エピローグ
1
三月八日 月曜日。
一匹の三毛猫がすべり台の上で日光浴をしている。その公園に人気はなかった。
須貝はブランコに腰をおろすと、呆けた表情で青空を見つめた。
事件が終息を迎えてから既に半月が経っていた。駿河湾に浮かぶ孤島の別荘で起きた奇妙な殺人事件。須貝がこの事件に巻き込まれたことの発端は、公安部総務課長の犬養に声をかけられたことにある。だが本土に帰っても犬養からの連絡はなかった。刑事部の人間に感づかれないようこっそりと公安部を訪ねてみたが、入り口の時点で追い返された。
そして昨夜。事件後初めて須貝は犬養と言葉を交わした。
「ご苦労だったなぁ」
犬養は須貝を国道沿いのファミリーレストランに呼びだした。立地が悪いのか店内に客は少なかった。
「どうだった」
たった五文字の質問。だがその五文字は数多のネガティブな感情のにおいを放っていた。
「……化け物ですね」
正直に答えた。犬養は不気味な間をおいてから『そうだろう』と応えた。
「恒河沙は化け物だ。あいつらは社会を混沌に陥れる力をもっている。」
犬養の指がテーブルをコツコツと叩いている。
「今回の事件。恒河沙がいなければどうなっていた。孤島で殺人事件が起こり、自分の娘が殺人犯になったと頭を抱えた鳥羽は、世間体を気にして事件を隠蔽しただろう。それでよかった。ひとりの人間の死を闇に葬ったところで、大した害はない。それなのに恒河沙は、闇をほじくり返していくつもの欺瞞を日の光のもとに晒した」
「それは、正義ではないのですか」
「正義だ。だが正義は必ずしも善ではない。恒河沙はこの世に数多の欺瞞が存在し得ることを証明した。恒河沙の正義を介して人びとは欺瞞の実在を信じるようになった。この世には欺瞞が満ちていることを確信した人間は、コンクリートの歩道を進む事さえ怯えてしまう。そこに欺瞞が隠れているのではないかと疑うからだ」
「だから、悪ですか」
「そうだ。人間はある程度バカでなければいけない。欺瞞を恐れる人間は、フレーム問題に陥った機械のように行動をとれなくなる。恒河沙の存在は人間を壊す。だからあいつらの正義は悪なんだ」
犬養はグラスの水をひと口であおると、冷たい息を吐きだした。
「おれたち公安の仕事は、国家の安寧を維持することだ。国民が不安を覚える国家に安寧なんてものはない。しばらくお前は恒河沙の弱点を探れ。何かがわかってもお前から連絡はするな。不定期におれの方から連絡するから、その都度報告しろ。いいな」
ほんの数分にも満たない時間で、深夜の会合は終わった。
ブランコから立ち上がった須貝は、晴天から突き刺す陽の光を浴びてどこか後ろめたい気持ちを抱いた。
自分は恒河沙に惹かれている。氷織とLAW。ふたりの恒河沙と共に事件に挑み、彼女たちが提示した道に心をくすぐられている。
公安部での仕事を担っていた際に抱いていた違和感の正体がいまになってわかった。公安部での正義は与えられたものであった。
警察組織とは社会的正義である。度重なる不祥事や暗部を黙殺しているわけではない。例えそのような負の側面を擁していても、その本質は正義であるというだけだ。人間は脆い。頼るべき存在を求める。身に降りかかった悪を追い払ってくれる正義を求める。そんな正義が存在しない社会とは不健全であり、その社会の構成員は絶望を胸に抱きながら死を選ぶことになるだろう。だから警察という社会的正義が必要なのだ。たとえその一部が腐敗していようとも、最終的には自らの味方をしてくれる社会的正義が必要なのだ。そう信じていた。警察一族に生まれた時から抱いていた信念。母親の子宮の中で与えられた正義についての信念だった。
だが恒河沙は違った。恒河沙の兄妹は須貝に別の正義を提示した。彼女たちは周囲に忖度することなく欺瞞のヴェールを剥ぎとってみせる。その行動原理は子どものようにシンプルなものだ。覆い隠された何かの正体を知りたい。恒河沙はそんな動機で欺瞞に挑む。真実であることが正義であるという、単純にして危険な理念。だが同時に、その理念は魅力的な香りを放ち、須貝を誘惑している。
正義とは安寧也。
正義とは真実也
どちらが正しいのかわからない。
どちらが正義なのかわからない。
須貝の足は重かった。自分はいったい誰の味方なのだろう。警察か。それとも恒河沙か。わからない。猛烈な頭痛が左脳を襲う。この日光は栄光をたたえるスポットライトだろうか。それとも闇に隠れる罪人をいぶりだすサーチライトだろうか。
わからない。何もかもがわからない。須貝には、二つの正義を選ぶ勇気がなかった。だから彼は歩き出した。彼女といっしょにいればその勇気が与えられると信じて。重い足取りで歩きだした。
2
勝手知ったる他人の事務所。今江恭子巡査部長は恒河沙探偵事務所の給湯室で人数分のコーヒーをつくると、憮然とした表情で広間に戻ってきた。
「LAWと縛が合流して、恒河沙探偵事務所の構成員は四人になった。今後は本格的に警察からの依頼に対応してもらうからそのつもりで。桂からの伝言は以上」
「やぁやぁ。任せてくださいな。今回の事件でLAWと縛の実力は証明されたでしょう」
法律は上機嫌な様子で今江からコーヒーを受けとった。恒河沙探偵事務所所長の身体は、回転式の椅子の上で左右に揺れている。
「この二週間。二つの事件の後始末に追われて散々だったぜ」
あくびをかみ殺しながら籐藤剛巡査部長が悪態をついた。
「青森の事件に比べたら、鳥羽の別荘の事件の方がまだマシだよ。ここんとこ毎日のように丸子本部長からクレームの電話がかかってきてな。今朝は、お前ら全員の身体にGPSを埋め込んでくれっていわれたよ。あのひとの“恒河沙嫌い”はお前さんのせいで加速しちまったみたいだ」
籐藤は苦々しい視線を縛に送った。縛は籐藤の言葉を聞いていないのか理解していないのか無視しているのか、今江からもらったコーヒーの香りを嗅いで、温泉に浸かったカピパラのようにうっとりとした顔をしていた。
「三崎さんはどんな様子ですか」
自分の机に腰を下ろした氷織が訊ねる。
「素直に取り調べに応じている。いい弁護士がついたし、二ノ宮さんもずいぶん気にかけてくれているよ。実刑は免れないだろうか、最悪の事態は回避できるだろう」
「鳥羽さんは。あのひとの会社はどうなりましたか」
「駄目だね。事件のことが露呈して、株主たちから非難轟々。鳥羽は退陣するそうだ。社内では専門家がついて大掛かりな労働組合が結成された。ブラックな労働環境が次々と暴かれて、上層部はてんてこ舞いだってよ。ついでにいうと、鳥羽彰は優里と離婚して実家に帰されたそうだ」
「それと、須貝のことだけど」
今江がティースプーンをソーサ―に置きながらいった。
「須貝には恒河沙探偵事務所の担当を継続させます。腕の骨を折られるような若輩者だけど、問題児四人を扱えるほどわたしも籐藤巡査部長も人間ができていないから」
「警察も人手不足でな、猫の手でも借りたいのが現状だ」
「LAWの担当にするんでしょう」
氷織は髪をかき分けた。
「わたしも最初は須貝くんを戦力不足として軽蔑していたんだけど、あの島での四日間を経て考えが変わった。須貝くんはLAWと相性がいい。頼りないし、貧弱だし、警察官には向いていないと思うけど、LAWのパートナーには向いている」
「いけない」
法律が断固とした口調で反対した。
「LAWのパートナー? それはいけない。あんな若い男をLAWと二人っきりにさせるつもりですか。いけない。ぼくは納得できませんね」
「法律。反論になってないぞ。そりゃただのわがままだ。猫の手でも借りたい状況だっていっただろ」
「だったらぼくが野良猫を捕まえてきますよ。近所の公園にいる三毛猫のチャーリーをLAWのパートナーにしましょう!」
「あの……失礼します」
事務所のドアが開いて、当該人物である須貝が顔をのぞかせた。
「いけない。見てくださいあの頭。反骨の相が出ています!」
「え。えぇぇ!?」
「馬鹿なこというんじゃない。どうしてお前は妹のことになると……ほら、須貝。とっとと中に入れ」
籐藤は四肢をふり回して暴れる法律を取り押さえた。須貝は背中を丸めて事務所に入ってくる。
「お疲れさま。あれ。LAWはどうしたの。一緒だって聞いてたけど」
今江が訊ねると須貝は自由に動く左手でぽりぽりと頭をかいた。
「コンビニで買い物をするから先に行っててくれって」
「何と。失望しましたよ須貝さん。あなたは今日なんのために皆が集まったかわかっているのですか。事件の祝勝会です。LAWと縛の恒河沙探偵事務所復帰祝いです。あなた達ふたりに茶菓子の用意を任せたというのに、それをLAWひとりに押しつけたというのですか。見てください籐藤さん。やはり反骨の相が――モゴモゴモゴ」
「黙れ黙れ。須貝。病院はどうだった。白樺の総合病院はでかかっただろ。ギプスはいつ取れるんだ」
「半月もすれば完治するそうです」
須貝は右ひじに固定されたギプスを左手で叩いてみせた。
「後遺症も残らないそうですよ。応急処置がよかったおかげだって、先生が褒めていました」
須貝が氷織に頭を下げた。氷織はコーヒーカップを手にそっぽを向く。その様子を見て今江がくすりと笑った。
「しかしLAWがお前の通院に付き合ってくれるとはな。ずいぶんと気にいられてるじゃねえか」
籐藤が法律を拘束しながら下卑な表情を見せた。
「そんなんじゃありませんって。LAWさんはぼくじゃなくて……あ、これ内緒にしておけっていわれたんだ」
「内緒? お前たち何か企んで……」
「はいはい。おまっとさん。あれ、ほうにぃ。何でコブラツイストされとんの」
入り口のドアが開き、菓子や飲み物のペットボトルが入った袋を両手にもったLAWが現れた。
「お疲れさま。ずいぶんたくさん買ってきたのね。予算オーバーでしょ」
今江がビニール袋を受けとりながら主婦らしい渋い顔をした。
「大丈夫。ほうにぃの財布からお小遣いをもらったから。足りないぶんはうちのおごり」
「それはおごりとはいわない」
「ん? そうかな。まぁええわ。それよりほうにぃ。ちょっと提案があるんやけど」
LAWはパタパタと桃色の羽織の袖を整えながらいった。
「今回の二つの事件のせいで、この探偵事務所は四日間も無人やったわけやろ。今後も探偵事務所の看板を掲げる以上、事務所に誰もおらんのはまずいんとちゃう」
「たしかに。LAWのいうとおりだ」
コブラツイストから解放された法律は不自然に曲がった首を気にしながら応えた。
「で、うち考えたんや。お留守番もしてくれる事務員を雇ったらええって。ちょうど友達にひとり、仕事を探してる子がおったから連れてきたわ。ほら。はよ来おし」
LAWはドアの外に手を伸ばし、彼女の手を引いた。彼女はおずおずと室内の様子をうかがいながら入ってきた。
「ほら。自己紹介」
LAWが彼女の背中を優しく叩いた。須貝も駆け寄り、LAWの手に自身の手を重ねる。
「自己紹介ってのは大声でするものです。さぁ、がんばって」
須貝もLAWといっしょにエールを送る。覚悟を決めたように彼女は口を開いた。
「は、初めまして」
そう。『初めまして』だ。彼女と会うのは、これが初めて。
「九重愛と申します」
お読みいただきありがとうございました。
ほんのひと言でも構いませんので、感想などいただけると幸いです。
参考文献
・ エリザベス・F・ハウエル著 柴山雅俊、宮川麻衣訳『心の解離構造―解離性同一性障害の理解と治療』 2020 株式会社金剛出版
・ ダニエル・キイス著 堀内静子訳 『24人のビリー・ミリガン〔新版〕 上・下』 2017 株式会社早川書房
・ haru著 『ぼくが13人の人生を生きるには身体がたりない。: 解離性同一性障害の非日常な日常』 2020 株式会社河出書房新社




