第三章
1
一同は腰をあげ、鳥羽を先頭に居間から食堂へと移った。
食堂は別荘の西側にあり、居間とは間仕切り壁をはさみ隣り合っている。居間の壁がウッドパネルが貼られていたのに対して、食堂は白い草花模様のシックな壁紙に囲われていた。
縦に長い長方形の形をした食堂に、これまた同じく縦に長い巨大なテーブルが構えてある。テーブルクロスの上にはすでに食器やカトラリーが並んでいた。
「お好きな席へどうぞ」
そういって鳥羽は南側の短い辺の席についた。一般的な席順のマナーにおいては入り口の近くが下座でそこから離れると上座となる。しかしこの食堂には居間とをつなぐドア二枚分の開口部と、いま鳥羽が座った席の後ろにあるスライド式のドアと二つの入り口が用意されている。鳥羽が座った席が下座ということだろうか。しかし、謙虚さの裏側に不遜な態度を忍ばせる鳥羽という男なら、平然と上座に着いてもおかしくはない。須貝はそんなことを考えながら、周りの様子をうかがった。
「うちここ」
鳥羽の次に動いたのはLAWだった。LAWは長方形のテーブルの短辺――鳥羽と向かい合う反対側の席に着いた。
LAWの右となり、長辺の側に氷織が無言で座る。須貝は慌てて氷織の横に着いた。
鳥羽の右となりに彰と優里が並んで座る。建山は鳥羽の左となりに座り、都は 「それじゃあぼくは~」と顔を左右に振ってから優里の横に落ち着いた。ブラックスーツの神崎は、部屋のすみに立ち、にやついた表情で手を後ろに組んでいる。
メイドの三崎がスライド式のドアを開けて奥の部屋へと入っていく。その部屋は調理台や冷蔵庫が置かれたキッチンだった。換気扇の音を背に三崎は、チーズが盛られた皿をもって戻ってきた。三崎がひとりで給仕を進めており、神崎は手伝うそぶりをみせない。
「愛さんも食堂にいらっしゃるのですか」
氷織が訊ねた。
「いえ。今日の昼食は部屋でとらせます。ふだんはこの食堂でいっしょに食事をとるのですが、なにぶん神経質な性格ですので」
そういって鳥羽はとなりに座る彰を横目でにらみつけた。彰は鳥羽の視線に気づかず、ポケットから取り出したスマートフォンを操作している。
使用人の三崎がキッチンにもどり、ボトルワインを手に戻ってくる。その後ろに、三崎と同じ服装の女性が続いた。黒髪をシニョンでまとめたその女性は、眼鏡の奥にある丸い瞳をきょろきょろと落ち着きなく動かしている。
「こちらは使用人の二ノ宮です。みなさんにご挨拶を」
二ノ宮と紹介された使用人は頭を下げた。
「二ノ宮。愛は部屋で食事をさせる。給仕が終わったら、三崎と二人で運んでやってくれ」
「はい。わかりました」
ソプラノボイスで二ノ宮はうなずく。二ノ宮と三崎は、慣れた手つきで給仕を進めた。あっという間にテーブルは豪勢な食事で飾られた。
昼食のメインはクリームシチューだった。照り輝くシチューの中に色とりどりの野菜とぶつ切りの鶏肉が沈んでいる。大きめのプレートにはグリーンサラダが盛られ、その横に二枚付けのフライが並んでいる。きつね色の衣をまとったフライの中身はタラだと三崎が説明をした。テーブルの中央にはパンが盛られた皿と、直径三十センチはあろう巨大なスパニッシュオムレツが乗った皿が置いてある。スパニッシュオムレツは八等分に切り分けてあるが、もとが巨大なので一切れで十分なボリュームだ。
鳥羽の乾杯の音頭を皮切りに食事が始まった。二人の使用人が鳥羽のそばにより『愛様のところへ行ってきます』と告げてキッチンへと入る。キッチンの中で二人の使用人は盆に食事を乗せはじめた。
料理はどれも絶品で、胃が暖まり始めた須貝は自ら口火を切った。
「食事はいつも、三崎さんたちが?」
家人ではない都が『その通り』と答えた。
「毎食二ノ宮さんと三崎さんが作ってくれるんだよ。たまには神崎さんも手伝えばいいのに」
銅像のように立ちつくしている神崎は、静かに首を横にふった。
「料理は苦手です。力仕事が専門ですから。まぁ、肉をばらすことには自信がありますけどね」
「なるほど。適材適所ってやつだ。はっはっは」
都は陽気に笑いながらグラスのワインを飲み干した。それを見て鳥羽が横に座る建山の右手の甲を静かにたたく。鳥羽の視線の先に空になった都のグラスがあることに気づくと、建山は慌ててそのグラスにワインを注いだ。
数分後、二人の使用人が戻ってきた。
「どんな様子だ」
鳥羽が訊ねる。
「とくには何も。お客様のことをお伝えしましたが、平然としたご様子でした」
「探偵だけでなく、おれたちのことも伝えたのか」
シチューの中にスプーンを沈ませながら彰がいった。
「お伝えしました」
「なんといっていた」
「いえ、特になにも」
「なにも?」
彰はスプーンから手を離すと、背もたれに身体をあずけてため息をついた。
「くそ、馬鹿にしやがって」
「下品なことばを使うな」
視線を向けることなく鳥羽がいった。
「そんな言い方はないだろ。不愉快だな」
「不愉快なのはこっちだ。招きもせずに勝手に来たのはどこのどいつだ」
「おれは鳥羽家の一員だ。鳥羽家の別荘を使う権利はおれにだってある」
「会社の仕事はどうした。専務って仕事はそんなにも暇なのか」
「“社長”にはいわれたくないな」
「わたしは前々からこの週末は別荘で過ごすことに決めていた。おまえみたいに行き当たりばったりで予定を変えられるほどヒマじゃないんだ」
「そんないい方は――」
「おかわり」
一触即発の気配を、たった四文字の声が霧散させた。
声の主はLAWだった。LAWは空になったシチューの皿を二ノ宮に向けていた。
「まったりした味でおいしいわぁ。おかわりがあるんなら、いただきたいんやけど」
二ノ宮と三崎は互いに視線を交わすと、そろって表情をくもらせた。
「あの、実は皆さんにお出ししたもので全部でして、おかわりはないのです」
「えー」
LAWが不満の声をあげる。氷織は『静かにしなさい』と小声で注意した。
「申しわけありません。普段は余分に作っているんですが、今日はその……」
「予期せぬ来訪者のせいだな」
鳥羽がふたたび彰をにらみつけた。
「二人分くらいはシチューのおかわりもあったはずなのに。二ノ宮。夕食は多めに頼むよ」
「あの……」
おずおずとした声がテーブルの上を力なく飛んだ。彰の横に座る優里がシチュー皿をさしだした。
「よければわたしのをどうぞ。まだ口はつけてませんので」
「ほんま? おおきになぁ」
LAWは身体を伸ばすと、テーブル越しにシチュー皿を受けとった。
「食欲がないの? 何か病気? 大丈夫?」
彰がまゆをひそめて優里にたずねる。優里は何も答えず、所在ない様子でフォークを取ると、サラダをつつき始めた。
LAWは優里のシチューを確保すると、テーブルの中央の皿から丸いパンを二個とって自分の小皿にのせた。見ると小皿にはスパニッシュオムレツがまるまる一切れ乗っている。しかしつい先ほど、スパニッシュオムレツの最後のひと切れを口にするLAWを須貝は見た。ということはそのオムレツは誰のものだ。ところで自分はすでにスパニッシュオムレツを食べただろうかと、須貝は自分の空っぽの皿をジッと見つめた。
「妹さんは健啖家ですな」
うす笑いを浮かべながら鳥羽は氷織に声をかけた。氷織は会釈を返すにとどめる。
「はっはっは。健啖家で結構。よろしいではないですか!」
フライがささったフォークをかかげながら都が声をあげた。
「だいたい最近の女性は食が細すぎる! 健全な身体を保つためには何よりも食事が大切だということをわかっていない。しっかり食べて、しっかり太る。そうしないと、げんきな赤ちゃんは産めませんとも。はっはっは」
都の発言に鳥羽と建山が下品な笑い声を合わせる。彰は声には出さないものの、舐めるような目で給仕に走る二ノ宮と三崎を追っていた。
パキリと小さな炸裂音が卓上に響いた。男たちは笑い声を止め、音のした方向――レタスの芯を両手で二つに割った氷織を見つめた。
「失礼しました」
抑揚のない声で氷織がいう。
「硬かったもので」
2
昼食を終えた氷織たち探偵事務所一行は、使用人の二ノ宮の案内で、別荘本棟の東側に建つ三階建ての客室棟へとやってきた。
「Ma・foi(マ・フォイ)。おてまいりのごちそうやったねー。満足満足」
嬉々とした表情のLAWは、両手を広げて左右にふらつきながらベッドの上に倒れこんだ。一五〇センチに満たない小さな身体がマットレスに跳ね上げられて数センチ浮かんだ。
客室棟二階の北側にある二つの部屋のうち、氷織とLAWは最奥にある角部屋をあてがわれた。ツインルームの室内を見回しながら氷織はうなずく。二台のベッドと二人用の小さなテーブル。ローボードの上の液晶テレビは七五型と部屋のサイズのわりに大型だ。
「あらすごい。お風呂まである」
液晶テレビの横にあるドアを開けると、清潔感のある洗面所と浴室があった。
「お風呂があるのはこの部屋だけ?」
氷織が訊ねると、案内役の二ノ宮は『いえ』と首をふった。
「洗面所と浴室、それからトイレといった水回りは各部屋に設けられております。あ、失礼。一階にある使用人の個室にはございません。わたしたちは本棟の浴室を使わせていただいております」
須貝は窓に近づきレースの遮光カーテンを開いた。一枚の窓の前に細い幹の木が伸びており、細い枝に止まっていた白い鳥が須貝の姿に驚き飛んでいった。
「あれ」
須貝の視界の左端になにかが映った。別の窓に顔をつけて遠くを見る。島の淵のすぐそばに、木製の小屋が建っていることに須貝は気づいた。別荘からは数十メートルは離れており、別荘の人間が使うにしては不便な位置にあった。
「二ノ宮さん。あの小屋は」
「小屋? あぁ。ただの物置ですよ。旦那さまがここに別荘を建てられる前からあったそうです。一度だけわたしも入ったことがありますけど、ガラクタばかりでほこりっぽいですよ」
「ふぅん」
須貝は氷織とLAWの部屋を出ると、同じく二階の南側にある部屋に二ノ宮の案内で向かった。
二階の南側には四つの部屋が並んでおり、どの部屋も氷織たちがいるツインルームの半分ほどの広さとのことだった。須貝はあてがわれた部屋に入る。ベッドは一台で、テレビは先の部屋に比べると小さい。トイレと洗面所はあるが、浴室に湯船はなく半畳ほどのシャワースペースしかなかった。
「狭いかもしれませんが、ご容赦ください」
二ノ宮は顔を曇らせてあたまをさげた。須貝は笑いながら片手を左右にふる。
「とんでもない。都心のビジネスホテルみたいで、むしろぼくにはこちらの方が快適です」
「わたくしども使用人は、夜間は一階の個室におりますので、何かありましたら遠慮なくお申しつけください」
「一階に客室はないのかな」
「ございません。南側の個室にわたくし、三崎、神崎、それからこの週末は建山がおりまして、北側は洗濯室と休憩室がございます」
「なるほど。それで、彰さんたちはどこに泊まるの」
「彰さまご夫婦には二階のツインルームを使っていただきます。恒河沙さまたちのお隣の部屋になります」
「本棟じゃないんだ」
「本棟には旦那さまがお泊りになられる部屋しかございません」
「そっか。あれ。てことはつまり、愛さんも客室棟にいるってこと」
須貝がいうと、二ノ宮はバツの悪そうな顔をしてうなずいた。
「三階の北側、角部屋にいらっしゃいます。須貝さま。くれぐれも許可なく三階へ立ち入ることはご遠慮ください。愛さまは……お会いになればわかりますが、非常にむずかしい精神状態にあります。何かトラブルが起きてからでは遅いのです」
「わかった。許可なく三階には立ち入らない」
「ありがとうございます。ではわたしはこれで」
二ノ宮が部屋を出てから数分後。須貝は打ち合わせのため、氷織とLAWの部屋へともどった。
「いやな雰囲気の家族でしたね」
ドアを閉め、いの一番に須貝は悪態をついた。LAWはベッドに横たわり天井を見つめている。氷織は荷物の整理をしていたのか、四つの閉じたスーツケースの前で少し疲れた表情をしていた。
「愛さんとお話しできるのは一五時から。今は……一三時半だから、だいぶ時間がありますね」
「とっとと打ち合わせを終わらせましょう。LAWもその方がいいでしょう」
「そうやね」
LAWは上半身を起こすと、ベッドの上でちょこんと正座を組んだ。
「まず確認をしておきたいのですが。われわれの最終到達点はどこなのでしょうか」
須貝が訊ねる。
「二週間前に愛さんは『殺してやる』と発言した。そんな愛さんと会って、『殺人なんかやめなさい』と諭して納得してもうらのですか」
「そこまでやる必要はない。というか精神科医でもないわたしたちに、自分たちの発言が愛さんに通じたのかなんて判断しようがない。やるorやらない以前に、その行動が成功なのか失敗なのかがわからないでしょ」
氷織はテーブルに片肘をつき、口をへの字に曲げてみせた。
「わたしたちの最終到達点は微風を起こすこと」
「微風?」
「愛さんと話し、家族と仲良くするよう勧め、DIDが早く治るよう祈っていると伝える。鳥羽氏には、『愛は探偵と話をして落ち着いた。おそらく殺人を犯すつもりはなくなっただろう』と納得してもらう。わたしたちは特別なことはせず、ただ鳥羽一族のほほに触れる風になる。重たいものを吹き飛ばす力はないけれど、たしかにそこに存在し、背中から前へと抜けていく優しい風。それが微風。それがわたしたちの最終到達点」
「なぁなぁで終わらせるというわけですか」
「土台から無理な依頼なの。もちはもち屋。DIDのことは専門家に任せるべき。探偵を雇うなんてばかげた話よ」
「ええんやない」
口元を羽織りの袖で隠しながらLAWがつぶやいた。
「DID、治してやったらえぇやん。ひぃねえならできるやろ」
「LAW」
語気を強めて氷織がいった。しかし妹は前のめりになると、挑発的に言葉を続けた。
「須貝。ひいねぇは二か月前までどこで働いてたか知っとる? 大学病院や。大学病院で看護師をしとったの」
須貝は目を丸くした……ふりをした。二か月前に都内の大学病院で起きた殺人事件のことはすでに犬養から聞き及んでいた。スパイであるという自負がある以上、ここは始めて聞いたふりをしなければならない。
「精神科に務めていらしたのですか」
「手術室の担当看護師。精神科のことは何も知らない」
「何も知らないってのは嘘や。須貝、復習しよ。恒河沙理人は探偵の技能を四つに分けて体系化した。ひぃねえは四つのうちどの技能に特化した探偵や?」
「知識。知識の探偵でしたよね」
「正解。森羅万象の知識をお皺さんたっぷりの脳みそにぶち込んだのが恒河沙氷織って探偵や。そない元看護士の探偵が、医療いう自身のお仕事の範疇にあるDIDについて知らないはずがないやろ。手術室とは関係なくとも、精神病の勉強をしたことはあるはずや」
氷織は垂れた前髪をいじりだした。
「たしかに勉強したことはある。だけどだいぶ昔のことで、いまの精神科の常識とは違うかも。それに……」
氷織の声がか細くなっていく。二か月前に殺人鬼と対峙した時の勇猛な姿勢は、いまの氷織にはなかった。
「わたしは医療の世界に疲れて、医療を捨てて探偵事務所にもどってきた。一度医療を捨てた人間が、医療を武器に使うなんて、それってどうなの。正しいの。わたしはわからない」
「そっか」
LAWはベッドから飛び降りると、氷織に近寄った。
「ひぃねえがそこまで思い詰めていたとはなぁ。勝手なこといってごめんなさい。かんにんして。うん。治療するって方向性はなし。穏便に、なぁなぁ根性でこの別荘を去ることにしよ」
LAWは氷織の肩を励ますように強くたたいた。氷織は弱々しくほほえみ、再びベッドに飛びこむ妹を見つめた。
「ですが、実際にこの中でDIDについて勉強をしているのは、氷織さんだけなんですよね。ぼくは全くの専門外ですし、LAWさんは?」
「右に同じの専門外」
「そうなると愛さんと上手く話ができるのは氷織さんだけということになります。ぼくやLAWさんは、DIDの人間とどうやって話せばいいのかはわかりません」
「せやねー」
「だから氷織さんには、探偵の仕事を全うするために医療の知識を活用してもらわないと。愛さんを助けるためではなく、恒河沙探偵事務所の依頼を成功させるために、その知識を使っていただかないといけません。それは医療人ではなく、探偵としての仕事です。これなら、納得していただけますね」
「……それもそうね」
氷織はふっ切れたように鼻で笑った。
「引退した大工が犬小屋を建てるようなものかしら」
「あは。元気になってくれて嬉しいわ。それじゃあひぃねえ。もうちっと具体的に、DIDについて教えて」
「わかった。ちょっと難しい話になるから、三崎さんか二ノ宮さんにお茶でももらってくるね」
氷織が腰を浮かしたところで、須貝は素早く立ち上がり『自分が――』と口にした。しかし氷織は首をふって須貝を遮ると、軽やかな足取りで部屋の外に出た。
「須貝」
天井を見つめたままLAWがいう。
「援護射撃、おおきにな」
感謝の言葉を伝えられた。たったそれだけの事実に須貝は顔を赤くした。
「ひぃねえ、カッコいいやろ。長男のほぅにいはうちらに甘いところがあるから、長女のじぶんはしっかりしなきゃと気張ってはる」
「お姉ちゃんは大変ですね」
須貝は笑った。しかしLAWは笑わなかった。数秒の沈黙。そしてLAWはつぶやいた。
「ひぃねえは壊れかけとる」
「……うん?」
須貝は呆けた声を返した。
「外面を気にして感情を発露せんと人間は壊れる。人間ってのは社会的な生物でな、誰かに自分の本音を聞いてもらわなだめなんや。ひぃねえはカッコいいけど、社会的な生物としては未熟や。未熟だから二か月前の事件で負った傷がまだ癒えてへん。崩れかけとる。壊れかけとる。だから協力して。うちといっしょに、ひぃねえを護って」
「も、もちろんです!」
須貝は力強くうなずいた。力強くうなずき、自身が公安のスパイとしてLAWと接していることを思い出す。自己嫌悪で顔がひくつく。そしてその表情をいつの間にか上半身を起こしたLAWが、猫のような目で見つめていた。
3
「DIDこと解離性同一性障害は、一般的には多重人格という言葉で認知されている。須貝くんは多重人格についてどういうイメージがある?」
ベージュのロングスカートの下で足を組みながら氷織がいった。
「漫画とかドラマのイメージで知った程度ですね。ひとつの身体に複数の人格。性別も年齢もそのひと本来のものとは異なる人格が登場して、周りのひとからしたら、その人の性格が変わったか、頭がおかしくなったとしか思えない状態ですよね」
「そう。まるでフィクションのような症状。それゆえ他人に理解されず、演技をしているのではないかと詐病扱いされることも多々ある」
他人の病気の苦しみを理解することは難しい。何故ならその苦しみは万人に起こりうるものではなく、仮に同じ病を発症したとしても、その苦しみというリアルな痛みは、その患者にしか知り得ない経験なのだから。
「何が原因で発症するわけ」
ベッドに腰をかけ、黒いストッキングが走る両脚をぶらつかせながらLAWがたずねた。
「幼少期に受けた虐待やいじめといった、過大な精神的なストレスが原因といわれている」
「わからんな。ややこの時に傷ついたらからって、なんで別の人格がポンポコ生まれるん」
「すこし説明が飛躍していたかも。前提として、わたしたちだけでなく現代社会の人間は皆DIDを患う可能性があったといえるの」
「え。どういう意味です」
須貝が顔をしかめる。テーブルに置かれた緑茶の湯飲みから湯気が立っていた。
「幼少期の人間はそれが人間である以上、日常の中で何かしらの精神的なストレスを必ず負う。友だちや兄弟にイジワルをされたり、嫌いな食べものを無理やり食べさせられたり、犬にかまれたり猫に引っかかれたりとか。そういった耐えがたい経験――トラウマは、優しく受容的な他者との対話のなかで、その子どもの中に受け入れられていくの。受容的な他者っていうのは例えるならその子を想う優しい親のことね。子どもは怪我をして『痛い! 辛い!』と親に伝える。親は子どもの苦しみに理解を示し『かわいそうに。苦しいね』と、その子どもを慰めて苦しみの存在を認める。こうやって他人から自分の精神状態を認められることで、幼少期の子どもは苦しみを自分のものとして受け入れるようになるの。人生には苦しみが起こり得るものであり、それは受け入れざるを得ないと経験的に理解するわけ」
――だけど――と、氷織は表情を暗くする。
「あまりにも過大なストレスを受け、他者にその苦しみを理解されなかった子ども。自分の苦しみの声に耳を傾けてくれる優しく受容的な他者――親が周りにいなかった子ども。そういった子どもは、その苦しみをどう処理すればいいのかわからず、拒絶する」
「拒絶?」
須貝のほほがひくりと跳ねた。
「こんな苦しみは自分のものではない。こんな辛いことが自分に起こるはずがない。自分に起きた恐ろしい経験と記憶は、非自己の経験として処理される。非自己。では、その苦しみは誰のもの? もちろん他人のものとなる。しかしそんな人間は当然ながら現実世界には存在しない。存在しないならば作ればいい。こうしてひとつの身体に他人が産まれる。苦しみを拒絶するため、苦しみを受け入れてくれる他人を無自覚のうちに自分のなかに産みだすわけ」
「誰だって子どものころに辛い経験をする。DIDになるかならないかは、その辛い経験について慰めてくれる大人が周りにいるかいないかの違いってことですね。なるほど。それなら確かに、現代社会の人間が皆DIDを患う可能性があるといえるわけだ」
「もちろん、同一のトラウマを経験し、受け入れてもらえなかったからといって、すべてのひとがDIDを患うわけじゃない。精神の許容量はひとによって異なるから、同じトラウマでもDIDになるひともいれば、ならない人もいる。虐待を受けたからといって、必ずDIDを発症するわけではないからね」
氷織は熱い緑茶をひと口すすって、重苦しい息を吐いた。
「もっとも、DIDをはじめ精神医療は非常に研究が難しい分野で、いまわたしが説明した説もそこそこの説得力はあるけど、絶対というわけではないの」
あまり過信しないでちょうだい。そう氷織は付け加えた。
「九重愛さんは、幼少期に何かしらのトラウマを負い、DIDを発症させたわけですか。それはどんなトラウマだったんでしょう。鳥羽さんは知っているのでしょうか」
「知っているかもしれない。だけど、教えてくれるとも思えない。鳥羽さんは一流企業の大社長。自分の娘の過去の傷を他人に教えようとは思わないはず」
「それもそうか」
須貝は頭の後ろで両手を組んで、椅子の上の身体をだらりと傾けた。
「まぁ最初に話したとおり、われわれは愛さんの治療のためにここに来たわけじゃないし、そんなことを知る必要はありませんよね」
「たしかに知る必要はないわなぁ」
LAWはそういうと、左手の小指を前歯で噛み、舌をちろりと転がして笑った。
「知る必要はないけれど、知ることは武器になる。そうやね、ひぃねえ」
氷織は何も応えない。静かに緑茶をすするだけ。
須貝は恒河沙の姉妹の表情を代わる代わる見比べた。容姿も性格もまったく異なるこの姉妹。しかし、人智を越えた魔性――とでもいえばいいのだろうか。なんとファジー《曖昧》なものいいだ――、そんな名状しがたい魅力については、この姉妹に共通する性質のひとつといえるだろう。
4
LAWが眠気を訴えベッドに潜ったので、須貝は氷織たちの部屋を出ることにした。
「三時前に二ノ宮さんがこの部屋にきて、愛さんのところまで案内してくれるから」
廊下に出た須貝に、ドアの内側から氷織はいった。
「その時間にまたここに来て」
「わかりました」
須貝は腕時計をみた。現在の時刻は一三時五〇分。まるまる一時間ヒマができたわけだ。自室に戻ってもすることもなし。LAWのように仮眠をとるほど眠気もないので、島の散策に向かうことにした。
客室棟の中央には一階から三階まで続く階段がある。この階段以外に建物のなかには階段はなく、エレベーターもないので別の階へ移動するには必ずこの階段を通らなければならない。
須貝は三階へと続く階段を見つめた。立ち入り禁止の看板があるわけでも、黄色いテープが侵入を拒んでいるわけでもない。だが二ノ宮に『許可なく入るな』とくぎを刺されたせいか、なんの変哲もない階段に禁忌のにおいを覚える。階段のステップに足を置くだけで、館内に警報音が響きわたるのではないか。そんな想像を『くだらない』と払拭しながら須貝は一階へと降りていった。
踊り場を回って須貝は息をのんだ。一階の階段の目の前、客室棟と本棟を結ぶ渡り廊下の前で、ブラックスーツの神崎が両手をそろえて階段を見上げていたのだ。
階段上の須貝と階段下の神崎。必然的に互いの目線が合う。神崎は両目を細めてほほえむ。
須貝は首をなでながら階段を降りた。
「お部屋は満足していただけましたか」
神崎が語りかける。須貝はあいまいにうなずいた。
「どちらへ」
「すこし島を探検しようと思いまして。ホテルとかに泊まると建物のなかを見て回りたくなるじゃないですか。ぼくだけかな」
「わかりますよ」
神崎は既に十分開いている口をさらに大きく開いた。
「えっと、神崎さんはここでなにを」
「お客様がたのために待機しております。何かご用は?」
「いえ特には」
須貝の背中に冷たい汗がつたった。三階への階段に感じていた禁忌の感覚。あれは正しい感覚だった。階段のステップを一歩上ったその瞬間、神崎は黒ヒョウの如き俊敏さで一階から駆け上がってきたことだろう。神崎は客室棟を訪れた客人が三階へと、愛のもとへと勝手に向かわないか監視していたに違いない。視るではなく聞くだから監聞か。二階の階段前にいては客人を疑っている態度が露骨だから一階で待機しているのだろう。
筋骨隆々の身体に不気味な笑みを浮かべる神崎に畏怖の念がないわけではない。しかし自分は客人のひとりであり、先方の言いつけを反故しない限りはこの使用人が自分に危害を加えるわけがない。そう考えなおし、須貝は咳ばらいをしてから神崎にいった。
「外に小屋がありましたね」
「ただの物置ですよ。おんぼろ物置」
「いいね。ボロボロな建物って好きなんです。廃墟巡りとか楽しいですよね」
「近くまで行かれるのは構いませんが。中には入れませんよ。鍵がかかっておりますので」
「鍵?」
「物置のなかはガラクタがごちゃごちゃと積みあがっております。へたに触れて怪我でもされたら大変ですので」
「なるほど。まぁ外から物置を見るだけでも楽しいから」
「もしよければ、そちらからどうぞ」
神崎は廊下の北側へと鼻を向けた。廊下の端には、勝手口のような小さなドアがあった。別荘本棟の南側にある玄関から物置まで行くよりは、このドアを通った方が移動距離が短くなる。
「ドアの外につっかけがございます。ご自由にお使いください」
使用人用の休憩室と洗濯室の前の廊下を通り、須貝は外にでるドアを開けた。ドアを開けると、潮のにおいが混ざった強風が吹きこみ、須貝の前髪をかき分けた。
細めた両目がとらえる視界には、短い緑が生い茂る地面と、その先にある例のおんぼろな物置が映っていた。
ドアの外にある敷石の上に木製のサンダルが一足だけ置いてある。スリッパからサンダルに履き替え、ドアを閉める。ドアの向こうでは、階段の前で仁王立ちで構える神崎が須貝を見つめていた。
「こわいこわい」
ドアの外で須貝の身体がぶるりと震える。神崎の笑みに恐れたわけではなく、これはたんに寒いからであって……と心中で言い訳する必要もないほどに、建物の外は寒かった。短時間で戻るつもりだったのでコートを着てこなかったことを須貝は後悔する。だが建物の中に戻りもう一度神崎と対峙するのもおっくうなので、須貝は小走りで足を進めた。
客室棟から直線距離で三十メートルほどの位置。ぼろぼろになった木材で造られた三角屋根の物置は、氷織たち姉妹にあてがわれたツインルームと同じくらいの大きさだった。
入り口のドアにはダイヤル式の南京錠がかかっている。0から9の数字がふられたダイヤルが四つ備わっており、いまは上から8398と並んでいる。試しにとドアとドア枠に連なる金具にかかっている楕円形のシャックルを引いてみるが、もちろん鍵は開かない。
須貝は物置から離れると、慎重な足取りで島の淵へと近づいた。
「うゎ!」
強風に身体を押され須貝は身体のバランスを崩した。島の淵で今の風が吹いていたら大変なことになっていたかもしれない。誰が見ているわけでもない。少し情けない恰好ではあるが、島の淵まであと一メートルというところで、地面に両ひざをつき、這いつくばって進んでいく。顔だけを出して崖下を覗きこむと、五〇メートルほどの彼方で青黒い波が岩礁に打ち付けられて白い泡を吐き出していた。島の周囲には凸凹と荒い岩壁が伸びている。
「へ、へっくしょん!」
須貝の口から強風に拮抗するほどの大きなくしゃみが飛びだした。強情になってコートを着てこなかったことを後悔しながら、須貝は別荘の方へともどっていった。
神崎と再び顔を合わせることに抵抗を覚え、須貝は本棟の玄関から別荘に入ることにした。
うす暗い玄関に入り、スリッパにはき替える。時刻は一四時一〇分。一五時まではだいぶ時間がある。自室に戻るか、それとも暖炉のある居間にでも行くか。居間には鳥羽親子や彰の妻である優里がいるかもしれない。須貝にとっては三人とも能動的に話がしたい相手というわけではないが、情報収集のために言葉を交わしてみるのも悪くはない。それに金持ちの別荘といったら高級な洋酒がつきものではないか。鳥羽の機嫌しだいでは、自身の薄給では手の届かない高級酒をちょうだいできるかもしれない。情報収集と高級酒。どちらが真の目的かはともかく、須貝は居間へと廊下を進ん――
「馬鹿げている。そんな話ってあるもんか!」
怒声が廊下の奥から聞こえてきた。
怒声は彰のものだった。居間にいる彰が声を張りあげたらしい。
居間と廊下をつなぐドアのすりガラスに人影が映る。人影はドアを少しだけ開き、声を荒げた。
「おれは納得していない。納得……できるはずがない!」
再び彰の声。ドアに手をかけているのは彰のようだ。彰と鉢合わせてきまずい思いをするのはごめんだ。須貝はそばにある部屋の中へと飛びこんだ。玄関の横にあるその部屋は、何台ものハンガーラックが置かれたクロークだった。壁にある横長の棚の上には野球帽や時計などがごちゃごちゃと置いてある。
クロークには誰もいない。須貝はドアに耳を当てて廊下の様子をうかがった。何者かが乱暴に足音を立てながらドアの前を通っていく。彰が客室棟の方へと向かったのだろう。しばらく待ってから須貝は部屋の外にでた。
誰もいない廊下を居間の方へと進んでいく。居間には鳥羽がおり、暖炉の前のソファーに身体を沈めて雑誌を読んでいた。
「おや」
鳥羽は手にしていた雑誌から目線をあげると、須貝に向かって両手を広げた。
「どうぞこちらへ。飲み物はいかがですか」
鳥羽はテーブルに湯飲みを置いていた。昼間から洋酒を嗜む趣味はないようで、須貝は少しだけ肩を落とした。
「お茶をいただけると」
「承知した。三崎」
食堂の方から使用人の三崎が足音を立てながらやってきた。洗いものをしていたのか、濡れた両手をハンドタオルで拭っている。
須貝は三崎に、『鳥羽さんと同じ飲み物を』とお願いした。
「はい。杜仲茶ですね」
須貝は何かいやな予感がした。『いえ、やっぱり紅茶を』といおうとしたが、すでに三崎は姿を消していた。
「須貝さんは探偵事務所に入られてどれくらいになりますか」
鳥羽が笑顔でたずねる。須貝はひとり掛けのソファーに座り『さて何と答えたものか』と思案した。
「一か月です。まだ入社したばかりで、右も左もわからないのが現状です。今回だって、ぼくがついてきたのは研修みたいなものです」
「年齢は」
「二十六です」
「転職組でしょう。新卒入社してから三年経って会社を辞めた口ですね。日本企業に顕著な縦割り社会になじめず、退職して自由気ままな探偵事務所に就職した。そんなところではないですか」
いやむしろ日本随一の縦割り社会たる警察組織の所属ですとは口が裂けてもいえなかった。須貝は破顔して『すごい。よくわかりましたね!』と鳥羽をおだてることにした。
「長いこと社長業なんてやっているとひとを見る目が鍛えられるんだ。きみのような若者の性格を見抜くぐらいわけないさ」
須貝に対する敬語が崩れた。三年ぽっちで会社から逃げ出した根性のない若者と舐めていることは、その口調からひしひしと伝わってきた。見下すことで胸襟を開いたようだ。これで話を引き出しやすくなる。いい傾向だと須貝は心の中でガッツポーズを作った。
「先ほど彰さんとすれ違いました。ずいぶんと難しそうな顔をされていましたよ。何かお話を?」
廊下の方をあごでさしながら須貝はいった。鳥羽は苦笑しながら湯飲みに口をつける。
「会社の人事のことで少しね」
鳥羽が顔をしかめる。機嫌をそこねてはまずいと思い、須貝はこの点を追求するのはやめにした。
三崎が運んできてくれたお茶を一口。あまりの味に、須貝の表情は能面のように固まってしまった。シンプルに『まずい』の三文字が脳内をかけめぐる。苦いとか臭いとかそんな表現を退ける混沌の世界が小さな湯飲みの中で渦巻いていた。
「彼女たち……恒河沙さんはどうしているのかな」
「へ、部屋で休んでいます。愛さんとお話しするのは三時からですので」
「そう。それで、実際のところどうかな。愛は殺人なんて……するわけがないよな」
鳥羽は身を乗り出して訊ねた。彼の心を落ち着かせるためにも『もちろん』と答えたいところだったが、須貝はまだ愛と会っていない以上、根拠もなく『もちろん』という気にはなれない。あいまいなはにかみで濁すに済ました。
「きみたちだけが頼りだ。もしも愛が殺人なんて。そんなことになったらわたしはおしまいだ!」
鳥羽は握りしめた拳を自身の太ももに叩きつけた。拳は小刻みに揺れていた。
おしまい。鳥羽のその言葉に須貝は違和感を覚えた。
たしかに自分の子どもがひとを殺したとなっては、その状況を表現するのに『おしまい』という言葉は適している。しかしいまの鳥羽の場合は微妙ではないか。なんといっても、鳥羽にとって愛は非嫡出子であり、二十年以上もその存在を知らなかったのだ。仮に愛がひとを殺めても、鳥羽の責任はそれほど大きいとはいえない。彰のように会社の重役を務めるなど、社会的な身分が高い存在が殺人を犯したとなればその波紋を治めるのには骨が折れるかもしれない。しかし愛は数か月前まで名古屋のクラブで働いていた一般女性に過ぎないのだ。さらには愛の存在は鳥羽の周囲でも限られた人間にしか知られていないはずだ。この点は息子である彰の様子から明らか。つまり仮に愛がひとを殺めても、それ自体鳥羽の社会的身分を貶めることにはならないのではないか。
まずいお茶から逃れるために須貝は席を外した。本棟の東西を貫く廊下を通り、東側にある客室棟へもどる。客室棟の階段前に神崎はいなかった。先ほどのお茶のせいか口の中にゴワゴワとした不快感が残っている。須貝は自室にもどって水をのむことにした。
一階と二階をつなぐ階段の踊り場で、須貝は使用人の二ノ宮と出会った。
「どうかなさいましたか」
二ノ宮は心配そうな口調でたずねた。首をかしげた動きに付随して黒い髪がはらりと揺れる。
「どうかって。何が」
「劇物入りのチューインガムを噛み続けているようなお顔ですよ」
劇物入りなら一度嚙んだだけであの世行きではないか。そんなツッコミを心の奥底にしまいながら須貝は力なく笑った。
「ついさっき鳥羽さんが飲んでいたお茶と同じものをいただいて……」
「えぇ。杜仲茶を? 健康にはいいんですけど、その代価が凄まじいあのお茶を?」
口にしたことがあるのか、二ノ宮は表情筋を引きつらせて首をふる。その勢いで眼鏡がずれ落ちた。
「お口直しのお茶を淹れてまいります。お部屋にお持ちすればよろしいですか」
「うん。お願い」
数分後。二ノ宮は須貝の部屋に温かい緑茶をもってきた。
「あぁ、おいしい。生き返った。そういえば気になっていたんですけど。この別荘の電力ってどこからきているんですか」
「建物の横に軽油で動く発電機を備えております。それと屋根の上に太陽光発電のパネルが何枚か」
「なるほど。二ノ宮さんたちは、いつもこの別荘で仕事をしているの」
「いいえ。社長から指示があった時に出向するだけです」
「出向」
「わたしたち、普段は鳥羽の会社で働いているんです。これでもホウライの秘書課の所属なんですよよ」
「えぇ。そうだったの。でも社長の別荘で仕事をさせるって、職権乱用じゃないの」
「おっしゃる通りですが……うちの鳥羽は典型的なワンマン社長ですから。社内では誰も反対できません」
二ノ宮は力なく首をふる。その瞳は諦観に染まり、エプロンを握りしめる手は弱々しかった。
「秘書課ってことは建山さんと同じ部署か。三崎さんも?」
「そうです。神崎さんも秘書課ですよ。あのひとはちょっと特別なポジションですけど」
「特別?」
「社長付きのボディーガードといいますか、商談相手の狼狽を買いたい時に神崎さんを連れて行くんですよ。ほら、神崎さんって怖いでしょう」
須貝の脳裏に神崎の姿が映る。たしかにその姿は恐ろしい。しかしその恐怖の根源はその巨体にはない。笑顔だ。獲物を目の前にしたサディストのようなあの不気味な笑顔にこそ神崎の恐ろしさが内在しているのだ。
「二か月前。愛様がこちらにいらっしゃると同時に、わたしと三崎、それと神崎さんはこの別荘に出向することになりました。めったなことでは本土に帰れませんし、その一日だって昼過ぎに東京に着いて、翌日の午前中にはまたヘリに乗ってここまで戻らなきゃならないんです。本当に大変ですよ」
「同情します」
須貝は共感を覚える。数日前まで須貝が所属していた公安も似たようなものだった。係の中でいちばん若い須貝は先輩たちから雑用を押しつけられ、公休日だけでなく有給消化の日でさえも仕事に励んでいた。国民の生活を守るため。平和な日本を維持するため。そう自分にいい聞かせながら須貝は身を粉にして働き続けていた。
「まぁ、愛さんの治療が終われば本土にもどれるわけですから。しばらくの辛抱ですね」
二ノ宮は微笑みながらそういった。眉間にしわが寄った人工的なその笑みは、痛々しいほどに不完全だった。須貝もつられて笑いを返す。痛々しいほどに不完全な笑いを。
「しかし神崎さんが秘書課とはね。あの人に秘書って肩書は似合わないよ」
「たしかに。そういえば神崎さんって有名人だったんですよ。ご存じないですか。学生時代は柔道の全国大会に出場するほどの腕前で、オリンピックの強化選手に選ばれたこともあるとか」
「ふぅん。黒のスーツのイメージが強いけど、前は白の柔道着を着ていたわけだ。坊主頭は柔道家のころの名残りなのかな」
「すごいですよね。オリンピックに出場できるほど強いなんて同じ女性として尊敬します」
「……ん?」
須貝の口から空虚な声がこぼれでた。二つの瞼はまばたきを忘れ、石のように固まってしまった。
二ノ宮は須貝の様子に気づくことなく『では仕事がありますので』と退室した。
5
「今さらなにをいっているの」
洗面所に立つ氷織はシラケた表情でつぶやいた。須貝の瞼はまばたきを思い出したが、狼狽のせいか今度はハチドリの羽ばたきの如き速度でまばたきを繰り返していた。
「そりゃ身体は逞しいけど、声を聞いたらわかるでしょ。あれぐらいのアルトボイスなんて珍しくない」
「だ、だって頭が……」
「坊主頭だからなに。見てくれなんかで判断していたら刑事なんて仕事務まらないでしょ」
珍しく氷織が語気を荒げた。怒られたことに理不尽な想いを抱きながら須貝は萎縮する。
「だいたい、鳥羽さんが男性をこの島に常駐させるはずがないでしょう。部下といえども男は男。もし愛さんに劣情を抱いたりしたらどうするの。愛さんは女性で二ノ宮さんと三崎さんも女性。常識的に考えたらもうひとりの使用人も女性でしょ」
「でも力仕事とか……」
「だから神崎さんを選んだんじゃないの」
ぐうの音が出ず、須貝は深海魚のように黙りこんだ。
「LAW。起きたの」
鏡に向かいコンタクトレンズを付けていた氷織が声を張り上げた。開かれたドアの向こう、ふとんにくるまって惰眠を貪っていたLAWは『うぅぅぅぅ』と大型犬のようなうなり声をあげた。
「起きるぅ。起きるけどぉ。世界が憎いぃ」
「世界の前に自分を憎みなさい」
氷織は洗面所を出て、LAWを布団から引きずり出した。小型犬のように手足を振り回して抵抗するLAWの頭を、氷織は一度平手で叩いた。
「ほらほら顔を洗ってきなさい。早くしないと二ノ宮さんが迎えに――」
部屋のドアが叩かれた。
「失礼します。二ノ宮です」
「どうぞ」
使用人の二ノ宮は一礼をしてから部屋に入ってきた。
「お約束のお時間です。準備はよろしいでしょうか」
「よろしくない」
LAWがつぶやく。氷織はもう一度妹の頭をたたいた。
二ノ宮を先頭に四人は客室棟の三階にあがった。
三階の廊下は一階と二階の廊下と同じ造りをしており、特別見栄えは変わらない。それなのに須貝は床の上に電流が走っているような緊張感を覚えた。許可なく三階に立ち入ってはいけない。その許可を得たとはいえ、禁忌の地に足を踏み入れたという事実は須貝の心をチクリチクリとつつきまわしていた。
愛の部屋は三階北側の角部屋。氷織たちの部屋の真上に位置している。二ノ宮はドアを二度たたいた。
「二ノ宮です。恒河沙さまをお連れしました」
「ああ、入ってもらって」
中から都医師の声がした。すでに室内にいるらしい。
二ノ宮はドアを開くと、片手で支えて、中に入るよう氷織たちを促した。
愛の部屋は氷織たちと同じ大きさのツインルームだった。ベッドやテーブルといった調度品の数も同じ。ただしこの部屋には、氷織たちが数時間前に客人として訪れたばかり二階の部屋とは異なり――椅子にかけられたブランケット、表紙の折れた雑誌、ゴミ箱に放られたチョコ菓子の包み――生活の匂いが漂っていた。
そしてその部屋の主は、窓際のベッドに座り氷織たち三人を見つめていた。
綿毛のような白い肌。黒目がちで大きな瞳。顔も体も小さいが、細い手足は人形のようにすらりと美しく伸びている。ほんのりと桃色に染まる整った唇。カラスの濡れ羽色の黒髪がシュシュでまとめられて背中に流れていた。
「ご紹介しましょう」
ドアの前に立つ都医師が女性の方に腕を向けた。
「九重愛さんです。といっても今は……」
「どうぞ、おかけください」
九重愛は首を傾げて笑いかけた。白い襟付きのシャツに黒のズボン。無個性が売りのファッションブランドのカタログから抜け出して来たような服装だ。
室内には籐製の椅子が三脚用意してあった。二階の部屋にはなかった椅子だ。氷織たちのために用意したのだろう。
「九重愛さんですね」
椅子に座りながら氷織が問いかける。九重愛は口角を上げながら都の方を見つめる。都は小さくうなずいた。
「客観的にはイエス。しかし主観的にはノー」
「どういう意味でしょう」
「ご存じでしょう。わたしは九重愛であって九重愛ではない。ただ社会通念上しかたなく九重愛という呼び名を受け入れて生活しているに過ぎないのです」
「それでは、わたしたちはあなたを何と呼べば?」
「ハヤテ」
九重愛は力をこめていった。その目は鋭く、意志がある。
「わたしを呼ぶなら、ハヤテと」
「ハヤテさん……恒河沙です。こちらは妹のLAWと須貝です」
「LAW? 変わったお名前ですね」
「おーきに」
LAWは淡々と言葉をかえす。
「お三方とも探偵さんで?」
「はい」
「なるほど。探偵が来るとは聞いていたけど、三人。それもこれほどお若いとは」
「ご不満ですか」
「不満もなにも。そもそもわたしはあなた達がこの別荘を訪れることの必要性をよく理解していないので」
「鳥羽氏がどのような目的でわれわれを招待したのかご存じないのですか」
「知っている」
前かがみになり、顔の前で両手を組む。ニヒルに微笑み、犬歯がチラリと――
「知ったうえで、その必要性の有無についてはよくわからないということです」
「『殺してやる』」
氷織は声を低くしてつぶやいた。
「二週間前、九重愛さんは本棟の居間で暴れまわり、拘束されたうえでそう叫んだ。ハヤテさん。『殺してやる』といったのは、あなたですか」
「ちがう」
即答だった。
「わたしはいっていない」
「九重愛さんはDIDを患っており、あなたは彼女の中にいるうちの一人。そうですね」
「それもちがう」
再びの即答。
「わたしたちが彼女の一部なんじゃない。九重愛もわたしたちの一部なんだ」
「DIDであることは認められるわけですね」
「もちろん。わたしは多重人格者だ」
「では『殺してやる』といったのは、他の方ですか。だれがいったのかわかりますか」
「正直にいって、わからないんだ」
深く息を吐きながら首をふる。
「わたしたちもその言葉についてはずいぶんと気にかけていてね、みんなに確認をとったりもした。『殺してやる』といったのはだれなのか。あの時、外にいたのはだれなのか。みんな自分じゃないって否定したよ」
「外?」
須貝がぽつりと口にした。
ハヤテは須貝の方を向き、小さくうなずいた。
「わたしたちは、この身体を動かすことを『外にいる』と表現します。いまはこのわたし、ハヤテが『外にいて』身体を動かしているというわけです」
「あなたが外にいる間、ほかの方はどうしていらっしゃるんですか」
「沈んでいる」
「……へ?」
須貝は口をへの字に曲げた。
「意味不明ですよね。申し訳ない。ですが、そうとしか表現できないのです。多重人格者のあり方はよく巨大ロボットのコクピットに例えられます。巨大ロボットが物理的な身体で、そのコクピットに乗るのが身体を操る人格。その他の人格はコクピットの周りで待機している……と。もしかしたら他の多重人格者はそうなのかもしれませんけど、わたしたちは違います。わたしたちは、外にあるこの身体になって世界に存在しているんです。内側から外側を操作するのではなく、外側になって存在しているのです。外側に浮かび出て存在し、それ以外のあいだは沈んでいる」
「はぁ、なるほど」
「わからないですよね」
「正直に言うと、はい」
「わからなくて当然です。わたしたちのことは、わたしたちにしかわからない。わたしたちでないあなたたちには、わからなくて当然です」
「先ほど『みんなで確認をとった』とおっしゃいましたね」
氷織は曲げた人さし指をくちびるに軽く当てながらたずねた。
「これはつまり、みなさんのあいだでコミュニケーションをとることは可能ということですか」
氷織の質問にハヤテは顔を曇らせる。
「客観的にはイエス。主観的にはノー」
ハヤテはズボンのポケットに親指を引っ掻けて笑った。
「これも説明が難しい。この頭の中に円卓が置いてあってその周りに各人格が座って会議をする。そんなイメージは捨ててください。そのような意味では、わたしたちはコミュニケーションをとっていない」
「その意味で『ノー』とお答えになったわけですね。ではどのような意味で『イエス』とお答えになったのでしょう」
「記憶です」
ハヤテは毅然とした態度で答えた。
「わたしが外側に浮かび出てわたしになった時、わたしは彼ら彼女らとそのような言葉を交わしたという自分の記憶を認識する。実際に言葉を交わしたという感覚はありません。いうなれば、ログが残っているんです。『あの人格はこういった』。『あの人格は無言を貫いた』。そんなログが記憶の中に残っている。もう少しわかりやすくいいましょうか。会議室や会議そのものは存在しません。ですが、その会議の内容が書かれた議事録だけはたしかに存在するのです」
「な、なんだか頭がこんがらがってきたぞ」
須貝は瞼の上から両目をぐいぐいと圧迫した。
「つまり何ですか。直接会って話すことはしないけど、メールのやりとりだけはできるという意味で……」
「それも少し違います。レスポンスという感覚はありません。ただ言葉を交わしたという事実だけが記憶として残っているんです」
「まぁいいじゃないか。これは専門家にだってなかなか理解してもらえない現象なんだから」
都医師が他人事のように笑いながらいった。屈託のない笑顔が場違いにみえて仕方がないと須貝は思った。
「それがどんな方法であれ、きみたちは相互にコミュニケーションがとれる。探偵さんの先の質問には素直にイエスと答えればよかったんだよ」
「それもそうですね」
観念したようにハヤテは息を吐き出した。
「すみません。どうも回りくどいいい方になってしまって。わたしの悪い癖です」
「気にすることはない! 理路整然と事実を報告できるのはきみの長所だよ。ハヤテくんは人格たちのリーダー格でね、みんなのまとめ役を務めているんだ」
「まとめ役というか、いちばん精神が落ち着いているから必然的にそういうポジションに着いているだけです。他の人たちは性格に難があって、機嫌が悪いと呼ばれても外に出てこない。何か聞きたいことがあったら、わたしを呼んでください。外にいる“やつ”を下がらせて、わたしが代わりに出てきますので」
「質問に戻ります。もう一度お尋ねしますが、みなさんの間でコミュニケーションをとることは可能なのですか」
「……イエス」
ハヤテは両脚を組んでうなずいた。膝の上で右手の指が跳ねている。
「あなたを含めた全員が『殺してやる』とはいっていないと主張された。それについて、あなたは誰かが嘘をついていると思いますか」
「思っている」
ハヤテは黒い目を大きく開いた。
「何故なら、誰かが『殺してやる』といったことは事実だから」
「では、だれが嘘をついていると?」
「それはわからない。見当もつかないですね」
「……わかりました。ハヤテさん。もし可能でしたら、他の方に会わせていただけませんか」
「ちょ、ちょっとまった」
都が慌てた様子で前に出てきた。
「それはいけない。ご存じないでしょうが、人格のスイッチは体力を使うのです。わたしは担当医としてそんなことを患者にさせるわけには……」
「かまいませんよ」
ハヤテは両手を大きく広げた。
「都先生。わたしたちはかまいません。それと体力的なことをいうなら、何も問題はありません。今日はよく眠れたし、食事もいつもよりたくさん摂った。何も問題はありません」
「しかし……」
都医師が何かを口にしようとした次の瞬間、ハヤテの変化が始まった。
黒く大きなハヤテの瞳が、砂に埋もれたシジミのように小さくなっていく。垂直に伸びていた背中が丸みを帯びていき、ぷるぷると震える右手を腹と左腕の間に隠すように挟んだ。平行して並んでいた二本の脚が、ゆっくりと八の字に開かれていく。亀のように首を伸ばし、表情筋を不自然につり上げながら彼はいった。
「どうもはじめまして」
ハヤテと同じ声。しかし、確実にハヤテとは異なる声。
「柴田です。柴田徹と申します。やぁどうも。なんだか腰が重いな今日は……」
6
須貝は驚きのあまり勢いよく立ち上がり、椅子を倒した。
その横で氷織は目を細め、LAWは自分の太ももにほおづえをついて柴田を観察していた。
「どうも柴田さん。体調はどうですか」
都は両手を重ねながら一礼をした。
「体調ね……いつもどおりさ。いつもどおり悪いよ。いや、腰がいつも以上に痛い。前にもらった湿布を置いていってくれよ。あぁ、ちょっと失礼。よっこらしょ」
柴田徹は座ったまま上半身を伸ばし、ミニテーブルの引き出しからタバコの箱を取りだした。
「お客さんの前で悪いけど、はじめに一本吸わないと落ちつかないんだ。あっ」
おぼつかない手元からタバコの箱が落ちる。足元に落ちたそれを拾おうとするが、曲がった背中を上手く伸ばせないのか苦戦している。見かねた須貝がそれを拾って、柴田の手に置いた。
「や、これはどうも」
タバコをくわえ、タバコの箱の中に入っていた百円ライターで火をつける。柴田徹は長い呼吸でタバコの煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
「あぁ生き返った。失敬失敬。これ一本だけ。もう吸わないから。だいじょうぶだからね。さてと」
ミニテーブルの上に手を滑らせて、ガラス製の灰皿をつかむ。その灰皿を茶碗のように持つと、その中に吸い殻を落とし始めた。
「あんた、名前はなんていうの」
氷織たち三人は自己紹介をした。数分前にハヤテにしたものとまったく同じ内容の自己紹介。だが柴田ははじめて聞いた様子で紫煙を揺らしていた。
「うわさの探偵さんたちがご到着というわけか。多重人格者に会うのははじめてかね」
三人を代表して氷織がうなずく。
「おどろいたかな。本物だよ」
柴田は白い歯を見せて笑った。須貝には彼の歯がヤニで黒くなっているように見えた。
「愛ちゃんはね、本物の多重人格者だ」
須貝は自身の脳内を侵襲する違和感を払いのけられなかった。その外見は一見したところ、数分前に話していたハヤテと変わらない。白い肌も、黒い瞳も、桃色の唇も、カラスの濡れ羽色の髪も何もかも変わらない。ただそれらの存在の仕方が変わっていた。
腰が曲がり足元ばかりを見つめているので白い顔は陰に染まっている。顔の筋肉が緩んだのか大きな黒目は周囲の肉の中にいくらか埋もれてしまった。両腕を腹の前で抱きかかえているせいでハヤテの時よりも身体が小さくみえる。タバコをくわえた唇はUの字に曲がり紫煙の幕に隠れている。シュシュでまとめた髪もだらりと覇気がないようにみえた。
先ほどまで九重愛の身体を操っていたのは『ハヤテ』と名乗る人格だった。それがいま、同じ身体を操る人格は『柴田徹』に変わったのだ。
「率直にお聞きします。柴田さん。二週間前に『殺してやる』といったのはあなたですか」
柴田は紫煙を吐き出してから――
「暴風雨だ」
抑揚のない声で答えた。
須貝は思わず窓の方に視線を向けた。東向きの窓の外では、枝葉の茂った木が一本立っていた。
「先生もそう思うだろ」
「いやぁ、どうでしょう。そうやって決めつけるのはいかがなものかなぁ」
「暴風雨? 天候は穏やかですが」
窓の外を指さして須貝がいう。柴田は大声で笑いだした。
「あはっはは。先生、まだ話してないのかい。暴風雨ってのは名前だ。ぼくと同じこの船の乗組員さ。暴風雨の野郎はとんでもない暴れん坊だ。愛が中坊の時に停学になったのは、こいつが同級生をボコボコにしたからなんだよ」
「暴力的な側面を有しているわけですか」
氷織がたずねる。柴田は深くうなずいた。
「『殺してやる』といったのは暴風雨さんで間違いないのですね」
「本当にいったのかどうかは知らないよ。ただそんな物騒なことをいうのはあいつしかいないってだけだ」
「暴風雨に会える?」
それまで沈黙を貫いていたLAWが首をかしげて訊ねた。いつの間にスリッパを脱いだのか、椅子の上に折りたたんだ両足を重ねている。
「無理だよ。暴風雨はめったなことじゃ出てこない。先生だってほとんど会ったことはないんじゃないかな」
柴田がたずねると、都医師はうんうんとうなずいた。
「そか。そしたらあんたにはもう用はないわ」
「手厳しいね」
「うちタバコ吸うひとは嫌い」
「ふぅん? いいじゃないか。老い先短いジジイのわがままだ。許してくれや」
「他のひとにチェンジして。できるなら、そうやね。あんたと正反対のひとがええわ」
LAWがそんなリクエストを飛ばすと、柴田は立ち上がり洗面所に向かってまっすぐと歩き始めた。
柴田は洗面台から水を出すと、両手に注いでうがいを始めた。何度もうがいを繰り返し、そして――
「くっしゃい」
洗面所の中から声が聞こえた。
ハヤテと同じ声。しかし、確実にハヤテとは異なる声。
柴田と同じ声。しかし、確実に柴田とは異なる声。
どこか甘く、どこかゆるく、ひととしての隙をまざまざと感じさせる弱々しい声。
「タバコすってたんでしょ。うがいをしたってかわらないんだから。くさいくさいだよ」
渋面を浮かべたその何者かは、両手を広げながら、とてとてと洗面所から出てきた。
そこにいたのは、柴田徹と同じ外見でありながら、柴田徹とはまったく異なる人物だった。
8
「しおりちゃん、みなさんにご挨拶を」
都医師は自身の後ろにいるしおりちゃんにそういった。しおりちゃんは見知らぬ三人の姿を視界に入れると、呆然とした表情で都医師の背後に隠れたのだ。
「しおりちゃんは何歳かな」
氷織がたずねる。しおりはなにも答えず、都の白衣をさらに強く握った。
重い息を吐き出す氷織の腕を、LAWが人さし指でつつく。その人さし指は氷織の腕から部屋の隅に置かれたゴミ箱に移った。ゴミ箱の中にはチョコレートの包装紙。
「しおりちゃん。チョコレート食べない?」
「チョコ!?」
しおりは顔半分だけをのぞかせた。その瞳は成人女性の外見とは不相応に光輝いている。
「お姉さんと少しだけおしゃべりしてくれたら、あとでおいしいチョコレートをあげるから」
しおりは大きくうなずくと、都の白衣の裾から身体半分だけをのぞかせた。やれやれと須貝は頭をかく。まるで動物の餌付けじゃないか。
「九重愛さんのことを教えてほしいんだけど」
「ここの……?」
「ここのえ、あい」
「あいちゃんね。あいちゃんは……」
しおりは右腕をさすりながら、首を大きく横にふった。
「あいちゃんはキライ。あいちゃんはなにもしてくれないもん。なにもしない。泣いてばかり。おとななのにおかしいよ」
「なにもしてくれない。他のひとはどう?」
「ほかのひとって?」
「つまり……柴田さんのこととか」
「おじちゃんね、キライ。タバコ吸うもん。タバコはくさいよ」
「ハヤテは」
「うーん。ふつー。せんせいと同じくらい。ふつー」
しおりはあいかわらず右腕をさすっている。都医師は苦笑しながら肩をすくめた。
「暴風雨は」
「へ?」
「暴風雨。暴風雨さん」
「いいひとだよ」
屈託のない笑顔を浮かべながらしおりはいった。
「たまにしか会えないけどね。いいひと」
「柴田徹は、暴力的な人格だといっていたけど」
こらえきれず須貝がつぶやく。しおりは『うーん』とうなり声をあげる。
「しおりちゃん。二週間前のことを知っているかな。怖いことを聞くけど……だれかが『殺してやる』っていったの。だれがいったのか知らないかな」
「しらない」
しおりは即答した。
「まえにもいったでしょ。しらないってば」
「前?」
「あ、そっか。みんなにいったんじゃないの。ねむっている時にね、ハヤテがみんなにきいたから、わたしもこたえたの。ねぇせんせい」
しおりは都医師に右腕を差しだした。
「せんせい。またお腕さんが痛がってる」
「あぁ。ここだね」
都医師はしおりの右腕に耳を近づけた。うんうんと大げさにうなずき、『なんとまぁ!』と叫んでから耳を離した。
「うん。ほんとうだ。痛がっているね。大丈夫大丈夫。あとでお薬を用意するからね、右腕さんもすぐによくなるよ」
「右腕さんかわいそう。右腕さんはなんの病気なの」
「なんだろうね……先生もわからないんだ。先生の知り合いのもっとえらい先生に今度聞いてくるからね」
都医師は氷織たちの方に向き直り、咳ばらいをした。
「そろそろよろしいでしょうか。彼女は病人です。あまりストレスのかかるようなことは――」
ドアの向こう、廊下の方から声が聞こえた。
「いけません!」
声の主は二ノ宮だった。さわがしい足音と男の声が続く。
「おれを誰だと思っている。おれんちの別荘でおれがどこに行こうとおれの勝手だ」
無作法な男の声が室内まで届いてきた。氷織の表情が鋭くとがる。
須貝が椅子から立ち上がると同時に部屋のドアが開かれた。
乱暴に押し開けられたドアの向こうには、鳥羽彰が厳めしい顔つきで立っていた。
「先生、申し訳ありません。止めようとしたのですが無理やり」
彰の後ろで二ノ宮が頭を下げている。彰は二ノ宮の言葉を意に介さず室内に入ってきた。
異様な雰囲気にしおりが短い悲鳴をあげ、ベッドの背後に隠れた。須貝と都が前に出て彰をおさえる。
「入っちゃだめだ。彼女が混乱する!」
「なんだよ。おれはただ挨拶に来ただけだよ。くそ……おれは認めないぞ。どこの馬の骨とも知れない女が」
彰は抵抗しながらベッドの方をのぞきこんだ。
「出て来いよ。姿を見せろ。お前、病人なんだってな。多重人格者だって。ははは。そんなやつが鳥羽家に入るなんてムシがいいんだよ。おい、聞いているのか、聞いて……」
ベッドの陰からしおりが顔をのぞかせた。その様子を見て、彰はすんと静まりかえった。
「ほぅ」
怒りの色に染まっていた彰の表情が、今度は一転、不気味に何かを思案する笑みに変わった。
「なるほど。そうか。そうすればいいんだ。これなら親父だって。そうだよ、どうしてこんな簡単なことに気づかなかったんだ!」
彰はげらげらと笑いながら両手を叩く。しおりが再び悲鳴をあげてベッドに隠れた。
「いいかげんにしろ。とっとと外へ出るんだ!」
都医師が声を張り上げた。
「きみたちも。面会は終わりだ。とっとと外に出てくれ」
彰といっしょに氷織たちも部屋の外へ追い出された。彰は自身の身体を押さえつけていた須貝の腕を振り払うと、大きな闊歩で階段の方へと向かっていった。
都医師も部屋の外に出て、入れ替わりで部屋の中に入った二ノ宮に指示をだす。
「しおりちゃんに何か温かいものを。落ちつくまでそばにいてあげて。わたしは鳥羽社長のところへ行ってくるから」
氷織たちと階段を下りながら都医師はため息をついた。
「わかったでしょう。九重愛さんは非常に難しい精神状態にある。専門家のわたしがいうんだ、納得してくれますね」
「もちろんです」
氷織はうなずいた。
「わたしの許可なく彼女には近づかないでください。三階にも上がっちゃいけない。わかりましたか。わかったら『わかった』と復唱。さん、はい!」
「わかりました」
「わかりました」
「都センセ」
LAWがひとり、復唱せずに足元を見つめながらいった。
「ほかにあと何人おるの」
階段の手すりに細く白い指を置き、LAWはその指をカタカタと鳴らした。
「うちらはガキの使いでここに来とるわけやない。探偵なら探偵らしく調べものをせんと。ねぇ、センセ。ハヤテと柴田はん。それからしおりちゃんと暴風雨。四人をくわえて、合計何人があのほっそい身体の中に入ってはるの」
「……八人です」
都はいった。
「九重愛さんの中には、八つの人格が潜んでいます」