第一章
1
恒河沙探偵事務所を訪れたその男は、丸めたコートをソファーに置くと恐縮しきった態度で会社の名刺を差し出した。
名刺には名前や所属部署とともに男の顔写真が載っていた。写真の中の男はハツラツとした笑顔を浮かべているが、目の前の男からは同じような覇気は感じられない。顔は青白く、視線はテーブルの上をさまよっている。
「当事務所のことはどなたからお聞きに」
名刺をテーブルに置き、恒河沙法律は落ち着いた声色で訊ねた。
「ゆ、夢裂様です。弊社の社長が夢裂夫人からうかがいました」
「なるほど。夢裂さんですか」
法律は白い歯をのぞかせて息を吐いた。
「少しばかりいやな予感がしますね。夢裂さんと関わってろくな目に合ったことはない」
「そんなことをおっしゃらないでください。もし依頼を受けていただけなければ、社長になんといわれるか」
「夢裂さんってだれ」
給湯室の中から恒河沙氷織が訊ねた。マグカップが乗ったお盆をもって応接セットに近づいてくると、氷織は細い両目をさらに細めて兄である法律にもう一度訊ねた。
「だれ」
「ぼくが海外にいる時にお世話になったひとだよ。日本に帰ってきてからも何かと気をかけてくれてね。仕事の斡旋までしてくれるようになったか。ありがたいような、はた迷惑なような」
マグカップに口をつけながら法律は苦笑した。氷織はそんな兄に冷ややかな視線をおくる。
「夢裂様は恒河沙様を高く評価されていらっしゃいました。どんな問題も、恒河沙様に頼めばいとも簡単に解決していただけると。どうか、どうかお力添えを」
「依頼の内容によりますね。ではそろそろ、その依頼内容をお聞かせ願えますか」
2
男の名前は建山光といった。
建山は東京都内に本社をおく株式会社ホウライの秘書室副室長の肩書をもつ三十代のサラリーマンだった。
「本来ならば社長が直々に依頼内容を説明するのが筋というものですが。社長は多忙のためわたくしが代理で参りました」
「会社としてのご依頼ですか?」
「いえ。社長個人の依頼です。単刀直入に申しますと、明後日から四日間、弊社社長鳥羽の別荘にお越しいただきたいのです」
「その別荘で何をすればよいのでしょう」
法律は前かがみになって腕を組んだ。
「別荘には現在、三人の使用人と一人の女性がおります。その女性は……」
「社長の愛人?」
ソファーの横に立つ氷織がいった。
「失礼だよ。すみません妹が」
建山はげんなりとした表情でマグカップを手にとった。
「愛人ならどれだけよかったことか。ことはもっと厄介です。別荘におられるお方は、二十年前に鳥羽が一夜を共にした女性との間にできたお子さんなのです」
「隠し子というわけですか」
「その呼び方が適切なのかはわかりません。というのも、鳥羽が彼女の存在を知ったのはほんの半年前のことだったのです。出張中に訪れた名古屋のクラブで、鳥羽はかつて愛した女性と生き写しのホステスに出会いました。年齢はニ十一歳。自分の子どもの可能性は十分に有ります。鳥羽は、彼女の髪の毛を手に入れDNA鑑定にかけました。その結果、彼女は鳥羽の実子であることが科学的に証明されたのです」
「ご令嬢のお名前は」
「九重愛様と申されます」
「社長さんは愛さんを認知されて、いまはいっしょにお暮しになっているわけですか」
「いえ。認知はまだされていません」
「ふむ」
法律は首をかしげた。
「DNA鑑定は済み、一企業の社長ならば家族一人を養えるほどの財力はあるでしょう。それなのになぜ」
「愛様の存在は、ご家族の中でもほんの一部の人間しか知り得ておりません。というのも、愛様はとある病気を患っておられまして、その治療が済みましたら正式に家族として迎えられる予定なのです」
「病気。いったい何の」
二か月前まで都内の大学病院で働いていた氷織は、自身の専門分野と聞き身を乗り出した。
「……DID」
建山は微かな声でそういった。
「解離性同一性障害ですか」
眉間にしわをよせ、氷織は大きなため息をつく。
「ご存じですか」
「まぁ、一応」
「氷織。それはどんな病気なのかな」
法律が訊ねた。
「世間一般の呼び名でいうと、多重人格障害。九重愛さんは多重人格者なんですね」
3
「三か月前に鳥羽は愛様に自身が父親であることを伝えました。愛様は当然戸惑っておりましたが、鳥羽の懇願を承諾し、東京に引っ越してこられました」
「愛さんのお母さまは」
法律が訊ねた。
「昨年の五月に亡くなられております。母親は恋人がいたことはあるようですが、結婚の経験はございません。愛様はお母様の初子です。ご兄弟やご姉妹はございません」
「愛さんご自身はどうです。ご結婚は?」
「されておりません。恋人もおりません。その点はきっちり調査いたしました」
「つまり愛さんのご家族は」
「おりません。母親はご実家とそりが合わず若い頃に絶縁されております。愛様は鳥羽と出会われるまで天涯孤独の身の上だったわけです」
法律は大きな手で顔をぬぐった。天井に設置された空調が歯ぎしりのような音を響かせている。
「愛さんはお父様と出会う前からDIDの治療はされていたのですよね」
語気を荒げて氷織が訊ねた。建山は首をふる。氷織は鋭く息を吐いて顔をそむけた。
「愛様の生活環境は苦しいものでした。精神科に通う余裕など当然ございません。というより、当の本人にご病気であるという自覚がなかったのです」
「そうですね。DIDに限らず、精神病の多くは自覚症状が少ないものです。変わり者、せっかち、臆病、忘れっぽい。どんな症状も性格のひとつとして処理されてしまう。周りのひとからも、本人でさえも」
片膝を揺らしながら氷織は爪を噛みはじめた。重苦しい雰囲気を払拭しようと、法律は一度咳ばらいをはさんだ。
「社長さんは愛さんを保護されて医者に診せたわけですね。なるほど。ご立派な心掛けだ。治療はうまくいっているのですか」
「素人目には良好とは思えません。お医者様によると、完治するまでの時間は患者さんによって異なるとのことでして」
「完治してからではないと親子関係を認知されないとはどういうことでしょう。精神病の家族など体裁がわるいということですか」
法律が訊ねると、建山は怯えた表情をみせた。
「そ、その点は依頼とは関係ありません。愛様のご症状については説明いたしました。現在愛様は、別荘で治療に励んでおられる。恒河沙さんには、別荘までご足労いただき、愛様にお会いしていただきたいのです」
「まだ不十分ですよ。愛さんに会って何をすればよろしいのですか。いっしょにお食事でも。私立探偵としての体験談でもお話しをすればよろしいのでしょうか?」
「大したことをしていただく必要はございません。ただ四日間別荘にご滞在いただくだけで十分なわけで――」
「何か言いづらいことがあるんですね」
法律は口角をあげてみせた。
建山は両肩を跳ね上げて視線を反らした。しかしその視線の先には、兄と同じように腕を組んでにらみつける氷織の姿があった。
「わかりました。正直にお話しします」
深いため息をついてから建山はいった。
「二週間前のことです。鳥羽が愛様の様子をうかがいに別荘を訪れたその日の夜。愛様は叫び声をあげながら暴れ出し、室内のものを破壊してまわり、使用人に押さえつけられ、こう申されました」
『殺してやる。絶対におまえを殺してやる』
「物騒な言葉ですね」
法律はほほをつり上げ、無理に笑ってみせた。
「押さえつけてきた使用人を殺すという意味でしょうか」
「わかりません。じぶんを組み伏せた使用人というよりは、傍観していたわたしたちのうちのひとりに向けて発したような気もします」
「その口ぶりから察するに、建山さんも現場に居合わせたようですね」
言葉の矛先が建山に向けられている可能性もゼロではないわけだ。建山は苦々しい表情をみせた。
「恐ろしい話です。獣のように暴れまわって、ひとを殺すだなんて」
「わたしたちに殺人を未然に防いでもらいたいというわけですか」
「おっしゃる通りです」
建山は両手を膝につけて深々と頭を下げた。
「無理ですよ。愛さんが本当に殺人を犯すとして、具体的に時間を指定したわけではないのでしょう。そうすると、わたしたちは未来永劫愛さんといっしょに暮さなければならない」
「そういうわけではありません。つまりですね、愛様に諦めさせてほしいのです。頭脳明晰で頼りがいのある探偵がこの世には存在することを知らしめて、殺人を断念させていただきたいわけです」
「そんな無茶な」
「無茶であることは承知しております。ですが夢裂夫人は、そんな無茶をやってのけるのが恒河沙様だと申し上げておりました」
「くそ、夢裂さんめ」
「今度紹介してね。文句いうから」
氷織は横目で兄をにらみつけた。
「何卒お願い申し上げます。鳥羽の別荘へご足労ください。報酬はいくらでもお支払いします。首をたてにふっていただけるまで、わたくしは会社に帰れません」
4
「ちゃーお。待ってたよ」
重い木扉の向こう側、緋色の絨毯の上で桂十鳩は、アイアンのゴルフクラブを両手にかまえ子どものように小さな体躯を小刻みに震わせていた。
「ゴルフを始められるのですか」
木扉をおさえながら法律はいった。氷織は兄に続いて入室すると、あいさつもなしに怪訝な表情で桂を見つめた。
「はっはっは。想像力がたりないね、探偵兄妹。ゴルフクラブをもったらゴルフに興味があるなんて単純すぎる論理じゃないかい」
「妹はまだ何もいってません」
氷織は両目を細めて抗議の声をあげた。桂は犬歯をみせて笑うとクラブをおろした。
「物騒な事件が起きたんだよ。都内の小学校でね、学生がゴルフクラブで校長先生を殴打。ただ被疑者は小学二年生のちっちゃな子ども。そんな子どもがゴルフクラブをふりまわせるものかなと思って試してみたわけ」
「それで結果は」
「無理だね。八歳の子どもがあつかえる得物じゃないよ。ただ状況的にはその子どもしか殴打できなかったし、何より本人が犯行を認めているんだよね。いや、いい。この話はきみらとは関係ない。きみらを呼んだのは――」
木扉を叩く音で桂の声は途切れた。桂が扉の向こうにいる相手に入室を促すと、男女の二人組が頭を下げながら入ってきた。
「失礼します」
グレーのスーツを着た籐藤剛巡査部長は、刑事部捜査第一課の肩書に負けない厳めしい形相をしている。スポーツ刈の黒髪は年のわりに黒く太く生えそろっていて、活溌溌地な性格を現わしているようだった。
籐藤に続くパンツスーツ姿の女性――今江恭子巡査部長――は、氷織をほんの一瞬だけ見据えた。二か月前に都内の大学病院で起きた殺人事件に際して二人は出会った。看護師の氷織と刑事の今江。二人は協力して殺人犯に挑み事件は解決に至った。病院の暗部に触れた氷織は、その後自ら看護師の職を辞し、かつて短い間その名前をおいて働いていた恒河沙探偵事務所にもどってきた。また所轄の刑事部に所属していた今江は、この事件を経て警視庁の刑事部第捜査第一課へと転勤した。
「ようご兄妹。わざわざ呼びだしてすまんな」
籐藤は法律の胸を握りこぶしで軽く叩いた。
恒河沙の兄妹はこの日、籐藤から連絡をもらい警視庁の副総監室を訪れていた。もちろん籐藤は副総監たる桂十鳩に命令を受けて法律たちに連絡をしたにすぎない。
「いえ、こちらもいくつかお話ししたいことがありましたので、ちょうどよかったです」
「へぇ、そうなんだ。そんならそっちから話してよ」
腕が吊ったのか上腕二頭筋を指でもみながら桂はいった。
法律は、株式会社ホウライ社長の鳥羽氏から依頼を引き受けたことを伝えた。依頼内容について具体的に説明することはなく、明日から四日間鳥羽氏の別荘に滞在することだけに留めた。
「金、土、日と泊まって、月曜日の昼過ぎには東京に帰ってきます。とくに問題はないと思いますが、桂さんに報告しないわけにはいきませんので」
警視庁は恒河沙探偵事務所とある密約を交わしている。常識的な思考能力をもつ警察の捜査員ではとうてい解決できない怪事件に遭遇した際、警視庁副総監の桂十鳩は恒河沙探偵事務所にその事件の捜査を依頼する。この密約がある以上、探偵事務所を空にする場合はその旨を桂に報告しないわけにはいかないのだ。
「それはちょっと困るな」
籐藤は空の湯飲みをもちながらいった。ちなみに、桂が責任者ならば、籐藤と今江は実際に探偵と共に現場に赴く駒の役割を担っている。
「昨日。青森県警本部長の丸子くんから連絡があってね。丸子くんのこと覚えてる?」
桂が法律に訊ねた。法律は苦笑しながらうなずく。
「覚えていますよ。十一年前に起きた『笑うランタン事件』の時の刑事部長さんですよね。なつかしいなぁ。今は青森県警にいらっしゃるんですか」
「うんうん。そのランタン事件で君らのお父上にパワハラを受けた丸子くんはね、事件のあと『恒河沙』と未来永劫関りをもたないために上層部に自らの左遷を要請したんだ」
「そういえば聞きましたよ」
両手で湯飲みをもちながら今江はいった。
「恒河沙理人が捜査に加わると、きまって数人の自主退職者が現れるって。とにかく他人のプライドをずたずたに傷つけるのがお得意だそうですね」
恒河沙兄妹の父、恒河沙理人。卓越した頭脳を持ちながら背徳没倫を体現するこの名探偵は、幾多の人間の尊厳を踏みにじる捜査を経て幾多の難事件を解決してきた。実子である法律は十年前のとある事件の捜査で“失敗”し、それを機に彼ら親子は不倶戴天の関係に至った。恒河沙の兄妹の長兄である法律にとって、目下最大の敵はこの実父といって過言ではない。
「丸子くんは他のひとが嫌がる地方への転勤命令を嬉々として受け入れた。北は北海道の稚内から南は沖縄の那覇まで、全国の警察を津々浦々と渡り歩いて青森に至るというわけ。それもひとえに、警視庁で働いていた際に出会った『恒河沙』と関りを避けるため。それなのに今週丸子くんは管轄内で恒河沙と出会ってしまった」
「まさか、理人が?」
法律は両目を赤く燃やした。
「いや違う。きみらの妹さん。三女だよ」
「……縛」
長女の氷織が小さく口を開けた。
「あの子、青森県にいるの。なんで」
「そういえば二か月前に八甲田山のコテージでアルバイトをしているっていってたな」
思い出したのか法律はぽんと手を叩いた。
「そのコテージに丸子さんが訪れたってことですか」
「いや。コテージは二か月前に殺人事件が起きて全壊したらしいから、別の場所じゃないかな」
“殺人事件が起きる”ことと“コテージが全壊する”ことに論理的な関連性はない。しかし氷織はわかっていた。このふたつに“恒河沙縛が居合わせた”という前提を加えることでそこに論理的な関連性が現れる。もちろん恒河沙縛といううら若き探偵の素性をしらない籐藤と今江は、しきりに疑問符を浮かべるばかりだった。
「落ちついたら東京まで歩いて戻ってくるといっていたんですがね。交通費がもったいないからって。まさかまだ青森にいるとは」
けらけらと法律は笑ってみせた。
「そう。妹さんはまだ青森県にいる。それも下北半島の寒村にいるらしいよ」
「下北半島って」
氷織はめまいを覚えたのか軽くふらついた。
「八甲田山から東京に向かうはずが、どうして北海道に近づいているの」
「うーん。しぃちゃんらしいなぁ。自由奔放というか。わっはっは」
「笑いごとじゃないぞ、法律」
籐藤がネクタイを締めなおしながら一歩前に出た。
「その寒村で数日前に殺人事件がおきた。どうにも不可解な事件で捜査は難航しているらしい。不自然な訪問者であるお前さんの妹は被疑者として扱われている」
「そしてしいちゃんは、自らの潔白を晴らすために捜査に乗り出した。そしてその名前が青森県警の本部にいる丸子さんの耳に届いたというわけですか」
「そうだ。本部の人間が偶然下北半島まで出張にきていたらしくて、“恒河沙”の名前を丸子本部長のもとまで持ち帰ってしまったわけだ」
「丸子くんは怯えに怯えて、わたしに助けを求めてきたの」
桂は長机に肩ひじをのせながらいった。
「そいつはきみをいじめた理人じゃないから大丈夫といっても聞く耳をもたない。彼は“恒河沙”の名前にアレルギーをもっているからね。というわけで、恒河沙探偵事務所に依頼。明日から青森県に行って、妹を回収してきて。ついでにそのなんとかって寒村で起きている殺人事件も解決してきて」
「なるほど、そういうことですか」
両腕を組んで法律はうなり声をあげた。
「依頼が重なってしまったわけだ。困ったなぁ。ぼくたちは週明けには帰ってきますので、青森県に行くのは来週からにしてもらえませんか」
「だめ」
「そこをなんとか」
「いいですよ。その件、引き受けます」
恒河沙探偵事務所所長の肩書を有する法律――ではなく、氷織がいった。
「ちょっとちょっと。鳥羽さんの依頼を断るつもり?」
「そうじゃない。何も青森までがん首をそろえて縛を迎えに行く必要もないでしょ。兄さんは青森に行って。鳥羽さんの依頼はわたしが引き受けるから」
「あぁ。それでいいんじゃないの」
けろりとした口調で桂はいった。
「寒村の事件がどんなものかは知らないけど、法律なら簡単に解決できるでしょ。それに現地にはもうひとり“恒河沙”の名前をもつ探偵がいるわけだ。“恒河沙”×2と籐藤くんの三人なら、快刀乱麻をスラッシュの勢いで事件解決だ。わっはっは」
「あれ。あんたも行くの」
今江が籐藤に訊ねた。
「お目付け役だ。くそ。なんでこの真冬に豪雪地帯に行かなきゃならんのか」
「おきのどくさま。わたしは東京で吉報をまっていますよ」
「おれは法律についていくんだから、あんたは氷織についていけよ」
「探偵事務所の依頼と警察は関係ないでしょ」
「しかし……氷織、大丈夫?」
法律は、幼い子どもを憂うような声色を三十路に近い妹にむけた。
「ばかにしないで。わたしだって兄さんほどじゃないにしても探偵としての訓練をうけてきたの。それに、今回の件は、わたしとあの子向けでしょ」
「あの子って誰」
今江が訊ねた。
「兄は初めにいいましたよね。こちらもいくつかお話ししたいことがあるって。今日お話ししたかったことは、依頼のことだけじゃないんです」
「今回の件に向いている……そうか。あの子って、恒河沙の次女が帰ってくるんだ」
桂は不気味に顔をゆがませた。氷織は鷹揚にうなずく。
「昨日の夜、連絡がありました。あの子は今夜、東京に帰ってきます」
5
恒河沙の兄妹とふたりの刑事が副総監室をあとにしてから数分後のこと。木扉がかすかな音をたてた。
「どうぞ」
再び震える両手でゴルフクラブを構えていた桂は、扉の方に顔を向けることなく応えた。
風の動きで扉が開いたことはわかる。しかし、普段ならねずみの鳴きごえのようなきしむ音を出す木扉がその音を出さなかった。
桂は気づいた。訪問者が誰なのか。
「あれが“恒河沙”のガキどもか。ずいぶん大きくなったなぁ」
擦れた小声。しかし相手の耳には確実に届く不思議な声。両袖を七分程度まで折り曲げたワイシャツを着ているその男は、胸ポケットからタバコをとりだした。
「吸うか?」
「いらない。そんな安物」
「ふん。副総監の肩書には不遜な態度がお似合いだよ」
白髪が混じった黒髪が木々の葉のように揺れる。男は無精ひげをさすりながら、猫背の姿勢でゆっくりと桂に近づいてくる。
「大きくなったっていうけどね。最後に会ったのは十年前でしょ。二十歳そこいらの法律と女子高生の氷織じゃあ、体型はいまと大してかわらないよ」
「態度のことだよ」
男は鬱屈とした笑い声をしぼりだした。
「ガキども、以前は理人とその弟子のかげに隠れておどおどしていたくせに、かわいげのない大人になっちまった」
「用はなに。井戸端会議がしたいならよそに行ってよ」
「ガキどもに仕事を回しているんだろ」
男の左手の薬指がひくりと動いた。その指は第二関節から先がない。
「一課の人員を割いてガキどもの面倒をみているって聞いた。桂、ここで借りをひとつ返せ。おれの部下をひとり一課にやる。恒河沙の件にうちも混ぜろ」
ため息をひとつつき、桂は男を見つめた。
「十二年も前のことは忘れなよ」
「忘れろだと?」
男は笑った。乾いた声で笑い、その声は少しずつ大きく、激を帯び、憤怒の色を備え――男は壁を蹴りつけた。振動で壁掛けの時計が床に落ち、ガラスのカバーにヒビが走った。
「できるもんなら忘れたいさ。桂、お前は何もわかっちゃいない。恒河沙理人はおれの魂に傷をつけた。人間の本質。変えようのない芯の部分に傷をつけやがったんだ。この痛みはおれがおれである限り消えることはない。おれは恒河沙理人に復讐する。そのためには“恒河沙”につきまとう必要がある。あのガキどものそばで、理人がくるのを待つ必要があるんだ」
「いいよ」
けろりとした態度で桂はいった。
「どうせもう何人かは恒河沙の担当に回さなきゃと思っていたんだ。懸念がひとつ減ってよかった。いいよ。それで。だれをくれるのさ」
かすかに開いた口の間で、男は赤い舌をすべらした。
6
ブラインドのかかったうす暗い室内で須貝正義巡査は腰をあげた。
「ふぐ」
二時間ぶりに伸びた腰が“のめり”と不気味な音を立てた。思わず須貝は自分のデスクに手を突く。その衝撃でエンパイアステートビルのように積みあがった未処理の書類がばらばらと崩れ落ちた。
「ああ、あぁあぁ」
須貝は腰の痛みに耐えながら、床に落ちた書類を拾い始めた。伸ばした左手についたオメガの腕時計をみてため息がでる。今夜も遅くまで残業か。
隣の席にいる先輩は『大丈夫か』と声をかけることもなく、手伝うそぶりさえ見せようとしない。須貝は書類をデスクに戻してから、部屋の窓際にむかった。
「係長。昨日のアパ対(アパート対策)の報告書を共有ファイルにいれておきました」
「麻布のやつだね。おつかれさま」
係長は恵比寿のような笑顔を須貝に向けた。この係長の下で働くようになって約一年、須貝は未だに係長の笑顔以外の表情を見たことがなかった。
「それで、オグノデ殿下の特実(特別実態調査)の報告書は? 今日のうちに提出するって聞いてたけど」
「あ、それは今から。今からやりますから」
「そう。大変だねぇ。それときみ、なんか汗臭いよ。昨日も泊り込みで仕事してたでしょ。だめだよ。ちゃんと家に帰ってお風呂に入らないと」
部屋のあちこちから小さな間欠泉のように笑い声が漏れ出る。顔を赤くした須貝は『休憩してきます』と小声でいってから部屋を出た。
ひと気のない廊下を進み、自販機コーナーでエナジードリンクを飲みながら四角いソファーに沈み込む。
二十六年前。須貝は警察一族須貝家のひとりとしてこの世に生を受けた。警察一族と称した通り、須貝家の親族が一同に会せばその場の半数以上が警察関係者で埋まる。さらに須貝家の面々は警察官としても優秀な者ばかりで、須貝の姓を持つ警察官は警察組織の主要なポストに散見している。
母である須貝正美は六年前に他界した。父である利弥は愛妻が亡くなったショックで失踪し、正美の兄で現在警察庁次長を務める須貝正志警視監が親代わりとなった。
須貝は自覚していた。自分は警察官に向いている人間ではない。須貝家の恥さらしだ。警察学校での成績は限りなく落第点に近い及第点。体格は一般的な成人男性と変わりない。性格といえば、内向的で他人に強く出ることができない。唯一誇ることができることといえば、名前負けしない正義心くらいのものか。
そんな自分が警察官の肩書を賜ることができたのは、叔父である須貝正志警視監のおかげに他ならない。叔父のコネが動いたことは確実だ。そうでなければ、自分のような成績不良警官がこのような高名な部署に配属されるはずがないのだから。
デスクに戻ると、書類の高さはエンパイアステートビルからワールドトレードセンターへと変貌していた。隣の席の先輩が『よろしくな』と須貝の肩を強く叩く。須貝ははにかんだ表情を返すことしかできなかった。
――仕方ないよな――
須貝は虚ろな瞳でキーボードを叩きだした。
――働くってのはこういうことだろ――
共有のフォーマットを開き、空欄に調査内容を記載していく。
――自分が働けば働くだけ――
無心に、感情を殺しながらキーボードを叩く。
――この国の安寧が保たれる。そうだろう――
「くだらない仕事だ」
背後から声がした。擦れた小声。しかし相手の耳には確実に届く不思議な声。両袖を七分程度まで折り曲げたワイシャツを着ている男が、書類を手に須貝の背後に立っていた。
須貝はその男の姿を見て声を失った。そこにいたのは、警視庁公安総務課長犬養篤志警視正。公安部に所属する人間なら誰もが尊ぶ、公安の生ける伝説が須貝に語りかけていたのだ。
あまりの衝撃に須貝は直立も敬礼も忘れて呆けた顔を晒してしまった。その衝撃とは、犬養が眼前にいることだけではない。須貝が席を置くこのフロアには現在総勢十数名の職員がデスクに着いている。だがその全員が犬養篤志警視正の存在に気づかず業務に励んでいるのだ。公安総務課長の肩書を持つ男が現れたとなれば、室内の全員がその場で立ち上がり敬礼を捧げるのが当然だ。だが犬養はその当然を無効化した。
噂は本当だった。犬養は音を殺す。足音、呼吸音、衣擦れなど、自身を起因とするあらゆる音を殺して対象に近づくことができる。音を殺し、室内の誰にも気づかれることなく、犬養は須貝の背後までたどり着いたわけだ。
「お前にはもっと大事な仕事を任せる」
犬養は書類でできたワールドトレードセンターを抱えると、それを隣のデスクに音を立てて置いた。
「こんな雑務は雑兵にやらせろ」
須貝の先輩がしかめた顔を向ける。だが書類の束を置いた人間の姿を見て先輩の表情は固まった。立ち上がり敬礼するが、勢いよく立ち上がったせいで椅子が大きな音を立てて倒れた。その衝撃音に室内の視線が集まり、公安第四課第二資料係の職員たちはこの時初めて犬養の存在に気づいた。室内の空気が一瞬で凍りつく。
「人事異動だ。須貝正義巡査は本日付で刑事部捜査第一課に移る。お偉いさんの許可は取ってある。頼むから騒いでくれるなよ」
犬養は子犬を運ぶように須貝の背広を掴むと、第二資料係から須貝を連れ出した。
「警視正。これはいったい。どういうことです。自分が刑事部? それも一課って。何かの冗談でしょう」
犬養に引っ張られながら須貝はいった。須貝の声は緊張で裏返っていた。犬養は何もいわず、自身の存在を誇示するようにわざとらしく足音を立てていた。
「お前、わかってんだろ。第二資料係はお前を馬鹿にしている。若くて気の弱いお前に仕事を押しつけてばかりだ」
「そんなことありません。自分の仕事が遅いだけです。先輩たちは自分を鍛えるために仕事を任せてくれるんです。叔父が警察庁次長でも、皆さんは忖度なく自分に接してくれ……」
「自分の不遇を正当化するな」
犬養は小さな会議室に須貝を放り込んだ。照明を交換したばかりなのか、目が眩むほどに白い部屋だ。
「お前は今日から刑事部捜査第一課の一員だ。だが一課のお前は仮の姿。お前の本質は公安にある。公安の人間として捜査第一課に潜りこめ」
「行確(行動確認:監視のこと)ですか」
「それに近い。須貝巡査。お前にちょっとした特命を与える」
特命。その言葉に須貝の正義心が襟を正した。公安総務課長からの特命ともなれば、それは天命に近しい。
犬養は椅子に浅く座ると、両足をテーブルの上に乗せた。ワイシャツの胸ポケットからタバコをとりだし、不機嫌な表情で吸い始める。
「なあお前」
犬養は吸い殻を須貝に向けた。
「恒河沙って知ってるか?」
7
二月十九日 金曜日。
神保町駅から国道沿いに北上。数十メートル歩いたところで、一車線道路のわき道に入っていく。猫の額ほどの広さの公園。昭和の時代から時が止まったような趣の町中華。畳屋。不動産屋。写真屋。その通りは東京都心にありながら不思議と人気はすくなく、車の往来も少ない。
「ここか。ここであってるよな」
須貝はスマートフォンの画面と目の前にある建物を見比べながらいった。三階建ての古びたビル。外壁はクリーム色に塗装されており、そのいたるところにひび割れが走っている。ビルの左側には小さな庭があり、幹周一二メートルはあろうかという巨大なクスノキが生えている。クスノキの高さはビルと同程度。幹から生えた何本もの太い枝が、ビルの壁つたいに――まるでビルを抱きかかえるように――のびている。
一階の正面には仕切りを挟んで二枚のシャッターが閉じている。シャッターの右側に開きっぱなしの両扉があり、中には四畳ほどの玄関がある。玄関の奥には二階へとつながる階段が続いていた。
天井の照明は音を立てながら点滅を繰り返している。うすぐらい。不気味だ。須貝は気をおちつかせるために鼻をならした。うちっぱなしのコンクリートの壁に陽気な鼻音が反射して消える。コートの襟を立てて須貝は階段をのぼりだした。
二階にもひとの気配はない。三階へのぼると、目の前にウェルカムマットがしかれ、その向こうにドアがあった。ドアの横には『恒河沙探偵事務所』と書かれた木製のプレートがぶら下がっていた。
遠慮がちにドアを叩く。その音が静寂のなかで大きく響いた。
室内からくぐもった声がきこえた。ノックに応えたのだろう。音を立てながら須貝はドアを開いた。
がらんと広がった三十畳ほどの空間。部屋の中央に四つの事務机が固まって島をつくっている。事務机の向こう側、入り口のドアと対称のところに長机が窓を背にしておいてある。
「おはようございます」
須貝は声のほうに顔をむけた。左手にあるパーテーションの中から女性がでてきた。
牧歌的な雰囲気のバルキーニット。しかしその服装には似合わない剣呑なまなざし。ライトブラウンの髪をバレッタであたまのうしろにまとめていた。
「警察のかたですね」
秘匿性の高い組織である公安に属していた須貝は、ひとめ見ただけで警察の人間であることを見抜かれたことに不快なものを覚えた。
「客の可能性もありますよ」
「桂さんがひとをよこすといってましたので」
「それでも、客の可能性だってある」
「客なんてめったに来ません。わたしがこの探偵事務所で働き始めて二か月。依頼人がいらっしゃったのは四日前がはじめてです。あぁ失礼。恒河沙氷織です。よろしく」
氷織は無表情のまま手をさしだした。
須貝がその手を握りしめようとすると、氷織は自身の手を引いた。
「ちがう。名刺を……あるなら警察手帳」
須貝は心のなかで憤りを覚えながら警察手帳を提示した。一瞥するにとどめ、氷織は『結構です』といった。
「恒河沙法律さんはどちらに。ごあいさつをしておきたいのですが」
「もう青森に向かいましたよ。籐藤さんから何も聞いていないんですか」
何も聞いていませんと正直にはいえなかった。須貝が捜査第一課に着任したのは昨日のことだ。捜査第一課のデスクで籐藤の姿をみつけ、恒河沙探偵事務所を担当する仲間としてあいさつをしようとしたが、同じく捜査第一課の刑事である初芝刑事に止められた。なぜと訊ねる須貝に初芝はいった。君子危うきに近よるべからず。唐突に決まった出張の準備に忙殺されていた籐藤は、なるほど『危うき』と評するに値する殺気を放っていた。
犬養は須貝に恒河沙探偵事務所について簡易的なレクチャーのみを施した。時間的な余裕がなかったわけではない。犬養は須貝に『先入観をぬきに恒河沙の兄妹たちを評価してほしい』といった。
レクチャーのなかで犬養は次の二点を繰り返し強調した。
ひとつ。恒河沙理人は安寧の世界を揺るがし得る純粋悪である。
ひとつ。恒河沙理人にもっとも近い存在は恒河沙法律である。
どうしても恒河沙法律にあっておきたかった。犬養の怨恨の対象であり純粋悪と称される男にもっとも近い法律とはどんな人物なのか。
「おはよう」
探偵事務所入り口の扉が開き、パンツスーツ姿の女性が入ってきた。女性は須貝を胡乱な目で見つめる。
「これが?」
氷織はうなずく。
女性は須貝に警察手帳の提示を求めた。二人そろって最初にすることが身分証明書の確認かと須貝はげんなりした。
須貝の警察手帳を手にし、女性は『ふぅん』と唸った。
「したの名前は、正義ね。警察官になるために生まれてきたような名前」
警察庁で次長を務める叔父を始め、警察社会で華々しく活躍する親族たちの名前をあげてやろうかと思い、そしてとどまった。へたに機嫌を損ねて“恒河沙のグループ”からつまはじきにされてはまずい。須貝は犬養の目を思い出した。煌々と艶る怨嗟の瞳。自身がなすべきことは、あの瞳の期待にこたえることなのだ。
「今江です。巡査部長だから、いちおうあなたの上司」
パンツスーツ姿の女性――今江恭子は、空いた手で敬礼のかまえをとった。
「できたら昨日のうちにごあいさつしたかったのですが」
敬礼を返しながら須貝は嫌味を口にした。昨日、今江は捜査のため一日中警視庁の外にいた。
今江は須貝の警察手帳を手にしたまま須貝を凝視している。警察手帳からは黒ひもが伸び、脱落防止のためズボンのベルト通しに結ばれている。
「あずかるから、ひもを外して」
「え」
「桂さんから聞いてなかったんですね」
いら立った口調の氷織が須貝をにらみつけた。
「今回は須貝さんが“どうしても”恒河沙探偵事務所の仕事を見学したいとおっしゃるから同行を許可してさしあげたのです。上司の命令でついてくるわけではないでしょう」
「え、え、え?」
須貝は狼狽した。犬養からの命令で今日この場所に足を運んだとはとてもいえない。
「つまり、これはあんたの私用なの。今日から四日間有給をとってもらうからね。というかあんた。もう二月なのに、まだ一度も有給を消化してなかったんでしょ。ちょうどよかったじゃない」
須貝は狼狽した。実際は上司の命令で動いているにもかかわらず私用として有給を消化させられることに……ではない。有給なんて警察組織に属してからまともにとったことがない。いつも仕事がたまりにたまっていて、記録上は有給をとりながらも、実際はオフィスでキーボードをたたいていた。
問題なのは、これからよく知らない探偵とよく知らない人物の別荘に行くというのに、自分の身分を保証する警察手帳を置いていくということだ。今江のいうとおり、勤務時間外で警察手帳をもち歩くわけにはいかない。勤務時間外では警視庁にある保管用のロッカーに入れておくのが規則だ。
そんなわけで須貝は狼狽した。狼狽を隠そうとしどろもどろになりながら、何とかして警察手帳をもっていく理屈をつけねばと考えたが、気づいたら今江はベルト通しから脱落防止のひもを外し、須貝の警察手帳を自身のふところにしまっていた。
「依頼人の方々には須貝さんの正体は伏せておきます。警察は嫌われ者です。許可なく警察をつれてきたと非難されては困りますから」
「じゃあわたしは、どういう立場の人間になるんですか」
「新米です。恒河沙探偵事務所の新米所員。つい最近入所したばかりだから、右も左もわからないひよっこのふりをしていてください。いや、実際に右も左もわからないのか。自然体でいいですよ」
ここまで罵倒されて唯々諾々として従う須貝ではない。相手が年上の女性であろうと関係ない。ひとつ文句をいってやろうと眉間にしわを寄せた次の瞬間。後ろにあるパーテーションの裏側から、鈴の音のような声が鳴った。
「はぁ……ふわぁ……ふぅ」
その声は須貝の鼓膜を揺らし、脳を一瞬で麻痺させた。須貝の思考は止まった。須貝の時も止まった。須貝の意志はその声を前にして自発的な存在ではなくなった。意志は凍りつき、ただそこに存在しているにすぎない実存と化した。
その感覚は須貝にとって決して不快なものではなかった。むしろ彼は覚えたことのない歓喜を有していた。歓喜。歓喜。歓喜。そうだ。須貝は魅せられていた。その声に。その声の主に。ほんのひとこと、吐き出した息とともに漏れでた声だけで、彼の心は奪われたのだ。
「ひぃねぇ。ひぃねぇ。どこにおるん」
声が明確に意味のある言葉を発した。それだけで須貝は圧倒され、その場に尻もちをついた。
「ここにいるよ。起きた?」
氷織がパーテーションの中に入っていく。その顔つきは須貝にみせたものとは違い、柔和な色が込められていた。
「ひぃねぇ。やっぱあかんなぁ。暖房きって。暑くてかなわんわ」
「それなら毛布をとりなさい。どう。もう少し眠る?」
「ん……だんない。車のなかでたぶん寝るけど」
「わかった。刑事さんたちがきているからごあいさつして」
氷織は衝立を横にずらした。
ローテーブルを間に挟み、二つのソファーが向かいあって置いてある。片方のソファーに、毛布にくるまった若い女性がいた。
触れたら溶けてしまいそうな白い肌に、耳が隠れるほどのショートヘア。髪は青みがかった黒色をしているが、左側のこめかみあたり横幅一センチだけは赤く染まっている。
「はぁ。ふぅわ。ふぅ」
二重の上で長いまつげが揺れている。氷織に似た細い目をしているが、その両目は銀河のすべてをのみこむほどに黒く輝いていた。
女性はあくびをしながら立ち上がった。肩からずれ落ちた毛布が床の上で音もなく崩れていく。
「はぁ。恒河沙……恒河沙……うちの名前、なんやったっけ。はは、冗談やて」
ショートパンツから伸びるタイツをまとった細い両脚が一五〇センチに満たない身体を支えている。上半身は白い襦袢の上に菊の花が舞う藍色の羽織を重ねていた。羽織は着丈が短く、腰のあたりまでしかない。
「はじめまして。うち、LAWです。恒河沙LAW。よろしゅーたのみます」
その奇抜な名前についてコメントを残す余裕は須貝にはなかった。
須貝はLAWの姿を目にして、この時はじめて自身のうちなる感情の正体に気づいた。
それは、言葉にするのも恥ずかしいほど原初的が過ぎる人間の感情だった。




