幕間B
副総監室をあとにしてから約一時間後。
東京駅の雑踏のなかで、今江は新幹線の発車案内板をにらみつけていた。
11時30分 東京駅始発 終点博多駅行 のぞみ29号。今江の切符に印字されたものと同じ新幹線の情報が、案内板の最上段に映しだされている。
――東京駅を出て、品川と新横浜で……次は名古屋。たかだか一時間半で東京から名古屋まで行けちゃうわけね――
売店で弁当とお茶を買ってからホームへとあがる。重そうなスーツケースを引きずりながらエレベーターにのるサラリーマンの姿をみて、ハンドバッグひとつで一泊二日の旅に出る女など自分以外にいるのだろうかとため息をつく。
化粧道具はロッカーに常備している簡易セットをもってきた。たかだか数日。スーツとコートは同じものを着てもよかろう。下着や靴下は量販店で安物を買えばいい。着の身着のまま気にならない。
九重愛の出身地は名古屋と氷織から聞かされていた。名古屋で産まれ、名古屋で育ち、名古屋市内のクラブで働いているところを実父の鳥羽鉄也と出会ったという。
――じゃさ。とりあえず、名古屋に行きなよ――
副総監室のなか、憎たらしいほど照り輝く太陽光を浴びながら桂はあっけらかんとしていた。
その態度に今江は顔をしかめた。
――情報がすくなすぎます。名古屋は日本有数の繁華街ですよ――
――横浜市と大阪市に次いで市の人口ランキングで三位だっけ。おいしいものが沢山あるとひとが集まるのかなぁ――
――知りません――
――とにかく時間もないし、今江ちゃんは新幹線に乗っちゃいなよ。あとはわたしがなんとかするから――
『なんとかする』。言葉それ自体を抜き出してみればこれほど頼りないものはなかろう。具体性もなく、計画性も感じられない。だがその言葉を口にしたのがかの桂十鳩であるなら話は別だ。桂は実際にこれまでも無理難題を『なんとか』してきた。『なんとか』して警察社会で実績を残し、警視庁副総監の革張りの椅子を手にいれたのだ。
のぞみ29号が東京駅を出発してから約ニ十分後。新横浜駅を経ていざ名古屋市へというタイミングで、今江のスマートフォンに一通のメールが入った。未登録のアドレス。題は『桂です。迷惑メールじゃないよ』。無表情のまま今江はメールを開いた。
「な……」
桂は『なんとか』してくれた。メールにはPDFファイルが添付されていた。そのファイルには、九重愛がこの世に生を受けた産婦人科から始まる彼女の略歴が記載されていた。
今江はデッキに向かい、桂に電話をかけた。
「え、なに。どうしたのよ。今江ちゃん」
「ずいぶんな情報量ですね」
「それほど大した情報じゃないと思うけどね。住んでいたアパート。通っていた学校。それから勤めていたお店の住所くらいしか載ってなかったでしょ」
「この短時間で調べられる量ではありません。たかだか一時間半でひとりの人間の過去を洗い出したというのですか」
「そうなんじゃないの。実際にそうなんだから」
「もしかして、九重愛には前科があるのですか。データベースに情報があったとか」
「え、ないよ」
「それでは、前科がないだけでマークはされていたのですね。カルト系宗教団体や過激系政治団体の幹部だったとか」
「ちがうってば。九重愛は清廉潔白」
「じゃあどうやって。愛知県警に手伝ってもらったとしても、こんな短時間で……」
「こういった調べものが詳しい探偵がいてね。そいつに依頼しただけだよ」
「探偵……? もしかして、恒河沙理人ですか」
恒河沙の兄妹の実父、恒河沙理人。今江はまだ理人の姿を目にしたことはなかったが、かの男が名探偵として耳目を驚かせていることは聞き及んでいた。
「理人は関係ないよ。たしかに理人は化け物だけどね、この世の中には、理人に匹敵する化け物が跋扈しているんだ。わたしはね、そんな化け物のひとり、調べもののプロフェッショナルに依頼しただけだよ」
「桂さんはいろんな探偵を飼っていらっしゃるようですね」
「それってほめ言葉だよね。うっへっへ。まぁとにかく。時間がなかったので彼女に調べさせたわりには大した情報じゃないけど、それだけあれば今江ちゃんなら大丈夫でしょう」
「そうですね」
「ごめんね。午後から忙しくなるから、手助けできるのはここまで。副総監って意外と忙しいのよ」
「ありがとうございました」
「名古屋の最高気温は五度だって。あっちも寒いね。味噌煮込みうどんでも食べて温まりなよ。あ、いま思ったんだけど味噌煮込みそばって――」
今江は通話終了のボタンを押して、自席へともどった。
いま一度PDFデータを眺め、地図アプリや交通情報アプリを使って予定を立てる。今江の表情に変化はなかった。ほほや眉を動かすことなく、淡々と手帳に予定を書きこんでいく。