第十章
1
九重愛は殺人犯ではない。
その言葉を聞いて一同はただただ言葉を失った。
あるものはカバのように大きく口を開け、あるものは言葉のもつ意味に押しつぶされたように身体をすくめる。自分たちは犯行の現場を目撃していた傍観者だ。探偵の導き出した推理をただただ聞いていればよい。傍観者。もしくは傍聴人。裁きの場の公平性を、第三者の立場から確認する。それが自分たちの務めだと把握していた。それは間違いだった。恒河沙LAWの視線は当初から“九重愛”を見ていなかった。彼女の視線は、傍観者の中に紛れ込んだ真犯人を凝視していた。
「Ah lā lā(ウーララ)! 皆さん並んで呆けたお顔。笑けんなぁ」
LAWは口もとを手で隠して肩を揺らした。だがその瞳は――かすかに充血した猫のように丸い瞳は――閉じることなく見開かれていた。
「探偵さん。待った。待ってください。都先生……いや、都を殺したものが――そんな馬鹿な。われわれの中にいるなんて」
手の甲を激しくかきむしりながら鳥羽がソファーから立ち上がった。
「鳥羽さん。おちついてください」
ロッキングチェアの上で揺れるLAWの横に立つ氷織が、冷ややかな口調で鳥羽を制す。鳥羽は顔中に脂汗を垂らしながら、困惑に歪んだ表情を見せた。震える手でウィスキーの瓶に口をつける。秘書の建山に促されると、ウィスキーを手にしたまま再びソファーに落ち着いた。
「あなたも既に都先生を殺した犯人をご存じなのですね」
使用人の三崎が訊ねる。その言葉は、爆弾発言を放ったLAWを除くと唯一冷静沈着な氷織にむけられていた。氷織はゆっくりと首肯する。
「知っています。だけど真実にたどり着いたのはわたしではありません。妹です。わたしはただその手伝いをしただけ」
「いくつか前提を確認しとこ」
LAWは親指から始めて三本の指を高々とかかげた。
「ひとつめー。犯行現場はどこか。都センセが殺されたのは、間違いなくセンセの部屋や。ベッドの周りだけが血で汚れとって、入り口ドアの周りは血の一滴さえ落ちとらんかった。この島の中で犯行の痕跡が残っとる場所も他にない。なので犯行現場は都センセの部屋……と。なんか反論ある?」
こくりとLAWは首をかしげる。反論は、ない。三本の指のうち、親指が折り曲げられた。
「ふたつめー。凶器は何か。犯行後、警察が来れば傷跡が確認されるのは絶対。この時、愛さんが持っていた出刃包丁以外の傷跡があったら、愛さん以外の誰かが都センセを殺したと警察は気づいてしまうなぁ。でも犯人はこの点を容易にクリアできる。とゆーのも、愛さんが持っとった出刃包丁は、キッチンに同じものが何本もあるからや。キッチンから出刃包丁を一本失敬して都センセを殺せば、センセの腹に残るのは出刃包丁の傷跡だけ。出刃包丁を持っていたのは“九重愛”と皆は証言する。故に都センセを殺したのは“九重愛”である……と警察は結論づけるわけや」
「元医療従事者の立場から見解を述べさせていただきます」
氷織が声を張りあげた。
「目測レベルの確認で恐縮ですが、都先生の腹部の刺創の幅は、出刃包丁の幅と一致しています。使用された凶器は、出刃包丁で間違いありません。犯人は犯行前にキッチンを訪れ、出刃包丁をもって都先生の部屋へ向かったのです」
「その凶器はどこにあるんだ」
彰がぶすりとふて腐れた顔をして訊ねた。
「おそらく今頃は海底でしょう。犯人は何としても二本目の血まみれ出刃包丁を隠したかったはず。一番手ごろな処分方法は、島の淵から海に向かって放り投げることです。重みのある出刃包丁なら海の中に沈んでくれる。先の血液パックのように、波に流されて岸にたどり着くということもないでしょう」
「凶器は出刃包丁や。キッチンに出刃包丁が何本もあることは、みんな知っとるよな。彰はんや優里さんかて、この別荘は何度か来たことあるんやろ。出刃包丁のことを知らんのはちょっと不自然や。まぁ、彰はんは料理とかしなさそうやし、知らんかったかもなぁ。あっはっは」
「し、知ってたとも。馬鹿にするなよ。別荘を建てた当初、親父が上等の出刃包丁を大量に揃えたって自慢していたからな」
額に血管を浮き上がらせた彰が自分にとって不利な証言をする。LAWは何も応えず、突き立てた二本の指のうち人さし指を折り曲げる。中指が一本だけのこり、ずいぶんと物騒なハンドサインが残った。
「みっつめー。犯行の時間はいつか。生きとる都センセが最後に目撃されたのはいつ? どこ? もちろん、『傷口を縫合するから』って自室まで運んでくれたみなを部屋から追い出したところや。昼食が始まるタイミング――十二時半ごろに偽装事件が始まったから……そうやね。包丁をもった“愛”さんを庭先で止めて、都センセを部屋に運んで、追い出されて。総計で十五分くらいはかかったかなぁ。都センセが最後に目撃されたのは、十二時四十五分ごろってことになるな。で。遺体が発見されたのは……たしか見つけたのは、二ノ宮はんと三崎さんやったか」
「はい。だいぶ時間が経ったので、様子を伺うためにお部屋を訪ねましたら……」
二ノ宮が声を震わせる。血まみれのベッドに横たわる悲惨な遺体を思い出したのか、顔は病的なまでに青く染まっている。
「その時に時計を確認しました。二時四十分ごろでした」
三崎が応える。それを聞いて須貝はひとりうなずいた。事件当日の午後三時。偽装事件を本物の傷害事件と思いこんでいた須貝は、その事後処理に甘い鳥羽に嫌気が差し自室でふて寝をした。そんな須貝の部屋に都の死を伝えるために三崎が訪れたのは午後三時ちょうどのことだった。あの時三崎は“ニ十分前に都の部屋を訪れた”と口にした。
「そうやね。あの時うちは食堂におったけど、二人が大慌てで居間に飛びこんできたことは覚えとるよ。つまり都センセが殺されたのは、うちらを部屋から追い出した十二時四十五分から、遺体が発見された十四時四十分の間」
約二時間と幾分長い時間が提示される。LAWは中指を軽快にふってみせた。
「犯人の気持ちになって考えてみよ。犯人は都センセと愛さんの間で偽装事件が行われることを知っとったのかな。Non(いんや)。偽装事件は二人だけで実行が可能で、誰かに手伝ってもらう必要はない。都センセも“愛さん”も偽装のことを周りに漏らすメリットがないわ。つまり、真犯人は庭先で起きた傷害事件の頭に“偽装”がつくことを知らんかった。真犯人は都センセが自室で愛さんに刺された傷を縫合しとると思っていたわけや。犯人はキッチンから出刃包丁を持ち出し、治療中であろう都センセの部屋を訪れた。包丁を手にしていたのは自身の犯行を愛さんになすりつけるため。もういっぺんいうわ。犯人の気持ちになって考えてみよ。愛さんに罪をなすりつけるためには、犯人は早急に都センセを殺さなければならなかったはずや」
「“早急”に? どうしてですか。十二時四十五分から二時四十分の間なら、何時でも構わないのではないですか」
建山が口をとがらせて訊ねる。しかしLAWは中指を立てた手で口元を隠して笑った。
「いや。“早急”やないとダメや。何故なら、早くしなければ都センセは傷の縫合を終えてしまうから。愛さんに罪をなすりつけるためには、愛さんが刺した箇所以外のところを刺すわけにはいかん。うちらは愛さんが三回都センセを刺すところを目撃した。そして都センセは腹から血を流しとった。例えばもし犯人が心臓を刺して都センセを殺したら、それは愛さん以外に都センセを傷つけた人間がいることを証明してしまう。犯人は、都センセの腹を――愛さんが刺した傷跡以外の箇所を刺すことはできなかったんや。だけどもし都センセが縫合を終えてしまったら、センセを殺すためには縫合した糸の上から出刃包丁を刺しこまなければなくなる。縫合の痕――糸を通した痕が残る傷口をもう一度刺すなんて、そんなの警察が見たらおかしいと思うに決まっとる。愛さんが刺したから都センセは腹の傷を縫った。なのに、既に縫われた傷の上から刺したら、それは愛さん以外の誰かが縫合の後に刺したことになる。だから犯人は“早急”に都センセを殺さなならなかったわけや」
「実際には都先生は縫合なんかしていなかった。だけど、われわれがそのことを知っているのは庭先での一件が、偽装事件だと知っているから……というわけですね」
須貝が興奮した口調でまくし立てる。
「犯人の気持ちになって考える。その通りだ。犯人は都先生が自分の傷を縫合していると思っていた。だから、縫合が終わる前に部屋に行き、出刃包丁で刺し、治療が上手くいかず出血死したように見せかける必要があったんですね」
「そーのーとーおーりー」
LAWは祝詞をあげるような口調でいった。
「犯人は、皆が都センセの部屋を追い出されたあと、すぐに犯行に移ったはずや。部屋を追い出されたのが十二時四十五分で、縫合を完了するまでに部屋を訪れなければならないから……まぁ、十三時ごろと考えてええんやない?」
「犯人は早急に都先生を殺す必要があった。犯行時刻は十二時四十五分から十三時ゼロゼロ分の間」
氷織が予想犯行時刻をまとめる。LAWは掲げていた中指を折り曲げた。
「ん。みっつの前提が確認されたなぁ。ひとつめ。都センセが殺されたのは客室棟二階の自室。ふたつめ。凶器はキッチンから持ち出された出刃包丁。みっつめ。犯行時刻は十二時四十五分から十三時ちょうど。反論は? ない? Tant mieux(よかった)。そしたら次のステップにいこかー」
2
「さってーと。神崎さん」
LAWは長らく沈黙を保っている神崎の名を呼んだ。
腕を組んで壁際にたたずむ神崎は、例の不気味な笑みをLAWに向けた。
「なんでしょう」
「神崎さん。この中でいちばん暴力が似合うのはあんたや。偏見やない。実際にあんたはなんの罪もない須貝はんの右腕を容赦なくへし折った。端的にいって都センセを殺した犯人としてふさわしいのはあんたや」
不躾な発言を受けても、神崎は動じる様子を見せなかった。むしろ汗をたらして動揺したのは須貝だった。
LAWは須貝を“なんの罪もない”と形容した。それは違う。須貝は犬養課長の命令を受けて“恒河沙”を探り始めた。それは彼女たち恒河沙の兄妹に対する裏切りに他ならない。何の罪もないなんてことはない。須貝は既に大きな罪を抱えていると自負している。それゆえの汗だった。
「でもなぁ。残念ながら、神崎さんは犯人やない。うちは知っとる。残念やなぁ」
神崎が頭を下げる。それを見て須貝は汗をぬぐってから口を開いた。
「どうしてですか。神崎さんが犯人でない理由がわかりません」
「神崎さんは、鳥羽はんの寝室で眠る愛さんを見張っとった。包丁をもって暴れた愛さんを拘束して、鳥羽はんの寝室に放り込んだ。もし神崎さんが見張りの仕事を放棄して都センセを殺しに行って、その間に愛さんが逃げだしたりしたらどういい訳するんや。不自然な行動は疑惑を呼ぶ。神崎さんは皆が思う以上にスマートな思考をしとるわ」
「恐縮です。ありがとうございます」
神崎は再び頭を下げた。口調こそ慇懃ではあるが、その目は猛禽類のように鋭くLAWを見つめていた。
「犯行時刻の十二時四十五分から十三時ちょうどまでの間は、事件直後ということもあってみんなバタバタと別荘の中を動き回っとった。そんな中、うちは中断された昼食を再開するために食堂に戻ったんやけど、戻ってきたのはうちひとりやった。ただ、ひぃねえと鳥羽しゃちょー。それから建山さんの三人が隣の居間にいるのは見とったわ。鳥羽はんはイラついた様子でニワトリみたいに歩き回り、今と同じでウィスキーをあおっとったな。いや、あの時はまだ瓶をラッパ飲みするほどメンタルはやられとらんかったか。あっはっは」
LAWは挑発するように笑ってみせる。鳥羽はバツを悪くしたのか、手にしていたウィスキーの瓶をテーブルに置いた。
「建山はんはそんな社長を心配そうに見つめて、ひぃねえはいろいろとショックを抱えてうな垂れとったな」
氷織は、元医療従事者でありながら重症人を前にして逃げ出した自身への嫌悪感に押しつぶされそうになっていた。もっとも、あの時氷織の目の前にいたのは重傷を負ったフリをした闇医者だったわけだが。
「よって。ひぃねえ、鳥羽しゃちょー、それから建山はんは犯人やない。何故なら、犯行時刻のアリバイをうちがこの目で確認しとるから」
「当たり前だ。わたしには動機がない。わたしを騙していたとわかった今なら、十分すぎるほどの動機があるがな」
鳥羽のいら立った声を聞いて須貝は考えた。そうだ、動機だ。犯人は何故都先生を殺したのだろう。この滞在期間中、都先生に敵愾心を抱くようなひとはこの中にはいなかったはずだ。それとも犯人はその敵愾心を巧妙に心の奥底に隠していたというのか。
「次に、都センセの腹に残った傷跡からアプローチしてみよ」
LAWは四本の指で額を叩きながらいった。
「都センセは腹を三か所刺されて殺されとった。Une fois de plus(もう一回)、犯人の気持ちになって考えてみよ。犯人が出刃包丁をもって都センセの部屋を訪れると、なんと都センセの腹には傷がなかった。都センセは偽装事件の秘密がばれて焦る。そして犯人は? 犯人は全てを理解したやろうなぁ。先の庭先での事件は茶番やった。まぁ茶番やろうと犯人にとっては関係ない。犯人は都センセを確実に殺めたい。そして自身の犯行は“九重愛”に罪を被せる必要がある。九重愛が刺した回数以上都センセを刺してはいけないわけや。もし犯人が“九重愛”が都センセを刺した回数を知らなければ、ここで殺害を諦めるか、あてずっぽうの回数を刺さなあかん。実際のところ都センセが愛さんに刺された回数と犯人に刺された回数は一致していた。偶然やろうか。そんなの話がうますぎる。犯人は知っとったんや。犯人は茶番劇の一部始終を見とった。一撃目から三撃目まで、雨の中愛さんの右手から振り下ろされる出刃包丁を視認しとった。だから犯人は都センセを三回刺した。愛さんに罪をなすりつけるために」
「そうだ。あの時、LAWさんが最初に庭に誰かがいることに気づいて――」
須貝は記憶をたどりながら語りだした。
「何人かがそこの窓に集まったんだ」
三角巾で吊った右手が居間のフランス窓を向く。都と愛の偽装事件の一撃目を、LAWたちはこの窓越しに目撃した。
「たしかあの時、最初から窓に集まってきたのは……」
「わたしと須貝くんがLAWに続いた」
氷織がいう。LAWは姉にうなずいてみせた
「それから、神崎さんと建山さん。二ノ宮さんと三崎さんがつづいた」
「神崎さん。建山はん。二ノ宮はんと三崎さん。どうかな。姉のいうとることは間違っとる?」
間違いないと四人は認めた。そして――
「合計七人の人間が窓の前に来て、事件は起きた。愛さんは出刃包丁を取りだして、都センセに襲いかかった。愛さんが都センセを刺した回数を知り得たのはこの七人だけや。故に、食堂に残っとった人間は犯人候補から除外される。鳥羽はん。彰はん。優里さん。あんたら三人のことや」
彰と優里は安堵の息を吐きながらソファーの背もたれによりかかった。互いに視線を交わし、微妙な笑みを交わす。
「しかし、実際に愛が都医師を刺した回数を見てなくても、それを見た人間から聞き出すことはできるのではないですか」
須貝がそんな疑問を口にする。彰と優里はそろって鋭い視線を須貝に投げた。
「な、なんです。おかしなことはいっていないでしょう。都先生が刺された回数を目撃しなくても、犯人である可能性は残っているんですよ」
「いいえ。残っていない。もしそんな事実があるなら、聞かれたひとが証言するでしょ」
氷織がいった。
「だけど誰も彰さんたちを告発していない。偽装事件が起きた直後に『愛は都先生を何回刺したんだ?』なんて尋ねられたひとはいるのかしら……ほら。誰も応えない。そんな事実はなかったってこと」
「あ、そっか」
「少しずつ犯人の姿が見えてきたなぁ」
LAWはロッキングチェアを激しく前後に揺らし始めた。白いアネモネをあしらった羽織の袖がはたはたとゆれる。
「十二時四十五分から十三時の間を自由に動き回れて、かつ都センセが“三回”刺されたことを知っているひと。これだけやとまだ犯人を絞りこめん。さらにもうひとつ、犯人の条件を加えよか。それはな、血や」
「血ぃ?」
鳥羽がすっとんきょうな声をあげる。
「ベッドの上に横たわる都センセを三回も刺したんや。そんなことをしたら、返り血を浴びるにきまっとる。グロい映画みたいにブシュッッ!と噴き出すわけやないにしても、着とるおべべの正面くらいは血まみれになるやろうなぁ」
「おっしゃる通り。ひとを刺して殺すとはそういうものです」
神崎が犬歯を見せながらそういった。まるで実際にひとが刺されるところを見たことがあるような……いや、やったことがあるような口ぶりで。
「犯人は都センセを殺して血だらけになった。血だらけのまま部屋を出ることになる。けどなぁ、十二時四十五分から十三時の間、この孤島でいちばんほっとな場所はどこや。都センセの部屋や。皆が『九重愛に刺された都センセ』の生死に注目しとる。センセの様子を見に来るかもしれへん。部屋を出た時に、誰かと鉢合わせになる可能性は大きいわけや」
それはそうだと須貝は考えた。実際、須貝は都医師が殺されたと思われる時間帯、都医師の部屋とは間に空き部屋を一つ挟んだだけの距離に過ぎない自室にいた。犯人は都医師を心配して様子を伺いにきた自分と鉢合わせるのではないかと不安にはならなかったのだろうか。自分だけではない。都の部屋がある二階には、氷織とLAWの恒河沙の姉妹、そして彰と優里の部屋もある。都医師を殺し、血だらけの姿を目撃されては、それは自身が都医師を殺したことを告白するようなものではないか。
「つまり、犯人は返り血を対策していたということですか」
これまで積極的に発言をしなかった優里がおずおずと訊ねた。
「血を浴びた姿を見られるわけにはいかない。例えばレインコートを着て犯行に及ぶとか、もしくは替えの服を犯行現場に持ち込み、犯行後に着替えるというのもありえるかと」
「ははぁ。優里さんは頭がやわらかいなぁ。でもやわすぎや。凝固剤を加えんと脳みそはぷるんとお皿の上で崩れてしまうわ」
「な……」
「ええか。レインコートでも替えの服でも、そんな犯行の証拠を犯行現場に残していくわけにはいかへん。別の誰かが都センセの様子を見に部屋に来て、その証拠を見つけたらどうする。そんなら証拠を手に持って都センセの部屋を出ればいいんか? Non(いんや)。血だらけの丸めた服やレインコートを持っている姿を見られたらどうするんや。結局、返り血を浴びた状態で部屋を出ることとなんも変わらへん」
「ちょっと、何をおっしゃりたいのか分からなくなってきました」
優里が頭を抱える。
「返り血を浴びてもダメ。替えの服を用意してもダメ。それじゃあいったい、犯人はどうしたというのですか」
「返り血を浴びてもダメなんていっとらん」
けろりとした表情でLAWはいった。
「それをいいだしたのは、あんたや。むしろ逆。返り血を浴びても問題ないから、犯人は犯行に及んだわけや」
「何をいいたいのかさっぱりだ!」
鳥羽はつばを吐き散らしながら、テーブルの上のウィスキーを取った。
「返り血を浴びたら、それは犯人の証拠だ。それなのに、返り血を浴びても問題ないだと。そんなやつがいるはずが――」
「います」
氷織がいった。室内がざわつく。ウィスキーでのどを鳴らした鳥羽が、燃え盛る石炭のように顔を赤くした。
「返り血を浴びても問題がないひと。それは、既に血を浴びているひとです」
氷織の言葉を聞いて、三人の男が声をあげた。建山。彰。そして、須貝の三人。三人の男の視線が交錯する。
「そうだ。お三方は、都先生をお部屋まで運ばれた」
神崎が三人を順繰りとにらみつける。
「腹部から血を出し、苦しみ悶える都先生を部屋まで運んだ。もっとも、その苦しみは演技だったわけですが。ただし、流れ出る血は本物だった。服の中に隠した血液パックから流れ出る血。都医師を運んだお三方は、血液パックから流れ出る血で、お召し物を汚されましたね」
そうだ。その通りだ。須貝は思わず深く首肯した。都医師を運んでいるうちに、自身のシャツと上着は血だらけになった。それは建山と彰も同じだった。
「あれ」
須貝は腹の奥底に何か引っかかるものを覚えた。LAWの推理に不備を見つけたというわけではない。むしろ須貝はLAWの推理に聞きほれている。それなのに何か一抹の不安を感じて仕方がない。何かがおかしい。何かが危ない。
「おい、ちょっと待て」
震える声で彰がいった。
「つまりなんだ。血まみれになったおれと、建山と、そいつの誰かが犯人ってことか。でもよ、建山は親父といっしょに居間にいるところを探偵さんに見られていた。アリバイってやつだ。そしておれは、たしか愛が“三回”刺したことを知らなかったから犯人じゃないんだろ」
――そうしたら――
「残るのはひとりだけじゃねぇか。須貝とかいったな。あんたが都先生を殺したのか」
腹の底の何かが暴れだし、食道を逆流して須貝の脳裏に突き刺さった。ショックのあまり須貝はその場で飛び上がった。そうだ。これまでの議論をふまえると、犯人は……自分? LAWはまさか、須貝を犯人として告発するつもりなのか。
猜疑の視線が須貝に集う。室内の敵意を一手に集めた須貝は、助けを求めようとLAWの方を向いた。
LAWは――大きく口を開けてあくびをしていた。
「LAWさぁぁん!」
須貝の悲鳴が室内を反射する。
「そういえばあんた、都先生と部屋が近かったよな。もしかして、夜中に何かトラブルがあったんじゃないか」
彰が須貝に問いただす。須貝はといえば、ただ首をふることしかできなかった。
「須貝さん。都先生との間に何があったんですか。都先生はたしかにいけ好かないひとでしたが、何も殺さなくても!」
建山はのどを震わせて叫んだ。その横で鳥羽がウィスキーの瓶を逆さに構えて須貝に歩み寄る。口の空いた瓶からどぼどぼと琥珀色の液体が流れ出るが気にする様子はない。いや、鳥羽の顔をみればそれも当然だ。高炉の中の溶鉄のように赤く染まったその表情は、憤怒の感情を余すことなく須貝に飛ばしている。
「貴様が愛に罪をなすりつけようとしたのかぁ!」
鳥羽は瓶を大きく振りながら須貝に近づく。
「わ、わ、わ」
須貝が後ずさると、彼が思っているよりも早く背中が壁にぶつかった。須貝は顔を真上に向けて壁を見つめる。それは壁ではなかった。逆さまになった神崎の例の笑みが目の前にあった。須貝は悲鳴をあげた。鳥羽の怒りを感じ取った神崎は、その怒りの対象である須貝の背後に音もなく回り込んだのだ。
「LAWさぁぁん! ひ、氷織さぁぁん!」
悲鳴が再び室内を飛び交う。氷織は深く息を吸い、『LAW!』と妹の名を叫んだ。
「ごめん。ごめんて。鳥羽はん、神崎さん。須貝は犯人やないって。あぁ、かんにんなぁ。なんかなぁ、須貝の焦る姿って可愛くてな、見てて飽きへんのよ」
「探偵さん。身内だからといって、根拠もなく庇うのはやめていただきたい」
酩酊状態でありながら、鳥羽の口調は丁寧だった。
「あなたの推理には説得力があった。そしてその推理は、この男が犯人であるという結論に至った」
鳥羽はウィスキーの瓶を須貝に突きつけた。
「いややなぁ。違うって。須貝は犯人やない。犯人のはずがない。だって須貝なら、こんな杜撰な方法でひとを殺すはずがあらへんもん」
「杜撰? 具体的にどこが杜撰というのですか」
「杜撰も杜撰や。警察の緻密な捜査の手が入れば、こないな事件、すぐに犯人が見つかるわ。な、そうやろ」
LAWは須貝にウィンクを送った。だが須貝はLAWの援護に応じるべきかどうか判断に迷った。
LAWのいう通りだ。もし自分が犯人なら、こんな杜撰な殺人は犯さない。そうだ。杜撰だ。何もかもが杜撰だ。犯人は都が三か所の刺創を下腹部に抱えているという前提で、都を殺そうと部屋を訪れた。三か所以外に傷をつくってはいけない。三か所の刺創に、自らの刃をねじ込まなければならない。
無理だ。そんなこと不可能だ。
犯人の予想通り都が手負いの状態であったとしても、彼は身体を動かし抵抗を試みるだろう。そんな状態で既にある刺創からはみ出ることなく出刃包丁を突き刺すなど不可能だ。身体を揺らし、抵抗を試みる以上、刺創は複数の刺創が重なったいびつな形になるだろう。それを見れば警察は、被害者の身体は四回以上刃物で刺されたと判断するはずだ。
寸分たがわず刺創を重ねるならば、まず頭を殴ったり首を絞めたりして気絶させなければならない。ただしそんなことをしたら、今度は頭部の腫れや頸部圧迫痕が遺体に残る。“犯人”である“九重愛”は頭を殴ったり、首を絞めたりはしていない。これらの証拠は、“九重愛”が犯人ではあり得ないことを明確に語ってしまう。
つまり。犯人の当初の目論見は最初から露見する運命にあったのだ。
だが運命はその通りにはならなかった。都医師の腹部には刺創などなかった。傷一つない腹部を犯人は刺した。子どもが新雪を踏み荒らす様に刺した。刺して、刺して、刺した。それゆえ事件は混迷を極めた。犯人は自身の予期せぬ偽装事件のおかげで、九重愛を犯人に仕立て上げることに成功したのだ。
公安部出身とはいえ、須貝も傷害事件における捜査のイロハを知らないわけではない。その正義感と警察一族の一員という自負から、須貝は警察学校に入学する前――小学生、いや記憶にないだけでもしかしたら未就学児童のころ――から捜査に関する知識を学習してきた。故に、この事件の犯人は殺人事件に対する見識に欠けた杜撰な殺人しかできない人間であることがわかる。
そうだ。もし自分が犯人なら、こんな杜撰な犯行はしない。しかし、その理由を彼らに伝えていいのか。いまの自分は『恒河沙探偵事務所』の新入所員だ。『須貝正義』の正体をばらせば――つまりは自身が“杜撰”な犯行を行うはずがないことを伝えれば、たしかに自身に向けられた疑惑は払拭できる。しかし、もし既にこの別荘に警察の者が紛れ込んでいると知ったら、主である鳥羽が激昂する可能性は十分にある。そして氏の激昂の先にあるのは、人を傷つけることを厭わないブラックスーツの神崎だ。
いいのか。本当に、伝えていいのか。
「ええよ」
須貝の思考を読み取ったのか、LAWは軽やかに許可をだした。
「自己紹介ってのは大声でするもんや。須貝。いっちょかましたれ」
そのひとことで須貝の全てがふっ切れた。
すべてを彼女に託そう。自分のすべてを彼女に、恒河沙に賭けてみよう。恒河沙LAWには、それだけの価値があると須貝は確信した。
「自分は――」
須貝は左手で高々と敬礼の構えをとった。
「警視庁刑事部捜査第一課所属。須貝正義巡査であります」
3
「警察だって。まさか冗談だろ」
彰が乾いた笑い声を出した。同調を求めるように周りを見渡すが、一同は彰ほど楽天的な性格をしていなかった。
「捜査第一課は凶悪犯罪担当だったな。恒河沙さん。どういうことかな。わたしが呼んだのはあなた達だけだ。警察なんて厄介なやからを連れこむなんて」
薄い目を開けて鳥羽が訊ねる。その口調は先ほどまでとは異なり落ちついた様子だった。怒りの限界を越えて、感情そのものが壊れてしまったように須貝には思われた。
「ボディーガードとして連れてきただけです」
開き直った様子で氷織が応える。謝罪の言葉は続かない。そんなものは兼ね備えていないから。
「警察官だから人殺しはしないって論理は通用しないでしょう。警察官の不祥事は毎日のようにニュースに流れてきます。警察官は聖人君子ではありません」
建山がまっとうな反論を述べた。主張そのものは正当だが、須貝はそんな理想論を根拠に身の潔白を主張する気は毛頭ない。
「LAWさん。ぼくから皆さんに説明してもいいですか?」
LAWは黙ってうなずく。須貝は咳ばらいをしてから、殺人犯の杜撰さを説明した。
「都先生が殺されたというのに、警察に通報しなかったのは鳥羽さんの意向です。常識的に考えれば、殺人事件が起きたら警察が捜査に来きます。もしぼくが犯人なら、こんな杜撰な方法で都先生を殺したりしません。それともなんですか。ぼくが警察に通報しないよう鳥羽さんをそそのかしたとでもいうつもりですか」
「だけど、おれも建山も犯人じゃないことはその小さい探偵さんが証明してくれた」
彰が声を荒げながらLAWを指さす。
「そしたら犯人はあんたしかいない。それでも自分が犯人じゃないっていうなら……どうなるんだよ。犯人がいなくなっちまったじゃねぇか!」
「いなくなっとらんよ」
ロッキングチェアの上で脚を組むLAWの身体がぴたりと制止した。前後に揺れていた椅子がゆっくりとその速度を落としていき――
「犯人はちゃーんとこの中におる」
――いま、止まった。
「うちがいったのは、返り血を浴びても問題がないひとが犯人ってとこまでや。都センセを部屋まで運んで返り血を浴びたひとが犯人なんてこと、ひと言もいっとらん」
「だけど、それ以外に血を浴びる機会なんてありません」
興奮してきたのか、優里の口調もまた彰に似て荒くなってきた。握りしめた拳を置いた脚が、貧乏ゆすりで揺れている。
「ある。血で汚れるためには、何も現在進行形でその服を着とる必要はない。都センセの血で、その人が着ていてもおかしくない服を汚せばええ」
「駄目だ。探偵さんのいっていることがサッパリわからない。おい、誰かあのおかしな関西弁を通訳してくれよ」
彰は侮蔑の言葉を飛ばした。自分の発言に周りが笑ってくれると期待したのか、まったく反応がなくて不服そうに顔をしかめる。
それもそのはず。彰を除く全員がLAWの言葉を理解していた。彰を除く全員が、彼女たちを見つめていた。
「あなた達のエプロン」
優里が二ノ宮と三崎の着ている白いエプロンに震える指を向けた。二ノ宮と三崎もまたLAWの言葉の意味を理解していた。疑われているのは自分たちだ。何故なら自分たちはあの時――
「偽装事件の際、二ノ宮はんと三崎さんは至極真っ当至極献身的な行動を取りはった。流血する都センセの腹を止血しようと、自分が着ているエプロンを使ったんや」
二人の使用人もまた、都に襲いかかる愛を止めるために雨が降る庭先に飛びだした。彼女たちは止血のために自分たちが身につけているエプロンを都の腹に押し付けた。まさかそれが血液パックから流れ出る血で、都が演技をしていたとは思いもせずに。
「そう。あの時都センセの血で汚れたのはぼんくら三人組だけやなかった。二ノ宮はんと三崎さんもまた、そのエプロンを血で汚しとった。あんたら二人は犯人としての資格を備えているってわけや」
須貝は気づいた。二人の使用人はこれまで提示された犯人の条件を全て満たしている。十二時四十五分から十三時までの間、彼女たち二人は自由に建物内を動き回ることができた。二人は偽装事件について、初めから終わりまでその全てを目視していた。愛が都医師を“三回”刺したことをその目で見ていたのだ。
二ノ宮と三崎は互いに視線を交わした。二ノ宮は生気のない表情で全身を震わせ、三崎が自分を見ていることに気づくとそっと目を反らした。三崎もまたその身体を震わしている。ただし彼女は、二ノ宮から目を反らすことはなかった。ただ言葉もなく、静かに二ノ宮を見つめている。
LAWはロッキングチェアから立ち上がり、足音を立てることなく二人の使用人に近づいた。
「この四日間、二人はいつも同じ服装をしとった。ロングスカートのワンピースに白いエプロン。まさか一着を使いまわしているわけやないやろ。部屋にいけば同じワンピースとエプロンがしまってあるはずや。二人は都センセの部屋から追い出された時、止血に使ったエプロンは部屋に置いてきた。都センセが腹に抑え取ったから持ち帰るわけにはいかなかったんや。だから犯行の時には、新しい白いエプロンを着ていた。ワンピースが返り血で汚れないためにな。返り血を浴びたエプロンは丸めて自室に持って帰る。途中で誰かに見られても、都の様子を見に行き、ついでに止血に使った自分のエプロンを回収してきたといえば言い訳になる。この別荘で洗濯を担当しとるのはあんたら二人だけ。仮に血で汚れたエプロンが一着多くても、上手く処理することができる。あんた達だけができた。血だらけのエプロンを持っていても不自然ではないあんたたちだけが、都センセを殺せたんや」
「うそ。違う」
二ノ宮は両目を涙で濡らしながらかぶりをふった。
「殺してない。わたしは都先生を殺してなんていない。そんなこと、わたしにはできない。なぎさもそうでしょう。ね」
「探偵さん」
よく通る声で三崎がいった。
「わたしとかおる、どちらを犯人として告発されるつもりですか」
LAWは応えない。不気味な沈黙が間を支配する。長い長い論理の旅路を経て、いま探偵はその終着点にたどり着こうとしている。
「二ノ宮はん」
LAWは二ノ宮の前にかがみこみ、彼女の震える手に自分の手を重ねた。洗い物で酷使されたのか、二ノ宮の手には至るところに赤切れができている。二十代の女性のものとは思えない荒れた手だ。
「気持ちはわかる。うちもちょっと変わった体質でな、ひとに迷惑ばっかかけながら生きてきた。うちという存在が親しいひとにとっては負担で、そんな自分が嫌いで仕方なかった」
言葉の脈絡が読み取れず、室内の皆は困惑の表情を見せた。例外は二人。LAWと氷織の恒河沙の姉妹だけが、ただただ神妙な顔つきで二ノ宮を見つめていた。
「弱みを見せればつけこまれる。弱みを見せれば他人は見下してくる。強さとは何か。強さとは弱さをもたないこと。だからあんたは弱点を隠した。ハヤテや柴田はんといっしょや。でもなぁ。その生き方、しんどくない?」
こくりとLAWは首をかしげる。二ノ宮はLAWの手を払いのけた。ソファーの上の身体をのけぞらせ、否定の意志が溢れたなみなみとあふれた侮蔑の表情を武装する。
「あんたはうちが間違ったことをいったことを知っている。だけど敢えてそれを指摘しない。それを指摘することは、自分の弱点をばらすことになるから」
「LAWさん。いったい何を。二ノ宮さんの弱点?」
須貝が訊ねる。LAWは二ノ宮から離れ、フランス窓に近づくと開かれたカーテンに手をおいた。
「須貝。教えてくれたのはあんたや。あんたは二ノ宮はんの弱点を見とる。見とるのに、気づいてないだけや」
「ぼくが?」
須貝がそうつぶやくと同時に、LAWがカーテンで窓を隠した。陽光が遮られる。それと同時に天井の照明が消えた。暖炉の炎だけが光源と化したうす暗い室内。何人かが短い悲鳴をあげた。
「おちついて。照明を消したのはわたしです」
証明のスイッチパネルがある壁際に移動していた氷織がいった。
地獄の釜のような不気味な室内でLAWの身体だけがゆれ動く。LAWはテーブルに置かれた紅茶のカップを手に取った。誰ひとり口をつけることなく、すっかり冷めきったダージリン。LAWはそのカップを二ノ宮の顔の前に掲げる。二ノ宮は何もいわない。身体を震わせ、誰の耳にも聞こえない嘆きの声を鳴らしている。
「二ノ宮はん。弱点って。そんな悪いもんやないよ。本当の仲間なら、その弱点さえも愛してくれる。弱点ごとまとめて抱きしめてくれる。な。人間なんやから、積極的に他人に頼ってこ」
LAWはカップを傾けた。冷めた紅茶が小さな滝と化して二ノ宮の膝に落ちていく。
だが二ノ宮は微動だにしない。脚を動かすでも、LAWを押しのけるでもなく、石像のように動かない。まるで、まるで目の前のカップが見えていないかのように。
「ひ!」
紅茶が膝に触れて初めて、二ノ宮は声をあげた。
「なんで避けなかった。なんで傾いたカップを前に逃げなかったんや。うちはもう知っとる。昨日の朝。あんたは須貝と客室棟の一階の廊下で会い、その時停電が起きた」
LAWが須貝の方を見た。須貝は『そうです』といってうなずいた。
「窓の少ない客室棟の一階で起きた停電。時刻は早朝ということもあり、廊下はうす暗くなった。どんな暗闇でも時間が経てばあるていどものが見えるようになる。なのにあんたは、数秒経ってから何故か骨折している須貝の右腕にぶつかってきた。懇切丁寧な奉仕を施してくれている二ノ宮はんとは思えへん失礼なふるまいや。あんたも実は、サディストで須貝が苦しむところを見たかったんか? 違う。あんたは見えなかったんや。薄い暗闇の中であんたは眼鏡を落として慌てて、須貝の身体にぶつかった。須貝は難なく足元に落ちていた眼鏡を見つけて拾い上げたというのに、あんたは眼鏡を見つけられんかった。須貝が声をかけて眼鏡を差しだしても、あんたは停電が治るまでその眼鏡を受けとろうとせんかった。何故なら、薄い暗闇の中で、あんたは何も見えんかったからや」
「夜盲症ね」
氷織が証明のスイッチを押しながらいった。LAWがカーテンを開き、室内はもとの明るさに戻る。
「人間の目は暗い所に入ると桿体細胞が働いて、暗闇の中でも徐々にものが見えるようになる。だけど夜盲症の場合、桿体細胞がうまく働かず、暗闇の中ではものがほとんど見えなくなる」
二ノ宮は濡れたワンピースを黙って見つめている。
「おい。この茶番は何なんだ」
彰があたまを掻きむしりながらいった。
「二ノ宮が夜盲症? 暗闇で目が見えないからといって、それが事件と何の関係があるんだ」
態度こそいけ好かないが、その発言には理があるように聞こえる。室内の皆がうなずいた。
「大ありや。夜盲症なら二ノ宮はんは、都センセが“三回”刺されたことを知り得なかったいうことになる。二ノ宮はんは窓の前に来て、偽装事件の終始を見たメンツの中に入っとった。だけど二ノ宮はんは何も見えんかった。あの時、この居間は照明が消えて、窓の外は雨がふるふる曇天模様。漆黒の暗闇とまではいかんけど、十分暗かった。夜盲症の二ノ宮はんに、二十メートルも先の庭先で起きた凶行が見えるはずがないんや。都センセが“三回”刺されたことを知らないために犯人候補から除外されたのは、食堂にいた三人だけやなかった。二ノ宮はんもまた、この窓の前にいながら“三回”を知らなかった。あんたには都センセを殺せない」
二ノ宮は顔を伏せて泣きだした。
「病気のことを皆に漏らしたのは謝る」
LAWはハンカチで二ノ宮の膝を拭きながらいった。
「ごめんなさい。かんにんな。でもあんたは、“三回”の話をした時に自分の夜盲症を告白せんかった。夜盲症であることを申し出れば――偽装事件の様子がよく見えなかったと主張すればあんたは犯人やないことが証明されたというのに。でも気持ちはわかる。弱みを見せれば喰いつかれる。ほんとこの世の中はえげつない人間が多いからな」
――でも――
「そんな人間ばっかりやないってことも、これまた真実。会うひと全員に弱点をばらすことはない。だけど、気の合う友だちくらいにはいってもええと思うよ」
LAWは紅茶を吸ったハンカチをたたむと、それをテーブルに放った。
「もうええな。この事件は全員に犯人たる可能性があるように見えて、本当のところ、いくつもの条件を兼ね備えたひとりだけに犯行が可能やった。あんただけや。あんただけが、都センセを殺せたんや」
「すごいですね」
犯人がいった。
「これが探偵。これが探偵の推理ってやつですか。まさかバレるだなんて、思いもしませんでしたよ」
使用人の三崎なぎさは立ち上がり、この四日間で初めてとなる笑顔をみせた。
4
「なんで。どうして。どうしてなの。どうして都先生を殺したりしたの」
泣きじゃくる二ノ宮が三崎の腕にしがみつく。三崎は二ノ宮の頭を撫でてからそっと腕を払った。
「都先生との間に何かあったの。あの男に、なにかひどいことをされたとか?」
優里が同情に満ちた目で訊ねる。三崎はくすりと笑い、LAWの方に向いた。
「どうです。千里眼をお持ちの探偵さんならば、わたしの動機もご存じなのではないですか」
「知らん」
淡としてLAWはいった。
「動機なんて知らん。うちが知っとるのは、あんたが都センセを殺したってことだけや。動機なんて犯行の証拠にはならんよ」
「ニノと建山さんならわかってくれるんじゃないですか」
唐突に自身の名前を呼ばれ建山が狼狽する。三崎は刃物のように鋭い表情で鳥羽に向かって指をさした。
「あんたを困らせたかったの」
鳥羽は目を見開き驚嘆の様子をみせた。
「わたしも二人と同じなの。ろくな稼ぎもない父親がギャンブルにはまって、莫大な借金を鳥羽に肩代わりしてもらった。父は鳥羽を神のように崇め、そしてわたしはその神の下で奴隷のように酷使されるようになった。借金を背負ったのは父親だ。わたしには関係ない。それなのにわたしは捧げもののように鳥羽の下で働かされた。わたしには夢があった。小学校の教師になるっていう夢があった。その夢を父親とあんたが潰したんだ」
須貝は苦渋に顔を歪めた。鳥羽に恩を着せられ、過酷な労働を強いられているのは建山だけではなかった。三崎も、二ノ宮も同じだったのだ。
「咄嗟に止血のために自分のエプロンを渡したものの、そのエプロンが赤く染まるのを見てわたしの中に残忍な願望が生まれました。死んでくれ。たのむから死んでくれ。都先生が死ねば愛さまは殺人犯となる。鳥羽にとって自身の血を分けた唯一の後継者が殺人犯となるのです。殺人鬼が社長になれますか。そんなこと、株主も世間も許すはずがありません。愛さまが殺人犯になれば、鳥羽の夢が絶たれる。わたしの夢を絶った鳥羽の夢が絶たれるのです」
「だけど都先生は生きていた。自分で自分の腹を縫合するといい始めた」
氷織は腕を組み弱々しい声をだした。
「ショックだったでしょうね。都先生は死なない。愛さんは殺人犯にはならない」
「そうです。わたしは出刃包丁をとりにキッチンに走りました。都先生は死ななければならない。愛さまは殺人犯にならなければならない。鳥羽の夢は絶たれなければならない。だからわたしは都先生を殺した。ノックもなしにドアを開けて、都先生が声をあげる前に襲いかかった。傷一つない腹。赤い血に染まったビニールのパック。庭先での事件が演技に過ぎないことはすぐにわかりました。それならそれでいい。皆は愛さまが殺人犯だと思いこんでいる。刺しました。深く。じっくりと。確実に息の根を止めるために。三回。都先生のお腹を刺しました」
須貝はさりげなく鳥羽の方に移動した。激昂した鳥羽が三崎に襲いかかるのではないかと危惧したからだ。だが予想に反して、鳥羽は落ち着いた様子だった。力なく立ち上がり、『水がほしい』といってキッチンへ向かった。
「愛さま。申しわけありませんでした」
三崎は愛に向かって深く頭を下げた。愛は覇気のない表情で三崎を見つめる。
「そして皆さまにも。このような事態を引き起こしてしまい、申し訳ありませんでした。逃げるようなことはしません。建山さん。どうぞ、警察をお呼びください」
「いや、その必要はない」
キッチンから戻ってきた鳥羽が笑いながらいった。
「建山。警察を呼ぶ必要はないぞ。わたしに逆らうものは、全員この場で死んでもらうからな」
鳥羽は四本の出刃包丁を抱えていた。
5
神崎は素早く鳥羽に近寄ると、出刃包丁を一本とりかまえた。例の不気味な笑みを添えて。
恐怖に囚われ悲鳴をあげるようなものはいなかった。現実感がなかったからだ。殺す。殺す。殺す? 冗談だろう。だが鳥羽の血走った目は本気だった。事件が起きてからアルコールとストレスに犯され続けた脳は、まともな判断を下すことができなくなっていた。
「探偵たちは帰りの船から海に落ちて亡くなった」
鳥羽はぽつりといった。
「あのヤブ医者も同じだ。四人は不幸な事故で亡くなった。沖合の波は強く、遺体は見つからない。それがすべてだ。それがわたしの定める運命だ」
「はぁ。うちらを殺す気か」
LAWは須貝の手を引いて鳥羽たちから距離をおいた。氷織もそれに続く。三人は暖炉のそばに追いつめられた。廊下のドアも、遊戯室のドアも、フランス窓も、そろって遠い。暖炉のそばに逃げ道はない。
「三崎。今回の件は不問に処す。その代わりに探偵たちを殺せ。そしてわたしに忠誠を誓え。お前の親父と同じように頭を垂れろ」
「お断りします」
三崎は凛として首をふった。
「これ以上罪を重ねるつもりはありません」
「二ノ宮。お前はどうする」
「わ、わたしも同じです。鳥羽社長。こんなのおかしい。付き合いきれません!」
二ノ宮と三崎は手をとり合って鳥羽から距離をおいた。すなわち、暖炉のそば。探偵一行のそばに。
「建山。お前は?」
「……包丁をください」
「建山さん!」
須貝が叫ぶ。建山は雨に濡れたカカシのように崩れた顔をしながら出刃包丁をうけとった。
「だって。しょうがないじゃないですか。ぼくにはこれしかないんです。三崎さんみたいに夢もないし、まともな会社で働けるような学歴もない。こうするしかないんです」
「親父、おれにもくれ」
彰は鳥羽の手から出刃包丁をとった。
「勘当は受け入れる。だけど今ここで忠誠を誓うからさ、会社にはおいてくれよ。な。実家には帰りたくない。都落ちして、田舎ものに笑われるのだけはごめんだ」
「いいだろう」
鳥羽は空いた手で彰の肩を励ますように叩いた。
四人がそろって包丁をかまえる。その姿を見て優里は顔を引きつらせ、愛の手をとると慌てて須貝たちのもとに駆け寄った。
「みんな下がって。大丈夫。大丈夫だから」
須貝が前に出て、折れていない左腕を大きく広げた。須貝の後ろで二ノ宮が泣き声をあげる。二ノ宮の背中を三崎がさすった。優里は愛を両手で抱きしめている。
「鳥羽さん。みなさん。落ち着いてください。包丁を置いて、話し合いましょう」
「黙れ。警察官のいうことなんて信用できるか。探偵なんて呼ぶんじゃなかった。お前たちが来て全てがおかしくなった。お前たちが来なければ愛もわたしも幸せに暮らせたというのに」
「ぼくたちが来たことと事件が起きたことには何も関係はない!」
「お前らだ。お前らが災厄をこの別荘に持ち込んだんだ。お前らが死ねば全てが丸く収まるんだ」
出刃包丁をもった四人がじりじりと歩み寄ってくる。フランス窓の正面に並んだ四人の顔が陽光に照らされて不気味に輝く。須貝は経験したことのない恐怖感に襲われた。凶器を手にした暴力団系右翼に追いかけられた経験を上回る恐怖。その恐怖と目の前にある恐怖の違いは、前者は脅しが目的で命を取ることはないのに対し、後者は眼前に死が迫っているということだ。
どうする。どうする。どうすればいい。
須貝の脳裏に都医師の遺体が映った。腹部から血を流し、惨たらしく横たわる細い身体。自分もあんなふうになるというのか――
「暴風雨は賢いなぁ」
歌うようにLAWがつぶやいた。
「相手が攻撃してきから反撃する。カウンターってやつやねぇ。攻撃の瞬間こそひとは無防備になる。優位に立ったと油断しとる人間は容易に足元をすくわれるもんや」
『なにを――』という須貝の言葉はその音に遮られた。
こつりと聞こえた小さな音。小石が当たったような、小さな音。全員がその音の方に反射的に顔を向けた。庭先を向いたフランス窓。そのフランス窓をぶち破って巨大な黒い塊が室内に飛びこんできた。
窓の前に並んでいた鳥羽たちは、宙を舞う無数のガラス片に肌を刻まれて悲鳴をあげた。だが致命傷ではない。意外なことに一番にその黒い塊に出刃包丁を振り下ろしたのは建山だった。気弱な性格のため誰よりも早く理性が壊れたのかもしれない。
だが次の瞬間。建山は膝からその場に崩れ落ちた。曲がりなりにも警察官。曲がりなりにも武道経験者の須貝正義。須貝は、かろうじてそれを観察できた。窓から飛びこんできた黒い塊は、建山の咽喉に弾丸のような速度で手刀を刺しこんだ。黒い塊は人間だった。黒いスポーツウェアを身にまとった、ひとりの闖入者。
彰が悲鳴をあげながら出刃包丁をふり回している。見ると彰は目を閉じているではないか。ガラス片がまぶたに刺さったらしい。見えないが故にその太刀筋は無茶苦茶。無茶苦茶が故にその太刀筋は読めない。だから闖入者は彰に情報を与えた。建山が落とした出刃包丁を拾い、彰のそれと刃を交える。自身の凶器が何かに触れて、彰は動きを止めた。前が見えない彰にとってそれは未知とのコンタクトだった。情報。何に触れた。俺の得物は何に触れたんだ。闖入者はそんな一瞬の狼狽を見逃さない。殺意はないらしく出刃包丁を手放すと、低く踏み込み、彰の身体を抱えあげガラスの破片が散らばる床に背中から叩きつけた。
文字通り百戦錬磨の神崎だけが冷静だった。神崎はガラス片の雨あられが降りそそぐとほぼ同時に背後に下がった。両手にガラス片が刺さり赤い血を流している。神崎にとってそれはかすり傷同然だった。この程度の傷では身体能力には何も影響しない。
闖入者は呆然とする鳥羽の顔面に拳を叩きこみ気絶させると、スニーカーでガラス片を踏み潰しながら神崎に向き合った。
須貝は闖入者の顔を見た。粉々になったフランス窓から注ぐ陽光を背に受けた闖入者。それは女性だった。大柄とも小柄ともいえない若い女性。柔和な顔立ちで、後ろにまとめた黒髪に刺さったガラス片が砂粒のように輝いている。その目はよく似ていた。須貝の背後にいる恒河沙の姉妹の目とよく似ていた。自らの意志をもつ毅き者の瞳。
神崎は出刃包丁をふり上げると、一切加減すること無く闖入者に向かって投げつけた。
闖入者は上半身を反らして出刃包丁を避ける。神崎はそばにあったふたり掛けのソファーを持ち上げると、身体の前に突きだし、叫び声をあげながら闖入者に向かって突進した。
「まずい」
須貝はそうつぶやいた。闖入者の周りには、テーブルや大きなソファーなど障害物が多い。ふたり掛けとはいえ、迫りくるソファーの表面積は大きくそれを避けるのは難しいだろう。須貝は神崎の空間把握能力の高さに脱帽した。実戦慣れが過ぎる。
駄目だ。やられる。
そう思った瞬間。闖入者の姿が消えた。アクション映画のように高々と飛び上がったわけでもない。
闖入者は――沈んだ。
水泳のスタートのように両手を伸ばして前に飛ぶ。ガラス片が散りばめられた床に両手をつき腕を曲げる。それと同時に宙に浮いた両脚を小さく折り曲げて腹の前に収めた。小型のかばんのような、何とも不格好な逆立ちだ。
掲げたソファーに視界のほとんどを覆われている神崎には、闖入者のその動きは見えなかった。
須貝はほんの数秒前にLAWが発した言葉を思い出した。攻撃の瞬間こそひとは無防備になる。今の神崎は――無防備だ。
重戦車のごとき勢いで神崎が迫りくる。不格好な逆立ちで構える闖入者の真上を神崎が掲げるソファーが通過する。次の瞬間、小さく縮んでいた闖入者の身体がバネのように大きく伸びた。ソファーと神崎の腹部のすき間に、垂直に伸びた二本の脚がミサイルのような勢いで滑りこんでいく。二本の脚は神崎のあごを打ち砕いた。
脳が揺さぶられ、神崎は一瞬で気を失った。ブラックスーツの巨体がその場に崩れ落ちる。もちろん、手にしていたソファーも同じく――
「わ、わわわぁ!」
闖入者がその粗暴に似つかわしくない甘い声をだした。どさりと音を立てて闖入者はソファーに押しつぶされる。須貝の背後から氷織とLAWが『やれやれ』と口にしながら、闖入者に駆け寄った。
「氷織さん。LAWさん。そのひとは……」
「恒河沙理人は探偵の技能を四つにわけて理論化した。そのうちのひとつが“知識”。眼前の事象の正体。眼前の概念の正体。眼前の存在の正体を把握する能力。それが“知識”」
氷織はソファーをどけながら語りだした。
「そのうちのひとつが“知覚”。全身の感覚器官を研ぎ澄ませ、どんな情報も逃さない能力。あぁ! ひぃねぇにつられていってもうた。うちの大事な商売道具!」
ぷりぷりと頬を膨らませながらLAWが闖入者の身体を起こす。闖入者はガラス片にまみれて顔面を含むいたるところから出血しているが、へらへらと笑いながら頭をかいていた。
「そのうちのひとつが“活力”」
闖入者に代わって氷織がいった。
「真実を拒み、真実を憂い、真実を消し去らんとする物理的エネルギーに抗うための能力」
「紹介するわ」
闖入者の顔に刺さったガラス片を抜きながらLAWはいった。
「恒河沙縛。うちの妹や」
5
バサバサと風を切る無数の音が彼方から聞こえてきた。
割れたフランス窓から外を見ると、遥か彼方の晴天から、数台のヘリコプターがこちらに向かってくるではないか。
「あれは、いったい……」
「警察よ」
氷織は大きくノビをしながら優里にいった。
「助けが来たの」
数分後、ヘリコプターは孤島に降り立ち、拳銃を構えた警察官たちが別荘に乗り込んできた。
「動くな。警察だ。一歩も動くんじゃないぞ」
無精ひげを生やした籐藤刑事が土足のまま居間に飛びこんできた。その後ろにダッフルコートに包まれた青白い顔の恒河沙法律が続く。
「氷織。LAW。大丈夫? あぁ、縛……顔に傷! 衛生兵! 衛生兵! メディィィィック!」
「うるさい」
氷織が法律の後頭部をはたいた。バランスを崩した法律は床に散らばったガラス片に手をついてギャーと悲鳴をあげた。
氷織は警察官たちに気絶している四人と三崎を拘束するよう伝えた。
「それと。となりの客室棟に遺体があります。二階です」
「遺体。となると殺人事件か?」
氷織は無言で籐藤にうなずいた。籐藤は本部に連絡するよう部下に指示をだす。
「これはいったい。どういうことだ」
意識を取り戻した鳥羽が、周囲の警察官を見て顔を青くした。
「どうしてここに警察がいるんだ!」
「呼んだからですよ」
平然と氷織は応える。鳥羽の顔は困惑に歪んだ。
「嘘だ。お前らのスマートフォンは取り上げたじゃないか。いったいどうやって……」
「メールです。一昨日と昨日。あなたの目の前でパートナーに当てて送ったメールで呼んだんですよ」
「メ、メールにはそんなことは書いてなかった」
意識を取り戻した建山も鳥羽と声をあわせた。
「ぼくは気をつけてメールの文章を確認した。だけど、助けを求めるような内容は書いていなかった」
「甘いですね。うちの妹はKnowledgeable Detectiveですよ。暗号学にだって長けているに決まっているじゃないですか」
「あ、暗号?」
氷織は刑事にいって、鳥羽の部屋にある自分のスマートフォンを持ってこさせた。
「これが一昨日のメール。そしてこれが昨日のメール」
氷織が一同にメールを表示してみせる。
「あの。表示するメールを間違えてませんか。いまのメールには助けなんてどこにも……」
須貝が言葉を濁す。それを見てLAWが『はぁ~』と大げさにため息をついてみせた。
「だから暗号っていってるやん。そんな簡単に解読出来たら暗号にならんやろ」
「む。それじゃあLAWさんはどんな暗号になっているのかわかるんですか」
「いや。うちはただひぃねぇが暗号で助けを呼んだって聞いただけで……」
「LAWさんだってわからないんだ!」
「やかましい。うちは暗号とかチマチマしたことは苦手なだけや!」
「折句よ」
つかみ合いの喧嘩を始める気配を見せた二人のあいだに入り、氷織がいった。
「折句。文章や詩の中に、別の意味の言葉を織り込んだ言葉遊びのひとつ。二通のメールに、わたしは折句を混ぜ込んで助けを求めたの」
「有名な折句に、小野小町が在原業平に宛てたこんな和歌があります」
のどを整えてから法律が詠った。
言の葉も 常盤なるをば 頼まなむ 松を見よかし へては散るやは
「五つの句の頭文字を抜き取ってください。こ と た ま へ。琴たまへ。『琴を貸してください』という意味がこの和歌には折句として込められているわけです。では、もう一度氷織が今江さん経由でぼくに宛てた一通目のメールを見てみましょう」
「あ」
須貝は左手で膝をたたいた。
「『こんばんは』 『当初は』 『たまたまですが』 『また』 『平日』。すごい。文章の各段落の頭文字を並べると『ことたまへ』になっている!」
「このメールの暗号として優れているところはですね、異なる内容が記されているので本来なら新しい段落で始めるべき最後の段落、『悪天候』で始める段落をあえて前の段落とくっつけているところです。文章作法としてこれは不自然です。一般人ならただのミスと思いこみますが、送ってきたのはぼくの自慢の妹。こんな下らないミスをするはずがありません。理由があるミスに違いない。こうして折句に気づかせるよう工夫がされているというわけです」
「『琴たまへ』は『琴を貸して』という意味をもつ有名な折句。つまり氷織はこの一通目のメールで『頭文字に注意しろ』と伝えたわけだ」
籐藤刑事が言葉を紡ぐ。
「何の頭文字に注意すればいい? 聞けばメールは明日も来るっていうじゃねぇか。氷織は一通目のメールの暗号で、二通目のメールの暗号の読み方を提示してきたんだ。まったく。よく考えるよ」
「に、二通目。昨日のメールを読ませてください。……あぁ、そんな」
建山はがくりとうなだれた。
「『徹底した』『数日』『ただし』『決定的』。頭文字を抜き出すと、『て』『す』『た』『け』。もうおわかりですね。並べ替えると『たすけて』です。氷織はこの世でもっとも頼りになる実兄のこのぼく、恒河沙法律に助けを求めたというわけです」
「社長。やはり夢裂夫人に関わるべきではなかったですね。あの人にかかわるとろくなことにならない」
建山がそういうと、鳥羽は干からびた花のようにシュンと縮こまった。
「そうか。夢裂夫人の紹介で当事務所を訪れたんでしたね。あっはは。あのひとは金払いのいい疫病神ですよ」
「でも。どうして妹さんだけが先に助けに来てくれたんですか」
須貝が気になっていたことを訊ねた。
「というか……妹さんはどうやってこの別荘までたどり着いたんです。となりの島につながる吊り橋は壊されている。ヘリコプターの音なんてしなかった。真夜中に来たとしても、騒音で皆気づくはずです」
「氷織のSОSサインにはひとつ疑問がありました。氷織とLAW。ふたりは優れた探偵です。そんな名探偵がふたりそろっているのに、何故助けを求めるのか。ほんの数秒で疑問は瓦解しました。ふたりは『武力に長けていない』という弱点を共通して持ち合わせています。氷織とLAWの二人三脚で解けない謎はまずありません。もし二人が助けを求めるとしたら、それは“武力”を求めているということになるのです。暗号を使うということは、表立って助けを呼べないということ。このメールも監視下にあるに違いない。だからぼくは最高の“武力”をこっそりとこの島に送りこみました。それが縛です」
治療を終えた縛が食堂から棒アイスをくわえて現れる。一同の視線を集めて縛は首をかしげた。
「あの、答えになっていませんよ。だから、妹さんはどうやってここまで来たんですか」
「ボートで来た」
平然と縛はいう。
「だから、吊り橋は壊れていたでしょう。ボートで来たって、この別荘までは……」
「ちがうちがう。ボートでこの島の周りの岩礁まで来たの。で、そこから崖をのぼってきた」
「「「は?」」」
恒河沙の兄妹と既に事情をしっている籐藤を除く全員が同時に声を漏らした。
「岩礁の近くでボートから降りて、そこからは崖をのぼってきた。素手で。吊り橋の方は最初から使う気はなかったよ。あそこ、別荘から丸見えだもん」
「須貝。さっきいったやん。この子はActive Detective。常人離れした身体能力の持ち主。それが恒河沙縛や。あの程度の崖は縛ならどうってことないわ」
「まさか。そんな」
須貝は自分の目で見たこの島の岩壁を想起した。たしかに至るところに凸凹があった。だがその高さは五十メートル近くあったではないか。それを素手でのぼってきたというのか
須貝は犬養からのレクチャーで既に恒河沙縛の特徴は把握していた。だがそれは耳学問に過ぎなかった。身体能力に優れていると聞いて、せいぜいプロスポーツ選手程度のものを想像していた。それは違っていた。化け物だ。恒河沙縛はフィジカルに特化した化け物だった。
「ヘリコプターで助けに来たら、その音で着陸前にこちらの存在が把握されてしまう。その場合、窮地に陥った“敵”がふたりに何をするかわかりません。おっと。あなたもいれたら三人ですね」
法律が須貝に指を向ける。
「縛なら気づかれることなく別荘までたどり着ける。だからぼくは昨夜二通目のメールを受け取ったあと、急いで青森から東京に戻り、島の地理を調べて縛だけを先に島に向かわせました。相手がどんな暴力を擁していようと、縛なら確実に対処できる。島に着いた縛と連絡をとり、突入のタイミングを確認。別荘が縛の手に陥落してからヘリコプターが到着できるよう計ったわけです」
LAWは朝食を終えても九時になるまで事件の真相について語ろうとせず、頑なに九時という時間に固執していた。須貝はそれが、青森から助けに駆けつける縛のための時間稼ぎだったことに気づいた。事件の真相を聞いて鳥羽は暴走した。事件後の鳥羽の危険な精神状態を鑑みれば、この結末はある程度予想できる。九時という時刻は、企業の始業時刻や学校の一限の開始など、一日の始まりをイメージさせる。この時刻(始まり)を回ってもまだ事件の真相について語りださなければ、鳥羽が何をするかわかったものではない。LAWは九時になったら事件の真相について語り始めなければならなかったのだ。
警察官のひとりが、客室棟で遺体を発見したと報告して室内は慌ただしくなった。籐藤と数人を残してほとんどの警察官たちが客室棟へ向かった。
「あれ。今江巡査部長が来ていませんね。どうしたんですか」
須貝は籐藤に訊ねた。
「来るわけないでしょ」
籐藤ではなく氷織が応えた。
「今ごろはこの週末にこなす予定だった家事に追われているんじゃない。金、土、日と名古屋と東京を走り回されて、こんな面倒くさい仕事にまで参加するわけない」
「よくわかってるじゃないか」
籐藤は無精ひげをさすりながらにやついてみせた。
「おれが無理やり連れていこうとしたら怒鳴りつけられたよ。『自分が行かなくても氷織なら大丈夫』とさ」
「……くだらない」
氷織は顔をしかめてソファーに深く沈みこんだ。それを法律が満足気な表情で見つめている。
「あかん。しんどいわ」
LAWが大きなあくびを放ってから、隣に座る須貝の左肩にあたまを預ける。それを見て法律が露骨に不機嫌な表情をしてみせる。須貝は唐突に気まずくなった。
「氷織さん。さっきLAWさんは、”知覚“が自分の商売道具だっていってましたよね」
法律の視線を逸らすために、須貝は気にしていたことを訊ねた。
「恒河沙理人が体系化した四つの探偵技能のひとつ。それが“知覚”ってことですか」
「その通り。どんな物証もその存在を認知しなければ意味がない。真相にたどり着く証拠があったとしても、それに気づかなければ意味がない。LAWは子どものころから感覚器官を鋭くする訓練をうけてきた。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、そして触覚。全身の感覚器官を意識することなく集中させ、外界のあらゆる情報を感知する。それが恒河沙LAWの正体。Perceptual Detectiveの正体なの」
「あ」と須貝は声を漏らした。LAWはこの四日の間に何度もその優れた知覚能力を須貝の前で披露していたではないか。
例えば、都医師と九重愛の偽装事件が庭先で行われることに最初に気づいたのはLAWだった。LAWの優れた聴覚が離れた庭先から聞こえるふたりの会話、もしくは足音を感知したに違いない。
ブラッドに対して油絵具を使っていることを指摘した際、LAWは部屋に油絵具のにおいが残っていたからといった。だが須貝も氷織も油絵具のにおいを嗅ぐことはなかった。LAWの優れた嗅覚だけが室内にうっすらと残った油絵具のにおいを感知したのだ。
彰に襲われた“九重愛”の危機に気づく直前、LAWは客室棟の一階で『鳥?』とつぶやいた。愛の部屋の窓の外には背の高い木があった。そして窓の手前には目覚まし時計が落ちていた。彰に襲われた愛は、抵抗するつもりで目覚まし時計を投げたが、それは窓にあたり木に止まっていた鳥を驚かせたのではないか。ガラス戸が音を立て鳥は驚きの声をあげた。その鳴き声が遥か遠くにいたLAWにだけ聞こえたのだ。
「この子、いつも眠っていると思わない?」
氷織はアンニュイな表情でLAWの寝顔を見つめた。
「これにも事情があるの。LAWの脳にはその体質のせいで留まることなく外界の情報が送られてくる。当然脳はそれら大量の情報を処理し記憶しようと努めるけど、この機能に関してはLAWの能力は一般人と変わらない。LAWの脳は強制的に睡眠状態に入ることで、外界からの情報を遮断しているの。脳が情報にまみれて壊れる前にね」
須貝は思わず息をのんだ。いまこの瞬間も、自分の肩に身を寄せて寝息をたてる恒河沙LAW。この四日間、ヒマさえあればLAWは睡眠をとっていた。それは『ねぼすけ』なんて牧歌的な平仮名で称されるような事態ではなかったのだ。
「LAWって、眠るといつも目が動いているでしょ」
須貝はうなずく。ちらりと視線をおくると、今もまたLAWの眼はまぶたの下で微かに動いていた。
「睡眠中に目が動くのはレム睡眠の証。高速(Rapid)眼球(Eye)運動(Movement)の頭文字をとってREM睡眠。レム睡眠って聞いたことない? 人間の脳はレム睡眠の最中に記憶の処理を行うの。必要な記憶を脳に固定して、不必要な記憶は消去していく。睡眠を経て、LAWの脳には捜査に関する必要な情報だけが残されていくの」
「LAWさんの睡眠には二つの目的があるんですね。ひとつは、感覚器官の強制遮断。そしてもうひとつは、知覚した情報の取捨選択。眠り姫も楽じゃない。そうか。脳は燃費の悪い器官だって聞いたことがあります。LAWさんのあの旺盛な食欲も、活発に脳を動かすためのエネルギー摂取が目的なんですね。ぼくのお皿からオムレツを盗んだことにはちゃんと理由があったんだ」
「半分は正解。もう半分は……この子、根が大食漢なのよ」
「あ、さいですか……」
「ところでお前、その腕はどうしたんだ」
籐藤が三角巾で吊った須貝の右腕をあごでさす。
「折れてんのか? 氷織。どうなんだ」
「肘頭骨折。安静にしていればそのうちくっつきます。とりあえず本土に帰ったらすぐにレントゲンを撮ってください」
「ふーん。しかしお前、それ利き腕か? だとするとしばらく苦労するぞ。おれも昔利き腕を折っちまってな。パンツをはくだけでも大変なんだよな」
ガハハと下品な笑い声をあげる籐藤を皆が黙殺する。
須貝は折れた右腕を見ながらぼんやりと考えていた。利き腕。そうだ。LAWはその観察力で九重愛の中に宿る人格のうち、三人が左利きであることを見抜いた。都医師と共謀して偽装事件を起こしたのはこのうちのひとり。だがLAWはこのうちの誰が都医師と共謀したのかはわからないと口にした。
ブラッド。姫子。そして、愛。
いったい誰が犯人だったのだろう。
その時、須貝の全身に寒気が走った。
――何かがおかしい――
須貝の記憶が語りかけている。
――何かがおかしい――
須貝の知覚が語りかけている。
――何かがおかしい――
この四日の間に得た知覚情報の何かが――矛盾を訴えている。
須貝の脳裏に一枚の写真が浮かび上がる。まさか。しかし、そんな馬鹿な。
肩に寄りかかるLAWの身体を優しくソファーに横たえると、須貝は氷織に近づき小声で話しかけた。
「なんで? 別にいいけど」
氷織が自身のスマートフォンを須貝に渡す。スマートフォンには一枚の写真が表示されていた。
須貝は彼女の方を向いた。彼女は須貝を見つめていた。無表情の奥に猜疑の意志をこめながら、須貝を観察していたのだ。
「九重愛さん」
須貝は彼女に語りかけた。
「あなたは九重愛さんですね」
彼女はうなずいた。無表情のままうなずいた。
「ブラッドでも、姫子でもない。ハヤテでも、柴田さんでもない」
彼女はうなずいた。無表情のままうなずいた。
「しおりちゃんでもない。シスターでも、暴風雨でもない。あなたは九重愛さんですね」
彼女はうなずいた。無表情のままうなずいた。
しかし――しかし――しかし――しかし――しかし――しかし――しかし――しかし――
「嘘ですね」
須貝はいった。
「あなたは九重愛さんではない。あなたは誰ですか」
5
彼女は既に背中に手を回していた。セーターの内側に隠し、柄をスカートのベルトの下に通して固定していた革製ケース入りのそれを取りだした。
革製ケースが宙を舞う。だが誰も革製ケースを見ていない。皆の視線は彼女が手にするそれにくぎ付けになっていた。刃渡り十センチほどの両刃のナイフ。彰が彼女を襲った時に手にしていたナイフだ。須貝はあの時ナイフを回収することなく部屋を出たことを思い出した。そのナイフが、ソファーに横たわる恒河沙LAWの首筋に突きつけられていた。
「てめぇ何を!」
「籐藤さんダメだ! 縛も動かないで!」
法律が早口で籐藤を制した。今まさに飛びかからんと全身の筋肉を硬直させた縛もまた、兄の声にその動きを止めた。
彼女は全身を小刻みに震わせ、口で激しく呼吸をしていた。目は恐怖に囚われ虚ろになり、ナイフとは反対の手でLAWの髪を乱暴に掴んでいる。
ナイフは、一センチほどLAWの首筋に刺さっていた。赤い血がLAWの首筋を垂れていく。LAWは目を覚ましていた。その目は須貝に向けられていた。
「須貝~」
状況に似つかわしくないのんきな声をLAWは発する。危機的状況にありながらいまこの室内でもっとも落ち着いた様子をみせているのがLAWだった。
「あんたやろ。あんたが余計なことをいったんやろ。こんなん。殺人事件とは関係ないのに。黙っていればいいものを~」
「LAW。須貝くん。どういうこと。あなたたち、何をいっているの。この状況はどういうことなの!」
焦燥に顔を歪ませた氷織が悲鳴に近い声をあげる。須貝は確信した。自分がたった今気づいたことについて氷織は知らないのだ。LAWと自分だけが、“九重愛”の正体について気づいているのだ。
「氷織さん。九重愛さんのDIDが発症したのはいつですか」
須貝は口火を切った。たしかにこの事実は殺人事件とは関係がない。だが須貝は口を滑らしてこの危機的状況を生みだしてしまった。幕を下ろす責任は自分にある。
「……小学三年生の夏。今江さんからの二日目のメールにそう記載されていた」
「そうです。小学三年生の夏休みを経て九重愛さんは変わった。愛さんは脈絡なく様々な感情を発するようになった。まるで人が変わったかのように。DIDを発症したのが小学三年生の夏休みだとすると、ハヤテや暴風雨たちが生まれたのも小学三年生の夏休み以降ということになります」
「黙れ!」
彼女が叫んだ。顔中に汗を滑らせ、充血した目玉を獣のように転がしている。
「わたしはそこにいたんだ。わたしは最初からそこにいたんだ!」
「違う。あなたは……話を続けます。DIDを発症させたのが小学三年生の夏休み以降だとすると、それ以前の“九重愛”は必然的に“九重愛”であることになります。あまりにも当然で、あまりにも論理的なトートロジー。ですがこのトートロジーは一枚の写真を前にして瓦解します。今江さんが送ってくれた、小学一年生の時の“九重愛”の写真です」
今江がスマートフォンに先ほど須貝が見ていた写真を表示した。滞在初日の夜に今江が送ってくれた写真。教会のイベントに参加する九重愛が映った四枚の写真のうち、七月の工作大会の写真だ。
「この写真の九重愛をよく見てください。彼女は、ぼくたちが知る九重愛ではないのです」
その写真の九重愛はのこぎりを使って細い木材を切ろうとしている。台においた細長い木材を左足で押さえつけ、両手で握ったのこぎりで切ろうとしている。
左足で木材を抑えれば、必然的にその腕は――
「嘘」
氷織の手からスマートフォンがこぼれ落ちた。
「気づかなかった。こんな、こんな単純なこと。木材に左足を乗せて、右腕を軸にしてのこぎりを使っている。この写真の愛さんは右利き」
「だけど、さっき愛さんは左利きだって探偵さん自身が証明したじゃないですか」
優里が声をあげた。うろたえた視線が左右に踊っている。
「意味がわかりません。これはいったい、どういうことなのですか」
「のこぎりなんて危険な工具を利き手とは逆の手で使うはずがありません。九重愛は右利きです。正真正銘、これが真理。真理と矛盾する事実はその全てが偽りとなります。つまり――」
須貝は一度深呼吸をしてからもう一度口を開いた。
「我々の目の前にいる“九重愛”は左利きです。右利きなのに左利きのフリをしているわけではありません。LAWさんが背後からチョコレートを投げ、“九重愛”は反射的に左手で防御した。彼女は正真正銘左利き。このふたつの事実を是として認めなければならない以上、偽りとしてみなさなければいけないのは、我々の目の前にいる“九重愛”は、右手でのこぎりを使っていた“九重愛”とは別人であるということです。もう一度聞きます。あなたは誰ですか」
「……愛がくれたんだ」
彼女は涙をこぼした。ほほをつたい落ちた涙が、彼女の手の甲に落ち、そこからさらにLAWの首筋へと流れていく。
「愛がくれたんだ。要らないからって、全部くれたんだ。夏休みのあの日、愛はあの男に壊された。限界だった。愛は死のうとした。首筋に包丁を当てて自らの命を絶とうとした。だけどあの子は考えた。この苦しみは自分のものだから辛いんだ。苦しみから逃れるためには死ぬしかないのか。違う。自分が自分でなくなればいいんだ。自分が他人になれば自分は自分ではなくなる。他人が自分になれば自分は自分ではなくなる。他人の苦しみは自分の苦しみではない。だからあの子は、他人に自分を与えた。何もない空っぽのわたしに“九重愛”を与えたのはあの子だ! わたしは覚悟した。愛を傷つける哀しみも受け入れる。だからわたしは“九重愛”を受けとった。本当の自分を隠し、“九重愛”のフリをして生きてきた。わたしは九重愛だ。左利きでも九重愛だ。だってあの子が捨てたから。あの子が要らないっていったから!」
それは倒錯した狂気の論理だった。
自分が他人であれば自分は自分ではなくなる。その論理は正しく、そして自分という概念がもつ性質上現実的ではない論理であった。
だが九重愛にはそれが可能だった。DIDを発症させた九重愛は自身の中に別の人格を生みだした。九重愛を騙る他人を生みだし、自身の全てを彼女に与えた。これにより狂気の論理が完遂した。小学三年生の九重愛は、こうして自身の苦しみから逃れたのだった。
「質問に答えとらんなぁ」
LAWがからりと乾いた声をだす。
「あんたは誰。名前は」
「九重……哀。哀しみを受け入れるためにわたしは生まれた。わたしの名前は九重哀」
須貝は自分の手が微かに震えていることに気づいた。十歳にも満たない少女が生みだした狂気が目の前にあった。どんな哀しみがあれば“自己”を捨て去るという選択肢がひとりの少女に生まれるというのか。どんな愛しみがあれば不幸に嘆く少女を救えたのか。わからない。だから怖い。だから震える。身体が、震える。
「最初に生まれたのがあんただった。あんたは“九重愛”を名乗り、その後も生まれる人格たちを騙してきた。ハヤテたちはあんたを“九重愛”だと思いこんでいたわけや」
「哀さん。“九重愛”さんはどこにいるんです。彼女は“外”に出ることはできるのですか」
「できるに決まっているでしょ。愛は哀で、哀は愛なの。わたしが存在する以上、愛もまた存在する」
「都センセと共謀して偽装事件を起こしたのもあんたやな」
寝転がった姿勢のままLAWがいう。相変わらず首筋から血が流れているというのに、これっぽっちも焦る様子をみせない。
「本物の精神科医が現れれば、自分の正体を見抜くかもしれない。だからあんたは、自分と同じく偽りの仮面をつけた闇医者と協調した。都センセに治療の意志はなかった。それは本物の精神科医の治療を恐れていたあんたにも都合のいい話だった。そうやないの」
哀は唇を噛みしめた。
「鳥羽とかいう狸オヤジが現れた時はうれしかった。誤解しないで。父親に会えてうれしかったわけじゃない。金よ。貧困生活から抜け出せることが嬉しかったの。だけどあのオヤジはDIDを治療しようとした。愛から生まれたわたしたちを病気扱いして、わたしたちを消すつもりだった。殺すつもりだった。だからわたしは抵抗した。あの闇医者と手を組んで自分の身を守っただけ。それの何が悪いの。殺されそうになったから抵抗した。それって生き物として当然のことでしょ。当然のことをして、いったい何が悪いっていうの!」
須貝は震える手に噛みつき心を落ち着けた。呼吸を整えてから口を開く。
「『殺してやる』といったのもあなたですか」
「都の提案でね。わたしが都を襲いかかる予兆を見せておけば、実際に事件が起きたあとに、それを目にしていた狸オヤジは自責の念を覚えると思ったの。でも失敗だった。探偵なんて、あんたたちみたいな厄介なやつらを呼ぶとは思いもしなかった」
「演技だったんですね。本当に誰かを殺すつもりなんてなかった」
須貝の言葉に哀は首をふった。
「演技だったけど、本気でもあった。わたしは愛に殺意を抱いている。狸オヤジが治療の話を持ち出して、愛はそこに希望を見出した。精神科医に診てもらえば自分が救われるんじゃないかって。冗談じゃない! あの子は自分が生みだしたわたしたちが死ぬことを願っていた。だからわたしは叫んだ。愛に向かって、殺意を叫んだ。あれは本心。わたしは今も愛に対して殺意を抱いている」
須貝は気づいた。昨日の午後、LAWの主導で哀が『殺してやる』と叫んだ時の再現劇を行い、須貝は哀の役を担った。
神崎たちに取り押さえられた哀役の須貝は、窓の方を向いていた。哀は窓に向かって『殺してやる』と叫んだのだ。窓の外には昼間の晴れた世界が広がっていた。だが実際に哀が『殺してやる』と叫んだのは夕食時、夜のことだった。夜の黒いガラス窓に写っていたのは“九重愛”の姿だ。哀はたしかに愛に向かって殺意を表明していたのだ。
「わたしとヤブ医者の計画がバレれば、狸オヤジは次にまともな医者を連れてくる。わたしはそれを恐れて、暴風雨を殺人犯として差し出した」
哀はLAWをにらみつけた。
「暴風雨がヤブ医者を殺した。それで全てが丸く収まるはずだった。なのにあんた達探偵が暴風雨の無実を証明した。あんた達が来なければ丸く収まったんだ。探偵、あんた達がわたしを――わたしたちを殺すことになるんだ」
「違う。精神療法はあなた達を殺したりしない!」
氷織が爆ぜるように叫んだ。
「あなた達の存在は病気なんかじゃない。あなた達の不和が病気なの。ひとはみんな沢山の“自分”を持っていて、“自分達”を上手くコントロールして生きている。だけどあなた“達”はそれができていない。幼いころの不幸な環境が感情を受けいれる訓練をさせてくれなかった。いくつもの受け入れられなかった感情が気まぐれに歩き回っている。精神療法はあなた達に調和を与えてくれる。あなた達を“ひと”として認め、“ひと”として安定して生きるための方法を教えてくれる。あなた達は消えたりしない。あなた達はひとりの人間を構成している。あなた達という存在こそ“九重愛”に他ならない。中心の人格なんてものは存在しない」
「消えない? わたしは……本当に?」
哀の眼に救済の光が――ほんの微かに――灯った。いま彼女の意識は自己に向けられている。“彼女達”にとってそれは始めての経験なのかもしれない。自分達はひとつの船にたまたま乗り合わせた関係ではない。彼女達という存在がひとつの船なのだから。
「闇医者や勘違いしたトーシローの話なんかに耳を貸すんじゃない。専門家はあなたが思う何千倍もの時間と労力をその道に注いでいるの。悩んだら相談に行きなさい。相談を受けるのが専門家の仕事なんだから」
「哀さん。あんたも二ノ宮はんと同じやなぁ」
LAWはあお向けのまま手を伸ばし、あふれ出る哀の涙を優しく拭った。
「自分の弱点をひた隠しにして、他人に隙を見せんとしている。でもなぁ、人間は完璧やない。完璧なやつは人間とは呼ばんのや。もっと積極的に弱みを見せてこ。他人に頼って生きてこーや。んで、向こうが困ってたらこっちから助けたる。そうやって互いに助けあって、けらけら笑いあうのが人間ってもんや」
哀の手からナイフが離れる。LAWはゆっくりと身体を起こし、哀の肩に両手を回した。
「うちがあんたを助けたる。弱さを理由にひとを脅すな。弱さを認めて、助けを求めろ。そのために他人がおるんやから」
哀がLAWを抱き返すことはなかった。彼女にはそれができなかった。本当の意味で自分の存在を認めてくれる相手と初めて出会い――そのためだろう――止めどなくあふれ出す涙と、如何ともしがたい感情の渦に胸があふれ、抱き返すことはできなかったのだ。




