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幕間A

 二月十九日 金曜日。

 「うわびっくりした。呼んでもないのに来ないでよ」

 自室の観葉植物に水をあたえていたかつらは、言葉とは裏腹に淡々としていた。

 「お忙しいところすみません。水やりですか」

 仏頂面で副総監室に入ってきた今江いまえ巡査部長は、これっぽっちも非を覚えていない口調でいった。

 「そう。昼休みの日課」

 「副総監ともなれば執務室の植物の世話くらい部下にやらせているものかと思いました」

 「前は総務の若い子にやってもらってたんだけどね。その子おこっちゃって」

 「おこった?」

 「これ、全部フェイクグリーンなんだよね」

 「……は?」

 じょうろの先から水が途切れる。プラスチックの茎をつたった水が湿った土へとしみ込んでいく。

 「管理がめんどくさいからにせものを用意したのに、総務の若い子が直属の上司の命令で水やりを始めてね。にせものだっていい出せなくて半年が経過。つい口をすべらしたら、カンカンになって二度とこなくなっちゃった。わたしも長いこと警察をやってるけど、水の入ったじょうろがおでこに当たったのは初めてだったよ」

 「ぜひともその場に居合わせたかったですね」

 「でもねー。いざ水やりをやらなくなると、なんだかソワソワしちゃってさ。プラスチックに水を与えることに意味はないけど習慣は習慣でしょ? ソワソワを消化するためには水やりをしなきゃいけないわけ」

 「ある種の呪いですね」

 「てか今江ちゃん。何の用なの。水やり代わってくれる?」

 「そんなことするくらいなら防音室の壁の穴の数でも数えていたほうがマシです。恒河沙の件で来ました」

 「なに、どっちの件よ。北? 南?」

 「南。妹たちの件です」

 桂はじょうろを窓辺に置き、あくびをしながら席に着いた。

 「氷織たちは今朝出発したんだよね」

 「探偵事務所に行って見送ってきましたよ。思った通り、公安ハムの回し者は警察手帳を持ってきていたので回収してきました」

 「回し者って。いちおう彼は正式に一課に仲間入りしたんだから。歓迎してやりなよ」

 「公安を信用する気にはなれません。どんな事情であんな若いのをうちに回したんですか」

 「頼まれたから」

 「誰に」

 「公安のえらい人」

 「どんな目的で」

 「しらないよ」

 「納得できません」

 「いいじゃん別に。こそこそ裏で嗅ぎまわれるよりは、正面から来てくれた方がいいでしょ」

 「では公的なスパイとでも呼びましょう」

 「すごい語義矛盾を感じる。それで、あの……名前わすれちゃった。公的スパイくんが何か?」

 「いえ。あれはどうでもいいんです。実は今朝、氷織から依頼を受けまして」

 「依頼? ふぅん」

 桂は鼻を鳴らしながらバスケットに盛られた茶菓子に手を伸ばした。

 「氷織たちが訪れている別荘に、“九重ここのえあい”という女がいます。あの子たちはこの女と会うために別荘に向かったそうです」

 「誰それ。知らなんだ。有名人?」

 「一般人です。氷織はわたしに、この一般人について可能な限り調べてくれと依頼してきました」

 「大変そうだね」

 「断りましたよ。今回の件は恒河沙探偵事務所が受けた依頼です。警察が関与していない以上、協力する義務はありません。ですがあの子、わたしが断るのを()()()しました」

 「あの子もやっぱり恒河沙だね。やることが無茶苦茶だ」

 そういって桂は笑った。チェシャ猫のように悪趣味に笑った。

 「二か月前に所轄から配属された新米とはいえ、わたしには一課の仕事があります。小田切(おだぎり)部長に相談したところ『自分の判断領域をはるかに超える』ため、副総監に直接相談するよう、たらいまわしにされました。副総監権限で恒河沙探偵事務所の依頼を断っていただけますか」

 「え、やだよ。その九重って女のこと調べてくればいいじゃん」

 今江は隠すことなく舌打ちを放った。

 「氷織たちは週明けには帰ってくるんだよね。つまり、その九重って女について調べるのは……今日が金曜だから、今日、明日、明後日の三日間てとこか。いいじゃん別に。この週末はお仕事に励みな。週明けに代休をとればいいでしょ」

 「明日と明後日は子どもの用事が……」

 「きちくんは初芝はつしばくんと映画館に行くんでしょ」

 今江は声を失った。ひとり息子の諭吉は、二か月前の大学病院の事件を経て部下の初芝巡査と私的に遊びに出かけるほどの有効関係に至った。一人っ子の諭吉は実の兄ができたかの如く喜んでいる。たしかに今週末、二人は映画を観に行く約束をしていた。まさか桂がそのことを把握しているとは。

 「初芝くんは土日とも休みなんでしょ? 諭吉くんの世話は彼にたのめばいいじゃん」

 「ですから、これは警察の仕事とは――」

 「いや。そうでもないよ」

 桂の声が鋭利に光った。

 副総監の声質の変化に、今江は緊張を覚えた。

 「どうして氷織は九重って女のことを調べるよう依頼したと思う」

 どうして。それは端的にいって自分で調べる時間がなかったからではないか。今江はそう答えた。

 「わたしはそうは思わない。なんだかんだいって氷織は兄妹の中でいちばん世渡りが上手い。会いに行く女の情報がないならないで、その場の空気を読んで話を合わせてくるはず。だけどあの子はそれをしなかった。なんでだと思う」

 今江の分単位の沈黙を経て桂が口を開く。

 「恒河沙理人は、をかぎ分ける鼻をもっていた」

 「……鼻?」

 「人づてに話を聞き、その状況を想起するだけで鼻腔に事件の“臭い”が広がるらしい。実際に理人が“臭い”をかいで、その場を訪れると事件が起きたり、既に事件が起きていたことが過去に何度もあった。あの男の鼻は本物だよ。さて。彼の子どもたちはどうかな」

 「氷織は“臭い”をかぎとった。だからわたしに、九重愛の調査を依頼した」

 「そうとしか考えられない」

 「だけどそれって……」

 今江は奥歯を強く噛みしめた。

 「あの子たちが訪れる別荘で、事件が起きるってことですか」

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