第二章
1
ぶ厚い雲のすき間から現われた太陽の横顔が水面を照らす。白い泡を吹き出しながら迫りくる波は桟橋の下に潜っては消えてをくり返していた。
如月の駿河湾から吹き込む海風が氷織の前にあるガラス窓を揺らす。店内は有線のBGMが流れていたが、店の趣向なのか音は小さい。時の流れが遅くなったかのような感覚のなかに氷織はたたずんでいた。
「いらっしゃ……あぁ。どうもです」
二回目の『いらっしゃいませ』をのみ込んだウェイターは、肩で息をする須貝の姿を見て苦笑した。
「またお戻りに?」
「いえ。これが最後です……」
須貝は赤い大型のスーツケースを店内に入れた。続いて自動ドアの外に出ると、さらにもう一台青色のスーツケースを押してくる。
見かねたウェイターが赤色の方のスーツケースを取って窓ガラス側のテーブルまで運んだ。テーブルの横にはすでに銀色と桃色の大きなスーツケースが置いてある。合計四つのスーツケースが通路を埋めることになったが、閑古鳥が鳴いている店内で気にするものはいない。
「須貝さんがいっしょに来てくださって本当に助かりました」
氷織は似合わない笑顔を作っていった。タクシー降り場からこの海沿いの喫茶店まで約八〇メートルの距離を一往復半。須貝は合計四台のスーツケースを一人で運んだ。道は未舗装でところどころに数段の階段やら坂があり、スーツケースを運ぶのには難儀をきわめた。
「いくらなんでも四台は多すぎるんじゃないんですか」
須貝は不満の声を隠すことなくこぼした。
「文句ならその子にいって。わたしの荷物は全スーツケースの十パーセントに過ぎません。衣装もちはこれだから困る」
氷織とはテーブルをはさんで反対側、LAWは片肘をついてすやすやと眠っている。ちなみに氷織はタクシー降り場から手ぶらでこの喫茶店まで来たわけではない。タクシーの中で眠りについた妹を背負ってここまで来たわけで、彼女も彼女なりに疲労を感じていた。
須貝は姉妹が座る四人掛けのテーブルではなく、通路をはさんでとなりにあるテーブルに着いた。
「その子、ずっと眠っていますね。事務所を出てからタクシーに乗るまでは起きていたけど、途中で眠っちゃいましたし」
「久しぶりの東京でしたから」
「何かの病気なんですか。それともたんなる虚弱体質」
「ちがいます。須貝さんはつかれたら眠くなりませんか」
“YES”以外に答えようがない質問に須貝は無言を返した。
「そういうことです」
つまりLAWは疲れているから眠っているというわけだ。LAWは今朝恒河沙探偵事務所を訪れた時点ですでに眠りについていた。彼女は夜通しで何か仕事をしていたのだろうか。しかし朝になれば探偵事務所の仕事としてここ駿河湾まで足を運ぶ必要があるわけで、そんな予定がありながら徹夜仕事をしていたとは思えない。病気でもなければ虚弱体質というわけでもないというならば、いったいなぜLAWはこんなにも長く眠り続けているのか。
「須貝さんは“恒河沙”についてどれくらいご存じですか」
「い、いえ。それほどくわしくは」
「時間もありますし、簡単にご説明しておきましょう」
氷織は居住まいを正した。
「ご存じの通り、恒河沙探偵事務所の現所長は兄である法律です。ですが探偵事務所を開設したのは兄ではなく、父の理人でした」
いくつもの難事件を解決してきた稀代の名探偵恒河沙理人。彼の前では謎が謎足り得ないことから一部の信奉者たちは彼を『反謎』なる肩書で呼んでいる。
「理人は探偵の技能を四つに分けて理論化しました。四つの技能それぞれを極めるだけでも並大抵の苦労では足りず、それぞれを極めるだけで並大抵の探偵では太刀打ちできない名探偵となり得る。理人は自身の理論を実証するために、四人の弟子をそれぞれの技能に特出した専門型探偵として育てあげました。それと同時に、一人の特出して有望な弟子に、四つの技能すべてを注ぎ込み、自身と同じ――いえ、自身の後継者となる万能型探偵を作り上げようとしました」
「恒河沙理人と、五人の弟子ですか」
須貝はつばをのみこんだ。
「ある時、理人は後継者として育てていた弟子を見限りました。他の四人の弟子よりも、飛びぬけて優秀なこの弟子でさえも、『反謎』の後継者にはなり得ないと判断したのです。何がおかしかったのか。何が間違っていたのか。理人は悩み、結論を出しました。血です。かの弟子は恒河沙理人の血を継いではいない。自身の後継者たり得るのは、恒河沙理人の血を継いだ子どもだけである。理人はそう結論付けました」
やがて理人は、五人の女性と出会いそれぞれに一人ずつ子を産ませた。その五人が、法律を長兄とする恒河沙の兄妹である。
「一人目の子ども――法律が産まれ、理人は法律を自身の一番弟子、かつては『反謎』の後継者第一候補であった万能型探偵に預け、探偵として育てさせました。残りの四人の子どもたちも、他の四人の弟子たちにひとりずつ預けられました。法律は万能型探偵を目指して育てられ、他の四人はそれぞれの弟子が極めた技能に特出した専門型探偵として育てられました。一番弟子に預けられた法律が『反謎』後継者の第一候補。ほかの四人は法律が探偵として“失敗”に終わったときの代替品として育てられたのです。もっとも、長兄の法律は期待通りに育ち、十代のころから師匠とともに難事件を解決してみせます。『反謎』の名前を継ぐのは法律で決まり。だれもがそう思っていました」
――しかし――
「十年前にすべてが変わりました。裏切りです。理人は自身の目的のために人としてやってはいけないことをした。わたしたち兄妹は理人の裏切りを目の前でみた。そして兄は……兄は壊れた。壊れて、失敗して、わたしたちの前から姿を消した。理人も消えました。あの男なりに、兄の失敗に思うところがあったのでしょう。だとしても自業自得に過ぎないのですが」
舌打ちを一回。ライトブラウンの髪をかきむしる。過去を見つめる氷織の瞳は、憤怒の朱色に燃えるでも、絶望の灰褐色に染まるでもなく――ただ乾いていた。
「恒河沙理人は、じぶんの後継ぎをつくることに固執していたのですね」
沈黙に耐えきれなくなった須貝は、氷織の態度をうかがいながらいった。
「自尊心の塊みたいな男ですからね」
氷織の笑顔が歪に歪む。
「人間である以上いつかはじぶんも死ぬ。じぶんの死とは偉大なる頭脳の死にほかならず、それは人類が経験したことのない大いなる損失を意味する。ゆえにじぶんの代替ともいえる後継者を育て上げることが、人類にとって有益であると考えたわけです」
「実際どうなんですか。実の子どもとして、恒河沙理人をどう評価されているのですか」
「優秀な探偵であることは認めます」
間髪入れずに氷織は答えた。
「しかし、それとこれとは話が別です。優秀であることは、わたしたち兄妹を裏切ったことへの免罪符にはなりません。実際にわたしたち兄妹は、理人が考案した探偵理論をベースに探偵としての活動に励んでいます。あの男の理論は間違っていない。ただ、あの男は間違っている。絶対に、間違っているんです」
須貝の第一義的な任務は犬養からの指令を遂行すること。つまりは恒河沙探偵事務所に張りつき、恒河沙理人の情報を引き出すことである。いま須貝は理人の息女から直接理人についての話を聞き出した。これは十分すぎる成果とみていいのではないか。須貝は氷織を見つめる真摯な表情の裏側で光悦を覚えていた。
そこで須貝は一歩を踏み出すことにした。
「恒河沙理人が考案した探偵の四つの技能。氷織さんも、そのうちのひとつを極めたわけですよね。それって具体的にどんなものなのですか」
「“知識”です。眼前の事象の正体。眼前の概念の正体。眼前の存在の正体。それら全てが曖昧模糊の霧にあっては謎など解け得るはずがなし。謎の実態は“知識”というフィルターを介して正確に観測される。わたしの探偵の師匠は、森羅万象の知識を知り尽くしたKnowledgeable Detectiveの敬称で呼ばれていました」
「つまり氷織さんは、もの知りだということ?」
「その認識でかまいません。まぁ、他人の間違った知識を指摘するような悪趣味は持ち合わせていませんのでご心配なく」
「それじゃあ、あの。LAWさんは? いったいどんな技能を」
「ちょっと説明が難しいんですけど、LAWは――」
「あかんて」
テーブルの上に砂粒のような声が舞った。
眠っていたはずのLAWの目が開き、人形のような笑みとともに氷織を見つめている。
「あかんて、ひぃねぇ。“これ”はうちの商売道具や。かんたんに漏らされたらたまらんわ。なぁ刑事さん」
LAWは笑顔を須貝に向けた。
「きれいなお目目をしてはるなぁ。うぶな、幼い、ややこの瞳や」
「や、ややこ?」
「こどものこと」
腕を組みながら氷織がいった。
「こどもって、今年でぼくは二六ですよ」
「何年生きようと関係あらへん。人間は成長せんかぎりややこのままや。成長ってのはじぶんの目で物事を見ること。他人の目やない。じぶんの目で見て、世俗に汚す。そうやって人間は成長していくんや」
そうまくしたてると、LAWは大きなあくびをひとつして再び眠りについた。
2
十分後。
窓ガラスの外にコートを着た建山光があらわれた。手のひらでガラスをたたくが、力が弱すぎるのか音はしない。
喫茶店の入り口側に回り込み建山が入ってくる。
「お待たせしました。船の用意ができましたよ」
氷織と須貝が立ち上がると、いつの間に起きたのかLAWもすっくと立ちあがった。
会計をすまし、喫茶店の外に出る。四台のスーツケースを見て、建山は率先して二台のスーツケースを引き受けた。須貝も負けじと二台のスーツケースを両手で引きずる。冷たい海風が暖房で暖まった四人の身体に容赦なくつきささった。
喫茶店の正面には無数の桟橋が海原に向かってつきでている。それぞれの桟橋には大小さまざまな船が停留していた。
「あれが社長のクルーザーです」
建山はあごで一台のクルーザーをさした。両手がふさがっているので仕方がない。
白いクルーザーが水面の上で揺られている。船の中にキャンピングカー程度の居住スペースを備えたキャビンクルーザーだ。
「こりゃすごい。金持ちは違いますね」
揺れる船内で革張りのソファーに座りながら須貝がいった。氷織は何か思案するような顔つきで船室の天井を見つめ、LAWは備え付けの冷蔵庫のなかを物色していた。
「間もなく出発しますので、席に座ってお待ちください」
そういって建山は居住スペースの外にでた。このクルーザーの操舵室は居住スペースの上に構えてある。建山はデッキに設置された小さな階段をのぼって操舵室に入った。
「須貝さん、確認です」
氷織はソファーに腰をおろした。
「須貝さんは今回、恒河沙探偵事務所の新入所員としてご同行していただきます。よろしいですね」
「はい、もちろん」
不服な感情を押し殺して須貝はいった。警察手帳のないふところに一抹の寂しさを覚える。
「新入所員に敬語を使うのはおかしな話ですよね。これからはさん付を止めます。敬語もなし。いいですね」
「それは、もちろん」
「須貝くん」
「はい。氷織さん」
「須貝くん」
「何でしょう氷織さん」
「すがいー」
「お呼びですかLAWさん」
「コーラの瓶あけてーすがいー」
「おまかせをLAWさん」
「ポテチのふくろあけてーすがいー」
「もちろんですLAWさん」
「うち姫様ってよばれたいなー」
「よろこんで姫様」
「あんたたち齢二十を超えてそんな茶番はやめて」
雷神のいびきのような轟音がクルーザーを包む。エンジンが始動し、ゆっくりとクルーザーが海原を泳ぎだした。
波に揺られて約一時間後。三回目の嘔吐を終えてトイレから出てきた須貝は、進行方向に二つの島が見えることに気づいた。
「……あ、あれが?」
「そう。あの島に別荘があるんだって」
デッキから居住スペースに戻ってきた氷織が、青白い顔をする須貝の肩をたたいた。操舵室の建山のもとをおとずれていたようだ。
「どちらの島にあるんでしょう」
「右手奥の島。船着き場は左の島」
氷織のいった通り、クルーザーは手前の島に設置された船着き場にとまった。
クルーザーから降りて島に上陸する。海岸から数十メートルほどで砂浜は生い茂る草に代わり、その先には緑豊かな森林が広がっている。平坦な森林の先には山があり、起伏に沿って木々が傾斜を登っていた。
眠気を訴え始めたLAWの手を氷織がとる。須貝と建山はクルーザーに乗る前と同じく、四台のスーツケースを分けあった。
「別荘まではどうやって行くのですか」
「今から三十分ほど山登りです。目の前の山の頂上に、となりの島へとつながる橋がかかっているので」
「えぇ……」
須貝は土気色の声をあげながら山を仰ぎみた。よくみると山の斜面にはところどころに手すりがついた階段が伸びている。山自体はそれほどの標高ではないとはいえ、スーツケース二台を抱えて登るのは難儀といえよう。
「えっほ。えっほ。えっほ。えっほ」
かけ声をあげながらリズミカルに階段を登っていく。足を上げ、スーツケースを上げ、もう一台のスーツケースも上げる。削った地面に枕木を埋めただけとはいえ、山の階段はよく整備されていた。なまじ登りやすいばかりに休憩のタイミングがつかめない。海上にいた時は空をおおっていたぶ厚い雲は文字通り雲散し、憎たらしいほどにまぶしい太陽が四人をにらみつけていた。
額の汗をぬぐいながら須貝は自分の数メートル先を行く氷織の姿を見た。他人にスーツケースを押しつける非情な女だとはとても思えなかった。氷織は眠気に耐えられず覇気をなくしたLAWを背負って山を登っていた。女性にしては体格の大きい氷織。姉とは逆に小さな体格のLAW。体力のある女性ならばLAWを背負って歩くぐらいできるだろうが、登山となると決して容易ではなかろう。
氷織に抱えられたLAWの身体が左右に揺れる。LAWが着ている羽織の袖がひらひらと蝶のように舞っていた。
須貝は考えた。どうして氷織はLAWを連れてきたのか。
眠り癖とも呼ぶべき体質は昨日今日始まったものではなかろう。この眠り姫が探偵としての職務を全うできるとは思えない。スーツケースの荷物だってほとんどがLAWのものだというではないか。荷物と彼女をまとめて家に置いてくるという選択肢は氷織の中になかったのか。
登山を始めて二十分後。中腹にあるひらけた場所で四人は休憩をとった。
氷織はベンチに座って呼吸を整えている。LAWは眠りから覚めたが、その目元はまだとろりと溶けたままだった。姉の背中をさすりながらやわらかい声で『かんにんな かんにんな』とくり返している。
須貝は眼下にひろがる海をながめていた。晴天を映したコバルトブルーの相模湾の向こうに、雪化粧の富士山がみえる。荘厳な景色であることは間違いないのだが、全身をおおう疲労がその荘厳さに浸る余裕を与えてくれない。何となく発した『すばらしい景色ですねぇ』という言葉も、どこか空虚に響いた。
「半分以上はのぼってきましたし、山頂までそれほど時間はかかりませんよね。建山さん。……建山さん?」
須貝の横で建山は富士山の方向を凝視していた。
半開きの口。痙攣する左まぶた。ひと昔前の漫画の描写のように、額から落ちた汗があごをつたった。
「ま、まさか……」
建山の口からぽろぽろと声がこぼれる。その声と重なるように、厚手のふとんをリズミカルに叩くような轟音が空の方から聞こえてくる。
一台のヘリコプターがこちらに向かって飛んできていた。
模型のように小さく見えたヘリコプターが飛行音と共に徐々にその姿を大きくしていく。全体の色は派手なカナリアイエローで、テールローターからボディの先端までを黒く太い直線のラインが走っていた。
「まずい。これはまずい。皆さん、もう休憩はよろしいですね。急ぎましょう」
建山は三人を促すとスーツケースを掴んで階段をのぼりはじめた。須貝も慌ててスーツケースを掴む。その後ろで氷織とLAWは近づいてくるヘリコプターを見つめていた。
「この島に来るのかな」
ヘリコプターの音に負けないよう、少しだけ声量を大きくして氷織がいった。
「建山さんの様子からだと、そのようですね」
「だけど、ヘリコプターで来られるなら、なんでわたしたちはクルーザーで? ヘリコプターならこんな登山をしなくて済むじゃない」
「費用的な問題でしょうか」
「わたしたちは招待客。向こうから依頼されてここに来ているわけ。客人に登山なんてさせる? 普通に考えたら着地地点は別荘のそばにあるよね。客人を招くならヘリに乗せるのが当然じゃない」
「たしかに……では、あのヘリコプターはこの島に来るわけではないと」
「ちゃう」
氷織の腕にすがりながらLAWがいった。
「うちらの依頼人は、うちらをヘリコプターには乗せられない事情があったんやろ」
「事情って……いったい?」
「さぁなぁ。ま、別荘まで行けばわかるやろ。否が応にもわかるやろ」
三人は建山のあとを追って登山道をのぼった。二十分ほどでひらけた山頂に出ると、南西の方角に、三十メートルほど距離をおいて隣り合う円筒状の島がみえた。
海面から島の頂上までは断崖絶壁となっており、平面に広がる頂上は小学校のグラウンドほどの面積がある。船着き場のあるこちらの島とは異なり森林と呼べるほどの緑はない。短い草が地面をおおい、枯れ枝を生やした木がぽつぽつと生えている程度だった。二つの島の標高はそれほど変わらない。
向こうの島の中央あたりに建物がみえる。煙突が一本立っている平屋建ての洋風建築の横に、三角屋根を構える三階建ての建物がみえる。左右非対称のアンバランスなこの建物が目的地の別荘だ。その別荘の前には先ほど空を飛んでいたカナリアイエローのヘリコプターが停まっていた。
二つの島のあいだには、三十メートルの距離をつなぐ一本のつり橋が伸びていた。氷織たちを意に介さず、建山はスーツケースを引きながらつり橋を早歩きで渡っていった。
つり橋に近づいて須貝は短い悲鳴をあげた。橋の真下には五十メートルほどの距離をおいて波しぶきをあげる海面が広がっている。いたるところに槍のように鋭い岩礁が広がっている。
視線を上げてつり橋に向ける。そこでまたしても須貝は短い悲鳴をあげた。つり橋の床板は(すきまなく埋められているとはいえ)その全てが木板だった。リングのロープのように五本の手すりが左右に走っているが、その手すりも鉄製ではなく複数の麻のロープを重ねて太くしたものだった。
海風と建山の早歩きがつり橋を揺らしている。だが建山は慣れているのか、臆する気配をまったくみせない。それよりも早く対岸に着かねばと焦っているようだ。
「これは、すさまじいですね」
「あんな場所に別荘を建てるなんて、頭がおかしいんじゃないの」
当該の別荘を見つめながら氷織がいった。その声はかすかに震えていた。
「大丈夫だとは思いますが……ひとりずつわたりましょうか。どうぞ氷織さん。レディーファーストです」
須貝は一歩うしろに下がった。
「ありがとう。あれ。須貝くんの中に少年の心がみえる。そうだよね。男の子はつり橋とか大好きだもんね。ということでお先にどうぞ」
氷織は一歩うしろに下がった。
「ここに来るまでぼくは殿でした。今さら順番を変えることもありません。氷織さん。お先にどうぞ。」
須貝は一歩うしろに下がった。
「須貝くんよく見るとイケメンじゃん。男前っていわれない? 男が前。ということでお先にどうぞ」
「ひぃねぇ。そのおもんないボケ二度とうちの前で口にせんといて」
悪態をつきながらLAWがつり橋を渡りはじめる。氷織が小さな悲鳴をあげて手を伸ばした。しかしLAWはまるで日課の散歩のように平然と歩みを進めている。氷織の手は冷たい空を切るに終わった。
「大丈夫やって。この橋かなり頑丈や。やにこいことあらへん。そもそも造りに自信があるから木製なんやろ。ほらほら。はよ来よし」
おっかなびっくりの足取りで氷織と須貝はつり橋を渡った。橋の上にいるときは緊張と恐怖で気づかなかったが、何やら橋の向こうから怒鳴り声が聞こえてくる。声の主は別荘の前にいるベージュ色のダッフルコートを着た男のようだった。
「いつまで待たせるつもりだ!」
男の叫び声が青空に吸い込まれていく。声量はあるが、アルト気味の声質には重苦しさを与える力はない。歳の頃は三十代半ばといったところか。
「社長の命令です」
別荘のポーチでブラックスーツを着た坊主頭が立ちふさがっている。一九十に近い高身長。生地のぶ厚い上品なスーツは、その下の隆々とした筋骨を隠しきれてはいなかった。
「もう少々お待ちください」
坊主頭の眼鏡が太陽光に反射して光る。叫び声をあげる男と同じくアルト気味の声をしていた。
対峙する二人のそばには、須貝たちをここまで連れてきた建山と、コートのファーに顔をうずめる茶髪の女性がいた。
建山はうろたえた様子で別荘の上階をチラチラとみている。女性の方は叫び声をあげる男の半歩うしろに立ち、退屈そうにヘリコプターを見つめていた。
「優里ちゃん、大丈夫? 寒くない? もうすぐ中に入れるから、少しだけ我慢してね」
男は女性の肩を抱き、一転して甘い声をだした。女性の方は曖昧にはにかむだけ。男はこれまた一転して厳しい顔を坊主頭に向けて、怒声を発した。
「根くらべのつもりか。この寒い中待たせればおれたちが帰るとでも思っているんだろう。そうはいくか」
踵を返しヘリコプターに近づく。ヘリコプターの操縦席にはヘルメットをつけたパイロットがいた。男はそのパイロットに声をかけると、ヘリコプターからはなれた。
「なんだか厄介なことになりそうですね」
須貝がそういうと同時にヘリコプターのメインローターが回転を始めた。揚力に従って宙へと浮かんでいくカナリアイエローのヘリコプターは、パイロットひとりをのせて島を離れていった。
「これで帰りの足はなくなった。親父はおれたちに寒空の下で野宿をさせるつもりか?」
ダッフルコートの男が得意顔でブラックスーツに詰め寄る。しかしブラックスーツは綽綽とした様子で『もう少々お待ちください』とくり返した。
「彰さま。どうかお控えください」
建山が腰を曲げながらダッフルコートの男にすがりつく。
「社長には社長のお考えがあるのです。どうかここは、どうかここは……」
「建山。おまえも知っていたんだろ。お前も、この別荘にいる女のことを知っていたんだろ……ん? あいつらは誰だ」
彰と呼ばれたダッフルコートの男は、つり橋のそばから自分たちをみる氷織たち三人の存在に気づいた。
「ひょっとしてあいつらの中に例の女がいるのか。おい、お前たち、こっちに来い」
不遜な態度に恒河沙の姉妹がそろって舌打ちを放つ。銃声のような舌打ちに、須貝は 「ひぇ」と悲鳴をあげた。
「違います。あの方々は社長がお呼びになったお客様です。わたしがここまでお連れしたのです」
「どうして客が来るんだ」
「それは社長のお考えですので……」
「使えないやつだな。それに客ならなおさら挨拶にくるのが筋ってもんだろ。おい!」
彰が再び叫ぶと同時に、玄関の両開きのドアが開いた。
「お待たせしました。どうぞ中へ」
ドアの奥からロングスカートのワンピースに前掛けのエプロンをつけた使用人が出てきた。平成後期から令和の現代にかけてサブカルチャーの分野でよく見かけられる“萌え”る服装の使用人ではない。グラナダテレビ版のシャーロックホームズや、“ダウントン・アビーに出てくるようなどこか瀟洒な雰囲気をもつ古典的な使用人とも違う。いや、服装こそ後者のものに近いのだが、ドラマに出てくるような整った感じがしない。エプロンは何度も洗濯機で回されたのかよれている。うっすらと残る赤いシミはソースの跡だろう。キャップも付けず、黒髪のボブカットという現代女性的な髪型も服装とミスマッチだ。
「まったく。凍え死ぬかと思ったよ」
彰は横に退いたブラックスーツの前を通って別荘に入っていく。別荘に入れるとなって、氷織たちへの興味は失ったようだ。彼の後ろにいた茶髪の女性も続いて入る。
「どうぞお客人も」
ブラックスーツは氷織たちに頭を下げた。氷織を先頭に三人は別荘のなかに入った。
3
「どうもどうも。このようなへんぴな場所までご足労いただき、至極恐縮でございます」
ラルフローレンのベストを着た老人が玄関框の上から頭をさげた。
年のわりに豊かな銀髪をオールバックに固めている。眉毛は脱色しているのか人工的なまでに黒く染まり、日焼けした肌は脂で輝いている。身長は一六十センチといったところか。小柄だががっしりとした身体つき。切り株のようなその身体からよく通る渋い声を出していた。
「どうぞどうぞ。スリッパを履いてください。靴はてきとうに脱ぎ散らかして。使用人たちが片付けますから。ははは。神崎。お客様の荷物を運んでさしあげろ」
玄関のドアを閉めたブラックスーツの坊主頭が、須貝から二つのスーツケースを受けとると横に倒して二段に重ねた。続いて建山からもう二つのスーツケースを受けとり、これらも横に倒して先のスーツケースの上に置く。四段の重なったスーツケースを、神崎は大蛇のような両腕でひょいと抱えあげた。四つのスーツケースの重量を、身をもって知っていた須貝は感嘆を漏らした。
「転ばないように気をつけろ。お客様の大事な荷物だ」
神崎と呼ばれたブラックスーツは鷹揚にうなずくと、左右に伸びる廊下を右の方へ進んでいった。
「荷物は客室のほうへ運ばせていただきます。あぁ。紹介が遅れました。夢裂夫人のご紹介で依頼をさせていただきました、鳥羽です。どうぞよろしく」
そういって鳥羽は笑顔をみせた。心の底から笑っているわけではなさそうな、どこか造りものじみた笑顔だった。
「あなたが法律さんですか。夫人がおっしゃっていた通りずいぶんとお若い」
鳥羽は須貝の肩を大げさにたたいてみせた。その力の強さに須貝は顔を歪めた。
「あ、いえ。違います。ぼく……わたしは須貝といいます」
「当事務所の新人です。今回は勉強のために同行させました」
氷織は須貝を後ろに下がらせると、自ら鳥羽の手を掴んだ。好意的な握手ではない。場のイニシアチブを確保するための、攻めの握手だ。
「恒河沙探偵事務所の恒河沙氷織と申します。今回の依頼の責任者を務めさせていただきます。こちらは同じく当事務所で働く妹です」
「夢咲夫人は法律さんを名指しで賞賛されていた。わたしはてっきり、法律さんにお越しいただけるものかと」
「兄の代わりにわたしがお伺いする旨はメールでお伝えしたはずですが」
氷織の視線が鳥羽の後ろで縮こまっている建山に注がれた。
「そうでしたか」
ほんの一瞬、映画のフィルムに挟まれたサブリミナル映像のごとくほんの一瞬だけ鳥羽の笑顔が崩れ、能面のように冷たい表情が現れ――ふたたび笑顔がもどった。
「どうも報告がわたしのところまで上がっていなかったようです」
「ご安心ください。“法律”は、鳥羽様のご期待に副えると判断して、わたくしどもをこちらの別荘に派遣しました」
「なるほど。いやこれは失礼した。どうぞ居間の方へ、温かいのみものを用意しましょう。ご希望のお飲み物はございますか」
「コーヒーを」
「えっと……じゃあ同じものを」
「ホットココアがいーなー。ホットミルクと6:4で。これうちの経験に基づく黄金比率。マシュマロがあったらいれて。それとチョコスプレー。表面が隠れるくらいに」
「承知しました。三崎、たのむぞ」
鳥羽はあごで廊下の左の方をさす。別荘のドアを開けてくれたエプロン姿の使用人は、小さくおじぎをすると、パタパタとスリッパの乾いた音を立てながら廊下の奥へと向かった。恒河沙探偵事務所の三人(一人は偽称)はLAWを先頭に三崎という名前の使用人のあとをついていった。
廊下の角を曲がったところで、最後尾の氷織が足を止め、須貝の背中を叩いた。
須貝がふり向くと、氷織は人さし指を口もとに当てながら頭を後ろにふった。
「おれに報告したか」
玄関の方から鳥羽の声が聞こえてきた。鳥羽の声は客人である探偵たちに向けられたそれよりも数オクターブ下がり、怒気にあふれていた。
須貝は氷織の意図を察し、自分の口を握りこぶしでふさいだ。
「も、申し訳ありません。特別、恒河沙法律氏にお越しいただくよう依頼したわけではなかったので。妹さんも探偵事務所の職員ですし問題はないかと……」
建山の声は震えていた。
「でもお前、夢裂夫人といっしょにいた時、おれの横にいたよな。夫人が恒河沙法律のことを褒めていたのを聞いていたよな。だったら恒河沙法律を連れてくるのが当然じゃないのか。おれに報告したら、何としてでも恒河沙法律を連れてくるよう命令されると思って、黙っていたんだろ」
「そういうわけでは……」
上司から部下への詰問はしばらく続いた。この別荘は決して居心地のよい場所にはなり得ない。そのことを確信したのか氷織はうんざりとした表情を浮かべた。
4
廊下の突き当りにあるドアを開けると、氷織と須貝の冷えた身体を熱気が包み込んだ。
鼻腔に漂う尖った香り。小人の拍手のような破裂音。須貝は別荘の屋根から煙突が飛び出ていていたことを思い出した。なるほど。ドアの向こう、右手に広がる居間の壁にマントルピースで囲われた暖炉が設置してあった。壁材にはウッドパネルが張り巡らしてあり、孤島にありながら山小屋のような雰囲気をかもし出している。
重なった薪が燃えている暖炉の前で、ロッキングチェアーがかすかに揺れていた。部屋の中央には長方形の大きなテーブルが置かれ、その周りを複数の白いソファーが連なって囲っている。
LAWはソファーに腰をおろし、背もたれに上半身を預けて天井を見上げていた。彰といっしょにいた茶髪の女性も、LAWとは離れた位置のソファーに落ちついている。彼女と視線が合った須貝は軽く頭を下げた。
氷織と須貝はLAWの横に座った。ソファーは部屋の北側にあるフランス窓の方を向いていた。カーテンが開かれた窓の外には、短い草が生い茂った庭が広がっており、庭の中心には三メートル平方の花壇に花が咲いていた。庭のはるか奥、島の淵のさらに向こうでは、晴天の色に染まった幾多の波が水平線の形に枠取られていた。
「マンデリンを切らしている? 冗談だろ」
廊下へとつながるドアをはさんで反対側、開けたテーブルが置かれた部屋から彰と使用人の三崎が現れた。三崎はカップやコーヒーポットをのせたお盆を持っており、彰はお盆をじろじろと見つめながら悪態をついている。
「彰さまがいらっしゃるとは聞いておりませんでしたから」
「気が利かないなぁ。鳥羽の家の人間がいつ来てもいいよう準備するのが使用人の役目じゃないのか」
「申しわけございません」
三崎は抑揚のない声でいった。謝罪の言葉を聞いて満足したのか、彰は鼻の穴を広げながらソファーにどかりと座りこんだ。
「ようこそ探偵事務所御一行さま。鳥羽のひとり息子で彰と申します。これは妻の優里」
足を組みながら彰がいった。彰の横に座っている茶髪の女性――優里がこくりと頭を下げた。
「おたくら、いったいどんな用事でここに来たの。あの女がらみの件ってことはわかってるけど」
「あの女……ですか」
氷織がいった。
「とぼけちゃ困るな。親父がどこぞの女に産ませた子どものことだよ。知っているんだろ。親父は女をこの別荘に連れこんで使用人たちに世話をさせている。家族であるおれに何もいわずにな」
「彰さんと奥様は、こちらの別荘にいらっしゃる予定ではなかったということですよね。ではどうして……?」
「今朝、親父が昨日から別荘に滞在しているという情報をつかんでね。年に数回しか使わないこの別荘にちょくちょく足を運んでいるって話も聞いてピンときた。つまり別荘に例の女がいるってわけだ。現場をおさえて、詳しい話を親父から聞こうと思ってきたわけ」
三崎に給仕されたコーヒーに口をつけると、マンデリンでなくとも悪くないのか、満足げな表情でうなずいた。
氷織と須貝も白磁のカップに注がれたコーヒーに口をつける。芳醇な苦みを舌の上で味わいながら、須貝は感嘆のため息をもらした。
「おいしい。素人なもんでなんと表現したものか。高級な味がしますね」
カップをかかげながら須貝は三崎にいった。三崎は小さく頭を下げると、奥の部屋へと戻っていった。
「LAW」
「ん?」
ホットココアに浮かぶマシュマロをフォークでつついていたLAWは、姉に呼ばれて首をかしげた。
「仕事に集中してね」
「いわれんでも」
「だけど集中しすぎないでね」
「それもいわれんでも」
姉妹はそろってカップに口をつけた。ほっとひと口。ホットなため息。性格も体型も服のセンスも似ていない姉妹だけれど、小さく開いたくちびるの形が似ていることに須貝は気づいた。
「どうもお待たせしました」
廊下からにこやかな笑顔を浮かべた鳥羽が現れた。背後には青白い顔でしょぼくれた建山と、不穏な笑みを浮かべるブラックスーツの神崎がいた。
「待っていたよ親父。さっそくだけど言い訳をしてもらおうか。例の女はここにいるんだろう。どうして息子であるおれに隠して――」
「彰。少し黙っていろ」
雷鳴のような鳥羽の一喝が室内を走った。
「ここに来たことは許す。滞在してもかまわない。だから、少し黙っていろ。お前に騒がれると迷惑だ」
彰は言葉をのみ込むと、震える右手を隠しながらソファーに座りこんだ。明らかに動揺した様子の夫を心配したのか、優里が彰の手に自身の手を重ねた。
「恒河沙さん。建山から依頼の内容は聞いておりますね」
鳥羽がたずねる。
「はい。少々信じがたい話ではありますが」
氷織は両手を膝のうえに揃えていった。
「信じがたい。そうですね。非常に珍しい病気ですから……」
「病気のことではありません。一人の人間を、この孤島に隔離しているという点です」
氷織の声には明らかな非難の意志が込められていた。しかし、鳥羽の相貌からその笑みは崩れない。
「彼女はご自身の意志でこの別荘に滞在されているのですか。財力と社会的権力をお持ちのあなたが半ば強制的に連れてきたのではないですか。こちらの別荘で治療されているとのことでしたが、どうして本土で治療をされないのですか」
「事情があるのです。わたしは自分の判断が間違っていたとは思いません。それと、わたしは強制なんてしていない。あの子は望んでこの別荘を訪れました」
「だけど、提案したのはあなたですよね」
「もちろん」
「権力者の提案は時に命令と解釈されます」
「なるほど。ですがこのことはあなたたちには関係がないことでしょう。事実として、あの子はここにいる。そしてわたしは、あなたたちにあの子に会ってもらいたい。それから、治療についてですが。月に二度、専門医がこの別荘を訪れて治療を行っております。間もなく先生がいらっしゃいますので、詳しい話をうかがってください」
「今ここにいらっしゃるのですか?」
須貝が驚きの声をあげた。
「はい。隔週で金曜日にお越しいただき、週末をこの別荘で過ごされてから月曜日に本土へお帰りになります。恒河沙のみなさんに今日来ていただいたのは、先生が診察にいらっしゃる週だったこともあるのです。おっと。いらっしゃったようだ」
廊下の方から足音が聞こえる。ドアが開き、男が現れた。
「やぁやぁ! お待たせしたねぇ」
男の姿を見て須貝は思わず 「うわぁ」とつぶやいた。
ごぼうのように細いその男は、真っ黒に日焼けした顔から真珠のように白い歯をのぞかせた。黄金色に脱色した長髪を頭の後ろで結んでポニーテールを作っている。白衣を羽織り、その下は真っ赤なアロハシャツ。歳のころは五十代といったところか。真っ黒な額にシワが数本走っていた。
「先生。お待ちしておりました。お飲み物は何を?」
「さてさて何をいただこうかな。鳥羽さんが隠しもっていらっしゃるシャトー・マルゴーをいただきたいですなぁ」
「おやおや。使用人たちから聞き出しましたか。スパイは誰だ。三崎か?」
「はっは。ワインは夕食の席までがまんしますか。三崎さん、紅茶を頼むよ。それで鳥羽さん。こちらが名探偵御一行ですか。ずいぶんにぎやかになりましたねぇ!」
白衣の男は大げさに両手を開いてみせた。須貝だけでなく、彰と優里も男の異様な雰囲気に圧倒されている。
「みなさん。都虎次郎先生です。都先生、ご紹介しましょう。こちらが先日お話しした、探偵事務所の皆さまです」
鳥羽にうながされ、三人は自己紹介をした。
「はっはっは。この寒い中ご苦労さまです。まぁ、雇われ者どうし、仲良くしましょうや。といっても、あなたたちの仕事なんてありませんけどね」
「え? それってどういう意味――」
「鳥羽彰です。これは妻の優里。父がお世話になっております」
須貝の言葉をさえぎって彰が前に出てきた。彰の差し出した手を都は力強くにぎりしめた。
「都です。はっはっは。あなたが鳥羽氏のご子息。ご高名はかねがね!」
「先生。彰のことはいいので、探偵の皆さんにあの子の症状についてご説明をお願いします」
三崎が持ってきたお盆を横取りすると、鳥羽は自らの手で紅茶の入ったカップを都の前に置いた。
「わかりました。とはいえ守秘義務がありますので、患者の情報をポンポンとひとに話すわけにはいきません。探偵さんたちは、まぁいいとして。ご子息夫婦にも聞かせてよろしいのですか」
「かまいません。ここに来た以上、何も説明せずに帰すわけにもいかないので。ただし、彰」
鳥羽は彰の方を向いた。
「これから聞く話は、わたしの許可なく外に漏らすんじゃない。わかったか」
「それは話の内容によるかな」
「わかったかと訊いているんだ」
「……わかりました」
彰は両腕を組んでソファーに深く沈みこんだ。
「よろしい。では先生、お願いします」
5
「まず端的に申し上げますと、鳥羽さん。あなたは心配しすぎです! 愛さんはたしかに解離性同一性障害を患わっていらっしゃいますが、この症状は世界的にみると決して珍しい病気というわけではありません。人類史的にも新しい病気というわけではない。歴史書に沢山残っているトランスや悪霊憑依などは、たんに解離性同一性障害の症状が起きただけにすぎません。人類学的にも珍しいものではないのですよ。まぁたしかに、他の精神病と比べると報告例はすくない。世間ではこの病気の患者にお会いしないまま生涯を終える方がほとんどです。それでも世界は広く、それ故この病気は決して珍しいものではないわけです」
「解離性……どう? なんだって」
彰が小首をかしげる。
「ご存じないですか。一般的な言葉でいえば多重人格のことですよ。異なる人格が一つの身体の中におさまっているといえばわかりやすいでしょうか」
「そんなことが……そうか。なるほどな。自分の子どもが精神病を患っているなんて世間体が悪いから、親父はこの別荘でその女を治療させているわけだ」
「“その女”じゃない」
鳥羽が膝をゆらしながらいう。
「ちゃんと名前で呼べ。名前は愛だ。都先生、続きを」
「解離性同一性障害の英名はDissociative Identity Disorder。医療業界では頭文字をとってDIDと呼ばれますので、この呼び名を使わせていただきます。DIDはたしかに辛い病気です。離人感。現実感の喪失。じぶんでない“じぶん”が身体を支配している間、じぶんはその存在を失います。日常は不連続で意識が飛び飛びとなる。恐ろしい症状ではありますが治療は可能です。カウンセリングと投薬を根気よく続けることで、症状は改善されます。だいじょうぶ。わたしを信じてください」
都は白い歯をみせて笑った。鳥羽は都に向けて大きく頭を下げ、その姿勢のまま『ありがとうございます ありがとうございます』とくり返した。
「『殺してやる』」
氷刃のような鋭い声が室内の空気を切り裂いた。
声の主は氷織だった。組んだ両腕をひざにのせて、前かがみで都を見つめている。
「……でしたっけ。九重愛さんは、二週間前にそうおっしゃったんですよね」
「本当にそんな言葉を? 失礼なやつだ!」
彰は非難を口にした。それと同時に口角がかすかに上がったが、無意識にでた笑みを隠すように手で口元を覆ったのを須貝は見逃さなかった。
「ですから心配しすぎです!」
大げさに両手を広げながら都は首を横にふった。
「たしかに愛さんは『殺してやる』とおっしゃいました。いえ、愛さんではなく、愛さんの中にいる別の人格がそう叫んだのかもしれない。だとしても何も問題はありません。DIDの患者は感情の統制が難しく、時に激昂して暴力的な一面をみせることがあります。しかしこれは我々一般人にも見受けられる事態です。酒に酔ったり、過剰にストレスがたまったりすると、普段のじぶんでは絶対に口にしないようなことをいってしまったりするでしょう。それと同じです。本当にひとを殺そうと思っていったわけではありません」
「愛さんは暴れまわって、使用人に取り押さえられた。それから『殺してやる』と口にしたわけですよね」
「その通りでございます」
乾いた声が壁の方から聞こえてきた。直立の姿勢壁際に立つブラックスーツの神崎が、にやにやと不気味な笑みを浮かべながら氷織を見つめていた。
「夕食の最中に暴れだしましたので、不躾ながらわたしが拘束いたしました」
「『殺してやる』とは、神崎さんに向けられたのでしょうか」
「わかりかねます」
神崎は応える。直立不動のまま。
「ではその場に居合わせたのは神崎さんの他にどなたですか」
「えっと……わたしと、社長、都先生と二人の使用人です」
建山がぽつぽつといった。
「二人の使用人?」
窓際に立つ三崎を見ながら須貝は声をあげた。咳ばらいをしてから鳥羽が身をのりだす。
「この別荘にはもうひとり二ノ宮という使用人がおります。二ノ宮はただいま、皆さまの寝室がある客室棟でお部屋の準備をしております。予期せぬ来訪者のせいで時間がかかっているようですな」
鳥羽は彰と優里をにらみつける。彰はぷいと視線をそらし、優里は力なく手の甲をさすった。
「都先生は『問題ない』とおっしゃいますが」
氷織は立ち上がり、声をはりあげた。
「依頼を受けてこの別荘に招待された以上、ご本人からお話をうかがわないわけにはいきません。鳥羽さん。早速ですが、愛さんに会わせていただきます」
「先生。よろしいかな」
鳥羽は都に訊ねた。
「もちろん」
壁にかかった振り子時計を一瞥してから都はうなずいた。時計の針は一二時三十分を示している。
「これから昼食ですので、食事を終えて……そうだな。一五時からとさせてください。愛さんにも、いろいろと説明しなければいけませんし、船に揺られて探偵さんたちもお疲れでしょう。少し休憩されるといい。三崎さん、一五時になったら探偵さんたちを愛さんの部屋へご案内してください」
「かしこまりました」
三崎は深く一礼した。