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7/21

幕間C

 1

 桂から送られてきた情報をもとに、今江は九重愛が子どものころに住んでいたアパートに向かった。

 アパートの名前はきさらぎ荘。住所は名古屋市西部にある佐倉田町二丁目。しかしその住所の場所にきさらぎ荘はなく、五階建ての商業ビルが建っていた。ビル内のテナントにきさらぎ荘について訊ねてみたが知る者はいなかった。

 今江は近所の不動産屋を訪れた。不動産屋はきさらぎ荘の大家だった福田ふくだという老夫婦と知り合いで、電話で先方に承諾を得てから福田家へと行くよう今江にいった。

 福田家は不動産屋から歩いて十分ほどの距離の住宅街にあった。

 三階建ての二世帯住宅に張られた『福田』という表札を確認してから門扉のインターホンを押す。玄関のドアが開いて、紺色のポロシャツを着た老人がきびきびとした動きで門扉までやってきた。

 笑顔がまぶしい好々爺である福田老人は、まともに用件も聞かず今江を室内に招きいれた。家の中では背中が曲がっておりながらもこれまたきびきびと動く福田老婦人が、畳敷きの和室に大量の菓子と熱い緑茶を用意していた。世間話を経てひと段落したところで、福田老婦人が思い出したように訪ねた。

 「それで。今江さんはどんな御用でうちにいらしたんかな」

 「あらら。お話が楽しくて本題を忘れてしまうところでした」

 本当に世間話に我を忘れていたわけではない。今江は老夫婦が話し相手を求めていることを見抜いていた。相手に気分よく話してもらえば、きさらぎ荘のことも気分よく話してくれるだろうと期待したにすぎない。

 「十五年ほど前にきさらぎ荘に住んでいる九重ここのえさんにお世話になったものでして。久しぶりに近くに来たので、アパートに行ってみたのですがすでに取り壊されていたわけです」

 「きさらぎ荘は昭和の時代から続くおんぼろアパートだったからね。改修なんかせずに取り壊しちまったんだよ」

 三杯目の緑茶をすすりながら福田老人が答えた。

 「それでなに。十五年くらい前に? ここのえ? 九重なんて住人はいたかね」

 福田夫妻は顔を見合わせて同じ方向に首を曲げた。

 今江は両ひざの上に手を置いて身を乗り出した。

 「借主の名前は九重めぐみさん。あいちゃんという娘さんと二人で暮していたはずです」

 「あぁ! 愛ちゃん! 九重さんって愛ちゃんのことか」

 老婦人が両手を叩く。今江もつられて両手を叩いた。

 「覚えてるよー。えらく()()()()お母さんでね、愛ちゃんもお母さんに似てけっこい子だったわ」

 「けっこい?」

 「べっぴんさんってこと。テレビの子役みたいで本当にかわいかったよ愛ちゃんは。それでなに。あのお母さんはめぐみさんだっけ。恵さんにお世話になったってことは、あんたも夜の商売をしてんの」

 かつらからの情報に九重愛の母親の職業については何も書かれていなかった。なるほど、九重恵は水商売で生計を立てていたのか。今江は老婦人の問いかけに逡巡の間もなくうなずいた。

 「はい。今は辞めて東京の会社・・に勤めています。今日は出張で名古屋まで来たんですよ」

 「なるほどねー。しかしあんた恵さんとはずいぶん懐かしい名前をもってきたね。あそこは母子家庭だったでしょ、ずいぶんと苦労していたみたいだよ。母親は仕事があるから帰りは遅くなるじゃない、愛ちゃんは小さいのに夜遅くまで家に一人でおったみたいで、かわいそうだったよ。本音をいえばうちの家で預かってあげればよかったけど、愛ちゃんがいたころは孫たちの受験が重なっていてね、よその子どもを預かるなんてとんでもないって嫁が反対したんだよ」

 「あぁ、おれも思い出したよ。たしか愛ちゃんが小学一年生になった年に東京に引っ越したんだった。お母さんに男ができたとかいってね、その男の出向が終わって本社のある東京に帰るとかなんとか。せっかく小学校にあがって新しい友達ができたばっかりなのにって、お前ぷりぷり怒ってたじゃないか」

 老人は『かわいそうだねぇ』と重い息を吐き出してからかりんとうを口にいれた。

 「わたしは愛ちゃんとはあまり会っていないのですが、お二人からみて愛ちゃんはどんな子どもでした」

 「さっきもいったけど……えらいけっこい子どもだったよ。だけどね、無口でめったに笑わない。無愛想な子どもだった。いつもお腹を空かせていたみたいで、お菓子なんかをあげると、無表情でボリボリ食べていたよ。家ではろくなものを食べてなかったんじゃないかね」

 「当時の九重さんと親しかった方はご存じないですか。お母さんでなく、愛ちゃんと親しかった方でも」

 「どうだろうねぇ。あの恵さんがご近所づきあいをしていたとは思えないね。愛ちゃんと仲のいい友達もいたのかどうかわからないよ」

 「あ。教会に行けば知っているひとがいるかもしれないよ」

 福田老人がぱちんと両手をたたいた。

 「ここの近くに佐倉さくら教会ってプロテスタントの教会があるんだよ。そこの教会は昔から毎月のように子ども向けのイベントを開いていてね。愛ちゃんも小学校にあがってからはしょっちゅう教会に遊びに行っていたって聞いたことがある。教会のひとが何か知っているかもしれないね」

 「その教会ってどこにあります」

 今江は教えられた住所を手帳に書きこんだ。



 2

 福田家から徒歩十五分ほどの敷地に佐倉田教会はあった。

 敷地を囲う生垣の向こうには、ジャングルジムや砂場、サッカーゴールといった遊具がおかれた公園になっている。公園の左側には赤いレンガに覆われた二階建ての西洋風教会が建っていた。尖塔の頂上には白い十字架が伸びており、公園に面した壁面には円形のステンドグラスが貼られている。

 公園の入り口に立つ今江の横を短パンの子どもたちが駆け抜けていった。そのうちのひとりがサッカーボールを転がすと、子どもたちはサッカーに興じ始めた。時刻は一五時を回っている。小学校の授業が終わったころだ。

 今江はサッカーの邪魔にならないよう生垣のそばを通って教会へ向かった。公園に面した壁面の一階に両開きのドアがある。そのドアが開き、ウィンドブレーカーを着た男がほうきとちり取りをもって現れた。

 「どうもこんにちは」

 男は今江を見て丁寧に頭をさげた。

 「突然申し訳ありません。ずいぶん昔の話になるんですけど……十五年ほど前にこちらの教会によく遊びにきていた九重愛ちゃんをご存じないですか」

 「十五年前ですか」

 男はあごをかきながら記憶をたどっているようだった。

 「難しいですね。昨日の晩御飯だって思い出すのが難しくなってきているというのに。十五年前だなんて。その方はいま何歳なんですか」

 「二十一歳です。小学校に入学すると同時にこちらの教会のイベントに参加するようになったのですが、その年のうちに東京へ引っ越しされたのです」

 「東京へ引っ越し。あぁ。愛ちゃん? 母が気にかけていたあの女の子のことですか」

 男は首が取れそうなほど大きくうなずき、『思い出した思い出した』とくり返した。

 「愛ちゃんね。はいはい。覚えていますよ。あれ、愛ちゃんがどうかしましたか。あの子、元気でやっていますか」

 男の名前は牧野まきのたくみ。佐倉田教会で牧師を務めている四十代の男だった。

 「なるほど。愛ちゃんのお母さまの行方を探されているわけですか」

 教会の客間に通してもらった今江は、牧野に福田老夫婦に伝えたものと同じ虚偽の事情を話した。

 「わたしの記憶している限りでは、愛ちゃんのお母さまがこちらにお見えになったことはありません。もしあれば、母が黙っているはずがありませんから」

 「あの、牧野さんのお母さまが愛ちゃんと何か関係があるのですか」

 今江はホットコーヒーが注がれたカップを両手で包んだ。寒空の下を歩いてきたので身体が冷えきっていた。

 「実はわたしは当教会の三代目牧師でして、先代はわたしの父が、そして母はシスターのまとめ役として働いていました」

 牧野は過去を懐かしむようにほほえんでみせた。

 「うちの教会は主の教えを布教するよりも市民にいこいの場を提供することを第一義的に考えて設立されました。となりにある公園はその一環です。キリスト教を信仰しないものにも心の安らぎを与えたもう。信じる者は救われるなんて嘘っぱちですよ。信じぬものも救っちゃる。我らが主は寛大なのです。あぁ失礼。脱線しましたね」

 牧野は自身のコーヒーに角砂糖を四つ入れて美味そうに口にした。

 「三十年ほど前でしょうか。市民の憩いの場として公園を解放するだけではなく、この公園を使って無料のイベントを行ってはどうかと母が提案しました。キリスト教と関係のない内容でもかまわない。春ならばひなまつり。夏ならばスイカ割り。秋には大量のサンマを買って七輪で焼いて皆で食べたこともあります。そして冬はもちろんクリスマス会。このイベントに愛ちゃんはよく参加してくれていたんですよ」

 「愛ちゃんは小学校にあがってから、よく遊びに来るようになったとうかがいました。よっぽどこちらの教会が好きだったのでしょうね」

 今江がいうと、牧野は『恐縮です』とくり返してあたまを下げた。牧師としての威厳は感じられない。しかしそれは悪いことではなかろう。

 「あのころは今よりもスタッフが多かったので毎月一回はイベントを催しておりました。四月のイベントに……なんのイベントだったかは忘れてしまいましたが、愛ちゃんがはじめて来てくれて、母は愛ちゃんのことをやたらと気にかけておりました。イベントの最中もずっとそばに愛ちゃんを置いておいて、分け隔てなく子どもたちに接する母にしては珍しいと思いましたよ。あぁ、そうだ」

 牧野は立ち上がると、後ろに置かれた棚からアルバムを持ってきた。

 「過去のイベントの様子は写真に撮って記録しているんです。十五年前……二〇〇六年の四月は……あった」

 牧野はアルバムを開いて今江にさしだした。光沢紙に印刷された写真が一ページにつき三枚収まっている。

 「この年の四月は復活祭という名目で卵料理をふるまうイベントを行ったんですよ。養鶏所を運営されている信徒の方がトラックいっぱいの卵を用意してくださって。野外キッチンでシスターやご近所のママさんたちみんなが、思いつく限りの卵料理を作ってくれました」

 写真にはエプロンをつけた女性たちが料理をしている姿と、笑顔でオムレツをほうばる子どもたちの姿が映っていた。

 「ほら、これが母です」

 牧野は一枚の写真をアルバムのポケットから取り出した。その写真は木造家屋の縁側に座る修道服の女性にフォーカスが当てられていた。

 「公園をはさんで教会の反対側に家があったんです。五年前に取り壊してしまって今はもうありませんけどね。子どものころ、牧師のくせに和風家屋に住むなんておかしいと文句を言ったら母に思いっきり叩かれた記憶がありますよ。あっはっは」

 「この横にいるのが……」

 今江はシスターのそばに座る女の子を指さした。女の子は左手にもったゆで卵のカラを必死になって剝いており、それをシスターが慈悲に溢れた笑顔で見つめている。

 「愛ちゃんですね」

 感嘆に包まれて今江は返事ができなかった。写真に映る愛の姿。無表情でゆで卵に向かい合う愛の姿。福田夫人が『()()()()』と称した理由がよくわかった。愛の顔と体型は、六歳にしてはあまりにも()()過ぎていた。

 綿毛のような白い肌。黒目がちで大きな瞳。顔も体も小さいが、細い手足は人形のようにすらりと美しく伸びている。ほんのりと桃色に染まった細く整った唇。カラスの濡れ羽色の黒髪は肩のあたりまでストレートに伸びていた。

 「原宿を歩かせたら五秒でスカウトが飛びついてきそう」

 今江はぽつりとつぶやいた。

 「見てください。こっちの写真にも母と愛ちゃんがいっしょに映っています。それから次の写真は……」

 牧野は別のページを開いて今江に差し出すと、他のアルバムの冊子を開いて目当てのページを探した。

 最終的に牧野は彼の母親と愛がいっしょになって映る四枚の写真を今江にみせた。四月の復活祭。五月の子どもの日。六月のフリーマーケット。七月の工作大会。

 五月の子どもの日の写真では、スーツを着た身なりのいい老人が縁側に座る牧野の母に頭を下げながら歩み寄っている。牧野の母は笑顔で老人を迎えているが、傍らの愛は警戒心のこもった目で老人を見つめている。男性は当時の区長で、区民が集まる教会のイベントにあいさつ周りで訪れていたとのことだった。

 六月のフリーマーケットの写真では、牧野の母は他の写真と異なり焦燥した表情で縁側に座り何か声を張り上げていた。見ると縁側から離れたところで小さな男の子がしりもちをついて泣きじゃくっている。男の子に駆け寄る修道服姿の女性が写真の左側に見切れていた。愛は写真の中で、牧野の母の横でぼうっと座っている。

 そして七月の工作大会の写真では、愛は縁側から数メートル離れた場所にいた。台においた細長い木材を左足で押さえつけ、両手で握ったのこぎりで切ろうと苦心している。刃物をもった愛のことが心配なのか、縁側に座った牧野の母は前のめりになり不安そうな表情で愛を見つめている。

 すべてのイベントの写真で牧野の母は愛のそばにいた。どの写真でも愛は無表情を貫いていた。

 「母は……愛ちゃんの右腕にタバコの焼き痕があるといっていました」

 その顔に陰を落として牧野はいった。

 今江は眉をひそめ、『まさか』と口にした。

 「四月の復活祭の時に、偶然近くに来た愛ちゃんが腕を上げた際に、脇のあたりに見つけたそうです。それから母は個人的に愛ちゃんの家庭状況を調べ……母子家庭だったそうですね。お母さんは夜の商売をされていて、女手ひとつで愛ちゃんを育てていたと。愛ちゃんの母親は愛ちゃんを虐待していたに違いありません。母は愛ちゃんと会うと気をつけて彼女の身体を確認しました。シャツと髪に隠れるうなじや、スニーカーで隠れるくるぶしの部分にも焼き痕があったそうです。愛ちゃんの母親は、他人の目につかないところを狙っていたようですね」

 「そうでしたか」

 「母は何とかして虐待をやめさせたいと考えましたが、宗教者であるがゆえに直接的な行動をとることに疑問を抱いていました。家族の絆を大切にする主の使いである自分が、自ら母と子の絆を裂くことになるのではないか。とにかく慎重にことを運ぼうと考えていたうちに、愛ちゃんは東京へ引っ越してしまいました。残念なことです」

 「なるほど。あの、お母さまからお話をうかがうことはできますか」

 「申しわけありません。母は五年前に亡くなりました」

 牧野は瞳を閉じて小さく頭をさげた。

 「引っ越しのことも後になって他人から聞いたんです。九重さんが東京のどこに引っ越したのかはわかりません。愛ちゃんもそれほど友達はいなかったみたいだし、今さら東京のどこに引っ越したかなんて覚えている同級生はいませんよ。いや、申し訳ない。結局、何も力になれませんで」

 牧野はハンカチで汗をふきながらしきりに頭を下げた。

 「いえ、いいんです。あの、もしよろしかったら。この写真、スマホで撮影してもいいですか」

 今江の要望を牧野は許可した。今江は四枚の写真をスマート―フォンにおさめ、教会をあとにした。

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