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19/21

幕間I

  「来た。でも遅い。遅すぎる。帰っちゃうところだったよ」

 間仕切りで区画された半個室の席に着くかつらじゅうばとは、革張りのソファーに両足を伸ばしながら空っぽのショートグラスをふりまわした。

 うす暗い店内を、よれたスーツを着た猫背の男がとぼとぼと歩いている。猫背であるが名前は犬養いぬかい。犬養はテーブルの上に置かれたいくつもの空のグラスを見てうんざりする。警視庁副総監の肩書をもつ桂は、その子どものような体躯にたがう大酒飲みだ。

 「あんたと違ってこっちは多忙だ。何の用で呼びだした」

 「多忙って。今日も働いていたの? 日曜日だよ。犬養くんは仕事ができないんだね」

 軽口にいら立つ余裕もない。犬養は警戒していた。桂との付き合いは長いが酒の席に呼び出されたのは初めてのことだった。狡猾こうかつ剽悍ひょうかんなる立ちふるまいで、ノンキャリアでありながら警視庁ナンバー2(副総監)の座に上りつめた化け物(フリークス)

 「いやね。こうして上機嫌にお酒をのんでたら犬養くんのことを思い出してね。そしたら思い切って呼んじゃおうと思ってね。ほら。犬養くんもいろいろと聞きたいこととかあるだろうし」

 「別に聞きたいことなんてなにも――」

 「なんだ、会計か。桂。ワリカンでいいな。互いにかしをつくるのはごめんだろう」

 背後から聞こえる男の声に、犬養の全身の細胞が凍りついた。

 聞くものの魂にのしかかるような重圧なバリトンボイス。その声が自身に向けられるだけで、のど元にナイフを突きつけられるような恐怖心がしょうじてしまう。

 男は犬養の肩に触れ、炉端の石のようにその身体を押しのけた。犬養の身体はコンクリート打ちっぱなしの壁に当たって跳ねた。

 男は席に着くと、光沢のある黒いジャケットのふところから財布を取りだそうとした。もう片方の手はテーブルに置かれた赤いカクテルを取り、残っている半分以上の量をひと口で飲み干す。

 目じりや額に走るいくつもの皺が彼の年齢を明確に語っている。老齢であることは間違いない。五十は裕に超えているだろう。しかしそれらの皺の存在を否定するように、肌がうら若き乙女のごとく輝いている。五十は裕に超えている? 本当か。

 犬養はその男のことをよく知っていた。恒河沙ごうがしゃ理人りひと。日本のみならず、世界中の政治的有力者や大富豪たちがこうべを垂れる名探偵。十二年前のとある事件で、理人は犬養に大恥をかかせた。犬養は理人への復讐を願ってこの十二年間を生きてきた。犬養が“恒河沙”の名前に固執する理由はそこにあった。

 「理人。犬養くんだよ」

 口もとを手で隠しながら桂がいう。テーブルの横でカカシのように立ちつくす犬養を、理人は一瞥した。

 「知らん」

 たった三文字の言葉に犬養は戦慄を覚える。

 「おれを覚えていないのか。十二年前だ。皇室を巻き込んだ国立博物館のテロ事件。あの時おれは――」

 「その事件のことは覚えている。だが、お前のような凡夫ぼんぷのことは覚えていない」

 犬養は数秒間だけ意識を失った。十二年間一日たりとも恨むことを忘れたことのない相手が、まさか自分の存在を忘れているとは思いもしなかった。

 犬養は視線を桂に移した。桂は緑のがま口から折りたたんだ一万円札をポイポイとテーブルの上に放っている。のど元まで桂に対する罵声がこみあがってきた。なんてことしてくれる。犬養の理人への怨念は桂も十分承知している。それなのにその怨敵のいる酒の席に呼び出すとは。どんな思考回路をしていたらそんなことができるんだ。

 「犬養くん。理人に興味あるんでしょう。こそこそ嗅ぎまわってないで直接聞けばいいじゃんと思ってさ」

 犬養の考えを読み取ったかのように桂はいった。

 「そうなのか。いや恥じることはない。凡夫が才人に憧憬どうけいを抱くのは当然だ。しかしおれも凡夫と違って多忙の身だ。質問があるなら、ひとつだけ答えてやろう」

 理人の不遜な振る舞いに、犬養の腹は地獄の釜のように熱くたぎった。それと同時に脳は冷たく落ち着いていた。ひとつだけ答える? ならば知りたい。警視庁公安部の力をもってしても知り得なかったあの女の情報を――

 「あんたの息女。恒河沙LAW(ロウ)だが」

 「LAW? LAW? そうだ。そんなやつもいたな。兄妹の中では長男の法律に次ぐ落ちこぼれだ」

 出鼻をくじかれ犬養の口の中に苦いものが漂った。

 犬養は恒河沙理人への復讐のため、十二年前から理人のみならずその周囲の人間に着いても調査を進めていた。理人の五人の実子も例外ではない。だが、その五人の実子のなかで、次女のLAWだけは極端に得られる情報が少なかった。他の兄妹はその名前や性格――探偵としての特徴まで突き止めることができたというのに、LAWだけはその情報がかすみの向こうに隠れて手が届かなかった。

 「LAWってのはどんな探偵なんだ。あんたは探偵としての技能を四つに分けて体系化した。それぞれひとつの技能に特化した弟子をつくりあげ、法律を除く四人の子どもをそれぞれの弟子に預けた。LAWはどんな技能をもってるんだ」

 「ちゃちゃーん。ここで早押し問題です」

 桂は両手を高々と広げて声をあげた。

 「回答者は犬養くんと恒河沙理人。回答がわかったらその場でお答えください」

 突然の桂の奇行に犬養は顔を曲げた。だが対して理人はさも当然といった様子で髪に手ぐしを通している。

 「第一問。『迷い猫』の特徴をできる限り答えよ』

 「なんだ。『迷い猫』? いったい何のこと……」

 「名前はミシェル」

 理人は平然と答えた。

 「メス。四歳。アメリカンショートヘアで赤い革の首輪をつけている。目は琥珀色。人懐っこい猫で、『みぃちゃん』と呼ばれると返事をする。見つけた場合の連絡先は――」

 理人が十二桁の数字を口にすると、桂は立ち上がり、三人がいる席から十メートルほど離れた壁に貼られたポスターを剥がして戻ってきた。

 ポスター黒く縁どられた大きな赤文字で『迷い猫さがしています!』と書かれていた。決して鮮明とはいえない猫の写真と共に、小さな文字でびっしりとその猫の情報が記載されている。

 「おー。さすがだね。正解だよ」

 「あんたまさか。この距離からあのチラシを……いやまさか。一度読んで、記憶していただけだろ」

 「これだから凡夫は困る。桂」

 「はいよ。第二問。あ、はい。二人とも、サイレントサイレント」

 桂は人さし指を口もとに立てて『シー』と息を漏らした。

 静かな空気の中をうっすらとしたピアノのBGMが流れる。別の半個室にも客が入っているようで、ぼそぼそと会話の声が聞こえた。

 「はい。お答えをどうぞ」

 「店長おすすめ地ビールの三番。“これ”のお代わり。ウォッカマティーニ、Shaken(シェークして) not stirred(ステアはなし)

 桂の問いのない問いに理人が答える。犬養は露骨に顔をしかめてみせた。

 「うわ。007マニアが来店しているね。それじゃあ答え合わせといこうか。おーい。おいおーい」

 桂は店員を呼ぶと、たった今別のテーブルから入ったであろう注文内容を確認した。店長おすすめ地ビールの三番。ソルティドッグ(二杯目)。そして、ウォッカマティーニ、Shaken(シェークして) not stirred(ステアはなし)。『うるさかったですか?』と店員は怪訝な顔をした。

 「別におれは猫のポスターを気にかけていたわけじゃない」

 理人は淡々とした口調で語りだした。

 「ただそのポスターの文字を読んだだけだ。どっかのジェームズ・ボンドマニアのいる席がうるさかったわけでもない。ただおれの聴力が優れていただけだ。全能なる探偵の条件がひとつ。それは優れた知覚・・だ。全身の感覚器官を常時研ぎ澄ませ、どんな情報も逃さない。視界に入る全ての映像情報を脳は処理する。鼓膜を揺るがす全ての音声情報を脳は処理する。匂いも、味も、触覚も同じだ。おれはこの能力をひとりの探偵に徹底して訓練させた。それがおれの弟子でありLAWの師匠。ありとあらゆる知覚に特化した探偵。Perceptual(知覚の) Detective(探偵)。それが恒河沙LAWの正体だ」

 「知覚の探偵……」

 「事件現場にはありとあらゆる情報が転がっている。だけどそれらの情報は()()()()()()()意味がない。貴様ら凡夫はその稚拙な知覚能力(ゆえ)にありとあらゆる重要な情報を逃す。“恒河沙”はそのような失敗は犯さない。鍛え上げた知覚能力。どうだ、質問の答えとしては十分が過ぎるだろう」

 理人が席を立つ。細い指で緋色のベレー帽を頭に置きながら、最後に一度、犬養を見つめた。

 「本当に会ったことがあるのか?」

 理人は鼻を鳴らした。

 「知覚するまでもない凡夫だったというわけだ」

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