを口にくわえた鳥羽はキューでビリヤード台をコツコツと叩いている。
「それで、首尾は」
須貝はふりかえり氷織の様子をみた。氷織はソファーに座ったまま無言でビリヤード台を見つめている。鳥羽の問いかけに答えるつもりはなさそうだ。しかたなく須貝が口を開く。
「『殺してやる』といったのは自分だ、と自白するひとはいませんでした。三人とも自分はいっていないと否定しましたし、嘘をついている様子もありません。ただ、しば……ひとりが、『暴風雨』がいったんじゃないかと推測していました」
「『暴風雨』。人格のひとつです」
都医師が先回りして鳥羽に伝える。
「凶暴な人格でして、愛さんが過去におこしたといわれる暴行事件は、すべてこいつの責任かと。ですが確証はありません」
「誰とかそれとか、そんなことはどうでもいい。愛は愛だ。愛の人格は愛だけだ。それ以外のやつらは病気にすぎない。この世に存在するべきではない病原菌。がん細胞と同じ。一刻も早く駆除すべき存在だ」
鳥羽の言葉に須貝は嫌なものを覚えた。
氏のいうことはある意味では正しい。たしかにこの世に存在し、社会的にその人格を認められているのは九重愛というひとりの女性だけだ。ハヤテたちに戸籍はない。公的な記録としての存在をもたない。ゆえに社会的な存在ではないのだ。
しかし須貝は彼女たちと言葉を交わした。その声をたしかに耳にした。その実在をその身で感じた。いうならば、彼女たちは実存的に実在するのだ。
一方の意味では存在し、一方の意味では存在しない。ふたつの事実の衝突が須貝の心中で靄をつくる
「……まだ四人としか話せていません。明日は愛さんと残りの三人と話をしてみるつもりです。『殺してやる』と発言したのはだれか。もしそれが確定できたら、その真意を探ってみるつもりです」
「まぁ、ぼちぼちやってくれ。頼むよ」
鳥羽は誰に断りをいれるでもなく、オープニング・ブレイクショットを放った。手玉に弾かれ、三角形に並んでいた十五個のボールが四方八方に飛んでいく。エイトボールとはゲーム前に自分が落とすグループボールを決めるのではなかったかと須貝は疑問に思う。その疑問はすぐに解消された。転がった十五個のボールの分布をみて、秘書の建山は『ではわれわれが一から八で』と断りをいれた。見ると九から十五のほうが明らかに各ポケットに近い。
ひとゲームを終えて、接待プレーに努める必要なかったと須貝は確信する。鳥羽も都も建山もビリヤードの腕はなかなかのものだ。初心者の須貝の連続するミスショットがゲームをぶち壊した。しかしそれでも勝利の美酒に酔う快感はたまらないものがあるらしく、鳥羽と都はウィスキーをちびちびと飲みながら上機嫌だった。建山もまたそんな上司の様子をみてほっと胸をなでおろしていた。
「須貝くん」
紫煙の中の談笑に向かって氷織が冷たい声を放った。
「は、はい。なんでしょう」
須貝はおずおずと氷織に近づく。氷織は須貝の手からキューをとると、自身の腕時計をこつりと叩いてみせた。
「LAWの様子を見てきて」
時計をみると遊戯室に入ってから既に五十分は経っている。LAWとブラッドが食堂を出てからは一時間近く経過していた。
「この場はわたしが預かるから」
氷織は立ち上がり、威風堂々とビリヤード台に近づいていった。
遊戯室を出て、客室棟へと向かう。居間には誰もおらず、廊下を出ると途中にあるドアの内側から二ノ宮と三崎の声が聞こえた。ドアは少しだけ開いていた。中はキッチンで、ふたりの使用人が談笑しながら食器をふきんで拭いていた。
冷たく暗い玄関を越えて客室棟へ。客室棟の一階、階段前で昼間と同じくブラックスーツの神崎が仁王立ちで構えていた。にやりと笑う神崎に須貝は会釈をしてから口を開く。
「あの。愛さんの部屋に。うちのLAW……がお邪魔しているので、迎えにいこうかと」
「どうぞ」
アルトボイスで神崎は答えた。
「わたしに許可をとる必要なんてありませんよ」
須貝はもう一度会釈をしてから階段をのぼった。
三階につくと、右側に伸びる廊下をすすむ。角部屋のドアをノック。返事がない。もう一度ノック。すると部屋の中からドアが開かれた。
ドアと枠の間から愛が顔をのぞかせ――
「あんたか」
愛ではなかった。ブラッドだった。ブラッドはドアを開き、須貝を部屋にいれた。
部屋の中にはキャンバスが置かれたイーゼルが立っていた。白いキャンバスにえんぴつの痕が走っている。芸術については素人の須貝でも、そこに何が描かれているのかはわかった。ひとだ。椅子に座ったひとの姿が白と黒の世界に生まれていた。
「あ」
須貝は声をあげた。そしてブラッドが須貝の肩を軽く殴る。ブラッドは口もとに人さし指をあてて『シー』とつぶやいた。
ベッドの上で、掛けふとんを被ったLAWが眠っていた。二つ並んだベッドの右側に横になっており、左側のベッドには掛けふとんがない。
「……きみがかけてくれたの?」
おそらくLAWはベッドの上に腰をかけているうちに眠ってしまい、それを見かねてブラッドが隣のベッドの掛けふとんをかけたのだろう。
「ご迷惑をおかけしました。部屋に連れて帰りますので」
「おい、やめろ」
ブラッドは須貝の腕をつかんだ。
「寝ている人間を無理やり起こすのは気にくわん。睡眠は本能だ。本能を妨げるな」
「だけど……」
「かまわない。起きたら部屋から叩き出す。好きで置いているわけじゃない」
LAWは赤子のように安らいだ顔で寝息を立てている。何か夢を見ているのか、まぶたの下で目がひくひくと動いていた。無防備なそのすがたに須貝はバツが悪い思いを抱き視線を反らした。
「そいつ。何しに来たんだよ。本当におれがスケッチしているところを見るだけで……いつの間にか眠ってやがった」
ブラッドはキャンバスの前に戻ると、えんぴつを手にとって下書きを続けた。
「上手いですね」
小声で須貝がいう。
「当然だろ」
ブラッドも小声で返した。
「上手くて当然だ。テクニックってのは前提。前提がなきゃ絵なんか描けやしない。テクニックもないやつが筆を走らせたところで芸術は生まれない。そこにあるのはただのノイズだ。ノイズに意味はない。ノイズからは何も伝わらない。ノイズを生み出す苦しみを乗り越え、成長したものだけが芸術を生み出すことができるんだ」
「なるほど。ところで聞きたいことがあるのですが」
「敬語をやめろ」
ブラッドはキャンバスに視線を固定したままいった。
「同年代のやつに敬語で話されるのはキライだ。媚びを売られているみたいでムカつく。敬語をやめろ。そしたら、少しは話してやる」
「同年代って、ブラッドさんは――」
須貝は口を閉ざし、一度咳ばらいをはさんで――
「――ブラッドは何歳なの」
「二十歳だ」
「ぼくの方が年上だ。二十六。年上には敬語を使ってもらいたいところだけど」
「六年なんて。宇宙規模で考えたら誤差だ」
須貝は笑った。宇宙規模の思考には太刀打ちできない。
「単刀直入に聞くけど、例の『殺してやる』って発言について何か知っていることは」
「誰がいったのか……てことか」
「それ以外にも知っていることや、思うことがあれば。もしかしてブラッドがいったの」
須貝は考えた。ブラッドの性格と発言のもつ剣呑な性質が、『殺してやる』なる言葉にフィットしている気がしたのだ。
「馬鹿いえ。そんなこといって何の得になる。俺はこのクソみたいな場所が気に入っているんだ。鳥羽の野郎は頼めば何でもよこしてくれる。画材、石膏、粘土。何万もする画集だって頼めば買ってきてくれる。いや、実際に店に足を運ぶのは秘書の建山だけど。金を出すのは鳥羽だからな」
重い息を吐いてからブラッドは続ける。
「前は……貧乏暮らしをしていた時は、筆の一本さえ買う余裕がなかった。職場からパクってきたボールペンでチラシの裏に絵を描いてばかりいた。それが今じゃどうだ。こんな馬鹿みたいにでかいキャンバスを好き放題使えるんだ。最高だろ。最高だと思わないか。『殺してやる』だって? だれがだれを殺そうと興味はないけどね、逮捕されてこのアトリエをあとにするのだけはごめんだ」
それっきりブラッドは黙り込んでしまった。無言のままえんぴつをキャンバスに走らせる。
須貝はしばらくその場にたたずんでいた。LAWは起きる気配をみせない。ブラッドに任せておくのがよいだろう。
邪魔をしては悪いと思い、須貝は声をかけることなく部屋を出ようとした。
ドアを開く直前になって思い出した。須貝は一度大きく鼻で室内の空気を吸った。
絵の具のにおいはしなかった。
4
本棟の居間にもどると、暖炉の前のソファーに氷織が座っていた。
「LAWは」
開口一番に氷織はたずねる。
「愛さんの部屋で眠っていましたよ。ふとんを被ってぐっすりと。ブラッドが面倒を見てくれるというので任せてきました」
「そう」
氷織は答えた。素気ない態度だった。
「ビリヤードはどうでした」
「圧勝しちゃった。子どものころに読んだ教則本の通りにやってみただけなんだけど」
「初めてやったんですか」
「もちろん」
「初めてで圧勝したんですか」
「本は読んだことあるから。いったでしょ。わたしはKnowledgeable Detective。一度覚えたことは忘れない」
「いまいち信じられないなぁ。本当はビリヤードが趣味で毎晩プールバーに通っているんじゃないですか」
「しばくよ」
「ひぇ。それで今は――」
須貝は遊戯室の方を指さしながら訊ねた。
「ビリヤードが嫌になったのかマージャンに移行した。わたしが辞退したら代わりに神崎さんが入った。今は四人でパイを鳴らしている」
「マージャンのルールはご存じないのですか」
「いかさまの方法まで熟知してる。でもほら。これ以上依頼人を怒らせるとマズいでしょ」
須貝は不思議に思った。氷織はこれまで基本的には唯々諾々と鳥羽の言葉に従ってきた。氏の態度やふるまいに好意を抱いていないにしても、その嫌悪感を表にだすことはしなかった。
それなのに突然、ビリヤードの場に至って氷織は圧勝してみせるという反抗的な態度をとった。須貝はもし自分にビリヤードの腕があれば(もしくは鳥羽氏が壊滅的なまでに下手であれば)接待プレーでわざと負けることも辞さないつもりだった。クライアントの機嫌をとることは、社会人としての常識ではないか。それをどうして。どうして氷織はこの常識に反したのだろう。
須貝が訊ねようとすると、遊戯室のドアが開き使用人の二ノ宮が現れた。二ノ宮は空のグラスがのったお盆をもっていた。
ドアの奥から男たちの下品な笑い声が聞こえてくる。二ノ宮はすぐにドアを閉ざし、苦笑をのぞかせた。
「須貝さまもお戻りでしたか。おふたりとも何か飲み物をお持ちしましょうか」
「あたたかいお茶をください」
「あ、ぼくも……杜仲茶じゃなしに」
須貝が強く念押しすると、二ノ宮はかすかに笑ってキッチンへと向かった。
数分後、二ノ宮は緑茶をもって戻ってきた。仕事がひと段落ついたらしく、三崎もいっしょにいた。氷織はふたりも座っていっしょにお茶を飲まないかと誘った。ふたりは快諾し、キッチンから自分たちの緑茶をもってきた。
「杜仲茶じゃないんですね」
須貝が目を細めて三崎にいった。
「はい。あのお茶まずいですから」
そんなものを客人にすすめたのか。いや。あの時『同じものを』と口をすべらしたのがまずかったのか。そんなことを考えながら須貝はお茶をすする。緑茶の優しい苦みがいつもよりおいしく感じた。
「ふたりは、愛さんとはよく話されるの」
氷織が訊ねる。二ノ宮と三崎は互いに無言で見つめ合った。暖炉の中から燃え上がる薪が小さく爆ぜる音がした。
「それはどちらの意味でしょう。愛さん本人という意味か、愛さんの中の他の方たちという意味でしょうか」
二ノ宮は苦笑しながらそういった。
「どちらでもいいけど。そうね。わたしたちはまだ愛さんとは話してないんだけど、彼女はどんな性格なの」
再びふたりの使用人は見つめ合った。数秒の沈黙を経て三崎が口を開く。
「大人しい方ですね」
表情豊かで社交性のある二ノ宮にくらべ、三崎は常に淡々としている。
「柴田さんとブラッドも性格は『大人しい』の範疇にあると思います。柴田さんは枯れた大人しさを、ブラッドは内に熱い想いを秘めた大人しさというか……わかります?」
須貝はうなずいた。ブラッドについてはつい先ほど話をしてきたばかりなので、特に強く同意した。
「どちらとも違うんです。愛さまは……無です」
「無」
「えーっと。わかりにくいですよね」
二ノ宮が助け舟をだす。
「なぎさちゃんのいいたいことはわかるけどさ、いくらなんでも『無』はないでしょ。『無』は」
「いい得て妙だと思ったけど。それじゃ、ニノならなんていうの」
「そうね。愛さまは……動物? ほら。よく動物園にいる馬とかビーバーって、突然ピタリと硬直するじゃないですか。あれに近い感じです。何かを考えてはいるんだろうけど、何を考えているのかはわからない。そんな感じです」
「自分から意思を表したり、激しい情緒を見せることはない。無感情的で、落ちこんだ様子にみえる。そんな感じかしら」
氷織が訊ねると、二人の使用人は大きくうなずいた。
須貝はブラッドが食堂で二ノ宮のことをニノと親しげに呼んでいたことを思い出した。
「二ノ宮さんはブラッドと親しいの?」
「親しいかといわれると……ただ、わたしは学生時代に美術部に所属していたので、ちょっとだけ芸術について話せるんですよ。それで……そうですね。この建物の中でいちばんブラッドと親しいのはわたしかな」
「二ノ宮さんも絵を描かれていたんですか」
「いえ。わたしはおめんを創っていました」
「……おめん?」
「はい。顔にかぶるおめんです。おめんの型にですね、ちぎった新聞紙を水でうすめた糊で貼りつけていくんですよ。何枚も何枚も気が遠くなるほど貼りつけて……乾燥したら枠から外して色をつけるんです。わたしの中学生活三年間はおめんづくりと共にありました」
今度は氷織と須貝が顔を見合わせた。ふたりは互いの瞳のなかに狼狽の色を見つけた。
「そんな理由でブラッドはニノにある程度の信頼を置いているみたいですね」
「そういうなぎさちゃんだって。しおりちゃんに懐かれているじゃない」
二ノ宮がいうと、三崎は渋い表情でお茶をすすった。
「しおりちゃんなら昼間に会いましたよ」
「二十歳を越えた成人女性があんな甘えた声を出すなんて不気味ですよね」
三崎は批判的な言葉を口にするが、懐かれていることは否定しない。
「他の方についてはどうです。ハヤテと柴田さんなんかは」
「ハヤテさんは自分の意志をはっきりと示してくれるので助かります」
毅然とした口調で三崎はいう。
「柴田さんは婉曲的にものをいうから困ります。スプーンを落としたら『拾ってくれ』といえばいいのに、『どこかへ行った』とぶつぶつつぶやいて、遠まわしに拾わせるんですよ」
「困ったおじいちゃんだ」
「もうご存じかもしれませんが、表に出ている時間がいちばん長いのはハヤテさんなんですよ」
二ノ宮はエプロンのしわを伸ばしながらいった。
「丸一日ハヤテさん以外の人が出てこなかった日もあります。あ、でも逆に丸一日ハヤテさんが出てこない日もたまにあるんですよね」
「何か理由が?」
「さぁ。都先生もわからないっていってました」
突然。廊下につながるドアが開き、両目を涙で濡らした優里が居間に入ってきた。
二ノ宮と三崎は反射的に立ち上がり優里に駆けよる。優里は赤くなった顔を手で隠しながら、力のない足取りで歩いている。
「ごめんなさい……ごめんなさい……。でもあたし、どうしたらいいのかわからなくて。あぁ。お客様がいらっしゃったのに。こんなみっともない姿をお見せして……」
「そんなことありません」
氷織は立ち上がり、暖炉のそばの椅子に手を置いた。
「奥様。どうぞ暖炉のそばへ。三崎さんはなにか温かい飲み物をお持ちしてあげて」
家主のように氷織は指示をだす。三崎はキッチンに駆け込み、二ノ宮は優里の手を取りながら暖炉のそばへエスコートをする。須貝は何もできず呆然としていた。
数分後。三崎がいれたホットココアを口にした優里は、いくぶん落ちついたのか、ぽつぽつと事情を話しはじめた。
「わからないんです。夫が。突然機嫌を悪くして……」
些細なことから口論になり、優里は部屋を飛び出して来たというのだ。
「申しわけないんだけど、今夜は別の部屋に泊まらせてもらえないかしら」
「わかりました。今から用意してまいります」
二ノ宮と三崎は連れ立って居間を出た。その場に残された氷織と須貝が必然的に優里を慰めることになった。
「失礼ですが。彰さんは普段から怒りっぽいひとなんですか」
氷織の問いかけに優里は首をふった。
「いいえ。おふたりもご覧になったでしょう。いつもわたしのことを気にかけてくれて。結婚してからあんなふうに怒鳴られたのは初めて」
「夕食の席では機嫌を損ねた様子はなかったんですけどね。まぁ明日になれば落ちついているかもしれません。とにかく今夜は早く眠りましょう。彰さんのことは、明日になってから考えればいい」
氷織は優里の腕を優しくさすった。優里は涙をふきながら何度もうなずく。
そして須貝は――昼間に偶然見かけた鳥羽氏に対する彰の怒声を思い出していた。
――馬鹿げている。そんな話ってあるもんか!――
――おれは納得していない。納得……できるはずがない!――
今日一日で彰が怒りを露骨に表出したのは、須貝が知る限り二回ということになる。このふたつには何かつながりがあるのだろうか。例えば、彰は鳥羽氏との会話で負ったストレスを解消するために優里に怒鳴りちらしたのだろうか。
いや違う。夕食のときの彰に不機嫌な様子は見られなかった。鳥羽氏への怒声など忘れたように夕食の席に着いていた。あれが演技だとはとても思えない。つまり、一度は機嫌を直した彰は、夕食後にもう一度機嫌を損ねたのだろう。
二ノ宮と三崎が戻ってくると、優里を新しく用意した客室へと案内した。
遊戯室のドアが閉まっていることを確認してから、須貝は氷織に昼間の彰の怒声のことを話した。
「愛さんのことかな」
氷織はいった。
「この別荘の中心人物といえば愛さんしかいない。鳥羽氏と何を話したのかはわからないけど、愛さんのことで気に喰わないことがあり、だから彰さんは愛さんの部屋に怒鳴りこんできたんじゃないの」
「あぁ。そういうことですか。愛さんが鳥羽家の一員になることが気にいらないんですかね。病人だから?」
「でも鳥羽さんは愛さんのDIDが治ってから正式に愛さんを迎え入れるんでしょ」
秘書の建山はそういっていた。この点に関して氷織たちに嘘をつくとは思えない。
「単純に気にいらないだけですかね。兄妹が増えて遺産の取り分が減るとか?」
「そりゃいくらかは減るかもしれないけど、だからといって鳥羽さんに強く反対すると思う? 普通に考えたら男性でありすでに会社の重役まで任されている彰さんには十分な遺産は残されるでしょ。いくらか取り分が減るところで、陰口をたたくのが関の山。というか鳥羽さんは見るからに健康体だし、遺産について話し合うのは十年以上早いと思う。鳥羽さんの性格を鑑みると、自分の死後の話なんてまだ考えてもいないだろうし」
「さぁ……。それと、愛さんの部屋に来た時の態度も気になりますよね。最初はぷりぷり怒っていたのに、入ってくるなり笑い出したりして。ああいう感情の起伏が読めないひとって苦手だな。不気味ですよ」
「『どうしてこんなかんたんなことに気づかなかったんだ』……ね。彰さんはあの時、いったい何を思いついたのか。やれやれ」
二人は湯飲みを空にすると、キッチンの流しに置いて客室棟に向かった。
二階の階段を上りきると、三階からLAWが軽やかな足取りで降りてきた。
「もうちょっと寝たかったのに、いったん目ぇ覚ましたらすぐに追い出されたわ。まったく。いらちは嫌やね」
「ひとさまの布団を横取りしてその言い草」
「それよりほら。これ。ブラッドがチョコレートくれたから、みんなで分けよ」
LAWはショートパンツのポケットから銀色の包み紙にくるまれたチョコレートを取りだした。見ると左右のポケットはパンパンに膨れている。
「ブラッドがくれたんですか。ずいぶん仲良くなったんですね」
「ちゃうよ。目を覚ましたら『出てけ出てけ』って騒ぐから、ふとんにくるまって抵抗したらくれた。退去料ってやつやね。ひとに動いてもらうならそれ相応の報酬を払うべき。正当にして合法的な手段でゲットしてきたわけや」
「発想と行動がヤクザのそれだ!」
夜も更けてきたということで、その場で三人は解散することにした。
「明日は引き続き、愛さんたちとの面談を試みる。温かいお風呂に浸かって、ぐっすりと眠ること。わかった?」
氷織がいう。『お母さんみたいですね』という言葉をのどの奥でこらえて、須貝は自室に戻った。
自室に戻ると、須貝はシャワーを浴び、その後すぐにベッドにもぐりこんだ。
暗闇の中でまどろみに包まれながら、須貝は今日というヘビーな一日に想いをはせる。
恒河沙の姉妹と出会い、スーツケースを四つも運ばされ、相模湾に浮かぶ無人島までやってきた。別荘に来てみればひと癖もふた癖もある人物ばかりで心安らぐ瞬間なんてひと時もなかった。何よりも問題なのは渦中の人物である九重愛だ。生まれて初めて多重人格者に出会ったが、まさかあれほどまでひとがかわるとは思いもしなかった。そして例の言葉――殺してやる――は、いったい誰が口にしたのか。
言葉だけをみればたしかに物騒だ。だがその物騒な言葉を口にしたからといって実際に殺人事件が起きるわけではない。『殺してやる』なんて、今日日の小学生でも平気で使う言葉だ。
須貝はその点は何も心配していなかった。殺人事件が起きるはずはない。ただ愛の中にいる誰かは『殺してやる』と口にするほどの敵意を抱いている。その点を明らかにして、対象の人物の心をケアしてあげればそれで今回の仕事は――
須貝は布団を振り払い、暗闇の中で息を荒くした。
須貝は今の今まで、自分がこの別荘で為すべき本当の目的のことを忘れていた。
それは恒河沙探偵事務所の依頼を達成することではない。
恒河沙理人の子どもたちの本性を探ること。
それが犬養から課せられた使命だった。
国家の安寧と秩序を守るためならば自らの命も厭わない。公安部に配属された当初から須貝は滅私奉公を座右の銘にあげて仕事に励んできた。長時間のサービス残業も、常態化した休日出勤も当然のものとして受け入れてきた。いまの日本社会において本当の意味でこの国を守れるのは公安部しかいないと自負していた。確信していた。公安部幹部からの使命となればそれは絶対的な力を有していた。刑事部に飛ばされたからといってその忠誠心が揺らぐことはなかった。須貝の心には常に公安第四課の椅子があった。いつか公安部に戻してくれると犬養は約束してくれた。犬養は自分を信頼してくれている。だから自分はその信頼に応えなければいけない。
――それなのに――
今の今まで、須貝は犬養の任務のことを忘れていた。警察という身分を隠し、恒河沙探偵事務所の一員としてふるまっているうちに、本当に自分が探偵事務所の一員であると思い込んでいたのだ。
須貝にとってこの事態は自身のアイデンティティが揺らぐほどのショックを擁していた。警察一族に生まれた須貝は、子どもの頃から警察官になることに憧れ、警察官として働く自身の未来を疑ったことがなかった。亡き母のためにも警察官としての職務を全うする。警察官でない自分は自分ではない。ならば今の自分は何者だ。警察の職務を離れ、尊敬する犬養からの密命も忘れ、探偵事務所の一員として扱われることを平然と受け入れる自分はいったい何者だ。
どうしてこうなった。何が自分をおかしくしたのか。
思い当たることがひとつあった。
――恒河沙LAW――
LAWだ。氷織から恒河沙探偵事務所の新米としてふるまうよう指示されたとき、そのときまでは須貝は反発の意志をたしかに抱いていた。実際に文句をいってやろうと口を開きかけた。そしてその声を、ソファーに転がり、毛布に包まれていたLAWのあくびが打ち消した。
それでおしまいだった。LAWの神秘的な美貌に見とれた須貝は自分を殺した。警察官である須貝正義を殺したのだ。
だからといって須貝はLAWを責めるつもりはなかった。悪いのは自分だ。自分の心の弱さが警察の仕事を忘れさせたのだ。須貝は誓った。探偵事務所の仕事はまっとうする。しかしこれは、警察組織の仕事の範疇の中におさまる。第一に考えるべきは公安の一員としての自分だ。ゆめゆめ忘れるべからず。そう自分に言い聞かせ、須貝はふたたび布団をかぶった。
5
恒河沙の姉妹は二人でベッドに座り、妹のLAWが氷織の長い髪をドライヤーでかわかしていた。タオルを頭に巻いたLAWは上機嫌な様子で氷織の髪に指を通している。
「うー。長い。長い。やっぱり髪の量が多いと乾くまで時間がかかるなぁ」
悪態をつきながらもLAWの顔は笑っている。むしろドライヤーを当てられている氷織の方が仏頂面をしていた。
「だから自分でやるっていってるでしょ」
「いや。うち、ひぃねえに乾かしてほしい」
「わたしのぶんをやらなくても乾かしてあげるってば」
「そんなのフェアやない。ささ。大人しくしててな。あーそうだ、ひぃねえ。須貝についてどう思う?」
「須貝くん?」
「ん。一日いっしょに仕事をして、ご感想をどうぞ」
「あれは駄目。すぐつぶれるわ」
ドライヤーの音が止まる。LAWは氷織に背を向ける。氷織はLAWの頭に巻かれたタオルをとり、耳までかかる髪に優しくドライヤーの風を当てていく。
「子どもの頃から何人も警察の人間を見てきた。警察ってのはあれね。実直な人間ほどつぶれやすい。自分の仕事に誇りを抱き、大義を掲げて挑んでみても、現実はそううまくいかない。世にいう善人が犯罪に走り、更生を誓った前科者が再び手錠を巻いて裁判官の前で悪態をつく。どうしようもないクソみたいな現実に警察としての誇りと大義は少しずつ削れていき、最終的にはポロリと身体から落ちて地面でつぶれる。これが実直な警察官の末路。須貝くんは典型的なこれね」
「ふぅん。そんなら、あの今江って刑事はどうなん。ほぅにいと一緒に青森に行ってはる籐藤って刑事は?」
「あの二人も誇りと大義を抱いている。抱いているけど、掲げてはいない。胸のずっと深いところで同化している。内心では誇りも大儀も『邪魔だな』『こんなものなければ』ってうんざりしている。でも同化しているから剥がれ落ちない。同化しているからいっしょに生きていくしかない。だから二人は警察を続けられるの」
「そうやなぁ」
LAWの短い髪は数分で乾いた。『おおきに~』と笑いながらいうと、LAWはベッドの中に潜ってしまった。
「眠れる?」
「だいじょーぶ。さっきテレビ観たさかい」
しかしLAWは眠れなかった。しばらく天井を見つめていると、ぽつりとつぶやいた。
「うち、それでいいと思っとる」
「何が?」
膝の上で手帳を開いていた氷織がいった。
「須貝のこと。あいつ、もう警察を辞めたほうがええ」
「さっきの話が理由? 誇りと大義の……」
「ちゃう。本音をゆーと、今江はんも籐藤さんも、二人も警察を辞めればいいと思う。三人はうちらと――恒河沙と関係をもってしもうた。ひぃねえ。桂はんが恒河沙を頼る理由はなんや。その事件が狂ってるからや。狂人が犯した犯罪。狂人の論理は狂人にしか解けへん。うちらはあのクソ親父に脳みそを無茶苦茶にされた。恒河沙の論理がうちらを狂人に変えた。うちらは狂った茶会の出席者や。恒河沙の系譜と、狂気の犯罪者。双方で催す狂った茶会。『あんなばかばかしいティー・パーティーは見たことない!』。そういって常識人は席を立った。狂った茶会を楽しめるのは狂った人間だけ。まともな人間はうちらと関わるべきやない」
氷織は無言を返す。LAWは姉の態度に不満を抱いた様子もなく、やがて安らかな寝息をその小さな口からこぼし始めた。
スマートフォンを手に洗面所へ。氷織はうがいをしてから、電話をかけた。
「もしもし」
冷静沈着な今江の声。そしてその後ろから物悲しいピアノの音色が聞こえる。
「約束の時間ですので」
「すっかり忘れていた」
悪びれもせず今江はいう。
「で。例の多重人格者はどうだったの」
「間違いなく本物です。驚きました」
「あっそ」
「疑わないんですか」
「あんたが本物っていうなら本物なんでしょ」
「……九重愛を含めて、八人。彼女の身体の中には八人もの別人が存在しているんです」
「どんな気分なのか想像もつかない」
「そちらはどうでした。どんな一日でした」
「どこぞの探偵さんの無茶ぶりに応えるため尾張の国までやってきた。九重愛の生まれ育った町に行ってきたけど、なかなかおもしろい一日だった。暮していたアパートはなくなっていたけど、そのアパートの大家だったひとと話してきた」
「さすがですね」
「警察ってのは調べもののプロなの。それと、九重愛がよく遊びにいっていた教会にも行ってきた」
「……教会?」
氷織の眉がひくりと動く。
「毎週日曜日の礼拝に通っていたわけじゃない。そこの教会は定期的に地域住民を招いたイベントを催しているの。九重愛は小学一年生になってからこのイベントに参加するようになったんだって。それと、そこの牧師さんから聞いたんだけど、九重愛は親から虐待を受けていたみたい」
「DIDにはよくある話です。解離の大きな原因は幼少期のトラウマであり、最も一般的なトラウマは、最も身近な存在である親からの虐待ですから」
「九重愛の母親は水商売をしていた。幼い愛は親戚や周りの大人に預けられることもなく、アパートの中で母親の帰りを待っていたみたい。九重愛が七歳の時に母親に男ができて、その男についていく形で九重親子は東京に引っ越したんだって」
「小学一年生の時に? 新しい生活環境に慣れはじめ、友達もできたころに引っ越しだなんて、ふざけた話ですね」
「九重愛の身体にはタバコの焼き痕がつけられていた。右腕の内側、うなじ、くるぶし。他人からは見えづらいところにばかり」
「見えづらい虐待の痕を、教会の牧師はどうやって見つけたんですか」
「虐待に気づいたのはシスターを務めていた牧師さんのお母さま。九重愛が腕をあげた時に偶然見つけたんだって」
「シスター……」
氷織は空いている手をそっと洗面台の鏡においた。シスター。九重愛は幼いころに教会のシスターと会っていた。
「シスターは九重愛のことを気にかけていて、虐待について何とかしようと思い悩んでいたところ、九重愛は東京に引っ越してしまったんだって」
「シスターとは話されましたか?」
「してない。故人だから。アーメン」
氷織は言葉もなく首をふった。残念だ。生きていれば幼いころの愛について多くのことを聞けたかもしれないのに。
「牧師さんがシスターと九重愛がいっしょに映っている写真をもっていたから、スマホで撮影させてもらったよ。見たいでしょ?」
「見たいですね。九重愛の子どものころの姿が気になります」
「びっくりするわよ」
氷織のスマートフォンに今江からメールが届いた。メールには四枚の画像データが添付されていた。
「これは……」
スピーカーモードに変え、通話をしながら画像を見る。
「この修道服姿の女性が例のシスターで、その横にいるのが九重愛さんですね」
「べっぴんさんでしょ」
からかうように今江がいう。
「小学一年生にしては完成され過ぎていますね。そしてこの“完成”は二十歳を過ぎた今になっても衰えていませんよ。いやむしろもっと美人に成長している」
「そうなの。一度わたしも会ってみたいな」
「会えますよ。いますぐには無理でも、いつかきっと会えます」
今江は四枚の写真について一枚ずつ、シスターの息子である牧野から聞いたままの内容を解説して伝えた。
「そうそう。九重愛の簡単な略歴のデータがあるから、それもメールで送るわね」
「略歴? すごいですね。もうそこまで調べたのですか」
「すごいでしょ。警察ってすごいもんでしょ」
今江の声のBGMを務めていたピアノの音が止まった。
「いまどちらにいらっしゃるんですか」
氷織が訊ねる。
「九重愛が父親と再会したクラブ」
ピアノの音に代わり、細やかな拍手が聞こえてきた。
「おもしろいわね、ここ」